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2007年4月29日 (日)

アメリカに土下座する韓国市民

 アメリカで起こった銃乱射事件について、韓国人コラムニストの方が書かれたこんな記事を読みました。不思議に心がさわぐ内容の記事だったので、今回はこれについて少し考えてみようと思います。まずは記事の冒頭部分を引用します。

 『米バージニア工科大学での銃乱射事件は、米国はもちろんのことだが、韓国をも震撼させた。
 「犯人は中国系」──。そう見られていた頃までは、乱射事件に関連してジョージ・ブッシュ大統領を皮肉る漫画評論が新聞に掲載されるくらいで、韓国内では“対岸の火事”を眺めるような雰囲気があった。だが、「犯人の国籍は韓国」ということが判明するやいなや、韓国内の空気は凍りつき、韓国人はパニック状態に陥った。
 ノ・ムヒョン大統領は米国に対する謝罪コメントを3回も出した。駐米韓国大使は在米韓国人の集会において、「32日間の断食」に入って悔い改める気持ちを米国民に示そうと提案した。政府は大統領特使や弔問団を送る計画を立てた。ソウル市内の米国大使館前では、市民団体の人々が泣きながら土下座で謝罪した。枢機卿の呼びかけで被害者を弔う集会が各地で開かれた。』(アン・ヨンヒ『銃乱射事件ショックに揺れる韓国』より)

 むろん事件そのものの衝撃は大きかった訳ですが、私がこの文章を読んで胸を衝かれた思いがしたのは、韓国の人々のこのいじらしいまでの心理的反応のなかに、日本人がすでに失ってしまったものの存在を濃厚に感じたからです。仮にこの事件を起こしたのが在米の日本人学生だったとしたら、私たちは赤坂のアメリカ大使館の前に集まって、「泣きながら土下座で謝罪」することまでしただろうか? たぶんしなかったと思います。たとえ犯人が日本人だったとしても、個人の犯罪行為に日本国民全員が連帯責任を負う必然性はない訳だし、それは個人主義が徹底しているアメリカ人から見れば、却って奇異なことであるに違いない。むしろそうした集団ヒステリーは、ひとりひとりが自立した「個」となりえていない未熟な国民性の現れとも言えるのではないだろうか。この点で、今回の事件は、韓国人の未成熟な国民性をはしなくも露呈させた、そんなふうにコメントする評論家の先生もいるかも知れません。が、私はこういったクールな見方は、端的に言って間違いだと思います。

 いくら現代の民主主義を支えているものが、欧米流の個人主義だと言っても、人間は決して個人で生まれて個人で成長して行く訳ではありません。もしも自分の子供がよその子をいじめて怪我をさせたとすれば、親として責任を感じなければいけないし、謝罪もしなくてはいけない。こんなことは当たり前のことで、洋の東西など関係ないと思います。もしも自分の学校の生徒が他校の生徒に集団暴行を加えて、傷害事件にまで至ったとすれば、その学校の校長先生は、公式に謝罪をして事件の原因究明に当たらなければいけない、これも当然のことです。そうやって個人の道徳的意識を拡大して行くことを成熟と捉えるならば、自国の同胞が犯した犯罪に対して責任を感じた韓国の人たちの心根は、決して未熟なものでも古くさいものでもなく、むしろ進化した個人主義の証と言えるかも知れません。ちょっと論理に飛躍がありますか? でも、自分の行動の責任を自分で取ることが個人主義の最低限のルールだとすれば、自分以外の者の行動に対しても責任の一端を負うことは、進化した(拡大した?)個人主義のあり様だと言っても良さそうではないですか。それがさらに拡大すれば、国を超えて全人類としての責任感であるとか罪悪感であるとかにまで行き着ける可能性もあります。「人類としての罪悪感って、いったい誰に対する罪悪のこと?」 もちろんそれは貧しい国で餓死して行く子供たちへの罪悪であり、破壊された地球環境を押し付けられる我々の子孫に対する罪悪のことです。私は西洋流の個人主義もいいけれど、むしろこれからの時代に必要なのは、こういった一種のアジア的な(?)、「汎個人主義」といったものではないかと考えています。これはとても古い価値観であると同時に、今日の我々の目には結構新鮮に映るもののようにも思えるのです。

 1891年(明治24年)の5月、日本を訪問中だったロシア皇太子ニコライが、滋賀県の大津で乱心した警察官に斬り付けられるという事件が発生しました(大津事件)。事件の報道は日本中に激震を走らせ、治療中だったニコライのもとには、全国から1万通を超えるお詫びとお見舞いの電報が届いたと言います。そればかりか、事件から9日後には、謝罪の遺書を残して京都府庁の前で自害する若い女性まで現れたのです。日本にもそういう時代があったのですね。自害というのは行き過ぎだとしても、国民のあいだから自然なお詫びの心がほとばしり出て来ることは、とても好ましいことのような気がします。最近はテレビカメラの前で偉い人たちが毎日のように謝罪のお辞儀をしていますが、本当に心からお詫びの気持ちが伝わって来ることなんて皆無ですよね。だから私は今回の記事を読んだあと、なんだかノスタルジックな気分も手伝って、韓国の人たちがとても羨ましく思えたのです。こういう純真さを日本人はいつから無くしてしまったのだろう? いや、それはおそらく現代の日本人の心の中にだって残っているものかも知れません。先日、日本国内でイギリス人の若い女性が殺害された事件がありました。あの事件のニュースを聞いた時、あなたはどういうことを感じましたか? 私も含め、きっと多くの国民は、日本人として殺された女性とそのご両親に対して申し訳なく感じたのではないかと思います。これがふつうの日本人の男女間で起こった事件であれば、我々は別にそんなものを気にも止めません。こんな国際的な時代なのだから、たまたま国籍の違う人同士のあいだで起こった殺人事件だからと言って、心の中でナショナリズムを発動させる必要は無い、理知的な判断は自分にそう言い聞かせます。でもそんなことを言ってみても無駄です。心の中から湧き起こって来るこの自然な道徳的感情を、理屈で押し殺すことは出来ないからです。

 米国を訪問した安倍首相は、従軍慰安婦問題についての謝罪を正式に述べたそうです。それがまた愛国派の人たちの反撥を呼んでいるようですね。私はそのスピーチをテレビで見た訳ではありませんが、どうせ口先だけで、まごころのこもったお詫びの言葉が安倍さんの口から出た訳ではないでしょう(だってこの人は心の中にお詫びをする気持ちなんて、はなから持っていないのだから)。日本は先の戦争で犯した様々な罪悪について、これまでにも何度となく謝罪をし、賠償金も支払って来ました。それなのに何故中国や韓国の人々はいつまでも日本を赦してくれないんだろう? その答えを今回の事件でソウル市民の人たちが身をもって教えてくれた訳です。謝罪をするということは、口先だけで謝ることでもお金を支払うことでもなく、ぼろぼろと涙を流し、額を大地に打ちつけて、心の底から謝ることなのだ。まあ、こんなことを書けば、愛国派の人たちから猛反撥を食らうことは必至ですが(いや、このブログには読者がほとんどいないので、反撥を受けることもないのが寂しいところですが…。苦笑)、これは実は日本人が今後アジアの中で生きて行くために学ばなくてはならない社交技術であるような気がするのです。私たちは、みな長い歴史の中で培われて来た儒教的な道徳観を根っこのところで共有している訳です。それを古い価値として捨て去るのではなく、新しい時代に合わせたものとして練り直して行くこと、それこそが二十一世紀のアジアン・ウェイにつながるのではないでしょうか。

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コメント

韓国の執拗な反日について、長年韓国人に関わってきた私が説明しましょう。韓国人はこの日本を自分たちのもの、つまり日本を入植地と考えています。ですから入植地の土人のぶんざいで日本人が韓半島を侵略するなどあってはならないことと考えます。日本人が韓半島に来ることは許されないが、韓国人が日本に来ることは当然のことという考えなのですね。その韓国政府が最も恐れるのが日本人との混血なんです。それゆえに自国を反日ナショナリズム一色に染めて日本人を追い出しているんです。これは次の世紀になってもやめないでしょう。これは韓国の国策ですから。もし日本人と韓国人が結婚したらどうするか?そのときは日本に追放します。そのために日本語教育をやっているのですから…。以上この話は事実ですので気にいったらあちこちにコピペしてね。わたしは105人めのコピペです。美しい日本を守るために…

投稿: 日韓友好の裏側 | 2007年5月 1日 (火) 16時33分

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