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2007年3月18日 (日)

死刑廃止論ふたたび

 前回は裁判員制度への反対論を書きました。今回はその続編で、死刑廃止論を書きます。私の中では、このふたつの問題は対をなしているからです。死刑廃止の問題に関しても、私はすでにかなり長いまとまった文章を書いていますので(12)、その繰り返しになる部分も多くなると思います。但し、以前の考察が、どちらかと言えば理念的、哲学的な観点からのものだったので、今回は少し現実的な面からこの問題を考察してみたいと思います。2009年に裁判員制度がスタートすれば、死刑制度とどう向き合うかということは、一挙に現実的な問題として我々の上にのしかかって来るからです。

 政府が行なった世論調査によれば、国民の約7割が裁判員をやりたくないと答えているのだそうです。ところが、不思議なことに、死刑制度への賛否を問えば、国民の8割以上が死刑制度存続に賛成で、反対派は1割にも満たないのです。ここから想像出来ることは、国民の多くは自分で犯人に死刑を申し渡したくはないが、凶悪な殺人犯にはやはり誰かが死刑を宣告して欲しい、そういった気持ちが一般的であるということでしょうか。いま日本で議論されている主要な問題、例えば憲法改正の問題や教育基本法改正の問題、首相の靖国神社参拝や日の丸君が代の問題、自衛隊の海外派遣と軍備増強の問題、安楽死や代理出産といった生命倫理に関する問題、あるいは皇室典範を変えて女性天皇を認めるかどうかという問題、これらはどれも国民の中で賛否が真っ二つに割れていて、賛成派と反対派がほぼ拮抗しているような印象があります。自分自身の考えはともかく、いずれも確かに難しい論点を含む問題であり、議論が分かれること自体、世論が健全であることの証ではないかとも思えます。ところが、死刑存廃の問題についてのみ、国民のあいだでこのバランスが取れていないんですね。それこそ先進国ばかりでなく、世界中の多くの国々で実際に死刑が廃止されていて、日本は国際人道機関からも勧告を受けているくらいなんですから、もっと死刑廃止論が国内で盛り上がりを見せてもいいように思います。しかるにインターネット上でこの問題に関する意見を拾ってみると、圧倒的多数の人たちが死刑を支持しており、その多くは感情的な高ぶりにまかせて、死刑廃止論に対する敵意さえ剥き出しにしています。

 私は昔から、死刑制度に賛成する人の意見には、深い欺瞞があると考えて来ました。欺瞞と言って悪ければ、無邪気な勘違いがあると言ってもいい。死刑を廃止した国々の統計から、死刑制度には犯罪の抑止効果が無いことは明らかになっていますから、今日死刑制度の存続を正当化する理由は、主に感情的な面に移って来ていると言えます。つまり、凶悪な殺人犯に対しては、遺族感情を考えた場合に極刑で臨むしかないというものです。ところが、ここに欺瞞があります。最近は国内でも凶悪犯罪が増えていて、毎年十数人の殺人犯に対して死刑が確定しています。(執行数の方が追い付かずに、戦後初めて刑務所に収監されている死刑囚が百人を超えたと、先月のニュースが伝えていましたね。) 一方、国内での殺人件数は、この数年ほぼ千五百件前後で推移しています。ということは、殺人犯のうちで死刑になる者は百人にひとりしかいないのです。つまり遺族感情を慰めるという機能を、現在の死刑制度は充分果たしていないことになります。愛する者を殺された遺族は、犯人に死刑を望むのが普通でしょう、これは死刑反対論者の私でもたぶん同じです。何故ならば、この国には死刑制度があるのですから。ところが、99パーセントの確率でその期待は裏切られる。日本での犯罪被害者の遺族は、フランスやドイツの遺族よりも、さらに辛い立場に置かれていると私は思います。これが死刑廃止国であれば、最初から死刑による犯人への復讐という期待も持てない訳ですから、憎い犯人が死刑にならなかったことへの口惜しさも、死刑存置国におけるほど大きくはないと想像出来ます。そう考えれば、死刑制度は被害者感情を慰撫しているどころか、たいていの場合彼らの心の傷をより深いものにしているとも考えられるのです。

 そんなのは屁理屈だと言われますか? たとえ百人に一人であっても、この制度によって救われる遺族がいるならいいではないかと? あるいは、だからもっと量刑を厳しくして、死刑の数を増やせばいいじゃないかとか? ええ、それも正しい理屈だと思いますが、実は私はこういった類の正しい理屈とは議論をする準備がありません。むしろ私が現実的な問題として注意を喚起したいことは、日本における刑罰制度のバランスの悪さについてなのです。日本では死刑の次に重い刑罰は無期懲役刑です。無期と言うから、一生刑務所に入れられるのかと言えば、そうではありません。これはよく知られた事実ですが、無期懲役で刑務所に入っている受刑者でも、刑期が十年を過ぎると仮出獄のチャンスがあります。懲役囚をいつシャバに出すかは、行政(法務省)の裁量にまかされているんですね。しかも、前回紹介した河合幹雄さんの論文にもあるように、日本の司法現場は犯罪者をなるべく早く刑務所から出すという不思議とうるわしい慣習を持っていますから、思いのほか短い刑期で無期刑の囚人はこちらの世界に戻って来ます(だいたい平均して二十年余りで出所するようです)。しかも、仮出獄しても、その事実は世間には知らされませんから、世の中を騒がした有名な殺人事件の犯人が、意外にも私たちのすぐ近くでひっそり暮らしているかも知れないのです。この事実を考え合わせれば、確かに犯人の死刑判決を聞き遂げられなかった被害者遺族の無念も理解出来ますし、ぎりぎり死刑を免れた殺人犯人の胸の安堵も分かろうというものです。

 問題は無期懲役刑と死刑のあいだには、それこそ天国と地獄ほどの開きがあって、制度的にその間を埋めるものが何も無いという点です。このことから日本での死刑廃止論は、「終身刑」制度の設置という考え方と事実上ワンセットになっています。文字どおり生涯刑務所から出ることのない、〈終身保障〉の懲役刑です。死刑を無くす代償として、終身刑を導入しよう、それで死刑存置派の人たちにも妥協してもらおう、そういう考え方なんですね。死刑存置派の主張のひとつは、死刑が無くなって凶悪な犯罪者が社会に復帰するようになれば、現在よりも社会不安が増すというものです。確かに日本では出所後の再犯率が低いとは言っても、前科者が罪を犯す確率は、前科の無い人が罪を犯す確率よりはずっと高いのです。凶悪犯が一生刑務所に入っていてくれるなら、この点は解決します。で、結論から言えば、私自身は終身刑の導入に賛成なのですが、これにもまた反対する人がたくさんいるのですね。終身刑に反対する人の理由は、だいたい次の三つに分類出来ると思います。①すべての刑罰は懲罰刑であるよりも教育刑であるべきで、服役者から社会復帰のチャンスを奪ってしまう終身刑は認められない。②生涯刑務所から出られない終身刑は、実は死刑よりもっと残酷な刑罰であり、これは憲法の規定にも反するものである。③生涯に渡って受刑者の面倒をみるのはコストがかかり過ぎる、だいたい日本中の刑務所がすぐに満員になってしまうので現実的ではない。こういう3つの理由です。①と②は死刑廃止論の立場からの反論、③はおそらく死刑存置論の立場からの反論ということになるのだろうと思います。終身刑は、死刑反対派、賛成派の両者から支持されない面があるのですね。終身刑導入派としては、この3つの反対論を論破しなければならない。次にそれを試みてみることにします。

 一番目の「すべての刑罰は教育刑であるべきだ」論は、実は長いあいだ私の持論だったもので、この点から自分自身でも終身刑の導入に対しては疑問を持っていました。理想論的に言えば、どんな重大な犯罪を犯した者にも社会復帰の機会は与えられるべきだと思います。が、現実問題として、世間には百年経っても赦せないような恐るべき犯罪が確かにあり、また絶対に社会復帰させることが不可能なような犯罪者だっている訳です。彼らにだって生きる場所が無ければならない。それは刑務所を措いては他に無いと思います。私は終身刑の設置とともに、刑務所制度の改良も提案します。つまり環境の劣悪さや受刑者への暴力などを一掃して、一定のQOL(Quality of Life=生活の質)を保証出来る施設に作り変えるのです。(刑務所のアメニティ向上なんて言うと、また反撥を受けそうですが。) もちろん単なる環境面での待遇改善だけでなく、精神面でのケアも必要になります。前回の記事で、若い人の刑務所見学を義務付けるいうアイデアを書きましたが、受刑者にも見学に来た若者との交流の場を与えることで、精神的な張り合いを持たせられるかも知れません。あるいは文章を書くのが好きな受刑者には、ブログを書かせてもいいし、刑務所がインターネットに自由な意見交換の掲示板を作ってもいい。要するに、刑務所の実際の塀を取っ払うことは出来ないけれども、受刑者と世間との接点を増やすことなら出来る。その中で受刑者にも社会貢献が出来、生き甲斐を見付けられる可能性を準備するのです。刑務所だって人間の生活する社会であり、その環境の中で立派に更生することも出来る。受刑者ばかりでなく、おそらく刑務所で働く刑務官だって、そういう職場の方が働き甲斐があると私は思います。

 二番目の「終身刑は死刑以上に残酷な刑罰である」論というのは、単純に想像力の不足から来る誤解なのではないかと思います。先日の新聞で、「袴田事件」の裁判官のひとりが、実は無実の心証を持っていたと告白したという記事を読みました。袴田事件というのは、40年以上も前に起こった一家殺人事件で、犯人とされる袴田巌さんについては、一審以来ずっと冤罪の疑いが持たれていたのです。事件を担当した地裁判事のひとりが、たとえ既に退官しているとは言え、審理の内容について言及すること自体が問題ですが(これは特に裁判員制度との関連で重要です。このことは高野善通さんが指摘されています)、おそらく告白せざるを得ないほど、彼の心の中にはわだかまったものがあったのでしょう。死刑は法務大臣の命令によって執行される訳ですが、その死刑囚に支援団体がいたり、冤罪の疑いが言われたりしている事件に対しては、死刑執行の命令が下しにくいという現実があります。まさにそのことによって、袴田氏は40年に渡って〈生き地獄〉を味わわされた訳です。ウィキペディアで「袴田事件」を引くと、こんな記述が見られます、『袴田死刑囚は30歳で逮捕されて以来40年間にわたって拘禁され、死刑確定後は精神に異常を来し始め、現在は拘禁反応から肉親・弁護団との面会も困難になっている』。日本の死刑制度が恐ろしいのは、法で定められた執行期限がまったく守られておらず、死刑囚は長い期間、毎日々々「呼び出し」に怯えて過ごさなければならないという点にあります。ひとりの人間を40年間もそんな状態に放置する権限を、一体誰が持っているのでしょう? 私ははっきり言いますが、たとえ袴田死刑囚がこの事件の真犯人だったとしても、彼にはここまでの仕打ちを受けるいわれは無かった筈です。

 三番目の「終身刑制度は経済的な損失が大きい」論に対しては、もう少し冷静に反論が出来ます。死刑確定後の死刑囚は、懲役囚ではありませんから、日々独房の中で死の恐怖と闘うことだけが彼の仕事になります。しかし、終身刑を受けた受刑者は懲役囚になりますから、彼には与えられた仕事があります。つまり、これも日本の刑務所制度の改革案になるのですが、懲役による仕事をうんと経済的付加価値の高いものに変えて行くのです。例えば、刑務所が最新設備を備えた半導体工場を建て、そこで世界に向けてコンピュータのDRAMを生産する。人件費が安いので、競争力は抜群です。そこで働く人は技術も習得出来るので、出所後の再就職にも有利になるし、給金も少しは出ますから、被害者家族への賠償金や自分の家族への仕送りにも当てられる。それがまた受刑者の生き甲斐にもつながるでしょう。なにせ日本には6万5千人もの懲役囚がいるのですから、これが実現した時の経済効果はすごいものがあります。国内のメーカーにしても、海外から安い部品を仕入れるより、刑務所ブランドの高品質な部品を買った方がメリットがあります。日本の刑期回復、もとい、景気回復にも大いに貢献するのです。これなら終身刑が不経済だなどとは、もう言えますまい?

 さあ、どうでしょう、終身刑制度の導入と引き換えに死刑を廃止するアイデア。これでもまだ何か不都合がありますか? これにもうひとつ、今回の記事を書きながら思い付いたことがあるので、それも書いておきましょう。日本の刑罰制度には、〈恩赦〉という不思議な付帯制度があります。主に皇室関係の慶弔事に際して、死刑囚に減刑が与えられたり、懲役囚の刑期が短縮されたりする、文字どおり天皇陛下による恩赦の制度です。現在でも恩赦法という法律があって、生きている制度なんですね。(戦後12回の恩赦が実施されています。最近では、昭和天皇大喪、平成天皇即位、皇太子ご成婚の際に行なわれました。) 私はこれは時代にそぐわない、意味の無い制度だと思うのですが、これを新しいかたちで現代に甦らせるアイデアがあります。死刑が廃止された世界において、確かに終身刑は救いのない過酷な刑罰であると思います。もしも終身刑囚に恩赦を与えて仮出獄を認めることが出来るとすれば、その決定を行なえるのは、天皇陛下でも総理大臣でもなく、殺された被害者の遺族だと思います。これを制度化してはどうでしょう。殺人罪で刑に服している懲役囚が、恩赦の嘆願書を提出した場合、すべての遺族が同意することを条件に、一定の範囲内で減刑を行なう。これによって、たとえ終身刑を受けても、出所出来る可能性がゼロではなくなりますし、また遺族側にしても、自分たちの意思で犯人の運命をコントロール出来ることになるので、多少は復讐心を満足させることになるかも知れない。そしてもしも遺族が恩赦の嘆願書に同意のサインをするようなことがあれば、それはきっと何かとてつもなく崇高な精神のドラマがそこにあったことの証になるのでしょう。

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コメント

死刑執行は法相の職務である

投稿: 野分権六 | 2007年3月22日 (木) 21時55分

 「死刑廃止論」でネット検索して、ここに来させていただきました。なぜなら鳩山法相の発言問題があったからです。自分は、鳩山氏の発言には疑問を持ちますが「死刑賛成論者」です。そして、基本的には寛容な人間です。それでもやはり殺したくなる人間は居ます。法律などをかんがみて「損」なので、しませんが。

 おっしゃる事は、ほぼ、もっともです。が、3つ理の由にもう一つ付け加えて検証していただきたい。
「リスク」と言う考え方です。
自分は「えん罪があり得る以上、死刑は簡単に執行すべきではない。」と考えていますが、「犯罪の意志と指示や実行に疑いようもなく、反省もない人間…もしくは反省を装い他者を騙して死刑を逃れた再犯の人間に対しては、速やかに実行すべきである。」とも考えています。
 そう言う人間を教育出来ると考えるのは、心理学的に見ても厳しいものがあります。
 過去に「サイコパス」と言う概念が有りました。「良心を持たない人間。学習させても、それを知る事はなく、してる振りだけの人間。」と言うものです。その概念が正しいか正しくないかは、今回は心理学者に任せる事にします。

 自分が考えて欲しいのは「心理的欲求を満たすために犯罪を犯した人間を社会に放つ危険性」です。排他的選民思想を持っていたヒトラーも生かして置いた方が良かったのでしょうか?オウムの浅原は?猟奇殺人と言われる物の犯人は?教育で解決できますか?

 性的犯罪者を教育して性的興奮を抑制できる。殺人に優越感を感じた人間を制する事も出来ますとおっしゃるのですね?
しかし、そう言う人間の再犯率は非常に高いですよ。常習窃盗に関してもそうです。
 もし出来るなら「自分なら、サイコパスと言われる人をも良心的に感化できる。」という答えを下さい。
 もしその答えが出せないのなら、一人の犯罪者の更正の可能性と多数の危険とを比べた場合、性犯罪者や自己満足のための殺人等の犯罪者は、野に放つべきではないと考えます。(もちろん、えん罪の可能性が1%でも疑われるものには死刑は適用すべきではないかも知れませんが…)常習者に関してもです。彼らには更正の余地は有りますか?それも教育的法執行が無いせいですか?

「よりよく生きよう」としている人間の営みを邪魔する権利は何人にもありません。
 犯罪常習者が他者に苦痛を与え続けてでも、犯罪者が他者の命を奪い続けたい人間でも、生かす価値はありますか?

 覚悟の上での殺人や、精神的に追い込まれての殺人は、現在でも死刑を回避しています。そう言う人は更正の余地があるからでしょう。

 鳩山氏のような発言は、軽すぎるとしても、過去ではなく現在の死刑判決は「万死に値する」人間に対して行われています。
 そして、もし貴方が出来るなら「人の物を盗んで、その金で遊んで何が悪い!」と言う人を更正する施設、および、性犯罪者の更正施設を作って社会貢献して下さい。
それを実行出来るなら自分も死刑廃止論に賛成です。
返信お願いします。

投稿: つてぃー | 2007年9月29日 (土) 05時13分

つてぃーさん、コメントありがとうございます。

私はかなり昔からきっぱりとした死刑反対派なのですが、振り返ってみるとずっとその考え方が一貫していた訳ではありません。若い頃は、死刑も反対、非人道的な懲役刑も反対、刑罰というものはすべからく釈放を前提とした教育刑であるべきだと考えていたように思います。

年をとった今では、そこまで理想主義的な考え方はしていません。明らかに教育不可能、更生不可能な犯罪者が数多くいることも認めますし、そうした犯罪者を「野に放つ」ことの危険性も認識しています。

この記事では、死刑廃止の代わりに「終身刑」の設置を提案しています。これは理想主義的な死刑廃止論からすれば支持されないものでしょうが、政策としては妥当な妥協案ではないかと思います。この記事と、これに続く『終身刑導入論のフォローアップ』の2編をお読みいただけば、私の終身刑への考え方が理解していただけるのではないかと思います。

「鳩山法相の発言問題」については、いろいろと感じるところはありますが、ブログに取り上げてコメントする気にもなりません。死刑廃止を一貫して訴えている亀井静香氏が鳩山氏に対して、「法相の資格もなければ、人間の資格もない」とまで言い切りました。こちらも政治家の発言としてどうかと思いますが、気持ちとしては私も亀井氏に同感です。

投稿: Like_an_Arrow | 2007年9月30日 (日) 23時29分

猛獣でも、本当に分かり合おうとすれば分かり合えるものですよ
更生不可能な犯罪者

投稿: | 2010年8月30日 (月) 00時00分

死刑廃止論(1)(2)も含めた感想を書かせてもらいます。

私も残念ながら「死刑賛成論者」の一人で、"つてぃー "さんのご意見にほぼ賛同します。ただ、私もこれまで特に理論武装したこともなく、ただ漠然と「死刑廃止はできないだろう」と感じていましたから、管理人さんのある意味論理的な分析はとても参考になり、自分の考えをまとめる手助けになりました。

おっしゃるとおり、殺人を未然に防ぐ「抑止力」として死刑制度に過大な期待をすることには私も疑問があります。計画殺人、衝動殺人のどちらの件数をも死刑制度が劇的に少なくしているとは言い難い。しかしながら、逆に死刑廃止が実現したとしても、殺人の数が減るとも思えない。だから抑止力という観点からは議論する意味がそれほどあるとは私も思わない。ただ、一つ心にひっかかっったのは宅間事件。恨みを晴らすことと自らを滅ぼすことを同時に達成しようした無差別殺人の話です。あなたはこれを「死刑制度があるが故に起こった事件」と言う。これを完全に否定するだけの考えは今私も持ち合わせていません。ただ、死刑制度には殺人をある程度抑制する働きがあること、釈放後の再犯が絶えないことなどから、「死刑制度が殺人事件全体の数を増長しているいる」とは断言出来ないと思います。

管理人さんの論理には、たびたび大きな飛躍が見られます。

>年間1500件ほどの殺人事件に対して死刑判決は約百分の1の数十件に過ぎないから被害者感情はほとんど満たされていない。よって死刑存続派の主張は受け入れられない。

この論理は全く理解出来ません。現行、遺族の方々に死刑判決が少ないことへの不満があることは想像に難くありません。しかし、これは永山基準などの「ものさし」の問題であって、死刑制度支持、不支持の問題とは無関係でしょう。

>一般的に現代人は、他人の腕に注射針が刺されるのを見ても、思わず全身がこわばるほどのおそろしく発達した共感能力を持っている。これこそが過去二、三世紀のあいだに内面化された道徳の何よりの証拠だ。

これと人の痛みを共感する能力とは無関係だと思います。昔の人間の方がが人の痛みに鈍感だったという結論にはならない。


>死刑を存置させている社会、それは結局のところ、殺人を容認している社会なのである。命を捨てる覚悟を決めているなら、人殺しをしてもいいというのが、死刑制度が逆説的に意味しているところなのだ。

「死刑制度が殺人を容認している」は極論に過ぎます。それ以上は言いません。

>死刑廃止を実現した社会では、秩序を守るために犯罪者を排除するのではなく、たとえどんなに危険な犯罪者であろうと、これと共生する道を選ぶ。

あなたのおっしゃっていることは、共産主義と同じで単なる理想論です。確かに、どんな犯罪者でも100%更生するならその可能性もあるかもしれないけど、それは現実にはあり得ません。

>遺族が、長い苦悩の果てに、個人的な憎しみの感情を乗り越えて、死刑反対の立場に行き着く例が実際にある。自分も彼らのようでありたいと願う。たとえ自分がそうなれなかったとしても。

ここが最もあなたに同意出来ないところです。そこに来るまで、私はあなたが非現実主義者か、よっぽど高邁な方のどちらかだと思っていましたが、とても後者とは思えない。自分に出来ないことを主張したところで、誰も真剣に聴いてはくれないでしょう。


※以上、失礼を顧みず、感じたままを書かせてもらいました。だからと言って、あなたのような考え方をする人が嫌いなわけではありません。今、ヤフーのリサーチに『あなたが裁判員に選ばれたら、死刑を判断出来るか?』という問いに、7割近くが出来ると答えている。彼らのコメントを見ると実に短絡的で、このこと自体からして裁判員制度で裁かれる人の哀れさを感じます。そんな人たちよりは、私は死刑廃止を主張する人の方によっぽど好感を感じます。

しかし、私は死刑廃止論を支持できません。その理由は極めて単純です。人の死は死によってしか贖えない。いや、正しくは何ものでも贖えないものでしょう。しかし、その対価に最も近いものは殺人者の命をおいて他にない。『荘厳なる儀式がなければ、無念のまま消し去られた魂を鎮めることはできない』と考えることで、遺族も社会も理不尽さを最小化できるのです。この考えが原始的だとは、私は思わない。あなたの言う理想に、人類が到達出来るかどうかはわかりませんが、それは近い将来ではないことは確かだと思います。『理想』とは単に死刑制度が廃止された社会ではなく、それを人心が広くに受け入れることの出来る社会のことですが。

投稿: shimo | 2010年11月19日 (金) 21時53分

shimoさん、こんにちは。まずは長い文章に目を通していただいて、ありがとうございます。

これもずいぶん昔に書いた文章ですが、死刑に対する考え方という点では、基本的に今も変わっていません。ただ、読み返してみると、とても挑発的な文章で、反撥を感じる人が多いのも頷けます。死刑廃止論はこれまでにも折にふれて書いていますが、とにかく賛同してくださる方からのコメントを一度もいただいたことがない。みんな死刑賛成派の人たちからの反対意見ばかりです。もちろんこういうテーマについてブログで記事を発表している以上、反論もタテマエ上は歓迎なのですが、あまりにも皆さん死刑に賛成だとおっしゃるものだから、なんだか気味が悪くなってしまうのです。

このブログを始めて、死刑賛成派の人たちの意見をくつがえすことは絶対に出来ないと確信するようになりました。まあ、死刑反対派の私だって、絶対に意見を変えることはないと思っているので、頑固さではどっちもどっちです。要するに議論をすることさえ無駄ということなんですね。とにかく死刑に賛成だという人の意見を読んでいると、絶望的に深い溝があることを感じてしまう。別に高邁な理想なんてものを持ち出さなくても、死刑廃止は世界的に見てもまったく当たり前のトレンドなんですけどねえ…

投稿: Like_an_Arrow | 2010年11月21日 (日) 02時46分

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