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2007年3月11日 (日)

河合幹雄氏論文への反論

 裁判員制度については、私は以前からかなりはっきりした反対意見を持っていて、それをこのブログでも書いて来ました(12)。言いたいことはそこですべて言ってしまっているのですが、今週月曜日の朝日新聞朝刊に、河合幹雄さんという大学の先生が書かれた論文が載って、それがまたもやこの問題に対する私の気持ちを掻き立てたのです。河合さんの論考は、裁判員制度の意義を説くものとして、世間一般の議論よりも一段掘り下げた視点から書かれたもので、論理的で説得力があるし、「志」も高いすぐれた文章だと思います。でも、やっぱり違うんだよなあ、そういう読後感を私は抑え切れないのです。今回は、以前書いたことの繰り返しになることを承知の上で、河合教授への反論を書きたいと思います。まずは論文を引用しますので、熟読してみてください。タイトルは、『裁判員制が問う市民と情報』というものです。全文は長いので、重要な後半部分だけの引用です。

 『日本の司法現場の運用には、犯罪者をなるべく刑務所にいれない、入れてもなるべく短期で出すという特徴がある。例えば、少年などが最初に軽い事件を起こした場合、誰か世話をする民間の身元引受人を見つけて起訴を見送ることが通例となっている。釈放してしまうのだ。
 それでも日本の治安は、先進諸国と比較してケタ違いに良い。仮釈放された凶悪犯についても、再び凶悪事件を起こすことはまれである。つまりこの方針によって、世界に類を見ないほどに犯罪者の更生(再犯防止)に成功してきたのだ。
 この成功は、理論的には犯罪者を長く閉じ込めないことによって、出所後の社会復帰を容易にしてきたからだと説明できる。社会から長く隔離すればするほど、社会生活に復帰することは難しくなるのである。そして現実には、警察官、刑務官、保護観察官、家裁調査官などの頑張りに加え、保護司をはじめとした民間の特定の人々が、犯罪者の社会復帰を「密かに」支えてきたからである。
 しかしこの仕組みは、犯罪者の社会復帰を一般市民の生活領域から遠いところで実現したために、市民は、何もしなくても「犯罪と無縁の安全な社会」に居られるという感覚を持ってしまった。また彼らの視点では、前科者は世間(市民の生活領域)に戻れていないのであるから、刑務所から短期間で出ていることなど知る由もない。
 これを官の側から見れば、「犯罪にかかわる世界」と「一般市民の日常生活」に境界を設けることによって、犯罪者の更生に励む一方、情報を隠すことを通じて市民を犯罪にかかわる世界から隔離し、安全神話を信じさせてきたことになる。

 実は裁判員制度は、こうした「隠蔽する官」と「知ろうとしない民」に支えられた成功システムを終焉させるものである。なぜなら市民にとって、量刑や釈放後の実態といった「犯罪にかかわる情報」を知ることなしに自分たちで量刑をすることは、不可能だからである。
 今後は、市民が正しい状況認識をできるよう、犯罪者処遇の実態を含め、十分な情報を提供していかなければならない。裁判員制度の導入と安全神話の崩壊は、一部の者だけが更生にかかわり、他の市民は何も知らずに任せきって安心できた伝統との決別を促す意味で、同じ方向の変化である。
 それは、より大きな視点から言えば、社会の透明性が高まり、市民が大きな責任を負う社会の到来である。
 裁判員制度の導入が、市民が責任を負う社会を目指しているとすれば、市民が重い心理的負担を感じていることは、改革がもたらす当然の帰結だとも言える。この制度の導入を機に、私たちは、市民側の未成熟さと統治側の隠蔽体質を同時に正さなければならない。』 (引用ここまで)

 どうでしょう。裁判員制度の導入が、単なる司法制度の変革にとどまらず、日本が成熟した市民社会への移行を果たすための契機として捉えられています。しかも、そのためには、私たちひとりひとりが重い心理的負担さえ伴う、市民としての大きな責任を負わなければならないと言うのです。こういった理想論的で、高邁なものの言い方は、実は私は嫌いではありません(むしろ好きです。自分だっていつもそういう文章を書こうとしています)。もしも裁判員制度を、これからの日本の社会の中で意味ある制度に育てて行くとすれば、このような倫理的な心構えはぜひとも必要なものであると思います。ただ、問題はその前提なのです。河合さんの文章でも、この点は議論の前提条件として、検討もされずに受け入れられてしまっているように思うのですが、成熟した市民社会では、何故市民の司法参加が必須のものとして要請されるのか、その根拠が不問のまま議論が展開されているのではないかということなのです。

 しかし、いきなり本題に入るのは止めましょう。私がこの論文を読んで、最初に感じた疑問はこういうことです。日本では、犯罪の発生率や犯罪者の再犯率、また殺人などの凶悪事件の発生率が、先進諸国の中で飛び抜けて低いことは統計的にはっきりしています。安全神話と言われますが、神話でも何でもない、事実なのです。市民社会の成熟というならば、この点で日本の方が欧米諸国よりずっと先を行っているとは考えられませんか? 犯罪の少なさ、治安の良さこそが、市民社会の成熟度を測るひとつの指標なのだと言ってもおかしくはないでしょう? 刑事裁判や刑務所といった制度が目指す究極の目標は、犯罪率や再犯率を下げることにあるのだと思います。欧米諸国がこの点で、何故日本だけが非常な成功を収めているのか、そこに関心を持って日本に学ぼうとするなら話は分かります。ところが、「市民の成熟」などという曖昧で抽象的な目標のために、日本も欧米に習って陪審制や参審制を導入すべきだというのは、倒錯した意見だと思うのですがいかがでしょう。

 いや、日本の治安の良さは、決して市民の成熟度のモノサシにはならない、それは犯罪の実態を知らせまいとする統治者の隠蔽体質と、これを知ろうとしない市民の未成熟な心性のあいだの馴れ合いによって支えられた、かりそめのものに過ぎないのだ、そう再反論されれば、議論は水掛け論になってしまいます。ただ、我々がもう一度よく考えてみなければならないことは、日本の犯罪率の低さや治安の良さというのは、決して昨日、今日に始まったことではないということです。これは戦後一貫して続いて来た事実、いや、おそらくは明治時代以降ずっと変わらない日本の特質、いや、それどころか、例えば江戸時代にまでさかのぼっても、日本は常に同時代のどんな国より犯罪率の低い国だったのではないかと思います(統計が無いので証明は出来ませんが、江戸時代がいかに犯罪の少ないよく統治された時代だったかは、よく知られています)。そして、もしもこれが正しかったとすれば、河合さんのおっしゃるような『市民の未成熟』というようなコトバも、とても空疎なものに感じられてしまうのです。それが日本人の自覚的な努力のたまものであったがどうかは別として、ともかく日本は何らかの要因によって、歴史的に常に犯罪の少ない、治安の良い国だった。これが事実であるならば、日本の社会学者や刑法学者といった人たちは、むしろその要因をとことん調べ抜いた上で、それをこれからの司法制度改革に活かす道を探るべきではないでしょうか。そうすれば、問題は市民の未成熟ではなく、解答も裁判員制度ではないかも知れないのです。

 日本での市民社会の成立過程を振り返ってみると、それは欧米の国々とは大きく異なっていたことに気が付きます(当たり前ですけど)。西欧諸国では、何世紀にも亘る権力者との壮絶な戦いのなかで、市民が市民としての権利を獲得して来たのでしたね。ところが日本では(他の多くのアジアの国々もそうですが)、そういった市民革命を経ずに市民社会に突入してしまった訳です。陪審制の歴史を調べると、それがいかに市民社会の成立に対して大きな意味を持っていた制度であるかが分かります(それは市民革命のツールのひとつだったのです)。だから現在でも、欧米諸国の市民にとっては、陪審制というものが意識の中で重要な位置付けを占めているのだと思います。ところが、日本人の意識の中では、陪審制や参審制を受け入れる内的な必然性を欠いています。だって、どんなに歴史をさかのぼってみても、庶民である私たちが、同じ庶民である隣人を裁いて刑にかけるなんてことは、一度も経験して来たことがないんですもの。そしてこれは世界最低の犯罪率を誇る国民として、多少の自負を持って明言してもいいことだと思うのですが、そうした状況にある現代の日本人にとって、裁判員制度などというものは、ひどく野蛮で前時代的なものに映るのです。それは言ってみれば、過去の権力闘争の名残りのようなものです。だから私は、裁判員制度に対して違和感を持っている国民が多いことは、決して未成熟な市民意識のせいだとは考えないのです。むしろそれは西欧型の市民社会よりも、もっと進んだ将来の民主主義の可能性を示唆するものであるかも知れない、そんなふうに考えるのです。

 欧米諸国では当然の制度として受け入れられている陪審制や参審制が、実は民主主義のたどり着く理想の裁判制度などでは決してなく、むしろ現在の民主主義からすればひどく時代錯誤的で、いわば歴史の澱として残っているだけのものではないか、私はそういう疑問を持っています。だからこれからの日本が、そんな方向を目指すことに、断固反対するのです。もちろん私とて、現在の我が国の司法制度に欠点が無いなどとは思いません。「官の隠蔽体質」とまでは言いたくありませんが、日本では犯罪者の処遇や社会復帰後の状況について、あまりに情報が不足しているのは事実だと思います。それはたぶん、我々国民の側が自発的に情報にアクセスしようとしない点にも原因があるのでしょう。これはあまりに治安の良い国が陥る自然な趨勢だとも思います。(そこにいくとアメリカなんかすごいですよね、仮出所中の犯罪者の身体に発信機を付けて、インターネット上の地図で彼らの現在位置を教えるサービスを提供している州もあるんですから。) このへんは、各々の国の事情に合わせて、開示する情報の内容を決めて行けばいいのです。ただ、ここでもうひとつだけ、河合さんの意見に反論したい小さな点があります。それは、裁判員制度の導入によって、こうした情報の開示が進むであろうという見通しに関してです。

 すでに裁判員法を読んでいる私たちは、この制度が〈情報開示〉などという開放的で明るいイメージのものでは全然ないことを知っています。裁判員に選ばれた人には、事件の詳細や被告人の個人情報などが知らされますが、それは法廷外に持ち出してはいけない徹底した秘匿事項です。もしも漏らせば、裁判員も罰せられます。もちろん裁判員自身の個人情報も隠されていて、お互いに同じ事件を審理した裁判員同士でさえ、話し合った相手が誰なのか分からないのです。ね、ずいぶん陰湿で暗い制度ではありませんか? しかも、国民が一生のうちに裁判員に選ばれる確率は、せいぜい数パーセントくらいのものですから、大多数の国民には、この制度の実態さえ伝わらないのです。これは特に日本の裁判員制度だけがそうだというのではなく、欧米の陪審制や参審制だって同じようなものでしょう。要するに、「市民によって市民を裁かせる」というアイデアそのものが、本質的に隠蔽性を伴うものなのです。このことを認識すれば、裁判員制度を、これまで司法の現場をあまりに知らな過ぎた国民に対する、教育または意識改革のための制度として意味付けようとする主張は、はっきり間違いだと言えると思います。もしもこの制度によって、日本人一般の意識に与えられる影響があるとすれば、それは単に現代人の神経症的な症状を亢進させるというだけのことでしょう。それを「市民が背負うべき責任に伴う心理的負担」などと表現するのは、まったくの詭弁だと思います。(それにしても、裁判の公平性が失われることも含めて、裁判員制度には、ほんとうに、まったく、何ひとついいところがありませんね。)

 たまたま河合さんのホームページを覗いてみたら、ゼミの学生さんたちを連れて、刑務所の見学によく行かれている様子が窺えました。これなんか、とても意義のあることではないですか。河合ゼミの学生さんは、司法の道に進むかどうかは別にして、とてもいい経験をさせてもらっているのではないでしょうか。このアイデアをいただきましょう。例えば、成人式を迎えた二十歳の若者に、刑務所の見学や刑事裁判の傍聴を義務づけるというのはどうでしょう。少なくとも、いつ呼び出しがかかるかも分からない裁判員などよりも、司法の実態を体験させるにはそちらの方がずっと確実で効果的です。確かに河合先生のおっしゃるとおり、私たちは犯罪を犯した人たちのことを余りに知らな過ぎますし、それゆえに彼らのことを不必要に怖れ過ぎていると思います。自分だって、いつ被告席に座り、いつ塀の向こうに行くか分からないのですから、両方の境界線を低くしておくことはとても重要なことです。最近、障害者福祉の世界では、障害を持つ人と健常者が、共生する、つまり共に生きることが出来る社会を目指すということがスローガンになっています。これは素晴らしい発想ですが、世界一犯罪の少ない日本が次に目指すべきところは、犯罪者と私たちが「共生」出来る社会を作ること、そのことに他なるまいと思います。そのためには、私たちは司法の実態や犯罪の実態について、もっともっとよく知っておかなければならない。この結論において、私は河合教授に百パーセント同意するものです。

(追記です。河合幹雄さんのホームページに掲載されていたアドレスに、記事を引用したことのご報告も兼ねて、メールをお送りしたのですが、不達でした。もしもこの記事をお読みの方の中に、河合ゼミの関係者の方がいらっしゃれば、お伝えいただけると助かります。もちろんそんな可能性は、万に一つもないことは承知していますが…)

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コメント

 ご意見には全面的に賛同致します。

 裁判員制度は日本に不必要です。裁判員がマスコミの情報操作に誘導されて判断する危険性があります。
つまりマスコミを牛耳る勢力に有利な判決になる可能性が危惧されます。

 日本は古来より、同時代の諸外国に比較するとはるかに平和で残虐性の少ない文化を持っています。
唐から律令制度を取り入れる際に刑罰に関してはかなり軽くした様ですし、平安時代中央政府による
死刑は数百年行われませんでした(天皇による恩赦等)ルイス・フロイス等宣教師達も日本はキリスト教国ではないのに何故犯罪が西欧の国より少なく、道徳的なのか不思議がって書いています。
江戸時代も犯罪率は低く取締り側の人数も僅かでした。
イザベラバードの「日本紀行」にも無くした財布が
戻ってきた逸話が書いてありました。届けた人は
謝礼を固辞した様です。

投稿: | 2010年6月22日 (火) 16時20分

裁判員制度の是非は難しい問題で功罪あると思います。
ブログ主様のご意見はとても共感します。
ただ、ちょと事実誤認があると思います。
1964年の殺人事件は2366件で強姦は6857件
戦後の混乱期は他の国と遜色なかったようです。
1970年 殺人1986件 強姦5161件
1975年 殺人2098件 強姦3704件
1980年 殺人1684件 強姦2610件
1985年 殺人1708件 強姦1802件
1990年 殺人1238件 強姦1548件
1995年 殺人1281件 強姦1500件
2000年 殺人1391件 強姦2260件
2005年 殺人1392件 強姦2076件
2009年 殺人1094件 強姦1402件
と減少し続けています。
冤罪の問題を抜きにすれば、諸外国に比べ日本の司法制度は犯罪抑止という点でとても完成されたものと思います。
他に、格差の無い社会を目指した所も治安に大きく貢献しているのではないでしょうか。
治安の良い、世界に誇るべき日本を守るためにも司法制度は慎重に考えないといけないと感じました。

投稿: ケン | 2010年12月 7日 (火) 05時35分

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