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2007年3月25日 (日)

終身刑導入論のフォローアップ

 前回の記事を書いたあと、日本の無期懲役刑の問題に関する面白い文章を見付けました。その名も『無期懲役刑に関する誤解の蔓延を防止するブログ』というタイトルのページです。一読してなるほどと思い、自分の不勉強を恥じました。終身刑を支持する原稿を書くなら、せめて終身刑というものの正式な定義くらい把握しておくべきでしたね。日本では特に死刑廃止の立場から、代替刑としての終身刑を論じるのが一般的ですが、日本の無期懲役刑は、その言葉の正しい定義において、まさに終身刑(Life Sentence)と呼べるものだというのです。もう少し詳しく言うと、終身刑には「絶対的終身刑」と呼ばれる仮釈放を一切認めない厳格な意味での終身刑と、「相対的終身刑」と呼ばれる仮釈放のある終身刑があって、今日世界で一般的に終身刑と呼ばれているのは、後者の相対的終身刑のことなのだそうです。絶対的終身刑を採用する国は、世界でもまれであって、大抵の国では終身刑にも仮釈放の制度があります。言い換えれば、日本には既に立派な終身刑制度があるということです。

 このブログの筆者の方が主張されているのは、日本では何故か無期懲役刑が軽い刑罰だと考えられている風潮がある、それはマスコミの誤った報道の仕方に責任があるというものです。確かに日本では、無期懲役を申し渡された受刑者が、服役中の態度や悔悟の状況によって、意外に早く出所して来る場合が多い、そういった〈一般常識〉があるように思います。私自身、そうした通念にとらわれて、この問題を論じていた訳です。ところが事実を調べてみれば、ここ3年のあいだに刑期二十年以下で仮出所を許された無期刑囚はひとりもいませんし、そもそも仮出所を認められる件数自体も減っている。実際に刑務所で一生を終えてしまう、結果的に終身刑を全うしたことになる受刑者だって多い訳です。(仮出所の条件が厳しくなっている背景には、2005年に有期刑の最高年数が20年から30年に引き延ばされたことも影響しているようです。) 無期懲役刑を実際よりも軽い刑だと見なす誤った認識の蔓延は、犯罪抑止効果の観点からも好ましくないとブログは指摘します。私もそのとおりだと思います。「死刑にさえならなければ」という観念が、犯罪を増長している可能性もおおいにあるからです。(ふたり殺すのはヤバイが、ひとり殺っても吊るされることはないからな、といったように。) それにしても、何故日本のマスコミは、明らかな情報操作までして無期刑の実態を隠そうとするのでしょう、そちらの事実の方に私は興味をそそられます。

 現在の日本人の意識が、死刑制度賛成に傾いている背景には、マスコミよる世論誘導があるのではないかと私は見ています。世間に憎まれる凶悪な犯罪者に対して極刑を望む論調は、明らかに〈視聴者受け〉するからです。テレビ局にしろ新聞社にしろ、世論を敵に回してまで正論を主張するような危険は犯さないでしょう。それは視聴率や発行部数に影響することだからです。この構図によって、世論は凶悪犯罪に対する憎悪をとめどなくエスカレートさせて行くことになります(なにせ犯罪者を攻撃して困る人はいませんので)。これと同じ構図が、無期懲役刑に対するマスコミの態度にもあるような気がします。厳罰を求めることが世論の欲望を満たし、視聴率を稼ぐことにつながるのと同様、世間が憎んでいる凶悪事件の犯人が、予想外に軽い刑を言い渡されることもまた、視聴者にとっては〈おいしいニュース〉だからです。何故なら、そこで我々が感じる大いなる義憤もまた、一種のカタルシスであるには違いないから。極刑でなければ実質上の短期刑、視聴者や読者を喜ばせるためには、その中間はありえない訳です。これがマスコミが無期懲役刑を、事実を曲げてまで矮小化しようとする本当の理由だと言えば、勘繰り過ぎでしょうか。

 いや、自分の勉強不足による間違いを訂正するのに、マスコミ批判に話題をすり替えてはいけませんね。ここでの問題は、死刑廃止を主張する自分が、死刑制度の代りに〈絶対的終身刑〉の導入まで主張するのかどうかという点です。正直に言って、この点ではまだ考えに迷いがあります、というより、前回の主張を撤回したい気持ちなのです。私は書きました、『無期懲役刑と死刑のあいだには、それこそ天国と地獄ほどの開きがあって、制度的にその間を埋めるものが何も無い』と。懲役刑を天国に喩えるなんて、それこそ日本の刑務所制度の実態を矮小化した表現ですよね。百年以上も昔に制定された〈監獄法〉という法律によって運営されて来た日本の刑務所が、人道的に見ても大きな問題を抱えていることはよく知られています(昨年、法律がようやく改正され、従来の〈監獄法〉は〈受刑者処遇法〉に変わったようです)。が、まさに日本のムショ暮らしが、他の先進諸国に比べてケタ外れに過酷であることそのことが、刑のバランスを崩さずにそのまま死刑を廃止出来る理由であるような気もするのです。問題は、日本には実質上すでに終身刑があるということ、ところがその実態が、マスコミの情報操作と司法の隠蔽主義のせいで、はっきり認識されていないということのふたつです。もしも仮釈放に対する基準が明確になり、正しい情報公開が行なわれるなら、現行の無期懲役刑には死刑の代替刑としての資格が充分にあるような気がします。これに犯罪遺族による仮釈放への拒否権まで付け加えれば、とりあえず日本版終身刑として完璧なのではないだろうか? どうもこのへんが私の主張の落ち着きどころになろうかと思います。

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2007年3月18日 (日)

死刑廃止論ふたたび

 前回は裁判員制度への反対論を書きました。今回はその続編で、死刑廃止論を書きます。私の中では、このふたつの問題は対をなしているからです。死刑廃止の問題に関しても、私はすでにかなり長いまとまった文章を書いていますので(12)、その繰り返しになる部分も多くなると思います。但し、以前の考察が、どちらかと言えば理念的、哲学的な観点からのものだったので、今回は少し現実的な面からこの問題を考察してみたいと思います。2009年に裁判員制度がスタートすれば、死刑制度とどう向き合うかということは、一挙に現実的な問題として我々の上にのしかかって来るからです。

 政府が行なった世論調査によれば、国民の約7割が裁判員をやりたくないと答えているのだそうです。ところが、不思議なことに、死刑制度への賛否を問えば、国民の8割以上が死刑制度存続に賛成で、反対派は1割にも満たないのです。ここから想像出来ることは、国民の多くは自分で犯人に死刑を申し渡したくはないが、凶悪な殺人犯にはやはり誰かが死刑を宣告して欲しい、そういった気持ちが一般的であるということでしょうか。いま日本で議論されている主要な問題、例えば憲法改正の問題や教育基本法改正の問題、首相の靖国神社参拝や日の丸君が代の問題、自衛隊の海外派遣と軍備増強の問題、安楽死や代理出産といった生命倫理に関する問題、あるいは皇室典範を変えて女性天皇を認めるかどうかという問題、これらはどれも国民の中で賛否が真っ二つに割れていて、賛成派と反対派がほぼ拮抗しているような印象があります。自分自身の考えはともかく、いずれも確かに難しい論点を含む問題であり、議論が分かれること自体、世論が健全であることの証ではないかとも思えます。ところが、死刑存廃の問題についてのみ、国民のあいだでこのバランスが取れていないんですね。それこそ先進国ばかりでなく、世界中の多くの国々で実際に死刑が廃止されていて、日本は国際人道機関からも勧告を受けているくらいなんですから、もっと死刑廃止論が国内で盛り上がりを見せてもいいように思います。しかるにインターネット上でこの問題に関する意見を拾ってみると、圧倒的多数の人たちが死刑を支持しており、その多くは感情的な高ぶりにまかせて、死刑廃止論に対する敵意さえ剥き出しにしています。

 私は昔から、死刑制度に賛成する人の意見には、深い欺瞞があると考えて来ました。欺瞞と言って悪ければ、無邪気な勘違いがあると言ってもいい。死刑を廃止した国々の統計から、死刑制度には犯罪の抑止効果が無いことは明らかになっていますから、今日死刑制度の存続を正当化する理由は、主に感情的な面に移って来ていると言えます。つまり、凶悪な殺人犯に対しては、遺族感情を考えた場合に極刑で臨むしかないというものです。ところが、ここに欺瞞があります。最近は国内でも凶悪犯罪が増えていて、毎年十数人の殺人犯に対して死刑が確定しています。(執行数の方が追い付かずに、戦後初めて刑務所に収監されている死刑囚が百人を超えたと、先月のニュースが伝えていましたね。) 一方、国内での殺人件数は、この数年ほぼ千五百件前後で推移しています。ということは、殺人犯のうちで死刑になる者は百人にひとりしかいないのです。つまり遺族感情を慰めるという機能を、現在の死刑制度は充分果たしていないことになります。愛する者を殺された遺族は、犯人に死刑を望むのが普通でしょう、これは死刑反対論者の私でもたぶん同じです。何故ならば、この国には死刑制度があるのですから。ところが、99パーセントの確率でその期待は裏切られる。日本での犯罪被害者の遺族は、フランスやドイツの遺族よりも、さらに辛い立場に置かれていると私は思います。これが死刑廃止国であれば、最初から死刑による犯人への復讐という期待も持てない訳ですから、憎い犯人が死刑にならなかったことへの口惜しさも、死刑存置国におけるほど大きくはないと想像出来ます。そう考えれば、死刑制度は被害者感情を慰撫しているどころか、たいていの場合彼らの心の傷をより深いものにしているとも考えられるのです。

 そんなのは屁理屈だと言われますか? たとえ百人に一人であっても、この制度によって救われる遺族がいるならいいではないかと? あるいは、だからもっと量刑を厳しくして、死刑の数を増やせばいいじゃないかとか? ええ、それも正しい理屈だと思いますが、実は私はこういった類の正しい理屈とは議論をする準備がありません。むしろ私が現実的な問題として注意を喚起したいことは、日本における刑罰制度のバランスの悪さについてなのです。日本では死刑の次に重い刑罰は無期懲役刑です。無期と言うから、一生刑務所に入れられるのかと言えば、そうではありません。これはよく知られた事実ですが、無期懲役で刑務所に入っている受刑者でも、刑期が十年を過ぎると仮出獄のチャンスがあります。懲役囚をいつシャバに出すかは、行政(法務省)の裁量にまかされているんですね。しかも、前回紹介した河合幹雄さんの論文にもあるように、日本の司法現場は犯罪者をなるべく早く刑務所から出すという不思議とうるわしい慣習を持っていますから、思いのほか短い刑期で無期刑の囚人はこちらの世界に戻って来ます(だいたい平均して二十年余りで出所するようです)。しかも、仮出獄しても、その事実は世間には知らされませんから、世の中を騒がした有名な殺人事件の犯人が、意外にも私たちのすぐ近くでひっそり暮らしているかも知れないのです。この事実を考え合わせれば、確かに犯人の死刑判決を聞き遂げられなかった被害者遺族の無念も理解出来ますし、ぎりぎり死刑を免れた殺人犯人の胸の安堵も分かろうというものです。

 問題は無期懲役刑と死刑のあいだには、それこそ天国と地獄ほどの開きがあって、制度的にその間を埋めるものが何も無いという点です。このことから日本での死刑廃止論は、「終身刑」制度の設置という考え方と事実上ワンセットになっています。文字どおり生涯刑務所から出ることのない、〈終身保障〉の懲役刑です。死刑を無くす代償として、終身刑を導入しよう、それで死刑存置派の人たちにも妥協してもらおう、そういう考え方なんですね。死刑存置派の主張のひとつは、死刑が無くなって凶悪な犯罪者が社会に復帰するようになれば、現在よりも社会不安が増すというものです。確かに日本では出所後の再犯率が低いとは言っても、前科者が罪を犯す確率は、前科の無い人が罪を犯す確率よりはずっと高いのです。凶悪犯が一生刑務所に入っていてくれるなら、この点は解決します。で、結論から言えば、私自身は終身刑の導入に賛成なのですが、これにもまた反対する人がたくさんいるのですね。終身刑に反対する人の理由は、だいたい次の三つに分類出来ると思います。①すべての刑罰は懲罰刑であるよりも教育刑であるべきで、服役者から社会復帰のチャンスを奪ってしまう終身刑は認められない。②生涯刑務所から出られない終身刑は、実は死刑よりもっと残酷な刑罰であり、これは憲法の規定にも反するものである。③生涯に渡って受刑者の面倒をみるのはコストがかかり過ぎる、だいたい日本中の刑務所がすぐに満員になってしまうので現実的ではない。こういう3つの理由です。①と②は死刑廃止論の立場からの反論、③はおそらく死刑存置論の立場からの反論ということになるのだろうと思います。終身刑は、死刑反対派、賛成派の両者から支持されない面があるのですね。終身刑導入派としては、この3つの反対論を論破しなければならない。次にそれを試みてみることにします。

 一番目の「すべての刑罰は教育刑であるべきだ」論は、実は長いあいだ私の持論だったもので、この点から自分自身でも終身刑の導入に対しては疑問を持っていました。理想論的に言えば、どんな重大な犯罪を犯した者にも社会復帰の機会は与えられるべきだと思います。が、現実問題として、世間には百年経っても赦せないような恐るべき犯罪が確かにあり、また絶対に社会復帰させることが不可能なような犯罪者だっている訳です。彼らにだって生きる場所が無ければならない。それは刑務所を措いては他に無いと思います。私は終身刑の設置とともに、刑務所制度の改良も提案します。つまり環境の劣悪さや受刑者への暴力などを一掃して、一定のQOL(Quality of Life=生活の質)を保証出来る施設に作り変えるのです。(刑務所のアメニティ向上なんて言うと、また反撥を受けそうですが。) もちろん単なる環境面での待遇改善だけでなく、精神面でのケアも必要になります。前回の記事で、若い人の刑務所見学を義務付けるいうアイデアを書きましたが、受刑者にも見学に来た若者との交流の場を与えることで、精神的な張り合いを持たせられるかも知れません。あるいは文章を書くのが好きな受刑者には、ブログを書かせてもいいし、刑務所がインターネットに自由な意見交換の掲示板を作ってもいい。要するに、刑務所の実際の塀を取っ払うことは出来ないけれども、受刑者と世間との接点を増やすことなら出来る。その中で受刑者にも社会貢献が出来、生き甲斐を見付けられる可能性を準備するのです。刑務所だって人間の生活する社会であり、その環境の中で立派に更生することも出来る。受刑者ばかりでなく、おそらく刑務所で働く刑務官だって、そういう職場の方が働き甲斐があると私は思います。

 二番目の「終身刑は死刑以上に残酷な刑罰である」論というのは、単純に想像力の不足から来る誤解なのではないかと思います。先日の新聞で、「袴田事件」の裁判官のひとりが、実は無実の心証を持っていたと告白したという記事を読みました。袴田事件というのは、40年以上も前に起こった一家殺人事件で、犯人とされる袴田巌さんについては、一審以来ずっと冤罪の疑いが持たれていたのです。事件を担当した地裁判事のひとりが、たとえ既に退官しているとは言え、審理の内容について言及すること自体が問題ですが(これは特に裁判員制度との関連で重要です。このことは高野善通さんが指摘されています)、おそらく告白せざるを得ないほど、彼の心の中にはわだかまったものがあったのでしょう。死刑は法務大臣の命令によって執行される訳ですが、その死刑囚に支援団体がいたり、冤罪の疑いが言われたりしている事件に対しては、死刑執行の命令が下しにくいという現実があります。まさにそのことによって、袴田氏は40年に渡って〈生き地獄〉を味わわされた訳です。ウィキペディアで「袴田事件」を引くと、こんな記述が見られます、『袴田死刑囚は30歳で逮捕されて以来40年間にわたって拘禁され、死刑確定後は精神に異常を来し始め、現在は拘禁反応から肉親・弁護団との面会も困難になっている』。日本の死刑制度が恐ろしいのは、法で定められた執行期限がまったく守られておらず、死刑囚は長い期間、毎日々々「呼び出し」に怯えて過ごさなければならないという点にあります。ひとりの人間を40年間もそんな状態に放置する権限を、一体誰が持っているのでしょう? 私ははっきり言いますが、たとえ袴田死刑囚がこの事件の真犯人だったとしても、彼にはここまでの仕打ちを受けるいわれは無かった筈です。

 三番目の「終身刑制度は経済的な損失が大きい」論に対しては、もう少し冷静に反論が出来ます。死刑確定後の死刑囚は、懲役囚ではありませんから、日々独房の中で死の恐怖と闘うことだけが彼の仕事になります。しかし、終身刑を受けた受刑者は懲役囚になりますから、彼には与えられた仕事があります。つまり、これも日本の刑務所制度の改革案になるのですが、懲役による仕事をうんと経済的付加価値の高いものに変えて行くのです。例えば、刑務所が最新設備を備えた半導体工場を建て、そこで世界に向けてコンピュータのDRAMを生産する。人件費が安いので、競争力は抜群です。そこで働く人は技術も習得出来るので、出所後の再就職にも有利になるし、給金も少しは出ますから、被害者家族への賠償金や自分の家族への仕送りにも当てられる。それがまた受刑者の生き甲斐にもつながるでしょう。なにせ日本には6万5千人もの懲役囚がいるのですから、これが実現した時の経済効果はすごいものがあります。国内のメーカーにしても、海外から安い部品を仕入れるより、刑務所ブランドの高品質な部品を買った方がメリットがあります。日本の刑期回復、もとい、景気回復にも大いに貢献するのです。これなら終身刑が不経済だなどとは、もう言えますまい?

 さあ、どうでしょう、終身刑制度の導入と引き換えに死刑を廃止するアイデア。これでもまだ何か不都合がありますか? これにもうひとつ、今回の記事を書きながら思い付いたことがあるので、それも書いておきましょう。日本の刑罰制度には、〈恩赦〉という不思議な付帯制度があります。主に皇室関係の慶弔事に際して、死刑囚に減刑が与えられたり、懲役囚の刑期が短縮されたりする、文字どおり天皇陛下による恩赦の制度です。現在でも恩赦法という法律があって、生きている制度なんですね。(戦後12回の恩赦が実施されています。最近では、昭和天皇大喪、平成天皇即位、皇太子ご成婚の際に行なわれました。) 私はこれは時代にそぐわない、意味の無い制度だと思うのですが、これを新しいかたちで現代に甦らせるアイデアがあります。死刑が廃止された世界において、確かに終身刑は救いのない過酷な刑罰であると思います。もしも終身刑囚に恩赦を与えて仮出獄を認めることが出来るとすれば、その決定を行なえるのは、天皇陛下でも総理大臣でもなく、殺された被害者の遺族だと思います。これを制度化してはどうでしょう。殺人罪で刑に服している懲役囚が、恩赦の嘆願書を提出した場合、すべての遺族が同意することを条件に、一定の範囲内で減刑を行なう。これによって、たとえ終身刑を受けても、出所出来る可能性がゼロではなくなりますし、また遺族側にしても、自分たちの意思で犯人の運命をコントロール出来ることになるので、多少は復讐心を満足させることになるかも知れない。そしてもしも遺族が恩赦の嘆願書に同意のサインをするようなことがあれば、それはきっと何かとてつもなく崇高な精神のドラマがそこにあったことの証になるのでしょう。

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2007年3月11日 (日)

河合幹雄氏論文への反論

 裁判員制度については、私は以前からかなりはっきりした反対意見を持っていて、それをこのブログでも書いて来ました(12)。言いたいことはそこですべて言ってしまっているのですが、今週月曜日の朝日新聞朝刊に、河合幹雄さんという大学の先生が書かれた論文が載って、それがまたもやこの問題に対する私の気持ちを掻き立てたのです。河合さんの論考は、裁判員制度の意義を説くものとして、世間一般の議論よりも一段掘り下げた視点から書かれたもので、論理的で説得力があるし、「志」も高いすぐれた文章だと思います。でも、やっぱり違うんだよなあ、そういう読後感を私は抑え切れないのです。今回は、以前書いたことの繰り返しになることを承知の上で、河合教授への反論を書きたいと思います。まずは論文を引用しますので、熟読してみてください。タイトルは、『裁判員制が問う市民と情報』というものです。全文は長いので、重要な後半部分だけの引用です。

 『日本の司法現場の運用には、犯罪者をなるべく刑務所にいれない、入れてもなるべく短期で出すという特徴がある。例えば、少年などが最初に軽い事件を起こした場合、誰か世話をする民間の身元引受人を見つけて起訴を見送ることが通例となっている。釈放してしまうのだ。
 それでも日本の治安は、先進諸国と比較してケタ違いに良い。仮釈放された凶悪犯についても、再び凶悪事件を起こすことはまれである。つまりこの方針によって、世界に類を見ないほどに犯罪者の更生(再犯防止)に成功してきたのだ。
 この成功は、理論的には犯罪者を長く閉じ込めないことによって、出所後の社会復帰を容易にしてきたからだと説明できる。社会から長く隔離すればするほど、社会生活に復帰することは難しくなるのである。そして現実には、警察官、刑務官、保護観察官、家裁調査官などの頑張りに加え、保護司をはじめとした民間の特定の人々が、犯罪者の社会復帰を「密かに」支えてきたからである。
 しかしこの仕組みは、犯罪者の社会復帰を一般市民の生活領域から遠いところで実現したために、市民は、何もしなくても「犯罪と無縁の安全な社会」に居られるという感覚を持ってしまった。また彼らの視点では、前科者は世間(市民の生活領域)に戻れていないのであるから、刑務所から短期間で出ていることなど知る由もない。
 これを官の側から見れば、「犯罪にかかわる世界」と「一般市民の日常生活」に境界を設けることによって、犯罪者の更生に励む一方、情報を隠すことを通じて市民を犯罪にかかわる世界から隔離し、安全神話を信じさせてきたことになる。

 実は裁判員制度は、こうした「隠蔽する官」と「知ろうとしない民」に支えられた成功システムを終焉させるものである。なぜなら市民にとって、量刑や釈放後の実態といった「犯罪にかかわる情報」を知ることなしに自分たちで量刑をすることは、不可能だからである。
 今後は、市民が正しい状況認識をできるよう、犯罪者処遇の実態を含め、十分な情報を提供していかなければならない。裁判員制度の導入と安全神話の崩壊は、一部の者だけが更生にかかわり、他の市民は何も知らずに任せきって安心できた伝統との決別を促す意味で、同じ方向の変化である。
 それは、より大きな視点から言えば、社会の透明性が高まり、市民が大きな責任を負う社会の到来である。
 裁判員制度の導入が、市民が責任を負う社会を目指しているとすれば、市民が重い心理的負担を感じていることは、改革がもたらす当然の帰結だとも言える。この制度の導入を機に、私たちは、市民側の未成熟さと統治側の隠蔽体質を同時に正さなければならない。』 (引用ここまで)

 どうでしょう。裁判員制度の導入が、単なる司法制度の変革にとどまらず、日本が成熟した市民社会への移行を果たすための契機として捉えられています。しかも、そのためには、私たちひとりひとりが重い心理的負担さえ伴う、市民としての大きな責任を負わなければならないと言うのです。こういった理想論的で、高邁なものの言い方は、実は私は嫌いではありません(むしろ好きです。自分だっていつもそういう文章を書こうとしています)。もしも裁判員制度を、これからの日本の社会の中で意味ある制度に育てて行くとすれば、このような倫理的な心構えはぜひとも必要なものであると思います。ただ、問題はその前提なのです。河合さんの文章でも、この点は議論の前提条件として、検討もされずに受け入れられてしまっているように思うのですが、成熟した市民社会では、何故市民の司法参加が必須のものとして要請されるのか、その根拠が不問のまま議論が展開されているのではないかということなのです。

 しかし、いきなり本題に入るのは止めましょう。私がこの論文を読んで、最初に感じた疑問はこういうことです。日本では、犯罪の発生率や犯罪者の再犯率、また殺人などの凶悪事件の発生率が、先進諸国の中で飛び抜けて低いことは統計的にはっきりしています。安全神話と言われますが、神話でも何でもない、事実なのです。市民社会の成熟というならば、この点で日本の方が欧米諸国よりずっと先を行っているとは考えられませんか? 犯罪の少なさ、治安の良さこそが、市民社会の成熟度を測るひとつの指標なのだと言ってもおかしくはないでしょう? 刑事裁判や刑務所といった制度が目指す究極の目標は、犯罪率や再犯率を下げることにあるのだと思います。欧米諸国がこの点で、何故日本だけが非常な成功を収めているのか、そこに関心を持って日本に学ぼうとするなら話は分かります。ところが、「市民の成熟」などという曖昧で抽象的な目標のために、日本も欧米に習って陪審制や参審制を導入すべきだというのは、倒錯した意見だと思うのですがいかがでしょう。

 いや、日本の治安の良さは、決して市民の成熟度のモノサシにはならない、それは犯罪の実態を知らせまいとする統治者の隠蔽体質と、これを知ろうとしない市民の未成熟な心性のあいだの馴れ合いによって支えられた、かりそめのものに過ぎないのだ、そう再反論されれば、議論は水掛け論になってしまいます。ただ、我々がもう一度よく考えてみなければならないことは、日本の犯罪率の低さや治安の良さというのは、決して昨日、今日に始まったことではないということです。これは戦後一貫して続いて来た事実、いや、おそらくは明治時代以降ずっと変わらない日本の特質、いや、それどころか、例えば江戸時代にまでさかのぼっても、日本は常に同時代のどんな国より犯罪率の低い国だったのではないかと思います(統計が無いので証明は出来ませんが、江戸時代がいかに犯罪の少ないよく統治された時代だったかは、よく知られています)。そして、もしもこれが正しかったとすれば、河合さんのおっしゃるような『市民の未成熟』というようなコトバも、とても空疎なものに感じられてしまうのです。それが日本人の自覚的な努力のたまものであったがどうかは別として、ともかく日本は何らかの要因によって、歴史的に常に犯罪の少ない、治安の良い国だった。これが事実であるならば、日本の社会学者や刑法学者といった人たちは、むしろその要因をとことん調べ抜いた上で、それをこれからの司法制度改革に活かす道を探るべきではないでしょうか。そうすれば、問題は市民の未成熟ではなく、解答も裁判員制度ではないかも知れないのです。

 日本での市民社会の成立過程を振り返ってみると、それは欧米の国々とは大きく異なっていたことに気が付きます(当たり前ですけど)。西欧諸国では、何世紀にも亘る権力者との壮絶な戦いのなかで、市民が市民としての権利を獲得して来たのでしたね。ところが日本では(他の多くのアジアの国々もそうですが)、そういった市民革命を経ずに市民社会に突入してしまった訳です。陪審制の歴史を調べると、それがいかに市民社会の成立に対して大きな意味を持っていた制度であるかが分かります(それは市民革命のツールのひとつだったのです)。だから現在でも、欧米諸国の市民にとっては、陪審制というものが意識の中で重要な位置付けを占めているのだと思います。ところが、日本人の意識の中では、陪審制や参審制を受け入れる内的な必然性を欠いています。だって、どんなに歴史をさかのぼってみても、庶民である私たちが、同じ庶民である隣人を裁いて刑にかけるなんてことは、一度も経験して来たことがないんですもの。そしてこれは世界最低の犯罪率を誇る国民として、多少の自負を持って明言してもいいことだと思うのですが、そうした状況にある現代の日本人にとって、裁判員制度などというものは、ひどく野蛮で前時代的なものに映るのです。それは言ってみれば、過去の権力闘争の名残りのようなものです。だから私は、裁判員制度に対して違和感を持っている国民が多いことは、決して未成熟な市民意識のせいだとは考えないのです。むしろそれは西欧型の市民社会よりも、もっと進んだ将来の民主主義の可能性を示唆するものであるかも知れない、そんなふうに考えるのです。

 欧米諸国では当然の制度として受け入れられている陪審制や参審制が、実は民主主義のたどり着く理想の裁判制度などでは決してなく、むしろ現在の民主主義からすればひどく時代錯誤的で、いわば歴史の澱として残っているだけのものではないか、私はそういう疑問を持っています。だからこれからの日本が、そんな方向を目指すことに、断固反対するのです。もちろん私とて、現在の我が国の司法制度に欠点が無いなどとは思いません。「官の隠蔽体質」とまでは言いたくありませんが、日本では犯罪者の処遇や社会復帰後の状況について、あまりに情報が不足しているのは事実だと思います。それはたぶん、我々国民の側が自発的に情報にアクセスしようとしない点にも原因があるのでしょう。これはあまりに治安の良い国が陥る自然な趨勢だとも思います。(そこにいくとアメリカなんかすごいですよね、仮出所中の犯罪者の身体に発信機を付けて、インターネット上の地図で彼らの現在位置を教えるサービスを提供している州もあるんですから。) このへんは、各々の国の事情に合わせて、開示する情報の内容を決めて行けばいいのです。ただ、ここでもうひとつだけ、河合さんの意見に反論したい小さな点があります。それは、裁判員制度の導入によって、こうした情報の開示が進むであろうという見通しに関してです。

 すでに裁判員法を読んでいる私たちは、この制度が〈情報開示〉などという開放的で明るいイメージのものでは全然ないことを知っています。裁判員に選ばれた人には、事件の詳細や被告人の個人情報などが知らされますが、それは法廷外に持ち出してはいけない徹底した秘匿事項です。もしも漏らせば、裁判員も罰せられます。もちろん裁判員自身の個人情報も隠されていて、お互いに同じ事件を審理した裁判員同士でさえ、話し合った相手が誰なのか分からないのです。ね、ずいぶん陰湿で暗い制度ではありませんか? しかも、国民が一生のうちに裁判員に選ばれる確率は、せいぜい数パーセントくらいのものですから、大多数の国民には、この制度の実態さえ伝わらないのです。これは特に日本の裁判員制度だけがそうだというのではなく、欧米の陪審制や参審制だって同じようなものでしょう。要するに、「市民によって市民を裁かせる」というアイデアそのものが、本質的に隠蔽性を伴うものなのです。このことを認識すれば、裁判員制度を、これまで司法の現場をあまりに知らな過ぎた国民に対する、教育または意識改革のための制度として意味付けようとする主張は、はっきり間違いだと言えると思います。もしもこの制度によって、日本人一般の意識に与えられる影響があるとすれば、それは単に現代人の神経症的な症状を亢進させるというだけのことでしょう。それを「市民が背負うべき責任に伴う心理的負担」などと表現するのは、まったくの詭弁だと思います。(それにしても、裁判の公平性が失われることも含めて、裁判員制度には、ほんとうに、まったく、何ひとついいところがありませんね。)

 たまたま河合さんのホームページを覗いてみたら、ゼミの学生さんたちを連れて、刑務所の見学によく行かれている様子が窺えました。これなんか、とても意義のあることではないですか。河合ゼミの学生さんは、司法の道に進むかどうかは別にして、とてもいい経験をさせてもらっているのではないでしょうか。このアイデアをいただきましょう。例えば、成人式を迎えた二十歳の若者に、刑務所の見学や刑事裁判の傍聴を義務づけるというのはどうでしょう。少なくとも、いつ呼び出しがかかるかも分からない裁判員などよりも、司法の実態を体験させるにはそちらの方がずっと確実で効果的です。確かに河合先生のおっしゃるとおり、私たちは犯罪を犯した人たちのことを余りに知らな過ぎますし、それゆえに彼らのことを不必要に怖れ過ぎていると思います。自分だって、いつ被告席に座り、いつ塀の向こうに行くか分からないのですから、両方の境界線を低くしておくことはとても重要なことです。最近、障害者福祉の世界では、障害を持つ人と健常者が、共生する、つまり共に生きることが出来る社会を目指すということがスローガンになっています。これは素晴らしい発想ですが、世界一犯罪の少ない日本が次に目指すべきところは、犯罪者と私たちが「共生」出来る社会を作ること、そのことに他なるまいと思います。そのためには、私たちは司法の実態や犯罪の実態について、もっともっとよく知っておかなければならない。この結論において、私は河合教授に百パーセント同意するものです。

(追記です。河合幹雄さんのホームページに掲載されていたアドレスに、記事を引用したことのご報告も兼ねて、メールをお送りしたのですが、不達でした。もしもこの記事をお読みの方の中に、河合ゼミの関係者の方がいらっしゃれば、お伝えいただけると助かります。もちろんそんな可能性は、万に一つもないことは承知していますが…)

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2007年3月 4日 (日)

巨悪に立ち向かう民衆の知恵

 世界を震撼させるような驚くべきニュースを読みました。昨年から話題になっている、北朝鮮が作っているとされる精巧な米ドルの偽札、いわゆる〈スーパーノート〉に関してです。話は少々旧聞に属するのかも知れませんが、今年1月6日のドイツの新聞、フランクフルター・アルゲマイネは、この偽札が実は北朝鮮が作ったものではなく、アメリカのCIAが指示してワシントン近郊の秘密工場で作らせたものである可能性が高い、こういう内容のスクープ記事を載せたのです。フランクフルター・アルゲマイネというのは、決して娯楽専門の大衆紙ではなく、ドイツ一の発行部数を誇る権威ある一般紙だそうです。またこの記事を書いたクラウス・W・ベンダー氏は、偽札問題にも詳しい経済専門の記者だということです。現在のところ、正式な日本での翻訳は出ていないようですが、英文なら全文を読むことが出来ますし、またこの記事を取り上げたいくつかのページ(1234)を読み合わせてみると、非常に信憑性の高い記事であるという印象を受けます。何故こんな重大な記事を私は見逃していたのだろう? テレビもほとんど見なければ、新聞も朝刊を15分で拾い読みするだけの自分が、記事を見落としていた可能性は大いにあります。が、この件に関してはどうも事情は違うようです。インターネットで、"フランクフルター""アルゲマイネ""北朝鮮""偽札"というキーワードでグーグル検索をしてみると、現時点で329件のヒットがありました。一部では話題になっていることは確かですが、事の重大さに比べてネット上での情報の広がりが小さ過ぎます。つまり推測されることはこうです、日本の大手マスコミは、この記事を完全に無視し、抹殺したということです。(大衆紙の日刊ゲンダイだけが、これを取り上げたようです。)

 北朝鮮の核実験は、日本を含む西側諸国にたいへんな衝撃を与えた訳ですが、これに対する制裁措置を話し合う6カ国会議では、アメリカは北朝鮮に対して大幅な譲歩を見せました。日本が主張した拉致問題解決を含む厳しい措置は、〈同盟国〉である筈のアメリカにも完全に無視されたかたちです。(これで安倍政権の存在感の薄さがまた印象付けられましたね。) 少し前まで、ブッシュ大統領は、北朝鮮のことを「悪の枢軸」の一角として名指しで非難していた筈です。ところが、ドイツでこの記事が出た直後の1月半ばに、アメリカは米朝二国間会議を行ない、北朝鮮の核施設廃棄と引き換えに100万トンの原油を支援するという、まるで「盗っ人に追い銭」とでも表現するしかないような宥和策で6カ国協議をまとめてしまった。それどころか、偽札問題に絡んで凍結していた、マカオの銀行にある北朝鮮の口座を、今後は一部解除して行く方針さえ出しているのだそうです。現在のところ、アメリカ政府もCIAも、この暴露記事に関する正式なコメントを一切発表していません。これだけ状況証拠が揃えば、誰にだって想像はつきますよね、フランクフルター・アルゲマイネの記事はまさに図星を突いており、北朝鮮がこれをアメリカに対する外交カードとして使ったということです。

 と、まあ、ここで私が紹介した話は、インターネットで読んだ記事をつなぎ合わせただけで、何も新しい情報や深い洞察がある訳でもないのですが、こういった話題が個人のブログやホームページでは取り上げられるのに、日本の大手マスコミが一切これに触れようとしない点が気になります。同じような問題の構図が、例の9.11同時多発テロ事件についてもありましたね。この歴史を変えた大事件が、実はブッシュ政権の自作自演だったという疑惑は、いまも色濃くあります。これもあちこちの個人ページ(1234)で取り上げられているほか、その疑惑を証拠付けようとしたも出ています。状況証拠をつなぎ合わせれば、米政府がなんらかの意味で「クロ」である可能性はかなり高いように感じます。もしもこれが事実だったとしたら、世界の秩序をひっくり返してしまうような話です。だから我々は、いくら「事実は小説より奇なり」と言っても、まさかそこまで事実が奇であるとは信じられないし、正直言って信じたくもない。そこで思考停止です。ふだんはスキャンダル好きのマスコミが騒がないのも、これがあまりに突拍子もない空想に過ぎないからだと考えてしまう。しかし、実のところはどうなのでしょう? 最近は、企業の内部告発などにより、様々な不正や虚偽が明るみに出され、名の知れた名門企業でさえ解体の危機に陥るという事件がよく起こります。同じように、相次ぐ官製談合事件で知事が辞任に追い込まれている地方自治体でも、この流れは目立って来ていますね。私はこれは、これまでの組織の中にたまっていた膿が出され、社会全体が浄化されて行く過程として必要なものだと考えているのですが、最も中心の深いところにある膿、例えばアメリカや日本の政府が隠している巨悪の部分については、まだまだ厳重に封印されているような気がします。大手の新聞社やテレビ局にどのような政治的な圧力がかかっているのか、知らないのは我々庶民だけかも知れないのです。

 歴史を振り返ってみれば、真実はいつかは明らかにされるものだと思います。しかし、自分が生きているあいだには、真実は闇のなかに隠されたままなのかも知れない。自分たちの力で真実を探り当てられない以上、私たちはこうした問題に対して、いかなる確固たる立場もとれないのでしょうか? いや、そんなことはないと思います。むろん私には、9.11事件の真犯人が誰なのかも、スーパーノートがどこの国で作られたのかも分かりません。が、フランクフルター・アルゲマイネの記事を読んだ私は、米CIAが偽札を作った可能性を、(この記事自体が「ガセ」である可能性も含めて)例えば70%くらいの確率ではないかというように値踏みする訳です(数字は喩えです)。9.11の主犯が実はブッシュ政権だったという確率は20%くらい、主犯ではないが、犯行を知っていて黙認した可能性は60%くらい(だから数字は喩えです。笑)。人から新しい意見を聞いたり、インターネットで別の情報を知るたびに、このパーセントは常に変動します。私たちの政治的な立場や意見というものは、株式相場のように、そうやっていつも少しずつ動いている訳です。そして私は信じるのですが、新しい情報に接すれば接するほど、自分の値踏みは真実に近付いて行くに違いないということです。よしんば私個人の考え方は、真実に近いところにはなかったとしても、日本全体として見れば、いや、世界全体として見れば、民衆の知恵はそうやって真実に近付いて行くに違いない。それがつまり民主主義というものの力でしょう? ですから私は、今回のように情報を遮断することによって情報操作をしようとする日本のマスコミのあり方に、深い疑念を覚えるのです。いや、それだって大した問題ではありませんね、日本の新聞社やテレビ局は、安倍政権からの政治的圧力を25%くらいの確率で受けている、そんなふうに自分の中で値踏みしてしまえばいいんですから。

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