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2007年2月25日 (日)

ゲゼル思想研究日誌(2)

 先週の記事で、政府と日銀のあいだには黙約があって、利上げは実行出来ないと書いた3日後に、日銀による利上げが実行されました。素人の分際で偉そうなことを書くものではありませんね(苦笑)。まあ、利上げと言っても、政策金利が0.25%から0.5%になっただけで、日本が依然超低金利であることには変わりありません。米国の5.25%、欧州(ユーロ圏)の3.5%と比べると、日本の金利が異常に低いのは一目瞭然です。政府の莫大な借金が日本経済の天秤に乗っている限り、この状態は変わることはないと思います。同じように政府の負債が巨額であるアメリカは、日本とは逆に高金利政策を採っていますが、これは世界中からマネーを呼び寄せる必要性があるからです。つまり、国民が貯蓄好きな日本では政府は国民から借金をし、国民がローン漬けのアメリカでは政府は海外から借金をしている、それだけの違いです。両者に共通していることは、どちらの政府も借金を返済する計画さえ立てられないような状況にあり、返済出来ない借金はやがては踏み倒される運命にあるということです。

 もうひとつ、国債についても、気付いた点があったので補足しておきます。来年は小渕内閣時代に発行した巨額の国債が償還期限を迎える、それが日本経済にとって大きな危機になるかも知れない、そう私は認識しているのですが、たまたまウィキペディアで「国債」という項目を調べてみたら、次のような記述がありました。『1998年に小渕恵三内閣が発行した国債40兆円の多くが、2008年に償還期限を迎えるため、それにより国債危機が発生するのではないかと言われていたが、実際にはすでに各種の借換対策が進行しており、2008年における償還集中は回避されることになっているため誤りである。』 もしもこれを信じるなら、「国債における2008年問題」は、すでに充分検討され、対策済みだということになります。そうであれば一国民としてひと安心なのですが、ウィキペディアの記事だけでは対策の具体的な内容までは分かりません。財務省のホームページを見ると、「財政制度審議会」の議事録というものが公表されていて、そこで「国債2008年問題」への対応が話し合われています。なかなか生々しい内容です。(こういう情報が公開されているという点では、やはり日本というのはいい国ですね。) 要点をまとめると、こういうことだと思います、財務省は〈金利変動準備金〉という隠し金を23.7兆円持っており、そこから〈国債整理基金〉に12兆円を繰り入れて、それで2008年に満期を迎える10年もの国債の一部を自ら買い取ってしまう(買入消却)、これによって2008年ショックを和らげようというのです。23.7兆円の〈金利変動準備金〉というのもびっくりですが(国の税収の半分に匹敵します)、それを全部使っても40兆円の国債すべてを消却出来る訳ではありませんから、期待どおり借換債が市中で捌けなければ、やはり2008年は危険な年ということになるでしょう。しかも、国債の新規発行額を見れば、1998年以降は毎年コンスタントに30兆円以上発行しているのですから、来年以降は毎年同じリスクが次々に襲いかかって来るわけです。そんななかで日銀の福井総裁は、今回の利上げで景気の回復にはずみがつけば、再利上げもありうると発言しています。再利上げの観測が市場で優勢になれば、新規の国債は買い控えられますし、既に発行されている国債は市場価格で額面を大きく割ることになるでしょう。そうなれば、政府の思惑どおり借換債の発行など出来なくなる可能性が高い。冗談でも何でもなく、財政破綻まで一直線かも知れません。

 日本では1999年以降、昨年までずっとゼロ金利政策が続けられて来ました。金利がゼロということは、要するに預金者がふつうなら受け取れるであろう利息を逃しているということで、お金を貸している側から借りている側に(理論上)富が移転したことを意味します。日本の場合、家計部門から政府部門への富の移転があった訳ですね。仮に国民の持つ有利子資産を1千兆円とし、毎年4%分の受け取り利息の不足があったとすれば、ゼロ金利の8年間に約370兆円の〈逸失利益〉があったことになります。まあ、それで暴動を起こさない日本人も我慢強いですが、それでもまだ借金を増やし続けている日本政府も大したものです。いっそのこと、ゼロ金利をもっと下げて、マイナス金利にしちゃったらいいんじゃない? と、そこまで考えると、なんだ、要するにシルビオ・ゲゼルの減価する貨幣のアイデアそのものじゃないですか。素人考えですが、この理由から、私は現在の日本においてこそゲゼル理論の可能性というものが、もっと広く論じられてもいいのではないかと思うのです。最初、私も気付きませんでしたが、減価する貨幣というのは、単に生産物の劣化に合わせてお金も劣化させるというだけのアイデアではないんですね。ゲゼルの提唱したスタンプ貨幣、シュヴァーネンキルヘンやヴェルグルでその有効性を劇的に証明してみせたスタンプ貨幣というものは、要するに貨幣を所有していることに対して保有税(持ち越し税とも言います)をかけようとする試みに他なりませんでした。それは貨幣の流通速度を上げて景気を刺激すると同時に、政府に安定した税収をもたらすものでもあったのです。

 これは現在の日本政府の重要な税収のひとつである消費税とは、まったく正反対のコンセプトの税金であることに注意してください。(なんだか文章が専門家っぽいですね。実体は単なる素人の思い付きなので、全部をそのまま信じないでくださいね。) 消費税というのは、欧米でも広く導入されている仕組みですし、私たちももう慣れてしまったので、(税率が上がりでもしない限り)特にふだん意識することもなく受け入れています。でも考えてみれば、消費税というのは、消費を促進するものではなく、逆に抑制する仕組みなんですね。可分所得が一定ならば、5%の消費税は、すなわち消費を5%(正確には4.7619%)分だけ減少させる役割を果たします。たしかビル・トッテンさんが、どこかでうまいことを言ってました、消費税というのは正しくは「消費罰税」と呼ぶべきものだというのです。何故なら、私たちはお金を出してモノやサービスを買うたびに、5%ずつの罰金を取られているのですから。(国内の景気を回復させたい政府が、国民の消費に罰金を科すなんて!) これに対して、マイナスの利子、つまり貨幣保有税の方はまったく違います。こちらはお金を持っていること自体に課税されるのですから、同じモノを買うなら早く買ってしまった方がいい。つまり消費を促進するための税金である訳です。しかも、政府の側から見れば、景気による消費の動向に関係なく、常に一定の安定した税収が得られるというメリットもあります。税収不足を補うために、消費税を10%に上げるくらいなら、むしろ消費税を止めて年間5%の保有税をかけた方がずっと効果があるように思います。政府は本当にこれを真剣に考えてみたらどうでしょう。

 というわけで、このところ私は「マイナス利子のお金」のスポークスマンにでもなったような気分ですが(笑)、もちろんそんな政策が簡単に実行出来る筈がないのも分かっています。実際にどのようにマイナス利子を実現するかという技術的な問題は措いても、もしもこれが実行されたら、いまの金融の仕組みがどうなってしまうのか、海外との貿易では不都合は生じないのか、そもそもグローバル経済が発達した世界で、日本だけがそんな政策を採れるのか、分からないことだらけです。(以前のエントリーで、日本円とは別の第二通貨でそれを導入するアイデアについては書きましたが。) また、もしも首尾よく減価するお金を実現出来たとしても、その時には蓄財のために貨幣よりも価値を保存出来る現物資産の方が有利になる訳で、土地や貴金属のバブルが起こることが予想されます。これでは所得格差は是正出来ても、資産格差は逆に広がるかも知れない、そんな懸念もあります。実はゲゼル経済学には、減価する貨幣と並んで、もうひとつ重要なテーマがあります。ゲゼル自身は、減価する貨幣のことを「自由貨幣」と呼んでいるのですが、もうひとつ力説しているのが「自由土地」の概念です。こちらについてはまだ私は勉強中で、充分納得して書けるところまで理解していません。それが共産主義でいう土地所有の廃止とどう違うのか、またそれが市場経済のなかでどういった意味を持つのか。ゲゼルさんの書き方では、とても重要な概念ではあるらしいのですが、果たして今日の社会で応用出来るものなのかも分かりません。自分なりに理解出来た時点でまたレポートしたいと思います。

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2007年2月18日 (日)

ゲゼル思想研究日誌(1)

 今週の衆院予算委員会で、民主党からの「行き過ぎた規制緩和が社会の格差を広げている」との指摘に対し、安倍首相は、「成長戦略を進めて景気拡大を続け、果実を家計部門に広げる」と答弁し、小泉政権時代からの経済政策を変更する意思が無いことを改めて明言しました。しかし、いざなぎ景気を抜く戦後最長の好景気と言われるなか、この「風が吹けば桶屋が儲かる」的なロジックがまったくのウソであることに国民は気付いています。いくら景気が拡大して、企業が過去最高収益を上げても、非正規雇用のワーキングプアと呼ばれる層が増え、生活保護世帯が拡大の一途をたどっている事実は隠すべくもない。そんななかで政府が採っている政策は、福祉予算のカットであり、年金支給年齢の引き上げであり、個人の医療費負担比率の増加といったことばかりです。市場原理に任せれば、確かに一部の儲かっている企業の正社員には好景気の果実が行くのでしょう。だが、その他の大多数の家庭にはその〈おこぼれ〉さえ回って来ません。本来は行政による是正がどうしたって必要な筈なのに、いまの政府は見事なまでにその役割を放棄しています。政治の基本機能も果たせていないのに、「果実を家計部門に広げる」もないものです。これは小泉、安倍と続いた自称「構造改革」内閣が自己正当化のために使って来た悪質な虚偽だと言えると思います。

 構造改革派が口にする、〈機会の平等〉であるとか〈再チャレンジ可能な社会〉などという、実体の無い嘘っぱちに対して、私は心底腹が立つのですが、マクロ経済の面から冷静に考えてみれば、今の自民党政府が採りうる選択肢は他にはありえないのだろうとも思います。なにしろ絶対に返せるあてのない829兆円の借金を抱えた今の政府です(隠れた借金まで含めると、実体は1千兆円を超えるそうです。これに地方自治体の抱える200兆円の借金も加わります)。先月、日銀は景気回復にともなう利上げをまたもや見送りました。まだ景気の動向に不透明感があるからというのが表向きの理由ですが、ウソばっかり言ってます。毎年百何十兆円の国債を発行し、数十兆円の赤字をたれ流している今の財政構造では、利上げは即財政破綻につながるおそれがある、福井総裁がどんなきれいごとを言おうと、絶対に利上げが出来ないことは、政府と日銀間の暗黙の合意であろうと思います。史上例を見ない低金利が続くなか、国内資本は高い利率(というか普通の利率)を求めて海外に向かいます。最近は個人でも外貨預金や海外債券で資産を運用している人が多いようです。政府は法人税の引き下げや高額所得者への低い所得税率によって、必死に国内資本の海外逃避(キャピタル・フライト)を押さえているのです。庶民から見て、企業や金持ちばかりを優遇しているように見える裏には、そういう政府の苦しい事情があるのだと思います。日本政府が世界一の借金王であることを思えば、税金を納めてくれないどころか、福祉ばかりを要求する国内の貧乏人になど、かまっている余裕は無いのです。(一方、政権責任が無い民主党は、国民の不満に乗じて、口当たりのよい非現実的な政策ばかり提言しています。)

 とにかく問題は、日本政府の途方もない借金体質をどうするかです。借金の利払いのために新たな国債を発行するという悪循環に陥っている上に、単年度の財政収支でも巨額の赤字を積み増している現在の状況を、このままいつまでも続けられる筈がありません。来年には、小渕内閣時代に大量発行した国債が一気に償還期限を迎えるのだそうです。もしかしたら2008年が正念場になるかも知れませんね。こんな時期に首相を引き受けた安倍さんも勇気があります。私はこのブログの以前の記事で、このような国全体をおおう金縛り状態を脱出するために、政府通貨の発行という大胆な政策を考えてはどうかという意見を書きました(『セイニアーリッジ政策を考える』)。インターネット上でそういう考え方があることを知り、素人の立場からこれを考察してみたのです。しかし、この政策の当否は別として、何故いまの日本がこのような極端な経済状況に陥ってしまったのかについては、納得が行かない気持ちが残っていました。たとえ政府通貨の発行によって、政府の名目上の負債が減ったとしても、政府予算と税収のアンバランスを解消しない限り、また同じことの繰り返しになるのではないか。明らかに経済が発展して、国全体としては豊かになった筈なのに、持続可能な経済の仕組みが何故作れないのでしょう? ところが、今年の初めに読んだ一冊の本によって、その疑問がいっぺんに解決したように感じたのです。

 この本、『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』については、今年最初の記事でその内容を紹介しました。もう一度ここでおさらいをしておきたいと思います。日本は戦後の焼け跡の中から、奇跡のような経済復興を遂げました。日本人は非常に勤勉であると同時に、貯蓄好きな国民でした。私たちは、稼いだお金をすぐに使ってしまうのではなく、老後のためにとっておくことこそ道徳的だと考えていました。そして、貯めに貯めたお金が1500兆円です(私は日本国民の資産合計を1400兆円と認識していましたが、最近の統計では1506兆円なのだそうです)。不思議なのは、この莫大なお金がどこに消えてしまったかということです。単純に言えば、家計部門の資産が、そのまま政府部門の負債になっているのが、現在の政府の借金なのだと思います。それでは、国は国民から預かった大事なお金の運用に失敗して、期待される利回りを得られなかったばかりか、元本まですってしまった、そういうことなのでしょうか。明らかにそうではありませんね。銀行や証券会社の個々の金融商品ならば、リスクと引き換えに高利回りを期待することも出来るでしょう(それはゼロサム・ゲームの中の勝者と敗者という意味です)。しかし、国民の全財産1500兆円の運用先などというものは、(火星の開拓にでも投資しない限り)世界中どこにもありはしないのです。それはどこに消えてしまった訳でもなく、私たちが当たり前のように享受している整備された道路や鉄道、上下水道、公共の施設といった社会インフラに投資されて、現在の豊かな生活を実現する原資となって来たのだと思います。だとすれば、数字の上で残っている1500兆円の個人資産と、それに見合う額の政府の借金というものの正体は、一体何なのでしょう?

 重要なことは、私たちは自分が働いて稼いだお金を、無傷のまま将来に繰り越せると考えていることです。若い頃に一生懸命働いて、やがて来る老後に備える、これはこの国では常識的なことです。しかし、よく考えてみれば、私たちが働いて作り出した電気製品や自動車や道路や建物は、私たちが老後を迎える頃にはスクラップになっているか、少なくとも相当老朽化が進んでいるようなものばかりです。一方これをお金というかたちに換えて、銀行に預金しておけば、古びて価値が減ってしまうどころか、逆に利子がついて殖えて行くのです。これはおいしい話であると同時に、うさんくさい話でもあります。何故この世でお金だけがそんな特権を持っているのでしょう? 何故そのことに対して誰も疑問を感じないのでしょう? 貯蓄をするということは、言ってみれば現在の社会に貢献したことへの報酬を、時を経て次の世代から受け取るという契約を、相手の承諾も無しに一方的に結ぶようなものです。世の中にはお金を貯める人もいれば、それを使う人もいて、そのバランスが均衡していれば、大きな問題は起こらないのかも知れません。ところが、ほぼ全国民が同じように老後に備えて一斉に貯蓄を始めたとしたらどうでしょう? 一体誰がその約束手形を決済出来るのでしょう? 特にこれからリタイア時期を迎える団塊の世代のような、人口比率が突出して大きく、現役時代の給与水準も高かった世代が振り出した手形は、これはもう引き受け手などいる訳がありません。不良債券化することは明らかだと思います。

 これはここ二十年くらいの政府の経済政策に誤りがあったというようなことではなく、もっと経済の根本原理に関わる問題であるようです。そのことをとても分かりやすく、単純明快な理屈で説明したのが、『エンデの遺言』の中でも大きく取り上げられているシルビオ・ゲゼルという思想家です。ゲゼルによれば、貧困や格差問題の根本的な原因は、労働者を搾取する資本家の強欲にあるのではなく、むしろ貨幣制度そのものの仕組みの中にあります。つまり、人間の生産するすべてのものが、時間の経過とともに劣化して減価して行くのに対して、貨幣だけは劣化も減価もせず、むしろ利子によって殖えて行く、そこに本質的な問題があると言うのです。資産を持つ人は、たとえ資本家として直接労働者からの搾取を行なわなくても、利子というかたちで広く消費者からの搾取を行なっています。我々が生活のために購入する物資、そのほとんどの商品の価格には利子が上乗せされているからです。利子というものの持つ破壊的な影響力は、現代日本の状況を考えてみると、とてもよく分かります。ほとんどの国民がお金を無駄使いせず、貯蓄に回すという選択をした日本では、この利子という不思議な存在が、極端なほど大きなインパクトを国家経済に与えているからです。試みにエクセルを使って簡単な計算をしてみましょう。仮に毎年5パーセントの利子が付く経済状況のもとでは、年に21兆5千億円ずつを貯蓄に積み立て、30年間複利で回せば、ほぼ1500兆円の元利合計になります。元本は645兆円ですから、倍以上に膨れ上がった訳です。もちろん現実には金利は変動しますし、インフレ率の影響もあるのでそう単純ではないと思いますが、国民の資産1500兆円のうち、相当部分が利子による水増しであることは間違いないと思います。

 これに対するシルビオ・ゲゼルの処方は、過激ですが即効性のあるものです。お金にはいつの時代にも平均して年5パーセント程度の利子が付いて来ましたが、これを止めて、逆にマイナス5パーセントの利子を付けてやればいいというのです。つまり、人間の生み出すすべての生産物と同様、貨幣も自然に劣化して減価する仕組みにしてやればいいのです。先ほどの例で言えば、毎年21兆5千億円を30年貯蓄しても、マイナス5パーセントの年利では、30年後の残高は320兆円にしかなりません。1500兆円とは雲泥の差ですし、元本から見ても半分を下回っています。もしもこれが実現していれば、政府部門の借金も現在のような馬鹿げたものにはならなかったでしょうね。しかもマイナス利子で減価した分のお金は、個人や法人が貨幣を持っていること自体に対する課税、いわゆる「持ち越し税」として国庫に入りますから、それで慢性的な財政赤字を解消することも出来る訳です。なるほどこれは名案だ。いま私はゲゼルが書いたマルクスに対する批判の文章を読んでいます。経済学の素人による苦労しながらの読書ですが、とても納得出来るような文章が多いです。マルクスは労働者による資本家階級打倒の革命を説いたのでしたね。しかし、それは結局共産党という新しい独裁政権と腐敗した政治をもたらしただけでした。ゲゼルより百年後の我々はそのことを見て知っている訳です。これに対してゲゼルの思想は、もっと単純でおおらかで現実的なものです。問題は資本家と労働者の対立だとか、搾取と被搾取の関係なんて面倒なことじゃない、現在のお金や土地の仕組みに、実は少し欠陥があるだけなんだ。だからそれを改善してやれば、あとは市場原理に任せておいてもうまく行くんだよ。私はそんなふうにゲゼルの思想を読みました。これはとてもモダンで、現代人の趣味にも合う、魅力的な考え方であると思います。

 ゲゼルの著作は、日本ではほとんど出版されていないようですが、ゲゼル研究会が発行している『自由経済研究』という雑誌には、いくつかの論文が訳出されていますし、主著である『自然的経済秩序』の翻訳は、インターネットで無料で閲覧することさえ出来ます。ゲゼルという思想家の吸引力のせいでしょうか、日本でもこの人の周りには多くの善意が集まっているように感じます。ゲゼル研究会代表の森野榮一さんにメールをお送りしたところ、とても親切なご返事をいただきました。その中で森野先生はこう書かれています。『まだまだ日本では賛否は別にしてゲゼルに関心を寄せ、継続的に取り組んでくださる方は多くはないですね。ドイツのように活発に研究し発言する人が数十人規模で輩出してくれればというのが私の夢です。』 自分のような経済学の素養も無く、ドイツ語も出来ない人間が、ゲゼル研究などと言えばおこがましいですが、素人が少しずつ理解を深めて行く過程をライブに伝えることなら出来るかも知れない、そう思って『ゲゼル思想研究日誌』という気張ったタイトルをつけ、思いつくまま感想や疑問点などを断続的に書いて行くことにしました。今回はその第一回。まだまだ勉強はこれからです。ゲゼル思想に関心をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご意見など賜りたいと思います。

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2007年2月11日 (日)

愛国心をめぐる素朴な議論

 このブログでは、これまでにも何回か、新聞の読者投稿欄の記事をネタとして使わせてもらっています。我が家で購読しているのは朝日新聞なので、朝刊の中ほどにある『声』の欄ですね。そこには新聞の社説やテレビのニュース解説にはない、素朴で飾らない庶民感覚があふれているように思い、共感しながら読むことが多いのです。もちろん、そこには新聞社の編集方針というものが厳としてあり、そのポリシーに沿わない投稿は採用されないといった政治的な力も働いているのだとは思います。それでも、そういった編集側の意図とは無関係に、新聞の読者投稿欄には、この国もまだまだ捨てたものではないな、そう思わせるような心に響く記事が数多くあると感じるのです。出勤前の忙しい時間、経済欄や政治欄は見出しだけを飛ばし読みしても、『声』の欄だけはついつい目を通してしまうんですね。ところが、『声』欄の編集部は、時々読者投稿を編集方針に従って取捨選択する以上のことをやっているように見受けられることがあります。平均的な朝日新聞の読者なら、反撥を感じるであろう挑発的な意見をわざと取り上げ、それに反論する読者の意見を(暗に)募集するのです。最近もこんな投稿が『声』欄の冒頭に載りました。

 『守る気概欠き 何が愛国心か
 愛国心についての朝日新聞世論調査の結果(25日朝刊)が腑に落ちない。「愛国心がどの程度あると思いますか」の質問に「大いにある」「ある程度ある」と答えた合計は8割近い。それなのに「仮に外国の軍隊が攻めてきたら」の質問に、「戦う」と答えたのは3分の1だったからだ。
 後者の質問に「逃げる」「降参する」と答えた合計は半数を越す。このような回答者は、愛国心というものを、オリンピックで日本選手を応援するぐらいに考えているのではないか。あるいは、陸続きではない日本に外国の軍隊が攻め込んで来るはずはないという平和ぼけからなのか。
 私は旧満州(中国黒竜江省)チチハルで国民学校4年時に終戦を迎えた。直後にソ連軍の侵攻を受け、戦争の現実を垣間見た。今の日本は、侵略することも侵略されることも予想し難い。だが、愛国心の基本は、国を守る気概を持ち続けることだと思う。
 想像したくないが、もし他国に侵略され、略奪や家族が陵辱された場合、「逃げる」と答えた人は「誰か守ってくれ」と言って自分は逃げ出すのだろうか。』(1月29日)

 どうでしょう? もちろんこの意見に素直に共感する方もいらっしゃるだろうと思います。安倍首相あたりが読めば、我が意を得たりとばかりに大きく肯くのかも知れませんね。しかし、常識的に考えれば、この投稿が朝日新聞の政治的立場を代弁する意見である訳はないので、編集部があえてこれを『声』欄の冒頭に掲載したことには、別の意図が隠されていたと考える方が自然です。別の意図というのは、この意見に対する反論募集ということです。愛国心に関するこの投稿者の方のような意見は、インターネットの世界ではおなじみのものですし、国民の声を代表するひとつの意見であるには違いありません。が、個人のブログや掲示板ならともかく、朝日新聞の読者投稿欄にこの文章がポツンと置かれているのはいかにも唐突な感じがします。編集部の、「どうです、こんな意見を寄せて来た人がいますよ、みなさんどう思います?」という陰の声が聞こえて来そうです。おそらく挑発に乗せられて、たくさんの人が反論の投稿を送ったのではないかと想像します。そんな中で今回採用されたのは、81歳の女性の書かれたこんな原稿でした。(ちなみに、朝日の『声』欄に採用されるためには、投稿者の年齢は高ければ高いほどいいみたいです。)

 『戦わず逃げる それが愛国的
 朝日新聞の世論調査結果(1月25日朝刊)についての「守る気概欠き 何が愛国心か」(29日)に反論します。「仮に外国の軍隊が攻めてきたら」という設問は、危機感をあおる風潮に乗っているようで疑問ですが、どう対応するかと問われたら「逃げる」「降参する」のが最も愛国的だと思います。戦えば双方に犠牲者が出て、国土を荒らすからです。それを防ぐことは愛国に違いありません。
 戦中、教育勅語を習いました。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ……」。国家指導者に絶対的に従う精神を植え付けられ、私もその実行を願っていました。
 戦争は国内ばかりかアジア諸国にも多大の犠牲を強いました。その反省に立って日本は恒久平和を願っているのではありませんか。
 日本の侵略や植民地支配に国民が向き合うべき姿勢を尋ねた質問に、「大いに反省する必要がある」との答えが32%あったことは、世論の健全さを感じます。
 外国から攻められない国をつくるには、国策に唯々諾々と従うのではなく、政府を監視し、必要な批判や抗議をしていくことこそ愛国です。それが、戦争をした世代の実感です。』(2月4日)

 これで『声』編集部は、当初の目的を果たしたことになります。これに続く「国を守る気概」派からの再反論は、たぶんもうこの欄に載ることはありません。それが朝日新聞のお約束だからです。(昨日、そもそも朝日新聞が行なったアンケートの質問内容が恣意的だったのではないかという、至極まっとうな意見が『声』欄に載りましたが。) 私自身は、平均的な朝日新聞の読者なので、このふたつの意見のどちらに共感するかと言えば、後者の意見に共感する訳ですが、そこには何かすっきりしない気持ちも残ります。要するに〈やらせ〉ではないかと思ってしまうのです。この問題は、教育基本法や憲法改定にも絡む重大な問題だと思いますし、このふたつの意見に代表されるような、愛国心をめぐる根本的な意見の対立が、いま国を大きく二分しているとも考えられます。だとすれば、朝日新聞は予定調和的に自社の立場を一読者の声で代弁させるのではなく、この折り合うことが難しそうなふたつの意見を調停するような第三の道を示すべきだと思います。「私たちは信じている、言葉のチカラを」というコマーシャルを流している大新聞であるならば、その程度の言葉のチカラを発揮していただきたいところです。戦争を体験された高齢の投稿者の方の意見を、こんなかたちですれ違いのままにしておくことは、ジャーナリズムとして罪なことだとさえ思います。

 もしも自分がこの問題について、『声』欄に投稿するとしたら、どんな書き方をするだろう、それを考えてみました。500文字以内で、今回の71歳のおじいさんと81歳のおばあさんが、等しく納得して、お互いに建設的な議論に復帰出来るような意見はありうるでしょうか? ヒントは、この女性の投稿者の方が、愛国心そのものを否定している訳ではないという点にありそうです。もちろん新聞に投稿するつもりはありませんが、もしも自分ならこう書くという意見を作文してみました。(私は過去に一度投稿して、ボツになった経験があります。)

 『愛国の抽象論より 国防の具体論を
 朝日新聞の行なった愛国心に関する世論調査を巡って、この「声」の欄でも議論が起こりました。ただ今回の議論は、愛国心の発露について意見が対立したので、愛国心そのものの是非が論じられた訳ではないことに注意すべきです。例えば教育基本法の改定に反対する人でも、愛国心自体を否定する人は最近はまれだという気がします。
 そんな風潮の中、国を守るために戦うか逃げるかというふうに議論を単純化すること自体が不毛です。いつの時代でも、国防は国の基本的課題のひとつです。しかし、現代の進化した兵器の前では、守る気概だけでは国防はできません。また、狭い島国の中で、敵が攻めて来たら逃げるというのも現実的ではありません。
 そろそろ愛国心に関する抽象的な議論からは卒業すべきではないでしょうか。私達は自衛隊派遣の是非は論じますが、自衛隊がどんな兵器に予算を使っているのかは余り気にしません。「逃げる」派の人だって、自宅に地下シェルターを作っている人はほとんどいないでしょう。論じるべきは、むしろそちらです。
 むろん現実的という意味では、外国が攻めて来ないように日本が外交巧者になることが何より重要です。これも国民的な合意事項と言ってよかろうと思います。』

 うーん、字数が足りない、10文字くらいオーバーだ(笑)。500字で愛国心と国防問題を論ずるなんて、やっぱり無理ですね。こういう主張に対しては、例えば無政府主義やコスモポリタニズムのような立場の人から、反論を受けてしまいそうです。それにしても、今回の〈やらせ議論〉のもとになった朝日のアンケートが、やっぱり問題ですよ。『仮に外国の軍隊が攻めてきたら、あなたは戦いますか。逃げますか。降参しますか。』 いくらなんでも、学級新聞のアンケートじゃないんだからさあ。まあ、おかげで1回分のネタが助かったけど、朝日さん、剽窃問題や記者の倫理問題ばかりじゃなく、このへんのセンスをもう少し何とかしてくださいよ。

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2007年2月 4日 (日)

日本発、地球温暖化防止の秘策

 エイプリル・フールにはまだ間がありますが、冗談としか思えないようなニュースをインターネットで見付けました。アメリカ政府が、地球温暖化防止のために「宇宙鏡」なるものの建設を提言しているというのです。ヤフーのニュース・ヘッドラインにもなったので、読まれた方も多いと思います。一部を抜粋します。こんな記事です。

 『巨大宇宙鏡で太陽光反射!?
 宇宙空間に浮かべた鏡で太陽光線を反射するという温暖化対策の研究を今春に出される国連の報告書に盛り込むよう、米政府が提案する。英紙ガーディアンが伝えたもので、試算では太陽光線の1%も反射すれば産業革命以来出してきた温室効果ガスの効果を相殺するという。排出削減を柱にした京都議定書とは反対の、いかにも米国らしいプラス思考?』

 壮大と言うか、アホらしいと言うか、よくもこんな荒唐無稽なたわごとを、世界中が真面目に取り組んでいる温暖化対策の報告書に入れようなんて考えるものです。まず私のような文系人間でもすぐに気付くおかしな点があります。それは「太陽光線の1%も反射すれば」というくだりです。地球の直径は約12700キロメートルですから、その横断面の1パーセントの面積をカバーするためには、1270キロメートルの直径を持つ円盤が必要です。つまり、日本の本州がすっぽり隠れるくらいの大きな日傘を宇宙に浮かべなければ、地球に降り注ぐ太陽光線の1パーセントは遮断出来ないのです。1パーセントというから何となく現実的な気がするだけで、考えてみれば全然現実的ではありませんよね。そんなこと、円周率を習った小学生でも分かります。何故そんな子供だましのような提案をアメリカはするのでしょう? もしかしたら、京都議定書への批准を拒んでいるアメリカ政府は、環境問題に真剣に取り組んでいる日本やヨーロッパを、ジョークでからかっているのではないでしょうか?

 とはいえ、実は私はこうした壮大な、一見アホらしいアイデアが嫌いではないんです。アメリカが京都議定書に参加するかしないかは別として、私たちは地球温暖化や環境破壊の問題に関しては、ほとんどもう諦めの境地というか、思考停止の状態に陥っているからです。例えば自分が今日から割り箸を使うのを止めたとしても、あるいはなるべく自動車は使わず、電車を使うように生活を変えたとしても、そんなことで大気中のCO2増加にストップがかけられる訳ではありません。中国はすごい勢いで石油を燃やして、有害物質たっぷりの煙をもくもく吐き出しているし、ブラジルではアマゾンの熱帯雨林が1時間にサッカー場150個分というスピードで消滅している。それを思えば、京都議定書なんて、単なる気休めに過ぎないとも考えられます。もちろん環境技術を高めて温暖化ガスの排出を抑制することや、行き過ぎた自然破壊に歯止めをかけることは重要です。しかし、それだけでは現在の環境悪化のスピードにはとても追い付きません。何かもっと根本的な、起死回生の逆転ホームランのような対策が必要です。

 すでに相当進行してしまった環境の悪化を食い止めるためには、結局、個々の症状に応じた対症療法で行くしかないという気がします。地球の温暖化は、いろいろ複雑に絡まった環境問題のひとつの側面に過ぎません。しかし、とりあえず温暖化が引き起こす結果が重大かつ緊急なものであるならば(海面の上昇、砂漠化の進行、自然災害の頻発など)、その進行を遅らせる直接的な処方を考えるしかないと思います。癌が見付かった患者に必要なのは、規則正しい生活やバランスのとれた食事である以前に、手術や化学療法なのです。そういう意味で、温暖化防止のために太陽光を遮るというのは、まことに理に適った考えであると思うわけです。で、ここからは私の考えなのですが(毎度のお願いです、冗談半分だと思って読んでくださいね)、太陽光線を反射する巨大鏡を宇宙空間に浮かべるのは無理だとしても、それを地上に並べることなら出来るのではないでしょうか。もちろん宇宙の鏡と地上の鏡とでは、太陽の熱エネルギーを遮断する効果において、かなり効率面で差があるのは事実だと思います。太陽光線は、地表に届く前に大気や雲に触れて、すでにその何割かが熱に変換されている筈だからです。でも例えば、世界中のすべての建物の屋根や屋上を鏡のような光沢物で葺いたとしたら、地球の外に熱を逃がす効果が少しはあるのではないでしょうか? 人工衛星から見れば、地球は都市部を中心にキラキラと輝くミラーボールのような惑星になります(ほんまかいな?)。宇宙から見てそれが分かるくらいなら、おそらく太陽エネルギーの一部(1パーセントくらい?)は、地球の外に反射されていることになるのではないでしょうか? だとすれば、地上の温度が下がることも当然期待出来る訳です。ちょうど黒塗りの乗用車よりも、白い乗用車の方が真夏の室内温度が低いように。

 これがもし有効な地球温暖化対策であるとするならば、鏡よりももっと地表に敷きつめるために適した物質が考えられますね。鏡のように太陽光を反射するのではなく、これをすべて吸収してしまい、しかもそのエネルギーを熱として発散させることなく、電気に変換する物質。そう、太陽電池のことです。インターネットで調べると、最近は太陽光線のエネルギーの40パーセントくらいを電気に変換する、効率のよい太陽電池が開発されているのだそうです。これが将来50パーセントまで向上すれば、太陽電池を敷きつめた土地では、要するに地表を温める太陽エネルギーが半分に減ったのと同じ結果になります(よね?)。そしてもちろん、太陽電池は地表の温度を下げることが主目的ではなく、電気を作ることが本来の目的ですから、これは将来のエネルギー問題を解決することにもつながる訳で、一石二鳥の対策ということになります。ふつう太陽光発電は、運転時に二酸化炭素を発生させないという点で、水力発電や風力発電と並ぶクリーンなエネルギーと言われていますが、太陽光の遮断による地球温暖化の直接的な抑制というもうひとつの特性においても、他の発電方式とは一線を画した優れた環境技術に育つ可能性があるのです。

 さらに太陽電池による温暖化制御の可能性を考えてみます。もしも大規模な太陽光発電所を建設するとすれば、海の上に浮かべる選択肢があると思います。それを可動式のモジュールの組み合わせとして建設すれば、世界の海のどこへでも持って行けます。ある地域が自然災害や戦争などにより電力不足に陥っているならば、その近くに発電所を曳航して行きます。電力使用のピークに合わせて、半年ごとに北半球と南半球を往復させてもいいでしょう。ハリケーンや台風の発生時期には、その地域の洋上に集結させて、海水の蒸発を抑制するというアイデアもあります。エルニーニョ現象だって、おおもとから根絶してしまえばもはや脅威ではありません。地球全体の気象を、コンピュータ・シミュレーションに従って精密にコントロールして行くことさえ、夢ではなくなるかも知れないのです。荒唐無稽な思い付きですって? でも、アメリカのスペース・ミラー計画よりはずっと実現性があると思いませんか? ここで利用出来る太陽光発電技術や蓄電技術や造船技術では、日本は世界の最先端を行っています(地球シミュレータだって日本は持ってるし)。私は、日本政府がアメリカに対抗して、「洋上太陽光発電所」構想を国連の報告書に盛り込むよう提案すればいいと思います。おりしも一昨日の夕刊の一面トップは、地球温暖化のスピードが、従来の予測よりもずっと速い速度で進行しているという研究報告を伝えていました。日本が今後、地球環境問題で世界のリーダーシップを取って行けるかどうかは、国家戦略として非常に重要なポイントです。

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