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2007年1月28日 (日)

地域通貨を起爆させるためのシナリオ(2)

 もしも地域通貨というものに、単なる地域振興や地元コミュニティの活性化といった目的以上の目的、例えば格差社会の是正であるとか、環境破壊の防止であるとか、危機に瀕している国家財政の再生であるとかいった大きな使命を託すとなれば、おのずと通貨制度そのものの仕組みも、その目的に沿ったものである必要があると思います。ここで仮に、地域振興を目的とするコミュニティ通貨を「小さな地域通貨」、それに対して社会変革を目指したオルタナティブな通貨の試みを「大きな地域通貨」と名付けて、区別して考えてみることにしましょう。(お、なんだか学術論文みたいだぞ。) 前回、最もポピュラーな地域通貨であるLETSについて触れましたが、これはその仕組みの上からも、小さな地域通貨に分類されるべきものだと思います。それは、現実のLETSが比較的小さなコミュニティを対象としているからという意味ではなくて、貨幣を発行しないゼロサムの通貨には、構造的に次のふたつの点で限界があると考えられるからです。①支払いを先に繰り延べることを許すゼロサム通貨では、いわゆる食い逃げ(言葉は悪いですが)が発生することを抑制出来ない、②ゼロサム通貨は、基本的にギブアンドテイクのイーブンな人間関係を前提としており、貧しい人たちや社会的に弱い立場の人たちを救うことが出来ない、この二点です。もちろんマイナスの累積額に制限を設けたり、取り引きに一定の税金をかけて、それを福祉に回すなどの工夫はありえると思います。しかし、それは純粋なコミュニティ通貨であるLETSの理念に反することであるように思えるし、そこまでして可憐なLETSに社会変革の使命を担わせるのも酷であるような気もするのです。

 素人の考えることなので、大雑把な議論であることは承知していますが(ちょっと弱気)、以上の考察から、もしも「大きな地域通貨」の実現がありうるとすれば、形式上それは地方自治体の発行する実体ある貨幣(紙幣)でなければならないということになります(物理的な実体はありませんが、電子マネーでもオーケーです。後で説明するように、むしろそちらの方が望ましいかも知れません)。これが自治体ではなく、NPOのような民間組織が発行する貨幣だとすると、流通する範囲も一部の人(会員や賛同者)に限定されますし、異なるNPOがそれぞれ別の貨幣を発行すれば、同じ地域内でそれが競合する可能性も出て来てしまいます。もちろん、地方自治体といえども、すべての住民にそれを使うことを強制することは出来ません。が、少なくとも公務員給与の一部を自治体通貨で支払うことなら出来ます。(括弧書きの注釈が多くてすみません。これには当の公務員の方々から反撥が出ると思います。でも、もう少しだけ我慢して読んでくださいね。) 住民の中に一定量の通貨を流通させることに成功すれば、やがてそれは自然に循環し始めます。収入の一部が自治体通貨である以上、それを使わなければ生活出来ないからです。もしも必要ならば、最初は自治体直営のスーパーマーケットのようなものを作ってもいいでしょう(1931年のシュヴァーネンキルヘンでも、スタートは官製マーケットでした)。はずみがつけば、そこから先は市場原理に任せられる筈です。これは言ってみれば、地方自治体によるセイニアーリッジ権の行使に他なりません。仮にそれが現在の日本の法律で認められたとしても(おそらく認められないでしょうが)、だからと言って自治体に無制限の通貨発行を許す訳にはいかないのも事実です。自治体が発行可能な通貨の量は、その地域の生産量と消費量、またその内の自家消費の割合、あるいは自治体の財政状況による緊急度などを考慮した上で、厳密に査定される必要があるでしょう。基本的には、その地域内で生産し、消費される額に見合った通貨が発行されるのです。たくさん通貨を発行させたければ、産業を振興して地域の生産性を上げ、消費する人口を増やさなければならないということにもなります。

 もうひとつ地域通貨において考えておかなければならないファクターは利子の問題です。シルビオ・ゲゼルが考えていたのは(って、私はまだゲゼルさん本人の著作を読んでいないのですが)、年間に5パーセント程度減価するマイナス利子の通貨だったそうです。このへんは、5パーセントがいいのか、10パーセントがいいのか、はたまた20パーセントくらいは必要なのか、私には皆目見当がつきません。基本的なコンセプトは、生産財が古くなって劣化する速度と同等の速さで通貨も減価させるということですから、5パーセントでは少な過ぎるのではないかという気がします。今どき、電気製品や自動車のような耐久消費財だって、実際の耐用年数は5年から10年くらいのものでしょう? ところで、現在の地域通貨の試みの中で、ゲゼル思想に忠実に、減価する貨幣の仕組みを取り入れているところは、ほとんど無いようです。これは現実問題として仕方の無いことだという気もします。どんな貨幣の形態をとるにせよ、マイナスの利子をつけることは、その手続き自体に相当なコストがかかってしまうからです。特に「小さな地域通貨」にとっては、運用に余分なコストや手間がかかることは致命的です。しかし、これも私の勝手な予測なのですが、もしも「大きな地域通貨」というものがあるとすれば、それはやはりマイナス利子の通貨でなければならないような気がします。というのも、大きな地域通貨は、その本来の定義から、限定された一地域内に停滞していてはいけない、自ら勢力を拡大して行くような通貨のことだからです。すごい速度で流通し、それを導入した地域の経済をまたたく間にうるおし、周辺の地域もそれにあやかりたいと思わせるような通貨でなくてはならない。それを実現するには、人々は追い立てられるくらいのスピードでお金を手放さなければなりません。そのためには、使わなければどんどん目減りして行ってしまう性質の通貨が、どうしたって必要だと思うのです。自治体発行の通貨は、どちらにしても最初は補助通貨として、国が発行する本位通貨と併用される訳ですから、もしも景気が回復して本位通貨が潤沢に流通するようになれば、利子が付かず両替も出来ない自治体通貨は、結局は使える用途も限定され、家庭のタンスの中にしまい込まれてしまうかも知れません。たとえそれがプラスの利子であれマイナスの利子であれ、利子の付くお金は人を行動に駆り立てます。プラス利子のお金は、出来るだけたくさんそれを貯め込もうとして、マイナス利子のお金は、出来るだけ早くそれを使ってしまおうとして。ところが、無利子のお金には、そうした人を駆り立てるものが無いのです。これでは規模拡大は望めません。大きな通貨を目指す自治体通貨は、たとえ国全体が好景気に沸く時にさえ、日本円を押し分けて市中を駆けめぐるものでなくてはなりません。

 地域通貨の歴史を眺めてみると、ひとつの国全体に及ぶほどの広がりを見せ、国家経済にさえ大きな影響を与えた(たぶん)唯一の例は、アルゼンチンのRGTと呼ばれる地域通貨だと思います。RGTが誕生したのは1995年、ブエノスアイレス郊外の町で、最初は20人程度の人が集まって始めたLETS型のコミュニティ通貨が出発点でした。国内の失業率が18パーセントを超すという、おりからの不況の中で、RGTは急速に支持者を得て拡大します。通貨の形も通帳型から紙幣型に変わり、各地でこの新しい貨幣のためのバザールが開催されるようになります。さらにはいくつかの州では税金もペソではなくこの通貨で払えるようにさえなります。つまり行政のバックアップもあったのです。2000年頃には、RGTの利用者は全国で数十万人規模にまで拡大していたと言います。ところが、まだ私たちの記憶にも新しいところですが、アルゼンチンは2001年の末から2002年にかけて、(凶暴なグローバル資本にもてあそばれる格好で)国家財政が破綻するという局面を迎えます。この時、市民通貨への期待はいやが上にも高まり、一時は600万人もの国民がRGTに参加した、いや、なだれ込んだのです。だが、この急激な規模の拡大は、国家経済が麻痺する中で非常な混乱を巻き起こしました。過剰な紙幣の発行や偽造の横行、不正な取り引きの増加などにより、RGTのシステム自体がクラッシュしてしまうのです。現在のアルゼンチンでは、RGTの活動は非常に限定された規模に縮小していると言います。私がこの例を持ち出したのは、ここから三つの重要な教訓が引き出せると思うからです。まずひとつ目は、地域通貨が全国規模に広がるためには、政府部門の理解と協力が必要だということです。具体的には、納税や行政サービスへの支払いに、地域通貨を使えるようにするということです。ふたつ目は、貨幣自体が偽造などの不正に強い仕組みであることです。RGTと並んで利用者の多いカナダのトロントダラーは、国家通貨であるカナダドルと同じ国営の印刷所に委託して、紙幣を刷ってもらっていると言います。そして三つ目は、高い失業率や財政破綻といった経済的なマイナス要因が、地域通貨の起爆のためには非常に有効であるということです。これは住民が、共通の危機意識やグローバリズムへの対抗意識から、地域通貨に向けて気持ちを結束させるからだと理解出来ます。経済危機は、地域通貨拡大の起爆剤になりうるのです。

 私が何を言いたいかは、もう察しられてしまったと思います。そう、全国の財政危機にある自治体が、財政再建策の切り札として自治体通貨を発行することは出来ないかということです。夕張市で起こったことは、ひとつの自治体が財政破綻するということがどういうことなのかを、国民に思い知らせました。私たちは、多くの自治体の財政がとても悪い状況にあることは知っていました。しかし、これは日本人に特有な甘えの構造なのかも知れませんが、最後は〈お上〉がなんとかしてくれるとどこかで高を括っていたのです(実際、銀行や大企業が破綻した時には、国がなんとかしたのですから)。ところが、夕張市は無残にも見捨てられてしまった。今週のニュースでは、市は人工透析が必要な患者さんへの支援も打ち切る決定をしたと伝えられていました。住民は憲法が保障する基本的な生存権をさえ、脅かされつつあるのです。これを聞いて私は思いました、何故夕張市は国に反抗しないのだろうと。確かに市の財政運営に放漫なところがあったことは認めなければならないでしょう。放置された無人の遊園地はその象徴です。が、その責任はすべて自治体が一手に負わなければならないものでしょうか? 財政的な裏付けが無いまま進められた国の地域振興政策、それに続く無責任とも思える地方への支援打ち切り(こういう場合、国はいつでも〈自立〉というコトバを使います)、そして何よりも規制緩和に伴って大資本に食い荒らされてしまった地方産業の衰退、これらはひとり夕張市だけの問題ではないのです。これに対抗するために、地方自治体はたくさんの打ち手を持っている訳ではないと思います。自治体通貨の発行は、その数少ない打ち手のうちの最後の一手ではないでしょうか。夕張市では、職員の数も半分以下に減らし、市営の図書館や博物館も閉鎖してしまいました。ただでさえ働き口の少ない地方都市で、なんともったいないことでしょう。市は、職員の給与の半分を自治体通貨で支給し、雇用を守るという選択肢をとれなかったのでしょうか。いや、もしもそのような試みが今後実行されたとしても、国はこれに余計な口出しをすべきではないと考えます。何故なら、ここで夕張市が行なうことは、日本がやがてやって来る国家財政危機を乗り越えるための、果敢な実験であり、予行演習でもあるからです。

 もしも自治体通貨の試みが、破綻した地方財政の立て直しのためだけであるならば、それは大きな地域通貨にまで成長することはないでしょう。ですが、今日、地方が荒廃しているという問題は、単にその地方だけの問題ではありません、そこには我が国のこれからの運命を左右するほどの重要な問題が隠されています。いまこの国では、農業や漁業や林業や鉱業などの第一次産業に頼っている地方ほど、経済的に疲弊しているという現実があります。これが例えば日本の食料自給率や原材料自給率が百パーセントを超えており、生産地が過当競争に陥っているというなら話は分かります。が、決してそうではないのです。各国の通貨間に発生している価値の不均衡、あまりに激しい人件費の差が、国内の生産地を嵐のように直撃しているのです。ある地域はいままさに吹きすさぶ嵐の真っただ中にあり、ある地域は嵐が過ぎ去ったあとの荒廃から立ち直れずにいる。しかし、対策はあります。地域の経済活動をグローバリズムの網のなかから救い出し、地域で産み出された富を、何よりもまずその地域の人たちに還元して行く方法が。それがすなわちマイナス利子の付いた自治体通貨なのです。しかもこれは一自治体を再生させるためだけの政策ではありません、この国の将来を決定づけるほどの影響を持った政策であると私は考えます。今後半世紀のあいだに世界で起こることは、大筋では予測が立っています。日本では人口の減少が危惧されていますが、全世界で見た場合には、さらなる人口の爆発が予想されています。その時には地球規模での食料危機やエネルギー危機が起こる、これはほとんど確定した未来です。そして先進国のなかで、その最も深刻な影響を受けるのは、日本である可能性が高いのです。そこまで考えれば、地方の再生ということが、これからの日本にとっていかに重要な課題であるかが分かるのです。

 そのシナリオを私はこんなふうに夢見ます。夕張市は、今世紀に入って初めての破産自治体という不名誉な称号を得てしまいました。が、初めてであるが故の利点もあると思います。例えば、成人式の予算が削られたと言えば、全国から多額の寄付が寄せられる。その先行者利得を最大限に活用します。まず、夕張市は、二十一世紀の新しいヴェルグル町になることを世界に向けて宣言します。そして現代のテクノロジーを活かした洗練された電子マネーを自治体通貨として採用します(もちろん減価する通貨です)。費用はかかりますが、きっとスポンサーが現れるでしょう。新通貨の単位は、そうですね、千葉県にはピーナッツという地域通貨があるそうですが、夕張市ですから当然「メロン」でしょう(実はこのオチを最初に思い付いて、それで今回の記事を書き始めました。笑)。日本円と連動する地域通貨ですから、1メロン=1円ということになります。これを発行することで、市は公共事業をさえ再開出来ます。外部の業者は入って来られません、なにせ支払いはメロンですから。うまく軌道に乗れば、全国から視察団が大挙して押し寄せるでしょう。彼らは外貨(日本円)を市内に落として行ってくれます。彼らをもてなすのに、休眠している遊園地も活用しましょう。ここでも外貨が稼げます。夕張の遊園地は、地方凋落の象徴から一転して、地方再生の記念すべきモニュメントに変貌するのです。とにかくなりふりかまってなどいられない、最初の成功事例を作ることが夕張の歴史的使命です。やがて夕張市の成功を見て、追随する自治体が各地に現れます。この時、電子通貨の仕様を統一しておけば、互いの通貨で相互乗り入れが出来るようになります(私鉄の共通カードのようなものです)。これが地域通貨の全国展開を起爆するのです。日本円に対抗する、いやもとい、日本円を補完する第二の国民通貨の誕生です。夢物語のように思われるでしょうが、私はこれは成功の可能性が高いと見ています。都市部であろうと地方であろうと、人がいて、生活している限り、たとえ国家通貨に換算出来なくても、日々価値を生み出しながら生活しているのですから。

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2007年1月21日 (日)

地域通貨を起爆させるためのシナリオ(1)

 前々回前回に引き続き、今回もまた新しいお金に関する考察です。この減価するお金や地域通貨というのは、考えれば考えるほど面白いテーマですね。大きく捉えれば、効率第一、経済性最優先の現代社会に対するアンチテーゼと見なすことも出来るし、また身近なテーマとして捉えれば、地元の商店街を活性化するための手軽なイベントのようなものとして考えることも出来る。身の丈に合わせていろいろなアイデアが浮かんで来ます。たぶん一番壮大な構想は、世界中から貧困を撲滅し、持続可能な地球環境の実現を目指す〈減価する世界通貨〉というものになるのでしょう。私がこのテーマで最終的にたどり着きたいのはそこです。けれども、まだゲゼル理論について勉強し始めたばかりの自分には、そこまでのシナリオを描く想像力がありません。前回は政府発行の第二通貨というアイデアについて書きましたが、これも現実的な政策としてはほとんど可能性の乏しいものに思えます(ただ、現在のように国家財政が破綻寸前という状況のもとでは、どんな突飛な政策が飛び出しても不思議ではない気もしますけど)。で、今回は少し現実に戻って、すでに各地で試行されている地域通貨というものをベースに、その可能性を考察してみたいと思います。まだ日本では地域通貨の歴史は浅く、その存在も広くは知られていません。規模という点でもほんの小さなコミュニティ活動程度のものがほとんどのようです。でも、これはゲゼル主義にのぼせている私の思い込みに過ぎないかも知れませんが、地域通貨というものの持つ潜在的な可能性は、そんな小さなものではないような気がするのです。誰でも気軽に参加することの出来る地域通貨、それを一挙に起爆させて、大きな国民的なムーブメントにまで成長させ、この閉塞した経済状況を打開する道は無いものだろうか? もしも国がそれをやらないなら、地域がそれを先導して、今日の経済体制を変えて行くことは出来ないものだろうか? これが今回のテーマです。(どうも毎回、素人の怖いもの知らずで、気宇壮大な話ばかりしていますね。苦笑)

 ひと言に地域通貨と言っても、いろいろな種類のものがあるようで、その形態から〈紙幣型〉のものや〈通帳型〉のもの、利子の付き方から〈減価型〉のものと〈無利子型〉のもの、通貨単位がその国の国家通貨に連動しているものと別の基準を持っているものなど、分類の仕方は様々なようです。ヴェルグル・タイプの紙幣型・減価型・国家通貨連動型を一番フォーマルな正統派の地域通貨とすれば、それとは反対の気軽でカジュアルなスタイルの地域通貨もあるようです。1983年にカナダで発明されたというLETS(レッツ、Local Exchange Trading Systemの略だそうです。交換リングという名前で呼ばれることもあります)という地域通貨の形式は、その後全世界に広まり、現在では日本を含む二千以上の地域で実践されている、いわば地域通貨の代名詞とも言える存在です。LETSがそれほど広く受け入れられた背景には、その導入の手軽さがあります。LETSを始めるためには、紙幣を印刷する必要はありません、参加者がひとりに一冊ずつ、小遣い帳のような通帳を持つだけで始められるのです。アイデアは簡単。もしも私があなたから、自家栽培の野菜を頒けてもらい、その値段を話し合いの上で100ポイントと決めたら、私は自分の通帳にマイナス100と書き、あなたは自分の通帳にプラス100と書く、そして互いに通帳を交換して相手のサインをもらいます。これだけ。つまり、参加者のあいだで商品やサービスをお互いの納得する値段で交換し、それを記帳するだけで取り引きが終わるのです。これを厳密な意味で〈通貨〉と呼べるのかどうか、私には分かりませんが、確かに現代の国際通貨のような、利殖と収奪のための道具ではない、人と人との信頼と交流のための道具という意味では、最も純粋なお金のかたちだと言えるような気もします。

 お金というものについて、子供に訊かれると答えるのが難しい質問があります。うちはいつもお金が足りないと言ってるけど、どうして自分で自由にお金を作ってはいけないの? 最初のお金は誰がどうやって作ったの? この質問に上手に答えるのが難しいのは、世間に出回っているお金というものは、煎じつめれば無から生み出された架空の存在だからだと思います(経済学では、通貨は国家の信用によって生み出されるなんて言いますけれども)。ところが、LETSでは、紙幣や硬貨のような実体のある貨幣は必要ありませんし、それを始めるに当たって、準備資金も要らなければ担保資産も要らないのです。このシステムでは世間に出回る通貨の総額は常にゼロサムだからです。考えてみれば、これはとても自然なことです。人間はこの世に裸で生まれて来て、いろいろな人のお世話になったり、いろいろな人の役に立ったりしながら、最期は死んで土に帰って行く、つまり人間の存在そのものが原則的にゼロサムだからです。LETSは、社会的動物である人間のあり方を、最も純粋なかたちでサポートする通貨だと言えるかも知れませんね。誰でも、この世界に生まれて来た時から、目に見えない一冊のLETS通帳を持っている、そんなふうに考えてもいいでしょう。よくお葬式の席上で、故人を偲んで、あの人は実にいい人だった、私もあの人にはずいぶんお世話になった、そんなふうに回想される人がいます。そういう人は、通帳にプラスの残高をたくさん貯めていた人です。あいつは最期まで周りに迷惑をかけて、ひどいやつだった、奥さんもずっと泣かされどおしだったよ、そんなふうに回想される人は、マイナスの残高をたくさん残して逝ってしまった人です。それでもお葬式ということになれば、すべてのことは水に流し、ゆかりのあった人たちはみな故人のことを懐かしく思い出す、そんな温かさがLETSという地域通貨の思想にもあるような気がします。

 こういうタイプの素朴な地域通貨を指して、金本位制ならぬ、〈善意本位制〉の通貨制度と呼ぶこともあるそうです。なかなかうまいこと言いますね。しかし、逆にそれが人間の善意に基づいたものであるからこそ、その広がりには限界があるとも言えそうです。例えば、ある地域で流通するLETSでお米や野菜も買えるとなると、それで生活してさんざんマイナスを貯めた人が、よその場所に去って行ってしまった瞬間に(死んであの世に行ってしまった場合も含めて)、その地域からその金額の富が失われることになります。そんな人が増えれば、地域経済そのものが壊されてしまう。これを抑制するために、通帳のマイナスポイントに上限を設けているグループもあるそうです。でも、それではせっかくの善意の流通機構に制限を加えることになる訳で、痛し痒しです。ですから、私はLETSのようなコミュニティ通貨を、ゲゼルが提唱したような「公的な裏付けを持った減価する紙幣」と同列に論ずることには多少の抵抗を感じるのです。おそらく地域通貨が大きな力を持って、国の経済全体にも影響を与えるところまで育つとすれば(もちろん良い影響ですよ)、それはLETS通貨ではないと思うのです。では、現代において、そうした可能性とポテンシャルを秘めている地域通貨はあるのでしょうか? そういう動きが現実にどこかで始まっているのでしょうか? …というところで、この続きは来週また書きます。実は今週は、ウィークデーは新年会続きで毎晩帰りが遅く、週末は週末で家事やら子守りやらが忙しくて、なかなか原稿を書く時間がとれなかったのです(いまも子供が昼寝をしている間にこれを書いています)。もしも家庭内LETSというものがあれば、1000ポイントくらいつけておいて欲しいくらい。「何言ってるの、あなたのLETS通帳は、月曜から金曜まで真っ赤だったじゃないの!」 ああ、そうでした、ごめんなさい。というわけで、人間は一般に自分が相手にしてもらったことは過小評価して、自分が相手にしてあげたことを過大評価する傾向がありますから、それをお互いの納得ずくで金額化しておくことは、例えば夫婦和合のためにだっていいことかも知れませんね。(笑)

(日本にもゲゼル研究会という組織があることは前にもご紹介しましたが、そこにメールを出して入会の申し込みをしてみました。するとこんなご返事をいただきました、『入会に際しましては、研究会では会費などは徴収しておりませんので当研究会会員であると名乗っていただくだけで会員になることができます』。このおおらかさというか、アバウトさがいいですね(笑)。という訳で、本日から私もゲゼル研究会会員を名乗らせていただこうと思います。よろしくお願い致します。)

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2007年1月14日 (日)

減価する電子マネーが日本を救う?

 前回、シルビオ・ゲゼルの提唱した「減価するお金」について、その基本的なコンセプトを紹介しましたが、これを現代に復活させるアイデアについて、少し考えてみました。ヴェルグルの「労働証明書」は、紙幣の裏面に12個のマス目が印刷されており、紙幣を持っている人は、1ヶ月に1枚ずつ、額面の1パーセントの値段のスタンプを貼ることを義務付けられていました。お金自体が減価する訳ではなく、所持していることにコストがかかり、紙幣にも1年間という寿命があるのです(スタンプが12枚貼られた紙幣は、おそらく新しい労働証明書かオーストリアのシリングに交換されたのだと思います)。現代の我々から見れば、これはスマートなやり方ではありませんね。スタンプを買って、持っているお金全部に貼る手間は大変なものですし、1ヶ月や1週間単位にスタンプを貼る義務が発生するとなれば、特定の日や曜日に消費が集中する弊害も出て来ると思います。電子マネーの発達した今日なら、もっと簡単な仕組みで「なだらかに減価するお金」を実現出来ます。最近はSuicaやEdyのようなプリペイド式の電子マネーが普及していますが、利用方法はそれと同じイメージです。ひとりひとりが1枚のカードを持ち、そこにお金をチャージする、すると気付かないうちに毎日少しずつ目減りしているといった仕組みです。SuicaやEdyは、カードに埋め込まれたICチップに金額の残高が記録されているのだと思いますが、減価する電子マネーでは、銀行のキャッシュカードのように所持者のID番号だけを登録しておき、お金の管理は中央のコンピュータで行なうことになります。つまり、通貨の発行元がコンピュータのプログラムによって、毎日わずかずつ一定の割合で減価させて行くのです。カードに金額が記録されていないので、偽造される危険性も小さいですし、最近の銀行のATMが採用しているような生体認証機能まで付けてやれば、盗難対策などのセキュリティもバッチリです。いや、仕組みは分かるけど、目減りする電子マネーなんて一体誰が使うのさ? そんなものに大事なお金をチャージする人なんている訳ないじゃん、意味無いよ。そう思いますか? ところが、これを普及させる画期的なアイデアが実はあるのです。

 以前、パチンコ好きな友人と話していて、こんな質問をしたことがあります、パチンコで勝った時は景品と引き換えるの、それともお金に換金するの? 日本ではお金を賭けての賭博は禁止されていますが、パチンコの場合、ちょっと怪しげな交換所に行けば、現金に換金出来ることは誰でも知っています。友人の言うには、最近の大型パチンコ店にはスーパーマーケット顔負けの品揃え豊富な景品交換所が設置されていて、生活に必要なものはたいてい手に入るのだそうです。しかも、現金で払い戻すよりもずっといい換金率で交換出来るのだと言います。それでも、ほとんどのパチンコファンは、現金に換金することを選ぶそうです。私の友人も現金派でした。何故?と聞くと、彼、答えて曰く、だって景品と交換してしまったら、それ以上パチンコで遊べなくなってしまうじゃない。まあ、これは笑い話ですが、重要なヒントがここには示唆されています。パチンコをする人にとって、例えばスーパーで買える1万5千円分の食料品や日用雑貨よりも、1万円の現金の方が価値があるということです。これはパチンコをしない私にも理解出来る心理です。よほど生活に困っているならともかく、小遣いで遊んで得たお金は、小遣いとして取っておきたいじゃないですか。少なくとも現金で持っていれば、これを何に使おうかと迷う楽しみを留保出来ます。経済学の用語では、これを〈流動性のプレミアム〉と呼ぶそうです。お金には、利子が付くというプレミアムと、流動性のプレミアムの2つがある訳ですね。このことを理解すれば、お金を稼ぐのが大変なのも分かる気がします、私たちはそんなプレミアム分まで一緒に稼いでいる訳ですから。ということはですよ、逆に言えば、日本円からこの2つのプレミアムを削って制限したようなお金を作れば、それは現在の貨幣に比べてかなりライトで稼ぎやすいお金になるのではなかろうか? 例えば、お米は買えるけどキャビアは買えないお金、国内旅行には使えるけど外貨には両替出来ないお金、家の金庫にはしまえるけど銀行では預かってもらえないお金、そして利子が付かないばかりか放っておくと価値が目減りして行ってしまうお金、そんなお金があれば、それは日本円に対してどのくらい値段の安いものになるだろう?

 前に紹介したワーキングプアの特集番組では、子供ふたりを抱えた若いお母さんが、昼も夜も週末も働いて、月に18万円の手取りを稼いでいました。その金額でアパートを借り、子供の教育費を負担し、3人で生活して行くのは大変だなあ、我々はそんなふうに同情を感じながら番組を見ていた訳ですが、見方を変えればこんなふうにも考えられます。18万円と言えば、それを今の中国に持って行けば、おそらく工場で働く若い工員さんを7、8人は雇えるような金額でしょう。事実、日本の大手企業は、そのような日本円の強さを利用して、世界中で稼ぎまくっている訳です。ところが、貧しい母子家庭のお母さんには、そんなふうにお金の流動性を活かして稼ぐ手段などはまったくありません。ジャパン・マネーは、トヨタのような強力な国際企業が、世界を舞台に戦うための武器としては非常に有効かも知れない。しかし、我々のような国内の貧乏人にとっては、日本円は明らかにオーバースペックなのです。貧しければ貧しいほど、日本円の持つ潜在的なプレミアムをドブに捨てながら生活している訳で、それが一層貧しさを助長する構図になっているのです。これは日本全体にとっても大変な無駄であるに違いありません。そこで私の提案です。日本政府は、政府の通貨発行特権(セイニアーリッジ特権)を利用して、国内の主に貧しい世帯を対象にした第二の通貨を発行してはどうでしょう。この通貨は、強い国際通貨としての円から、贅沢なプレミアム部分を削ぎ落とした生活人のための通貨で、ゲゼル理論による減価性も具えている新しいコンセプトのお金です。私は以前の記事で、政府はセイニアーリッジ政策によって、現在の政府部門の借金を帳消しにすべし、そのためには日銀券と同じ機能を持つ政府発行のニセ札を発行すべしという無責任な意見を書きましたが、そんな姑息な手段は必要無いかも知れません。むしろ政府が堂々と減価する電子マネーを発行することによって、国の借金は減らせるし、税収不足による赤字体質も改善出来るし、ワーキングプアや生活保護世帯の救済も可能だし、失業問題の解決にもつながる、まさに「四方一両得」のようなうまい政策になるかも知れないのです(本当かい?)。

 さあ、ここからはまた裏付けの無い夢想家の描くシナリオです。どこに詭弁やトリックがあるか、注意して読んでくださいね。私が考える政府発行の電子マネーは、次のようなかたちで世間に流通させます。まず国内のすべての世帯に対して、日本円を新通貨(仮に「新円」と名付けましょう)に交換するオプションを与えます。この時、額面上の等価交換ではなく、プレミアムを付けます。どのくらいの割合がいいかな、例えば25パーセントとしましょうか、1万円札を出して12500円の新円をカードにチャージしてもらうというイメージです。この25パーセントがどんな根拠に基づくかと言えば、要するに現在の日本円が持つプレミアムを削った分の保障になっている訳です。交換時の限度額も設定した方がいいですね、働く人ひとりにつき、本人と扶養家族を足した人数かける6万円くらいを上限としてはどうでしょう。サラリーマンと専業主婦と子供2人の4人家族なら、月に最大24万円までを新円と交換出来る。その25パーセントに当たる6万円が上乗せされたトータル30万円がカードにチャージされるのです。先ほどの母子家庭のお母さんなら、18万円に4万5千円のプレミアムが付いて、22万5千円の新円に替わる訳です(もちろん給料の全額を交換しなければならない訳ではありません。金額は本人が決めるのです)。貧しい家庭にとっては、結構なボーナスになるのではありませんか? これなら当座の生活費として、少しは持っておきたいと思う人も多いのではないかな? もともと貯金するためのお金ではないし、大きく目減りする前に使ってしまえばいいんだから。しかも、この政策を実行するのに、政府のフトコロはまったく痛まないのです。なにせセイニアーリッジ特権で、打出の小槌のように新円を生み出せるのですから。それどころか、新円と引き換えに日銀券が国庫に戻って来る訳ですから、それを国家予算に使うことも出来る。そうなれば消費税も上げなくていいし、法人税や所得税だってうんと安く出来るというものです。もちろん、これは一種の悪貨には違いありませんよ。しかし、この悪貨は自ら減価して、やがては消えてしまう「後腐れのない悪貨」なんです。あ、そうだ、新円の減価率も決めておかなくちゃいけませんね。ヴェルグルの労働証明書は、年に12パーセントのコストがかかるお金でしたが、我が国の新円は年に20パーセントの減価率でどうでしょう。つまり、プレミアム部分が1年でチャラになる計算です(125×0.8=100)。しかも減価は財務省のコンピュータが毎日自動的に計算してくれるので、ユーザーは何もしなくていい。エクセルで試算してみました、1日に0.061パーセントずつ目減りさせれば、複利で年に20パーセントの減価になりますね。1万円なら1日当たりの減価額は6.1円。毎夜みんなが寝静まった夜中の3時に、日本中の新円がチャリンと音を立てて(立てないけど)、0.061パーセント分だけ減るのです。

 いや、だから仕組みは分かったけど、そんな電子マネーを一体どこの誰が喜んで受け取るのさ? 俺だったらそんなもの、受け取りを拒否するよ。ええ、きっとあなたならそう言うと思っていました。私だってそう言います、政府発行とは言え、そんな信用があるんだか無いんだか分からないお金、しかも毎日目減りするお金なんて貰って嬉しい商売人はいません。ところが、ですよ、これはシュヴァーネンキルヘンやヴェルグルでも実際に起こったことなのですが、この減価するお金が実はすごい勢いで流通し始めるのです。からくりは単純だし、言われてみれば自然なことです。最初はお店や企業から敬遠されていた新円ですが、どこかのお店がこれを受け入れる決意をする、するとお客さんはその店を選んで殺到するようになります。そうなれば、他の店もそれに追随せざるを得ない。急速に新円を使えるお店は増えて行きます。店の経営者にしても、新円が広く流通して、それで仕入れが出来るようになれば、経営上何も問題は無い訳です。あとは基本的に市場原理に任せておけば大丈夫だという気がします。ただ、いくつか国が法律で規制しておかなければならないこともあります。ひとつは、従来の日本円と新円とを、貨幣価値の点で差別しないというルールです。例えば、あるお店や企業が、支払いに新円を受け付けないのは全くの自由です。特定の商品についてのみ受け付ける、あるいは販売価格の何パーセントまでなら受け付けるといったルールを決めてもオッケーです。ただ、同じひと袋のお米に対して、旧円では2000円だが、新円ならば2500円といったふうに二重の価格を設定することだけは法律で禁止されます。旧円でも新円でも、1円は1円なのです。もうひとつは、民間企業が従業員に新円で給与を支払う場合のルールです。給与の一部を新円で支払えるかどうかは、その金額も含めて受け取り側の選択に従うことになります。新円が余っているから、今月はそれで給料を支給するなんてことは認められません。しかも、従業員本人と扶養家族ひとり当たり6万円までの限度額と、25パーセントの金額上乗せも厳格に守る必要があります。おそらく企業としては、給与の一部に新円を使うことは損を確定することなので、出来れば避けたいと考える筈です。基本的に新円は、政府部門から家計部門に供給されるのです。

 どうでしょう、まだまだ荒削りなアイデアですが、これが実現した場合にどういうことが起こるか、少し頭のなかでシミュレーションをしてみましょう。まず減価する貨幣の性質上、市中のお金の循環がとても速くなり、消費が活発になって景気が一気に上向く、これは間違いのないところだと思います(これは先行事例で証明されています。この即効性がゲゼル理論のすごいところです)。またこの政策は、国内産業の振興あるいは復興にもつながるだろうと期待出来ます。今日、国内の産業が空洞化しているのは、海外から安い製品が大量に輸入されているからです。ところが、国内で新円による取り引きが活発になると、輸入製品と国産製品の価格差が縮まります。国内限定の地域貨幣である新円では、輸入代金の支払いは出来ないからです。スーパーマーケットに行けば、最近は中国産を始めとする輸入野菜が、国産の野菜よりもずっと安い値段で売られています。はるばる海を越えて運ばれて来ている筈なのに、とても不自然なことです。それほど国際通貨間の価格差は激烈なものなのです。これでは国内の生産者はたまったものではない、廃業する農家が増え、食料の自給率が下がる一方なのも肯けます。安価な国内通貨は、日本の生産者にもう一度希望の光を与えることになるでしょう。もちろんそうは言っても、日本の場合、原材料やエネルギーのほとんどを輸入に頼っている訳ですから、すべてが自給自足という訳には行きません。例えば自動車メーカーが、新車を百パーセント新円での支払いオーケーで売り出すなんてことは考えられません。それでも、メーカーは新円の持つバイイングパワーを無視することは出来ませんし、販売価格の何パーセントまで新円で受け入れるか、その比率をめぐってメーカー間の競争が起こると予想されます。つまり、国内で販売する製品に関しては、なるべく国内での加工や生産を優先するようになるでしょう。これで国内の下請け産業も復活するのです。一般的にセイニアーリッジ政策というものは、インフレを助長して経済を混乱に陥れる悪政のように言われます。ことに現代のように、各国の通貨が変動相場制によって互いにリンクしている世界では、一国の通貨政策はその国だけの問題ではありません。しかし、これが政府発行の国内限定通貨という話になれば、世界経済に与える影響も比較的小さいのではないかと思われます(ここはまったくの素人考えです)。その上さらに、政府通貨が電子マネーであるという点が、政策運営上、有利に働きます。政府はコンピュータによって新円の動きをリアルタイムにモニター出来ますから、通貨量を地域別に細かく調整することなども可能です(通貨量は、例えば公務員の給与や生活保護費に含ませる新円の割合などで調整します)。確かに非常にラディカルな政策ではありますが、そこには強力なコントロールが利くのです。また私たち庶民の側からすれば、国民のための通貨の誕生は、単に経済を活性化するだけでなく、人と人のつながりを再構築するための機会にもなるでしょう(これが地域通貨の持つ最大の効能です)。若者のあいだには、(念願の)愛国心だって芽生えて来るかも知れません。これはすごい、まさに救国の一策だ。低下する一方の支持率を回復する秘策として、安倍さん、こんなんいかがですか?

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2007年1月 7日 (日)

マイナス金利という思想について

 この正月休みに1冊の本を読みました。『エンデの遺言-根源からお金を問うこと』というタイトルの本です。格差問題のことを調べていて、たまたま自分のアンテナに引っ掛かった1冊だったのですが、目から鱗とはこのこと、正月早々、たいへん衝撃的な読書を経験した気がしました。やはりブログを続けていて良かった、さもなければこんな本にもめぐり合うことは無かったろうから。今回はとりあえずこの本の内容の紹介と、若干の感想を書きつけておきたいと思います。既に内容をご存知の方にとってはつまらない記事になると思います。未読の方がこれを読んで、多少でもこの問題に関心を持っていただけたなら、そしてこの本に書かれている思想についてお互いに意見を交換し合えたらなら、そんなことを期待しながら書いています。(すみません、まだ興奮冷めやらぬ状態なんです。)

 エンデというのは、『モモ』や『はてしない物語』で有名なドイツの作家、ミヒャエル・エンデのことです。この本の成り立ちは、晩年のエンデにNHKの取材陣がインタビューを行なった、そのテープがもとになっているのだそうです。タイトルに「遺言」とあるのは、この取材が番組としてまとめられる前、1995年にエンデが亡くなってしまったからです。まるで遺言のように、非常に重要なメッセージだけが残されました。それは数年の年月をかけてドキュメンタリー作品になり、1999年の5月にNHKのBS放送で放映されたのだそうです。残念ながら私は見ませんでした(見たとしても、当時の自分がいまの自分のように感銘を受けたかどうか)。そして翌2000年に、番組の内容をさらに深めたこの本が出版されたのです。一部では評判になったそうですし、現在も増刷が続けられているところをみると(私の買った本は15刷になっています)、長く読み継がれている本なのだと思います。そのテーマは、サブタイトルにあるとおり、お金というものの意味を根源から問い直すことにあります。エンデという作家は、今日の世界の様々な問題、戦争や貧困や自然破壊などのおおもとには、現代の貨幣経済の歪みがあると考えていたのです。そしてそれを解決するための、コロンブスの卵とも言えそうな面白い方法を提示しているのです。

 その思想はとてもシンプルで、そして美しいものです。私たちは、お金というものは銀行に預ければ利子がついて、少しずつ増えて行くものだと思っています。エンデはここに問題があるというのです。何故でしょう? 例えばこれが株式に投資したお金なら、投資先の企業の業績いかんによって株価は増えたり減ったりします。そこには実体経済と連動した合理性がある訳です。ところが、銀行に預けたお金が利子を生んで、複利で増えて行くことにどんな経済合理性があるのでしょう? それは人間社会のどのような現象と連動しているものなのでしょう? 人が生み出すどんな商品やサービスだって、時が経てば次第に古びて価値を減じて行きます。それが自然の法則です。ところがひとりお金だけは、減価しないどころか、利子によってどんどん自己増殖を続けて行く。この実体経済とかけ離れた不思議な習慣が、人類普遍の法則になってしまっているのです。このことの結果は重大です。現代の私たちは、もはやお金を労働や商品の対価だとは考えていません、むしろお金そのものを稼ぐことが目的になってしまっている。お金は交換の手段ではなく、それ自体が商品になってしまったのです。これはいまの経済の仕組みの中では当たり前の帰結です。誰だってお米を1トン貰っても、あまり嬉しくはないでしょう? でも、お米を1トンを買えるだけのお金(40万円くらい?)を貰えば嬉しいと思います。何故? 決まっているじゃないですか、お金は腐らないし、持っていても困らないし、銀行に預ければ(少しは)利子まで付くのですから。だからみんなお金を欲しがるし、現代のように情報技術が発達した社会だと、狂乱のマネーゲームまで巻き起こる訳です。犠牲になるのは貧しい国々の人々や、先進国の中でも貧困層に属する人たちです。お金が商品になってしまっては、彼らのところまでお金が回らないからです。この矛盾を解くのは実は簡単なことです。お金というものも人間社会のすべてのモノと同様、時間の経過とともに減価して行く仕組みにしてやればいいのです。つまり、お金にマイナスの利子をつけ、次第に目減りして行く仕組みを作ってやればいいのです。

 不勉強だった私は、このアイデアのことを初めて知ったのですが、まさに目から鱗が落ちる思いでした。そして、エンデのこの警告は、私たち日本人にこそ必要なものではないかとも思いました。というのも、日本人はおそらく世界のどの国の人たちよりも貯蓄好きな国民だからです。私たちは、アリとキリギリスの童話ではありませんが、子供の頃から勤勉に働いて、せっせと貯金することを奨励されて来ました。貯金だって銀行預金か郵便貯金に限るので、「株に手を出す」ことなどはバクチのような悪いこととされて来たのです(最近は少し意識も変わって来たと思いますが)。要するに、お金の本来の機能を殺して、ひたすら死蔵することを徳目としてやって来たのが日本人だった訳です。そして積み上げた貯金の総額が1400兆円。こんな莫大な貯蓄額を持っている国民は、世界のどこを見回してもいやしません。その代り、政府や自治体の借金の総額は、ほぼ国民の貯蓄額に等しいものになっています。国民が汗水流して貯めたお金を、国や自治体が景気よく全部使ってしまった、そんな言い方を私も以前したことがありますが、これも考え直す必要がありそうです。だって国民が貯金大好きで、余ったお金は全部定期預金にしてしまうんだもの、国が代ってそれを使うより仕方無いじゃありませんか。まさか銀行の金庫に札束のまま寝かしておく訳にも行かないでしょう? それに、総額1400兆円と言っても、その多くはまだ金利の高かった高度経済成長の時代に貯め込んだものですから、利子で膨らんだ部分も相当大きい筈です。例えば、これから団塊の世代がリタイア時期を迎えて、この1400兆円を取り崩して悠々自適の老後を送ろうとする訳ですが、そんな貯金を払い戻す能力は、銀行にも国にも無いのです。が、だからと言って預金者が文句を言っても仕方ありません。この莫大な預金がどこに消えてしまったかと言えば、それは道路になり、ダムになり、上下水道になり、私たちの生活を豊かにすることに使われて来たのです(無駄づかいもずいぶんあったけれど)。それで1400兆円の相当部分はペイされていると思いませんか? 別に政府の肩を持って言っている訳ではありません、要するに、プラス金利というものの実体の無さ、その最も愚かな帰結を、歴史上例のないスケールで演じつつあるのが、現代の日本人かも知れないということです。もしもこれがマイナス金利の世の中だったら、こんな不健全な事態にもならなかった筈なのです。

 お金にマイナスの利子をつけるというアイデアは、エンデの発案ではありません。19世紀から20世紀にかけてドイツで活躍したシルビオ・ゲゼルという経済学者が考案し、理論付けたものだそうです。『エンデの遺言』という本は、実はこのゲゼルの足跡を追い、紹介した本でもあります。これも私は初めて知ったのですが、そこには20世紀のその後の歴史を変えるような大きなドラマがあったのです。自ら実業家でもあり、経済学者でもあったゲゼルは、精力的に貨幣改革の理論を説き、一時政治にも関わりましたが、生前には充分な評価を得られないまま、1930年に亡くなりました。時は第一次世界大戦のあとの大不況で、ヨーロッパ中に失業者があふれていた時代です。そのゲゼルの遺志を継ぐかのように、彼の思想に共鳴した人々が、最初はドイツのシュヴァーネンキルヘンという町で、次いでオーストリアのヴェルグルという町で、ゲゼルが提唱した自由貨幣を町の通貨として発行したのです。結果は奇跡のような驚くべきものでした。周囲の地域が不況であえぐなか、この2つの町では失業者が激減し、豊かな経済活動が回復したのです。それは世界中の注目するものとなり、たくさんの人が視察に訪れたと言います。が、この2つの町の試みは、いずれも時の中央政府によって禁止され、短い期間で廃止されることとなりました。町は再び30パーセントの高い失業率に逆戻りし、希望を失ったヨーロッパはまもなくナチスの台頭を許すのです。シュヴァーネンキルヘンの郷土史家は、「もしもこの試みが禁止されずに各地に広まっていたら、ヒトラーの第三帝国の台頭を食いとめられたのではないかと思います」と語っています。ゲゼルの理想がどういうものであったか、それはヴェルグルで試された「減価する紙幣」(労働証明書)の裏面に記された宣言文が雄弁に語っています。感動的なので、引用してしまいます。

 『諸君! 貯め込まれて循環しない貨幣は、世界を大きな危機に、そして人類を貧困に陥れた。経済において恐ろしい世界の没落が始まっている。いまこそはっきりとした認識と敢然とした行動で経済機構の凋落を避けなければならない。そうすれば戦争や経済の荒廃を免れ、人類は救済されるだろう。人間は自分がつくりだした労働を交換することで生活している。緩慢にしか循環しないお金がその労働の交換の大部分を妨げ、何百万という労働しようとしている人々の経済生活の空間を失わせているのだ。労働の交換を高めて、そこから疎外された人々をもう一度呼び戻さなければならない。この目的のためにヴェルグル町の労働証明書はつくられた。困窮を癒し、労働とパンを与えよ。』

 いやあ、どうにも私は弱いんですよ、こういう高らかな理想主義のトーンに。本当に、こんな試みを押しつぶすなんて、当時の政府はなんともったいないことをしたものだろう。その後、悪夢のような第二次世界大戦が起こり、さらに世界は資本主義対共産主義の冷たい戦争の時代に入って行ったことを私たちは知っています。しかし、そんな中で、小さな試みだったかも知れないけれど、資本主義でもない、共産主義でもない、まさに市民のための第三の経済機構が胎動していたという事実は、現代の私たちにも希望を与えるものだと思います。現代は、グローバリズムという名のもとに、商品化したお金がかつてないほどの暴威をふるっている時代だからです。20世紀を代表する経済学者だったケインズの書物の一節には、こんな言葉があるそうです、『われわれは将来の人間がマルクスの思想よりはゲゼルの思想からいっそう多くのものを学ぶであろうと考えている』と。このケインズの予言が的中したかのように、今日でもアメリカで、日本で、世界各地で、ゲゼルの思想を直接間接に受け継いだ地域貨幣の試みが始動している、そのこともまたこの本は伝えています。私はあまりに知らな過ぎました。今年はひとつのテーマとして、このことについて勉強して考えて行こうと思います。お正月に一年の計として、そのことを記しておくことにしました。そうかあ、五十年も生きて来てどうも居場所が見付からないと思っていたら、自分はマルキストでもケインジアンでもなくて、ゲゼリアンだったのかあ。こいつは春から縁起がいいや。(笑)

 (日本にもシルビオ・ゲゼルの思想を研究する「ゲゼル研究会」という組織があるそうです。そこの代表をなさっている森野栄一さんは、『エンデの遺言』の執筆者のひとりでもあり、また日本各地で始まっている地域通貨への取り組みのアドバイザー的な役割をしている方のようです。森野さんの由布院での講演録がインターネットで公開されています。分かりやすく地域通貨の意義を説いた、とてもいい記録だと思いますので、併せてご紹介しておきます。)

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