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2006年12月30日 (土)

日本核武装論

(初めにお断りです。ここに掲載する原稿は、今年の春ごろに書いたものですが、内容が内容だけにブログへの投稿をためらっていたものです。最近、自民党の中でも、日本の核武装という問題について、公式の場で語られる場面が増えて来ました。まだ今のところは、日本も今後核武装を検討すべしという主張としてではなく、そういった議論を封殺すべきではないという間接的な主張として語られているだけです。私はこの主張には100パーセント賛成です。言論の自由は、いかなる理由があろうと抑圧すべきではないと考えるからです。ただ、私が自民党の中川昭一さんや麻生太郎さんに申し上げたいことは、そんなに核武装論議がしたいなら、まずはご自分から口火を切ってくださいというものです。ところが、具体論になると、政治家は誰もそれを語ろうとしない。よろしい、では私がまず口火を切ってみましょう。まあ、そんなふうに考えた訳ではありませんが、忘年会続きで原稿を書くヒマも無いし、現実に核武装論が出てしまった後では旬を逃すということもあって、以前書いた原稿を掲載することにしたのです。1年の締めくくりにひとつのジョークとしてご笑納いただければと思います。)

日本核武装論

 イラクへの侵略戦争が泥沼化し、まだ解決の糸口も見出せないのに、アメリカは今度はイランや北朝鮮の核開発問題に対して〈ちょっかい〉を出そうとしています。たとえ名目が原子力の平和利用だと言っても、将来の核兵器開発につながるような技術や核物質の保有は許さないというのです。しかし、これは誰がどう考えてもおかしな話です。国内に約百基もの原発を稼動させていて、さらには数千発とも言われる核弾頭を保有している当のアメリカが、独立した他の主権国家に対して、核を持ってはいかんと言っている。そんな理屈が通る訳がない。イラン核開発のニュースはアメリカ国内にも流れている筈ですが、かの国の親たちは、子供に素朴な質問をされて何と答えるのでしょうか? そもそも、既に核兵器を所有している国連の常任理事国が、自分たちの既得権だけを独占的に合法化したNPT(核不拡散条約)なるものが、世紀の欺瞞以外の何ものでもないと感じます。

 二十世紀後半、米ソを中心とする東西対立の構図の中で、世界が核の脅威に覆われて行く状況に対して、多くの文学者や哲学者が警鐘を鳴らしました。現代文学を代表する作家のひとりである大江健三郎さんが、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という短編集を発表したのは、1969年のことです。そのタイトルは、その時代の空気を最も的確に敏感に言い表したものだったのだろうと思います(大江さんの作品はあまり読んだことがありませんが、タイトルの付け方にはセンスを感じます)。その当時、核兵器廃絶に向けての市民運動は、ベトナム戦争や日米安全保障条約に反対する運動と結びついて、空前の盛り上がりを見せていた。ほんの四十年前の話です。ところが、その後の湾岸戦争やイラク戦争では、ベトナム戦争の時と同じアメリカの覇権主義的な戦略にもとづいた戦争であることは明らかなのに、日本国内でこれに反対する市民運動は、もはや往年のパワーを失っている。何故だろう? 日本がアメリカの核に守られている以上、これに反対する運動もしょせんは自己欺瞞的なものに過ぎないからか。一方でそのアメリカは、核弾頭の数こそ増やしてはいないものの、戦術核と呼ばれる小型で原水爆よりは威力の弱い〈実用的な〉核爆弾の開発に力を入れている。すでに実戦配備がされ、いつでも使える準備が出来ているという話も聞きます。原爆の唯一の被爆国である日本は、これに対してははっきりと抗議をして行くことが必要だと思います。日本なら説得力ある抗議が出来るからというのではない、それをするのが被爆国たるものの最低限の義務であると思うからです。

 しかし、いま現実に行なわれている戦争を一刻も早く終結させることや、抑止ではなく実戦を目指した核兵器の開発を止めさせることは緊急の課題だったとしても、既に世界中に拡散してしまったすべての核兵器を廃絶することは、おそらく不可能でしょう。これは遺伝子工学などと同様に、科学技術の進歩の線上に必然的に登場して来たものだと思うからです。仮にアメリカやロシアなどの大国が核兵器を廃絶することに成功したとしても、その設計図まで技術者の頭からすべて消し去ることは出来ない。どこかのもっと小さな政情不安定な国が核を持つことを考えれば、大国が核を所有して〈にらみ〉を利かせている現在の状況は、必要悪として承認されるべきものかも知れない(まさにNPTの思想そのものですね)。われらの狂気を生き延びる道を教えよとは言うけれど、この四十年のあいだに我々は本当に狂気に陥った訳でもなく、その鈍い恐怖に慣れ切ってしまった。考えてみれば、いつか我々の頭上に核爆弾が落ちて来るかも知れないという恐怖は、近いうちに東京が大地震に見舞われるかも知れないという恐怖よりも、リアリティを持ったものではないのです。

 核兵器は、この小さく壊れやすい地球という惑星の、言ってみれば〈自然治癒力〉を超えた力を人類が持ってしまったことの象徴とも言える創造物です。最近は〈持続可能な社会〉という言葉がひとつのキーワードになって来たようですが、現代という時代が人類の過去の歴史と決定的に隔絶してしまったのは、このサステイナビリティというものが地球規模で脅かされているという一点においてでしょう。たとえ京都議定書にアメリカが調印したところで、もはや地球の温暖化は避けられないところまで来てしまっているのだそうです。既に原油の高騰は始まっていますが、これは中東の政情不安のせいばかりではない。地球はもはや半世紀先まで、今のペースで人類に化石燃料や鉱物資源を提供し続けるだけのものを持ち合わせていないのです。中国の経済躍進は喜ばしいことですが、残念ながら地球上の六十億の民が、全員いまの先進国の人々の生活水準に達することは、限られた資源から考えて不可能なのです。自分たちの子供や孫の世代にも、安定した未来のある社会を残すためには、どうしたって先進国に住む我々は現在の生活を縮小させなければならない。それにはまず個人の野放図な欲望を各自が一定のレベルにまで抑え込むこと、そして社会全体として地球の自然治癒力とバランスするところまで、経済活動を縮小均衡させることしかありません。核兵器を完全な理性のコントロール下に置くことも、持続可能な社会を築くためのプログラムのひとつであろうと思います。

 おりしも今朝の朝刊(4月25日)の一面には、沖縄のアメリカ海兵隊のグアム移転に対して、日本政府が七千億円の資金援助を決定したという記事が載っていました。どうも八百兆円もの借金を抱えた債務者になると、通常のお金の感覚が麻痺してしまうものらしい。現在の日本は、このような特別予算を除いても、毎年2500億円もの巨額の予算を米軍基地のために割いています(おもいやり予算という腹立たしい名前で呼ばれているものです)。美しい国土を蹂躙され、近隣住民は騒音や時に事故による被害を受け、また繰り返し発生する米兵による暴行事件や殺人事件にも耐えて、毎年支払う金額が2500億円。当たり前に考えて、その金額に見合うだけの何を我が国は得ているのでしょうか? いや、それは自国の安全保障のためだけでなく、世界全体の民主化に対して責任を負っている西側諸国の一員として、当然負担すべき義務なのだ、今の首相ならそんなふうに答えるのかも知れません。しかし、そんな理屈をいまどき一体誰が信じられるというのでしょう。もはや東西対立の構図などとうに崩れているではないか。イラクや北朝鮮が民主化のプロセスにおいて多少は遅れているとしても、民主主義そのものに対して挑戦を挑んでいる訳ではない。古いタイプの権力者が、一部の国ではまだ化石のように生き残っているというだけのことです。そして、これを打ち倒すのは、その国の民衆の力以外にはなく、外部からの武力介入は却ってその国を混乱に陥れ、民主化を遅らせるだけである。歴史的にそのことを身をもって一番よく知っているのは、当のアメリカではないですか。

 いま巷では憲法改正論議が盛んです。すでに以前の記事で、私は自分が護憲派であることを宣言しました。その考えにいまも変わりはありませんが、いつまでも非武装中立の理想論だけをふりかざしている訳にも行きますまい。もしも何年後かに国民投票によって憲法が本当に改正された時のことを想像してみましょう。当然、軍事力の放棄といった条項は削除され、独立国家としてしかるべき軍隊の保有も認められることになる。すでに日本は既成事実として、自衛隊という立派な軍隊を持っているのですから、言ってみればこれは従来からの自己矛盾を解消するだけのことです(だいたい現在のままの状況では、日本の親たちは憲法と自衛隊の関係について子供に素朴な質問をされても、きちんと答えられないのですから)。そうなれば、自衛隊は自衛軍になるだろうし、防衛庁は防衛省に昇格するだろう。そのうち徴兵制だって復活するかも知れない。もしもそれが時代の趨勢として避けられないことならば、いたずらに感情的に反撥するだけでなく、目をそらさずにまっすぐこの課題と向き合わなければなりません。そのとき日本は、自国の軍事的な方針というものを、世界に向かって明確にアピールしなければならなくなるでしょう。私の考えでは、その時に取り組まなければならない重要なテーマがふたつあります。そのひとつは日米軍事同盟の解消ということであり、もうひとつは日本の核武装ということです。

 無責任な放言ですって? まあ、匿名の気軽なブログだからこそ、こんな発言が出来るのは確かですし、自分のような空想的理想主義者は、いったんタガがはずれると、一気に過激思想に走る傾向があるのも事実です(笑)。しかし、それを割り引いて考えても、日本の核武装という発想には、真面目に検討してみる価値も少しはあると思うのです。素人の考えでも、我が国が核武装をすることには、次のようなメリットがあると思われます。まずはアメリカの核の傘下からはずれて、自らの力で国を守れるようになるということ。核兵器は言わば最強の切り札ですから、これを持っていることによる外交上の優位性は測り知れません。もうひとつのメリットは、数十万人の軍隊と最新の通常兵器を維持することよりも、核兵器の方が費用面でもずっと安上がりだろうということです。核ミサイル一発の値段がいくらかは知りませんが、プルトニウムを自国で精製出来る日本なら、開発費も大してかからない筈です。おもいやり予算の二千五百億円を回せば、充分おつりが来るのではないか。また地球環境のことを考えても、数が頼りの通常兵器に比べて、核兵器はエコロジーの面でも格段に優れているに違いない(もちろんそのためには放射能汚染を完璧に遮蔽出来る技術の確立が前提にはなりますが)。しかも日本は世界でもまれに見るほど安定した治安の良い国で、危機管理能力も高い。偶発的な事故に対する懸念は、ほとんどゼロと考えていいと思います。(恐いのは地震ですが、日本の場合、核ミサイルは潜水艦に搭載することになるでしょうから、これも問題無い。) まったくいいことづくめです。

 世界で唯一の被爆国が、戦争の永久放棄を謳った平和憲法を持っていることもアピール度は高いですが、唯一の被爆国である日本が、最新の核兵器によって武装しているというのも、これはこれでインパクトがあります。核武装することで初めて日本はアメリカの軍事的属国という立場を脱して、独立した一人前の国家になる。国民の自覚だって変って来ようというものです。外交だって今までのように、他国の顔色を窺った及び腰のものではないぞ。NPTなんぞ糞くらえだ。ある日、それは偶発的な事故だったのか、それとも強引な外交駆け引きの末の出来事だったのか、どこかのならず者国家(©ジョージ・ブッシュ)から数発のミサイルが日本をめがけて発射される。狭い国土を海で囲まれている日本は、核攻撃の対象としてはこの上なくたたきやすい標的です。正確に破壊力を計算された爆弾は、周辺の国々には一切の被害を及ぼすことなく、離島を含めたすべての日本の国土を焼き尽くす。こうして国外にいたわずかな日本人を除いて、国民の九九・九パーセントが一瞬にして死ぬ。すなわち、日本という国は、この地球上から永遠に姿を消すのです。しかし、物語はそこで終りではない。世界中の海洋の底で眠っていた無人の潜水艦が、あらかじめプログラムされていた通りに行動を開始します。一斉に海面下数十メートルまで浮上した大型艦から、ならず者国家に向けて報復攻撃のミサイルが発射される。そのうちいくつかは迎撃されるだろうが、すべてを撃ち落とすことは不可能だ。目標の都市に到達したミサイルは、地表に激突する前に炸裂する、ちょうど広島と長崎を焼いた二つの爆弾がそうだったように。ただ1945年夏のあの日の光景とひとつだけ異なっていたのは、そこにはすべてのものを溶かす強烈な熱線も、すべてのものを吹き飛ばす激烈な爆風も無かったことだ。ただ数百メートルの上空から、無数の紙片が風に乗って地上に舞い降りて来るばかりなのである。そこには、世界のあらゆる言語でこんな文句が書かれている、『我々日本人は、人類最初で最後の核被爆国民の名をもって、日本国なきあとの世界において、あらゆる国、あらゆる民族が、核兵器を含む一切の大量破壊兵器をこの地球から放棄することを求め、これをもって遺言となす』と。残された世界の人々が、この言葉にほんのわずかにでも心を動かされるかどうかは分かりませんが、少なくとも生前の日本人が、ポーカープレイヤーのような見事なブラフで独立国の地位を手に入れていたことだけは理解するのです。

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