« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月30日 (土)

日本核武装論

(初めにお断りです。ここに掲載する原稿は、今年の春ごろに書いたものですが、内容が内容だけにブログへの投稿をためらっていたものです。最近、自民党の中でも、日本の核武装という問題について、公式の場で語られる場面が増えて来ました。まだ今のところは、日本も今後核武装を検討すべしという主張としてではなく、そういった議論を封殺すべきではないという間接的な主張として語られているだけです。私はこの主張には100パーセント賛成です。言論の自由は、いかなる理由があろうと抑圧すべきではないと考えるからです。ただ、私が自民党の中川昭一さんや麻生太郎さんに申し上げたいことは、そんなに核武装論議がしたいなら、まずはご自分から口火を切ってくださいというものです。ところが、具体論になると、政治家は誰もそれを語ろうとしない。よろしい、では私がまず口火を切ってみましょう。まあ、そんなふうに考えた訳ではありませんが、忘年会続きで原稿を書くヒマも無いし、現実に核武装論が出てしまった後では旬を逃すということもあって、以前書いた原稿を掲載することにしたのです。1年の締めくくりにひとつのジョークとしてご笑納いただければと思います。)

日本核武装論

 イラクへの侵略戦争が泥沼化し、まだ解決の糸口も見出せないのに、アメリカは今度はイランや北朝鮮の核開発問題に対して〈ちょっかい〉を出そうとしています。たとえ名目が原子力の平和利用だと言っても、将来の核兵器開発につながるような技術や核物質の保有は許さないというのです。しかし、これは誰がどう考えてもおかしな話です。国内に約百基もの原発を稼動させていて、さらには数千発とも言われる核弾頭を保有している当のアメリカが、独立した他の主権国家に対して、核を持ってはいかんと言っている。そんな理屈が通る訳がない。イラン核開発のニュースはアメリカ国内にも流れている筈ですが、かの国の親たちは、子供に素朴な質問をされて何と答えるのでしょうか? そもそも、既に核兵器を所有している国連の常任理事国が、自分たちの既得権だけを独占的に合法化したNPT(核不拡散条約)なるものが、世紀の欺瞞以外の何ものでもないと感じます。

 二十世紀後半、米ソを中心とする東西対立の構図の中で、世界が核の脅威に覆われて行く状況に対して、多くの文学者や哲学者が警鐘を鳴らしました。現代文学を代表する作家のひとりである大江健三郎さんが、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という短編集を発表したのは、1969年のことです。そのタイトルは、その時代の空気を最も的確に敏感に言い表したものだったのだろうと思います(大江さんの作品はあまり読んだことがありませんが、タイトルの付け方にはセンスを感じます)。その当時、核兵器廃絶に向けての市民運動は、ベトナム戦争や日米安全保障条約に反対する運動と結びついて、空前の盛り上がりを見せていた。ほんの四十年前の話です。ところが、その後の湾岸戦争やイラク戦争では、ベトナム戦争の時と同じアメリカの覇権主義的な戦略にもとづいた戦争であることは明らかなのに、日本国内でこれに反対する市民運動は、もはや往年のパワーを失っている。何故だろう? 日本がアメリカの核に守られている以上、これに反対する運動もしょせんは自己欺瞞的なものに過ぎないからか。一方でそのアメリカは、核弾頭の数こそ増やしてはいないものの、戦術核と呼ばれる小型で原水爆よりは威力の弱い〈実用的な〉核爆弾の開発に力を入れている。すでに実戦配備がされ、いつでも使える準備が出来ているという話も聞きます。原爆の唯一の被爆国である日本は、これに対してははっきりと抗議をして行くことが必要だと思います。日本なら説得力ある抗議が出来るからというのではない、それをするのが被爆国たるものの最低限の義務であると思うからです。

 しかし、いま現実に行なわれている戦争を一刻も早く終結させることや、抑止ではなく実戦を目指した核兵器の開発を止めさせることは緊急の課題だったとしても、既に世界中に拡散してしまったすべての核兵器を廃絶することは、おそらく不可能でしょう。これは遺伝子工学などと同様に、科学技術の進歩の線上に必然的に登場して来たものだと思うからです。仮にアメリカやロシアなどの大国が核兵器を廃絶することに成功したとしても、その設計図まで技術者の頭からすべて消し去ることは出来ない。どこかのもっと小さな政情不安定な国が核を持つことを考えれば、大国が核を所有して〈にらみ〉を利かせている現在の状況は、必要悪として承認されるべきものかも知れない(まさにNPTの思想そのものですね)。われらの狂気を生き延びる道を教えよとは言うけれど、この四十年のあいだに我々は本当に狂気に陥った訳でもなく、その鈍い恐怖に慣れ切ってしまった。考えてみれば、いつか我々の頭上に核爆弾が落ちて来るかも知れないという恐怖は、近いうちに東京が大地震に見舞われるかも知れないという恐怖よりも、リアリティを持ったものではないのです。

 核兵器は、この小さく壊れやすい地球という惑星の、言ってみれば〈自然治癒力〉を超えた力を人類が持ってしまったことの象徴とも言える創造物です。最近は〈持続可能な社会〉という言葉がひとつのキーワードになって来たようですが、現代という時代が人類の過去の歴史と決定的に隔絶してしまったのは、このサステイナビリティというものが地球規模で脅かされているという一点においてでしょう。たとえ京都議定書にアメリカが調印したところで、もはや地球の温暖化は避けられないところまで来てしまっているのだそうです。既に原油の高騰は始まっていますが、これは中東の政情不安のせいばかりではない。地球はもはや半世紀先まで、今のペースで人類に化石燃料や鉱物資源を提供し続けるだけのものを持ち合わせていないのです。中国の経済躍進は喜ばしいことですが、残念ながら地球上の六十億の民が、全員いまの先進国の人々の生活水準に達することは、限られた資源から考えて不可能なのです。自分たちの子供や孫の世代にも、安定した未来のある社会を残すためには、どうしたって先進国に住む我々は現在の生活を縮小させなければならない。それにはまず個人の野放図な欲望を各自が一定のレベルにまで抑え込むこと、そして社会全体として地球の自然治癒力とバランスするところまで、経済活動を縮小均衡させることしかありません。核兵器を完全な理性のコントロール下に置くことも、持続可能な社会を築くためのプログラムのひとつであろうと思います。

 おりしも今朝の朝刊(4月25日)の一面には、沖縄のアメリカ海兵隊のグアム移転に対して、日本政府が七千億円の資金援助を決定したという記事が載っていました。どうも八百兆円もの借金を抱えた債務者になると、通常のお金の感覚が麻痺してしまうものらしい。現在の日本は、このような特別予算を除いても、毎年2500億円もの巨額の予算を米軍基地のために割いています(おもいやり予算という腹立たしい名前で呼ばれているものです)。美しい国土を蹂躙され、近隣住民は騒音や時に事故による被害を受け、また繰り返し発生する米兵による暴行事件や殺人事件にも耐えて、毎年支払う金額が2500億円。当たり前に考えて、その金額に見合うだけの何を我が国は得ているのでしょうか? いや、それは自国の安全保障のためだけでなく、世界全体の民主化に対して責任を負っている西側諸国の一員として、当然負担すべき義務なのだ、今の首相ならそんなふうに答えるのかも知れません。しかし、そんな理屈をいまどき一体誰が信じられるというのでしょう。もはや東西対立の構図などとうに崩れているではないか。イラクや北朝鮮が民主化のプロセスにおいて多少は遅れているとしても、民主主義そのものに対して挑戦を挑んでいる訳ではない。古いタイプの権力者が、一部の国ではまだ化石のように生き残っているというだけのことです。そして、これを打ち倒すのは、その国の民衆の力以外にはなく、外部からの武力介入は却ってその国を混乱に陥れ、民主化を遅らせるだけである。歴史的にそのことを身をもって一番よく知っているのは、当のアメリカではないですか。

 いま巷では憲法改正論議が盛んです。すでに以前の記事で、私は自分が護憲派であることを宣言しました。その考えにいまも変わりはありませんが、いつまでも非武装中立の理想論だけをふりかざしている訳にも行きますまい。もしも何年後かに国民投票によって憲法が本当に改正された時のことを想像してみましょう。当然、軍事力の放棄といった条項は削除され、独立国家としてしかるべき軍隊の保有も認められることになる。すでに日本は既成事実として、自衛隊という立派な軍隊を持っているのですから、言ってみればこれは従来からの自己矛盾を解消するだけのことです(だいたい現在のままの状況では、日本の親たちは憲法と自衛隊の関係について子供に素朴な質問をされても、きちんと答えられないのですから)。そうなれば、自衛隊は自衛軍になるだろうし、防衛庁は防衛省に昇格するだろう。そのうち徴兵制だって復活するかも知れない。もしもそれが時代の趨勢として避けられないことならば、いたずらに感情的に反撥するだけでなく、目をそらさずにまっすぐこの課題と向き合わなければなりません。そのとき日本は、自国の軍事的な方針というものを、世界に向かって明確にアピールしなければならなくなるでしょう。私の考えでは、その時に取り組まなければならない重要なテーマがふたつあります。そのひとつは日米軍事同盟の解消ということであり、もうひとつは日本の核武装ということです。

 無責任な放言ですって? まあ、匿名の気軽なブログだからこそ、こんな発言が出来るのは確かですし、自分のような空想的理想主義者は、いったんタガがはずれると、一気に過激思想に走る傾向があるのも事実です(笑)。しかし、それを割り引いて考えても、日本の核武装という発想には、真面目に検討してみる価値も少しはあると思うのです。素人の考えでも、我が国が核武装をすることには、次のようなメリットがあると思われます。まずはアメリカの核の傘下からはずれて、自らの力で国を守れるようになるということ。核兵器は言わば最強の切り札ですから、これを持っていることによる外交上の優位性は測り知れません。もうひとつのメリットは、数十万人の軍隊と最新の通常兵器を維持することよりも、核兵器の方が費用面でもずっと安上がりだろうということです。核ミサイル一発の値段がいくらかは知りませんが、プルトニウムを自国で精製出来る日本なら、開発費も大してかからない筈です。おもいやり予算の二千五百億円を回せば、充分おつりが来るのではないか。また地球環境のことを考えても、数が頼りの通常兵器に比べて、核兵器はエコロジーの面でも格段に優れているに違いない(もちろんそのためには放射能汚染を完璧に遮蔽出来る技術の確立が前提にはなりますが)。しかも日本は世界でもまれに見るほど安定した治安の良い国で、危機管理能力も高い。偶発的な事故に対する懸念は、ほとんどゼロと考えていいと思います。(恐いのは地震ですが、日本の場合、核ミサイルは潜水艦に搭載することになるでしょうから、これも問題無い。) まったくいいことづくめです。

 世界で唯一の被爆国が、戦争の永久放棄を謳った平和憲法を持っていることもアピール度は高いですが、唯一の被爆国である日本が、最新の核兵器によって武装しているというのも、これはこれでインパクトがあります。核武装することで初めて日本はアメリカの軍事的属国という立場を脱して、独立した一人前の国家になる。国民の自覚だって変って来ようというものです。外交だって今までのように、他国の顔色を窺った及び腰のものではないぞ。NPTなんぞ糞くらえだ。ある日、それは偶発的な事故だったのか、それとも強引な外交駆け引きの末の出来事だったのか、どこかのならず者国家(©ジョージ・ブッシュ)から数発のミサイルが日本をめがけて発射される。狭い国土を海で囲まれている日本は、核攻撃の対象としてはこの上なくたたきやすい標的です。正確に破壊力を計算された爆弾は、周辺の国々には一切の被害を及ぼすことなく、離島を含めたすべての日本の国土を焼き尽くす。こうして国外にいたわずかな日本人を除いて、国民の九九・九パーセントが一瞬にして死ぬ。すなわち、日本という国は、この地球上から永遠に姿を消すのです。しかし、物語はそこで終りではない。世界中の海洋の底で眠っていた無人の潜水艦が、あらかじめプログラムされていた通りに行動を開始します。一斉に海面下数十メートルまで浮上した大型艦から、ならず者国家に向けて報復攻撃のミサイルが発射される。そのうちいくつかは迎撃されるだろうが、すべてを撃ち落とすことは不可能だ。目標の都市に到達したミサイルは、地表に激突する前に炸裂する、ちょうど広島と長崎を焼いた二つの爆弾がそうだったように。ただ1945年夏のあの日の光景とひとつだけ異なっていたのは、そこにはすべてのものを溶かす強烈な熱線も、すべてのものを吹き飛ばす激烈な爆風も無かったことだ。ただ数百メートルの上空から、無数の紙片が風に乗って地上に舞い降りて来るばかりなのである。そこには、世界のあらゆる言語でこんな文句が書かれている、『我々日本人は、人類最初で最後の核被爆国民の名をもって、日本国なきあとの世界において、あらゆる国、あらゆる民族が、核兵器を含む一切の大量破壊兵器をこの地球から放棄することを求め、これをもって遺言となす』と。残された世界の人々が、この言葉にほんのわずかにでも心を動かされるかどうかは分かりませんが、少なくとも生前の日本人が、ポーカープレイヤーのような見事なブラフで独立国の地位を手に入れていたことだけは理解するのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月24日 (日)

理想の格差社会について

 前回の記事で、今日の格差社会の問題は、格差そのものよりも貧困の問題だと書きました。このことに関して、まだ何か言い足りない気がして仕方ないので、もう少し思うところを書き足しておこうと思います。私は格差問題や貧困問題の専門家ではありませんし、特にその分野に詳しい訳でもありません。が、最低限こうあるべきだという格差是正や貧困対策のあり方については、自分なりの考えを持っています。まずはそれを明らかにしておきたいと思います。それはとても簡単なことです。こんな喩え話で説明出来ます。もしもここに10人の人がいて、10個のパンがあったとします。この10人がとりあえず生きて行くために、ひとり1個のパンがどうしても必要であるならば、無条件にひとり1個ずつパンを配るべきであるという考え方です。その際、この10人の社会的地位がどうだとか、努力や才能の差があるか無いかなどということは関係がありません。そこに選択肢は無いのです。もしも全部で30個のパンがあるなら、余剰の20個をどう分配するかについて、その社会なりの選択肢があってもいいと思います。しかし、生きて行くために必要なひとり1個の最低ラインだけはどうしても譲れない、これがまず基本です。現在の日本は、過去のどんな時代よりも豊かな時代になって、全部で30個どころか100個のパンがあるにもかかわらず、最も貧しい層の人たちには、ひとりに1個のパンさえ満足に行き渡らない状況になっている、これが私が今日の格差問題について抱いているイメージです。

 日本はとりあえず60年以上に渡り、戦争をせず平和のうちに経済を発展させて来ました。よく日本の戦後復興を奇跡と呼ぶ人がいますが、この60年間に蓄積した社会資本や国民の教育水準の高さなどは、やはり奇跡に近いものであったように思います(もちろん個々にはいろいろ問題もあるでしょうが)。日本で1年間に捨てられる食べ物を上手に分配すれば、世界中で餓死する人はひとりもいなくなる、それほどの豊かさをこの国は享受しています。にもかかわらず、国内では相変わらず餓死したり凍死したりする人たちが後を絶たない。何故でしょう? 簡単なことです、豊かさの分配がうまく行っていないからです。これは完全に政治の問題です。これについては何度でも同じことを書きますが、いま政府は国家予算削減のために、最も貧しい人たちへの福祉予算も容赦なく削ろうとしている。私はこれが間違いだと言うのです。政策立案において重要なことは、国民の中で最も貧しい人たちや弱い立場の人たちに、最低限の文化的生活を保障することであり、それが出来て初めて残りの余剰の富(90個のパン)をどう分配するか、議論出来るようになるのではないでしょうか。いまの政府の政策は、その基本的なことが出来ていない。ということは、つまりこの国では政治がまともに機能していないということです。これは私の個人的な考えです。こういう考えにも反対意見があることは知っています。貧しさに転落する人は自助努力が足りなかったのだと言う人もいるからです。だが、これに対しては、私はこう反論します、「自助努力」だとか「自己責任」ということをいくら声高に言っても、私たちは貧しい隣人たちが餓死して行くのを座視することは出来ないでしょう、と。現代人の進化した道徳的感覚がそれを許さないからです。

 これも以前書いたことと重複するのですが、現代の格差や貧困の問題は、産業の高度な効率化がその背景にあると思います。企業の中で機械による自動化やコンピュータ化が進めば進むほど、人間の労働の価値は下がります。少なくとも機械で代替出来るような単純労働の値段は、限りなく下落して行くに違いありません。(だからこそ経営者は、高価なロボットやコンピュータを喜んで購入する訳でしょう?) こういった進歩の先には、どういう世界が待っているのでしょう? 世の中の生産工場がすべて無人化されて、人間がまったく働かなくても製品がどんどん出来て来るような世界を想像してみましょう。この場合、製品はとても安価に産み出されますが、それを購入する労働者がいなくなる訳ですから、経営者や投資家にとっても都合のいい話ではなくなります。しかし、そういった世界は、要するに産業の効率化が極限まで達した世界である訳ですから、国内総生産の額も現在よりはるかに増加するに違いありません。だとすれば、問題はやはり富の再分配をどうするかという点に収斂されて行くのではないですか? すべての製造業やサービス業が完全に自動化された世界では(ロボット調理人やロボット運転手の働く世界です)、労働によって給料を得る人はいなくなる。極端な話、国内に勝ち残った企業がたった1社だけになり、そこがすべての製品やサービスを産み出していると仮定しましょう。その企業の経営者は、1000兆円のGDPをたったひとりで稼ぎ出し、900兆円の税金を収め、そこからすべての世帯に<生活保護費>が配られる。私たちは、配られた生活保護費で、またその企業の製品を買う訳です。この独占企業の経営者にしても、個人所得100兆円なら悪い話ではない(でも、一体何に使うのでしょう?)。社会の格差の程度を測るジニ係数という指標があります。ジニ係数が1の社会とは、ひとりの人間がすべての富を持ち、残りのすべての人が無一物になる社会です。この究極の格差社会は、見方を変えれば、また究極の平等社会であるかも知れないのです。

 もちろんいくら二十一世紀のビル・ゲイツのような人が登場しても、現実にそんな1社独占の世界が来るとは思われない訳ですが、産業の効率化によって行き着く究極の資本主義というものがあるとすれば、それにかなり近いものになるような気がします。昨今、大企業同士の合併が頻繁に起こり、それに伴ってリストラ(人員カット)が激しさを増しているのを見れば、すでにそういった社会が半ば実現しているとも言えるかも知れません。それを富の一極集中と見、資本家が一般大衆(その大多数が失業者であり、もはや労働者ですらない)を搾取する究極の階層社会だと見れば、未来に明るい希望は見えません。しかし、それが最も効率的に安いコストで富を作り出す仕組みの実現であるならば、その恩恵を受けるのはやはり大多数の一般大衆である他ありません。勝ち組の寡占企業だって、顧客というものは必要とする訳ですし、顧客が満足する製品やサービスを産み出すことが最大の使命であることに変わりはない。顧客の中心が生活保護世帯だからと言って、製品やサービスの質を落とす理由はありません(落とせば競争に負けますから)。こういった社会になれば、生活保護世帯の増加は、むしろ豊かさの証明であり、言祝ぐべきことにさえなりますよね。私はこれからの政治には、そういった将来を見据えた前向きな視点がぜひとも必要だという気がします。そう考えれば、予算が足りないから社会福祉や生活保護を削ろう削ろうとしている現在の政府は、まことに近視眼的であると言わなければならない。おかしいですか、この考え方は?

 今から40年くらい昔、まだ日本が高度経済成長の時代に入ったばかりの頃、私たちはみんな一度は夢見た筈です。いつか人間が単調な機械のような労働から開放されて、もっと自由に豊かに暮らせる時代が来ることを。そのために私たち日本人は必死に脇見もふらず働いて来た。そして夢に見ていた豊かさは半ば実現しましたが、いつの頃からか、豊かになること(経済的な豊かさ)それ自体が自己目的化してしまった。大事な忘れ物があったのです。現代は価値観の多様化した時代だと言われます。私はそれは嘘だと思っています。多様な価値観を認めると言いながら、実はたったひとつの価値観に染まっているのが現代です。つまり、お金に換算出来る価値だけが、現代社会の認める唯一の価値だという意味です。お金で買える趣味嗜好だけが多様化したのです。近頃は、東大の学生さんの中にも、将来自分がニートになるのではないかと心配している人が多いのだそうです。東大を出て、就職口が無い訳ではない、就職しても自分がやりたかった仕事に就ける望みは少ない、きっと2、3年で会社を辞めてしまうだろう、そういった絶望があるのです。これを豊かさの中で育った若者の贅沢な悩み(肥大化した自己実現願望)としてひと括りにするのは間違いだと私は思う。ホリエモンのように、とにかくお金を稼ぐことだけを目的と出来る単純なメンタリティの若者ならともかく、彼らニート予備軍や実際のニートと呼ばれる若者の中には、この現代の歪んだ価値観の中で窒息しそうになっている人が多いのではないかと想像します。

 貧しい老人ばかりが多い世の中も寂しいですが、多くの若者が希望を持てない世の中も暗澹としています。最近の若者は、クリエイティブな仕事がしたいなどと言って、額に汗して働くことを軽蔑している風潮がある、そんなことを言う人がいます。が、額に汗して働く単純労働の価値を下落させているのは、今日の産業界であり、現代社会そのものではないですか。クリエイティブな仕事への移行は、時代の要請です。だとすれば、例えば小説家やミュージシャンを目指して定職に就かない若者のことを、モラトリアムなどと言って否定的にばかり捉えるのも酷なような気がします。むしろそういう若者をこそ、これからの社会は応援すべきではないでしょうか。彼らの生み出す作品が、市場価値を持つかどうかだけで評価すべきでもありません(本人がそれを目標とするのは自由ですが)、これからの時代の新しい価値は、経済効率性とは無縁の場所から生まれて来るかも知れないからです。人々が真に多様な価値観で未来の夢を描けるようになった時、もう一度この国の文化にはルネッサンスが起こるかも知れない、そんなことさえ私は夢想するのです。お金に呪縛された現代人の心を、開放するような上手なお金の使い方もあると私は思います。社会福祉費や生活保護費は、決して社会の無駄なコストではありません、それはすべての人の夢を育むインキュベーション費用なのだと私は考えます。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年12月17日 (日)

ワーキングプア問題への処方箋

 ワーキングプアという言葉を、私は7月に放送されたNHKの番組で初めて知りました。非常に強い印象を受けたので、さっそくブログの記事にも取り上げたのですが、先週の日曜日に同番組の続編が放映され、やはり心を揺さぶられるものがありました。今回は働く女性と高齢者の貧困がテーマでした。福島県で小学生の息子2人を育てている30代の女性は、昼間は建設会社でパートタイマーとして働き、夕方学校から帰って来た子供たちに食事を食べさせ、寝かしつけたあと、また夜のパートに出掛ける。睡眠時間4時間で、土日も無く働いて、手にする給料は月に18万円ほどなんだそうです。出来れば給料のいい正社員になりたいのですが、母子家庭であることが企業からは敬遠されるのだそうです。(子供の看病のために1日休んだだけで解雇されたこともあったと言います。) また京都に住む元大工の80歳になる男性は、積み立ての年数が5年分だけ足りないために、年金をまったく受けることが出来ず、75歳の妻とふたり、空き缶拾いでその日その日の生活をつないでいます。いざという時のための貯金が70万円あるのですが、逆にそれが災いして、生活保護も受けられない状態なのだと言います。決して遊び暮らして来た挙句に、現在の境遇に陥ってしまった訳ではないのです、ほとんど働きづめに働いて来た人生の果てに、80歳にして空き缶拾いの毎日。何故国や自治体は、いや、同じ日本人である我々は、彼らに何もしてやれないのだろうか?

 正直に言いますと、夏に見た1回目の番組と比べて、今回の放送には多少の失望を感じました。それは取材を受けていた貧しい人たちに対してではもちろんなくて、番組を制作したNHKに対してです。前回の番組から何も進歩していないじゃないか、そんな腹立たしさを感じたのです。巧みなカメラワークと編集で、視聴者の心に同情や憐憫の気持ちを掻き立て、担当のキャスターは前回と同様、このような貧困を放置している政治や社会への疑問を投げ掛けてみせる。この番組によってワーキングプア問題はかなり一般に認知されるようになったし、だからこそ今回の番組には大きな注目も集まっていたのだと思います。が、番組の印象は前回とまったく一緒でした。半年間の取材期間があったのだから、もっと具体的な意見や提言があっても良かった。こういった問題を、情緒にのみ訴える仕方で取り上げる今のマスコミの姿勢に私は大きな疑問を感じます。民放に比べればNHKはずっとマシだとは思いますが、今回の番組の中でも、登場者の顔がアップで映り、切々としたナレーションが語りかけるうしろには物悲しいBGMが流れていた。私は以前から深刻なニュースやドキュメンタリー番組では、BGMは使うべきではないと考えていました。それは不謹慎なことだと思うからです。そこに制作者サイドも自ら気付いていない、深刻な社会問題を商品化して情緒的に消費しようとする傾向が現れてはいまいか。いや、そんなマスコミ批判の話などはどうでもいいのですが、私は今回の番組の中には、ワーキングプア問題を解決するための大事なヒントが、いくつか隠されていたと感じたのです。で、今回は番組が取り上げなかったそれらのヒントについて書いてみることにします。

 まずひとつめです。最初に取り上げられていた母子家庭の話題の中で、これからの2年間で<児童扶養手当>が削られることが、深刻な痛手になると解説していました。この家庭では、月に4万円出ていた扶養手当が、2年後には半分に減らされるのだそうです。同じような話として、生活保護費の母子加算が、やはり3年のあいだに段階的に廃止されるという問題があります。これは大変重要なポイントだと思うのですが、非常に貧しい層の人たちに対するこうした特別手当の減額や廃止は、たとえどんな合理的な理由があろうとも、政府は思いとどまるべきだと思います。もしかしたら日本は、他の福祉先進国に比べても、児童手当や母子手当の面では手厚い保護が行き届いているのかも知れない(たぶんそんなことはないでしょうが)。しかし、たとえそうだったとしても、国際的な標準に合わせるためだとか、貧困世帯間の格差を是正するためなどという、一見もっともらしい理由で手当を減らすべきではないと考えます。何故なら、それが不公平であるとか不合理であるとかいう理屈とは別に、すでにその金額の上で彼らの生活は組み立てられてしまっているからです。これは障害者自立支援法についても言えることです。多くの母子家庭や障害者家庭は、現在の福祉政策のもとで、ぎりぎりの綱渡りをするような生活をしています。たとえ改革のためとはいえ、行政の都合で大きく綱を揺すぶってみるなんて乱暴なことはすべきではありません。(ですから私は同じ理由で、たとえ善意のものであっても、永続的なものになり得ない一時的な優遇措置や民間の寄付なども、貧困層に対してはよほど慎重に行なわなければならないと考えます。)

 ふたつめは、就労支援の問題です。現在の政府が掲げている、働く人の自立を促す政策には基本的に賛成します。現実問題として、現代社会は高度に進化した産業社会であり、そこで労働者に求められる技能も高度なものになっているからです。訓練によって、それを習得出来る潜在能力を持った人に対しては、学習や職業訓練に対する充分な支援を国としても行なうべきです。しかし、その支援策を、うわべだけのごまかしで終わらせてもらっては困る。番組で紹介された女性は、介護福祉士の資格を取ろうと考えましたが、専門学校の卒業が条件であることが分かって断念せざるを得ませんでした。昼も夜も週末も休みなく働いている彼女に、学校に通う時間は無いからです。国が掲げている授業料の一部負担といった程度の支援では意味が無いのです。国が本当に支援を行なう気があるなら、資格や技術を身につけて、実際に新しい職に就けるまでのあいだの生活保障をすべきです(このことはゲスト・コメンテーターの方も言っていました)。たとえ一時的な財政支出は増えようとも、長い目で見れば、高い技能を持った労働者を育てることは、国の財政にとってもプラスに働く筈です。

 3つめは年金支給の問題です。空き缶拾いの80歳の老人は、年金を1円も貰えないのだと言います。もしもこの方が、生涯まったく国民年金を払っていなかったというなら話は分かります。が、そうではないのです。払っていたが、生活が苦しくて、払えなかった期間もあった。年金受給年齢になってみると、積み立て期間が足りないので年金が貰えないことが分かった。こんな理不尽な話ってありますか? まるで詐欺に遭ったようなものだ。いま政府は、フリーターや非就業者の人たちにも国民年金への加入を呼びかけています。しかし、通算25年という長い支払い期間が年金受給の条件となっている現行制度では、過去に未納の時期があった人や収入の安定しない人にとって、年金に加入すること自体がリスクになってしまいます。たとえどんな短い期間でも、年金を納めていた人には、その期間に応じた年金を支給すべきです。たとえその金額がすずめの涙ほどのものであったとしても、納めた人には必ず見返りがあるというのが公平な仕組みではないですか。テレビに出ていた老人の場合、20年間は年金を納めて来たのですから、満額の五分の四に当たる金額の年金を受け取ってしかるべきです。もしもどうしても国が年金を払わないと言うなら、これまで積み立てたお金の一部でも返還すべきだ。政治家が加入する議員年金は、たった10年間の積み立てで受給資格が出来るばかりか、たとえ満期になる前に議員を辞めても、掛け金の8割は返還される仕組みだそうです。だったら国民年金や厚生年金だって、同じ仕組みにしなけりゃ不公平じゃないか。(批判の多かった議員年金は、今年の初めに廃止が決定されましたね。しかし、現職議員や議員OBにはほとんど不利益は無く、完全廃止までには40年も50年もかかるような廃止案なのだそうです。)

 4つめは生活保護制度についてです。番組で紹介されていた老夫婦は、虎の子の蓄えの70万円があるばかりに、生活保護を受けられないのだそうです。もしもそのお金を生活費として使ってしまい、無一文になればおそらく生活保護を受けられるのだと思います。何故そうしないのでしょう? それは想像が出来ます。老人は自分が先に死んだ時のため、遺された妻にせめてものお金を遺したいのです、そして自分の葬儀代のことで妻に心配をかけたくないのです。私はこの70万円の話を聞いた時、切なくて涙が出ました。日本にはいま、生活保護水準以下で暮らす世帯が400万世帯もあるのだそうです。彼らの多くは、家族に遺すこのなけなしのお金のために、生活保護を諦めているのではないかと想像します。これは制度を改革すべきです。今回、持ち家があるために生活保護を受けられない世帯に、不動産を担保に生活費を貸すリバースモーゲージという仕組みが導入されました。私はこれは良い仕組みだと思います。(不動産を所有している世帯に生活保護費を支給すること自体、不公平なことですから。) これと同じ仕組みを預貯金にも応用することは出来ないものか。つまり、老夫婦は70万円のお金を国に預け、その代りに生活保護を受ける。国は預かったお金を、もしもの時の医療費か、または葬儀代が必要になった時にのみ、必要な額だけ返還するのです。これならば、虎の子の70万円を守るために生活保護を諦める必要も無くなるのではないでしょうか。でも、おそらく国はこの政策を採らないでしょう。何故なら、もしもこれを正式なルールとして採用すれば、生活保護を受けずに必死で頑張っている世帯が、なだれを打ったように生活保護の申請に走るだろうから。国の予算はそれに耐えることが出来ない。要するに、現在の生活保護制度は、実際にそれを受け取る資格がある人たちが、それを辞退していることでかろうじて成り立っているのだと思います。生活保護制度に関しては、どう考えても抜本的な仕組みの改革が必要ですね。

 最後にもうひとつ、ワーキングプア問題解決のために最も重要な施策が、最低賃金の見直しです。何故か日本の最低賃金は、各都道府県ごとに決められています。最も低いところで610円(青森、岩手、秋田、沖縄)、最も高いところでも719円(東京)、全国平均では673円なのだそうです。これがワーキングプアを生み出す元凶になっています。私はこれを全国一律にし、値段もおよそ倍の1200円程度にすることを提案します。時給1200円なら、1日8時間労働で、土日を休んでも月間の総支給額が20万円程度にはなります。これなら睡眠時間4時間で土日も無く働いている人たちが、少しは余裕のある暮らしに移れるというものです。だが、これには経済界から猛反対が出るでしょう。実際、最低賃金をそのレベルまで引き上げたら、経営が成り立たなくなる企業も続出するに違いない。けれどもここでも物事は大局的に見る必要があると思います。過去20年くらいを振り返ってみれば、国内で大きな成長を遂げた企業は、パートやアルバイトなど安い労働力を利用して伸びて来たところが多いことに気付きます(コンビニやドラッグストアやファーストフードなど)。言葉を換えれば、これら成長産業は、労働者が正当な報酬として受け取るべき富を収奪して成長して来たのだとも言える。それを是正しようという話です。もしも一気に最低賃金を引き上げることではショックが大き過ぎるのなら、政府お得意の段階的導入でも構いません。来年度は800円、さ来年は1000円、3年目には1200円にすればいい。私はこれを先に提案した法人税の廃止と同時進行で進めればいいと思います。おそらく大手のコンビニやスーパーマーケット、飲食チェーンなどでは不採算店を閉める動きが加速すると思いますが、これは昔から地元に根付いていた家族経営的なお店に、もう一度チャンスを与えるきっかけになるかも知れません。

 最近は「格差社会」ということが大きな問題としてマスコミを賑わしていますが、私はこれは少し違うような気がします。格差があること自体が問題なのではなくて、国民の生活を保障する最後のセーフティネットが破れてしまい、社会の底が抜けてしまっていることが問題なのです。「相対的な格差」ではなく、「絶対的な貧困」こそが問題です。今回の番組を見て、そのことがはっきりと分かりました。日本の貧困問題は待ったなしです。私たちこの国の政治に責任を持つ国民は、すぐにでも行動を起こさなければなりません。私には、とりあえずこのブログ上で意見を発表することくらいしか出来ませんが、それでも何もしないよりはましです。これからもこの問題については継続的に考えて行きたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月10日 (日)

私の政策提言集

 まだまだブロガーとしては新米の部類ですが、さすがに1年以上続けて来ると、自分でもいろいろなことを書いて来たものだと思います。私の場合、記事を書くのは週末の1回だけです。それでもブログのことはいつも頭にあって、毎週月曜日になると、さて今週は何を書こうかと考えるのがひとつの楽しみになっています。私が利用しているココログには、アクセス解析という機能があって(どこのプロバイダーにもありますよね)、記事ごとの毎日のアクセス数がチェック出来るようになっています。だんだん記事がたまって来ると、それに伴ってキーワードも増えるので、インターネット検索でたまたまここを訪れてくれる人の数も増えて来る、それもまた楽しみのひとつです。ところで、ココログには訪問者の滞在時間を確認する機能もあるのですが、それを見ると愕然としてしまいします。せっかく縁あってここを訪ねてくれた人が、ほとんど皆さん数秒ですぐに立ち去っている。1日に数十件のアクセスがあっても、多少でも文章を読んでくれている人は、本当に少ないみたいです。(ここまで読んでいただいたあなたは、すでに奇特な部類の方です。笑) でも、それも分かる気がします。何か興味のあるテーマについて調べようと思って、ページを開いてみたら、こんな改行の少ない堅苦しい長文が目に飛び込んで来るんだもの、これではお客さんも逃げて行ってしまいます。

 私は、自分自身がこのブログの最良の読者だという信念で文章を書いているので(寂しい信念だな)、現実の読者の方から反応が来ないことはそれほど苦になりません。しかし、たったひとつ、私がホンモノの読者の方からコメントを期待している種類の記事があります。それは将来の日本の向かうべき方向性について、政策提言をしている記事の場合です。まあ、政治にも経済にも疎い素人の考えなので、政策提言などというのもおこがましいのですが、素人だからこそ、専門家の方や反対意見を持った方の声が聞きたいと思うのです。今週は、過去に自分が書いた記事から、そういう内容の文章をピックアップしてご紹介したいと思います。最近このブログの読者になられた方には(そんな人いないかな?)、ぜひこのバックナンバーだけは読んでいただきたい、そしてご意見を伺わせていただきたい。専門家から見ればほとんど寝言かたわごとのようなものばかりでしょうが、中には意外といいアイデアだって、あると思うんです。

1.素人が考えた選挙制度改革案

 記念すべきこのブログの最初の原稿ですね。昨年の衆議院選が終ったばかりの時で、世間は自民党の圧勝にばかり目を奪われていましたが、私はいまの小選挙区比例代表制という選挙の仕組みが、制度破綻したのがあの選挙の結論だったと受け止めました。いくら国民の政治への関心が高まって、投票率が上がったところで、選挙制度の仕組みをちょっと変えるだけで、選挙結果なんてどうにでも操作出来る。こんな有権者を馬鹿にした話はないと思います。私の提案は、全国区制を復活した上で、①政党の得票率と議席数を比例させる、②比例代表の名簿順位を候補者に対する国民の投票数によって決定する、というふたつのアイデアから成っています。これからも日本が政党中心の議会制民主主義を採用し続けるのであれば、おそらくこれがベストの選択肢ではないかと今でも思っています。

2.直接民主主義を考える

 しかし、実は問題は議会制民主主義という制度そのものにあるのだ、というのがこのエッセイです。政党政治の堕落ぶりは、最近の郵政民営化に反対した議員の自民党復党問題でも露骨に現れました。腐ってるんですね、政治家も政治そのものも。むしろ昔より民度の向上した現代においては、腐った政治家よりも、国民が直接政策を決定した方がマシだろう、それが直接民主制の考え方です。インターネットの普及により、非常に安いコストで国民投票を行なえる可能性も出て来ました。私の提案のミソは、すべての国民がすべての政策案について意思決定をするのでは、余りにひとりひとりの負担が大き過ぎるので、政策をいくつかの領域に分け、各人が投票権を行使出来る政策領域を自ら選択出来るようにしたらどうかという点です。これによって国民の政治に対する関心や責任感を高いレベルで維持することが出来る。衆愚政治などという汚名も、この国の将来には無縁のことになるでしょう。

3.セイニアーリッジ政策を考える

 今年は政府の予測を上回り、50兆円以上の税収が見込まれているのだそうです。それでも国の財政が黒字に転換するなんてことは全然なくて、また新たに30兆円程度が国の借金に付け加わることになりそうです。財務省の発表資料では、今年の6月末時点で国の借金の総額は827兆円、国民ひとり当たりにすると約656万円、まったく気の遠くなるような数字です。一体どうするんだい、この莫大な借金を? 責任者は出て来い!と言っても、無駄なんですよね、責任は有権者である私たち自身にあるのですから。そこで私が提案したいことは、私たち現役世代の人間は、将来この国を背負って立つ若い人たちに大きな負の遺産を遺さないため、私たちの代で政府の借金をすっかり<棒引き>してやろうじゃないかということです。そのための秘策が書かれています(私のオリジナル・アイデアではありませんが)。これはきっと激しい反論が巻き起こるぞ、そう覚悟していたのですが、反応はゼロでした(笑)。安倍さんも、「美しい国」を目指すなら、まずは「借金の無い美しい国」を目標にしてみたらいかがでしょうか。

4.生活保護制度改革案に思う

 先日のニュースでは、生活保護費の母子加算廃止が決定されたと報じられていました。名前からして欺瞞に満ちた<障害者自立支援法>もそうですが、政府は着々と国内での棄民政策を実行に移しつつあります。きっと貧乏人や弱者は邪魔者なんですね、これからの「美しい国」づくりのためには。まあ、いまは国自体が借金まみれの<生活保護国家>みたいなものなのですから、そんな皮肉を言っても耳を貸す余裕もないのでしょう。これからますます増加するであろう貧困世帯をどうすべきか、生活保護制度の新しいあり方を考えたのがこのエッセイです。簡単に言えば、現金による生活保護費支給を止め、各地に大規模な生活保護世帯向け共同住宅を作ろうというアイデアです。ポイントは、「助け合いによる貧しくても明るい生活共同体」というコンセプトです。二十一世紀の新しい<長屋文化>を復活させる試みと言ってもいい(落語の八っつぁん熊さんの世界ですね)。これからの時代は、エネルギー問題にしても環境問題にしても、人類がかつて経験したことのない試練を試される時代です。案外この生活保護住宅から、次の時代の新しい可能性が見えて来るかも知れない。私のイチ推しの政策提言です。

5.「法人税廃止」というアイデア

 で、先週書いた記事がこれですね。法人税を廃止して、個人の所得税(と住民税)を倍にしようという提案です。もしも読者の多いブログなら、ムチャクチャ突っ込まれそうな記事ですよね。でも、その多大なメリットについては本文に書いてありますので、興味のある方はご参照ください。もちろんこんな素人のジャストアイデアが、そのまままともな政策提言になる訳はないのですが、ネットで調べてみると、これを具体的な方法論として提示している人もいるみたいです(例えばこれ)。先のセイニアーリッジ政策もそうですが、一見禁断の政策とも思われるこういった大胆な改革案が、もっと専門家のあいだで前向きに論じられてもいいような気がします。そして出来ればそのメリットとデメリット、これからの時代に何故それが必要かということを、一般の国民にも分かりやすい形で提示してくれるとなお有難い。827兆円の国の借金は、私たちひとりひとりの問題です。長期プライムレートがどうのこうのとか、ホワイトカラー・エグゼンプションがどうのこうのとか、そんな難しい話で国民を煙に巻かないで欲しい(あれ? 私が不勉強なだけですか。笑)。いくら時代が複雑になって、経済の仕組みも難しくなったとは言え、現代は過去のどんな時代より国内総生産(GDPって言うんでしたっけ?)が増加した豊かな時代だということは誰もが知っている。うまく人間の智恵を働かせれば、もっとみんなが豊かに幸せに暮らせる仕組みを作れる筈です。

(お知らせです。これまでに書いた記事をテーマ別に分類・整理して、インデックスのページを新しく作成しました。トップページの右側にリンクがあります。他の記事も読んでみたいと思われる方は、ぜひご利用ください。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 3日 (日)

「法人税廃止」というアイデア

 先日の朝日新聞の読者投稿欄に、とても面白い意見が載っていました。もともと私は、最近の新聞には読む価値のある記事はほとんど無いと思っているのですが、読者投稿欄と4コマ漫画を読むのが毎日の楽しみになっているので、なかなか購読を止められません。私の興味を引いたのは、『法人税下げは大いに賛成だ』という刺激的なタイトルがついた記事です。小泉政権の頃から、この国の政府は企業ばかりを優遇し、個人を徹底的に冷遇して来た、そういう認識が私にはあります。企業は政権与党に莫大な政治献金をしているので、そういういびつな政策が平気でまかり通っているのだろう、そんなふうに考えているのです。だからこの投稿記事のタイトルを見た時は、安倍首相も大喜びしそうなこんな意見を平気で掲載する朝日新聞は、一体どういう見識なのだろうと思った。が、短い記事の内容を読んで、なるほどこれは卓見かも知れないと感心したのです。まずは全文をご紹介します。11月24日の朝刊からです。

 『政府税制調査会が法人税の引き下げを検討するとのこと。大賛成です。私は以前から法人税はよくない税金だと思っていました。
 賛成の理由は、①企業の構成員(従業員など)が所得税を払っている。法人税まで払うと構成員にとって税金を二重に払うことになる。②企業は利益を小さくするために、無駄な消費や違法行為をしがちである。③法人税逃れの法人(宗教法人、社会福祉法人、NPOなど)が多い、の3点です。
 ただ、減税分を消費税で穴埋めするのは反対です。企業は国から各種の産業支援を受けています。そこで、法人税を下げる代わりに、その分だけ産業を支援する予算を削減したらどうでしょうか。
 産業支援は、経団連などの経済団体が中心となって企画・実行すればよいと思います。企業は、従業員がより多くの所得税を払えるよう、おおいに稼いで欲しいと思います』

 最近の新聞やテレビがつまらないように、いまの国会での論議がつまらないのは、国民を煽る刺激的なコトバには満ちていても、要するに本当に自分のアタマでものを考えている人が、メディアの世界にも政治の世界にも少ないせいではないかという気がします。どこかで既に聞いたような、陳腐な常套句ばかりが飛び交っている。むしろ、面白い意見や目からウロコのアイデアは、私たち大衆のなかにある。新聞の読者投稿欄や個人のブログの中に、そういったアイデアのタネを見付けるのは私の楽しみのひとつなのです。今回のこの投稿子の方にしても(大学の非常勤講師の方だそうです)、おそらくこの問題について充分考えた上で、300字程度の字数制限の中で工夫して要点だけをまとめているのでしょう。この記事のバックには、おそらく数十枚の論文になるほどの語られなかったアイデアが隠されているに違いない、そんな印象を私はこの文章から受けたのです。で、これにインスパイアされた私は、この記事のさらに続きを考えてみました。投稿子の方は、産業支援費の削減と引き換えに、いろいろと問題のある法人税というものを縮小することを提案されている。縮小の理由には私も賛成です。そこで私はいっそのこと、法人税を全廃してしまうことを考えてみた。

 現在の日本の税制で、何が一番の問題かと言えば、税の不公平さだとか、国と地方の税源のバランスだとかいうことよりも以前に、国家予算に対して税収そのものが全然足りないということが第一に挙げられなければならないと思います。ですから、私は今回の投稿にあるように、法人税の削減を政府支出の抑制で補うだけでは充分ではないと考えます。むしろ、法人税の削減分を従業員の所得税を上げることで補えばいい、これが今回の提案の骨子です。財務省の資料で見ると、国税と地方税を合わせた税収の中で所得税と法人税が占める割合は、それぞれ28.8%と25.0%なのだそうです。ということは、単純計算で個人の所得税を約2倍近くまで(87%)引き上げれば、法人税を廃止しても同じ税収が得られることになる。要するに我々が今の倍の所得税(と住民税)を払えば、法人税は廃止出来るのです。もちろん反論がありますよね? とんでもない話だと思われるでしょう? まあ、もう少し聞いてください。たとえ政府が「法人税廃止、所得税2倍」という政策を決定したとしても、企業が浮いた分の法人税をすべて利益に組み入れられる訳ではない、そこには労働市場における市場原理が働く筈だからです。これまで3万円の所得税を払っていた人が、6万円の所得税を払わなければならなくなる。手取り額は3万円のマイナスです。ある企業では、社員の生活を保障するために、(浮いた法人税分から)3万円の給与アップを行なうでしょう。すると、それを行なった企業と行なわなかった企業の間では、給与の格差が生まれる。当然、能力のある社員は高い給与を求めて転職をするでしょうし、新卒者は現在以上に給与水準を見て会社選びをするようになるでしょう。優秀な人材を集めたい企業は、浮いた法人税を内部留保になど回している余裕はありません。結局のところ、税制変更時の混乱が収まってみれば、現在とほぼ同じような手取り給与に落ち着いて行くのではないか。サラリーマンの給与の相場は、税率に合わせてスライドしている訳ではなく、景気や物価に合わせてスライドしているのです。資本主義の社会では、商品の価格を最終的に決めるのは、メーカーでも小売店でもなく市場です。これは労働市場においても同じことでしょう。

 今週発表された重箱の隅をつつくような政府税制調査会の法人税減税案では、個人の所得は当面増えも減りもしないでしょう。単に企業の利益が少し増えて、それに伴って政治献金も増えるだけです(あ、そうか、まさに自民党の狙いはそこにある訳だ)。私はそんな小細工を使うことよりも、もっと思い切って、法人税をゼロにしてしまうことを提案します。法人税がゼロになってしまえば、例えば経団連にしても、これ以上自民党にすり寄って尻尾を振るインセンティブはほとんど無くなる。私の予測では政治献金も大幅に減るでしょう。それだけではない、他にも法人税廃止のメリットはたくさんあるように思います。思いつくままに挙げてみますと、①所得税は法人税ほど景気の波によって上下しにくいので、国と地方の税収が安定する。②企業の中では姑息な節税対策、税金逃れのための粉飾決算のようなものが防げる(投書でも指摘されている通りです)。③経理部門による面倒な税務処理や国税局による監査など、社会に直接の価値を産まない無駄なコストが省ける。④企業や資本の海外流出を抑制する効果がある(逆に国民は逃げ出すかも知れませんが。笑)。⑤国民の税金に対する関心を高め、それがひいては国の財政健全化につながる。ざっとそんなところでしょうか。結構いいことずくめではないですか。いや、もちろん課題もあります。もともと赤字体質で法人税をほとんど納めておらず、社員の給与水準も低い企業では、法人税廃止のメリットなど何も無く、単に社員の生活が苦しくなるだけでしょう。だからこの政策の実施に当たっては、非課税枠の拡大や累進税率の見直しなど、所得税そのものの改革も必要になると思います。

 これも最近の記事で読んだのですが、大手都市銀行が史上最高益を更新しながら、法人税を1円も払っていないというニュースは、我々納税者を激怒させるものでした。不良債権処理で出た多額の欠損を、七年間にも渡って税の控除に繰り越せるという税法のせいです。一部の大企業に対するこういう歪んだ優遇政策も、法人税そのものが無くなってしまえば、もう問題ではなくなります。このくらいの思い切った政策提言を、どこかの野党は提出してみたらどうでしょうか。こういう政策こそ、<骨太の改革>と呼ぶに相応しいじゃありませんか。読者の皆様のご意見をお待ちします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »