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2006年11月 5日 (日)

人類の道徳的進化という仮説

 最近このブログでよく取り上げる内田樹さんの、今年出た新刊『私家版・ユダヤ文化論』を読みました。もともと私は、文系人間である割には読書時間が少ない人なのですが(仕事や育児で忙しいこともあるけれど、ひとりでボーっと考えていることの方が好きな性分なんです)、内田さんの本はこの数ヶ月の間に六、七冊は読み、ご本人のブログにもよく目を通しています。おそらく自分の読書時間の半分以上は内田さんに捧げているのではないかしら。まあ、内田先生へのオマージュは以前にも書きましたから繰り返しませんが、そのくらい今の自分には波長の合うものがあるのです。今回の本も、斬新な着想と鋭い洞察が満載で、刺激的な読書時間を過ごすことが出来ました。が、この本の中で一番印象に残ったのは、内田さん自身の学説ではなく、初めて名を聞くひとりの思想家の言葉でした。ローレンス・トーブという人です。未来学者という肩書きで呼ばれる人で、既に70年代にベルリンの壁の崩壊やイラン革命を予言していたのだそうです。(往年のSFファンにはハリ・セルダンを髣髴させますね。) 日本語を含む十ヶ国語(!)を使いこなす人で、最近まで日本に住んでいらしたのだと言います。まだ著書の日本語訳は出ていないようですが、内田さんの紹介文を引用すれば、次のような思想を持った人です。

 『「人類は進歩しているだろうか?」という問いをポストモダン期の知識人は一笑に付すだろう。もちろん科学技術は進歩した。しかし、この戦争と虐殺と差別と迫害の連鎖のどこに人間性の成熟のあかしをお前は見ることができるのか、と。
 トーブはこのようなシニカルな評価を退ける。十九世紀以後の歩みをたどってみても、人間たちは人種的・性的・宗教的な差別や、植民地主義的収奪や奴隷制度をはっきり「罪」として意識するようになってきた。これらの行為はそれ以前の時代においては必ずしも「罪」としては意識されていなかったものである。たしかに依然として人は殺され続けているし、富は収奪され続けているが、そのような凶行の当事者でさえ、その「政治的正しさ」や「倫理的な根拠」について国際社会に向けて説明する義務を(多少は)感じている。これは百年前には存在しなかった感情である。そのことから見て、人類は霊的に成熟しつつあり、人間性についての省察を深めつつあるという見通しを語ることは許されるだろう。そうトーブは書く。』

 ここで内田さんが「霊的」と訳している単語は「Spiritual」でしょうが、スピリチュアルを「霊的」と訳すとスピリチュアリズムの言説と混同してしまいそうなので(込み入ってますね)、ここはとりあえず無難に「精神的に成熟」と訳しておいた方がいいと思います。トーブさんの言葉に無理矢理神秘的な予言者の色合いをかぶせて見なければ、単純明解な思想です、人類はここ百年のスパンで見ても、明らかに道徳的な進化を遂げているというのです。私が何故この言葉に感銘を受けたかと言うと、これはそのまま常日頃、私が考えていることとそっくり同じ思想だからです(笑)。内田さんが指摘するとおり、最近の知識人はシニカルでクールなので、現代が道徳的に見て過去の時代よりも進化しているなんて言い方をすると、おそらく反論されるよりも馬鹿にされるのがオチでしょう。しかし、素直に当たり前に考えてみれば、こんな分かりやすい事実は無いと私は思う。何故誰もそのことをはっきり言わないんだろう、私はいつもそのことを不審に思っていたのです。今回はトーブさん(とそれを推奨する内田さん)の言葉に力を得て、この問題に関して少し書いてみようと思います。

 道徳的な進化の証拠は、至るところに見付かるような気がします。以前死刑制度について調べていて、ひとつ驚いたことがありました。フランスが二十世紀の前半まで(正確には1939年まで)、ギロチンによる公開処刑を行なっていたという事実です。フランスと言えば、「自由・平等・博愛」の理念を掲げた民主主義の最先端国じゃないですか。日本だって明治時代以降、公開処刑なんて行なっていないのに、何故こともあろうにフランスで? 例えばこれが中世の頃の魔女狩りや宗教裁判の話、あるいはマリー・アントワネットが断頭台の露と消えたといった話なら、まあ、大昔にはそんな野蛮な時代もあったよね、で済ませることも出来るでしょう。が、フランスでの公開処刑廃止は、今からわずか六十七年前の話なのです。若い頃に自分の目でそれを目撃した人が、今でも生きているかも知れない、要するに現代史のひとコマです。もちろんその後に起こった侵略戦争やホロコーストのことを思えば、犯罪者が公衆の面前で処刑されることなど、大したことではないのかも知れません。しかし、戦争中のことは、一種の集団ヒステリーの結果と見ることも出来ますが、平時の刑事犯に対する公開処刑ということになれば、これはやはりその時代の道徳意識を反映したものだと考えざるを得ません。今日(の少なくとも先進諸国)では、公開処刑の復活などということは、現代人のメンタリティから見て絶対にありえない。ここから言えることは、少なくとも七十年前のフランス人は、道徳的なものの見方において我々とは非常に異なったメンタリティを持っていたに違いないということです。

 この本の中で、これに関連してもうひとつ面白く感じた箇所がありました(どうも作者の意図しないところでばかり面白がっています)。十九世紀の末に、エドゥアール・ドリュモンという人の書いた『ユダヤ人的フランス』という本が、(ルナンの『イエスの生涯』と並ぶ)十九世紀最大のベストセラーになったというくだりです。この本は、ユダヤ人と名指された人への個人的な攻撃まで含む、露骨で扇情的な「反ユダヤ主義のバイブル」としてナチスの時代まで読み継がれた書物なのだそうです。当然ですが、今日では(特別な研究者以外には)誰も読む人はいません。私たちはふつう、プラトンの時代から二十世紀前半に至るまで、その時代の最良の天才たちが残した最良の作品しか読みませんから、その時代の一般大衆がどのようなものを読み、どのようなことを考えて日々を送っていたかについては、あまり想像力を働かせません。そして、現代の一般大衆である私たちは、いまの時代のベストセラーになる本(例えば『戦争論』だとか『国家の品格』だとかいった類の本)しか読みませんから、単純な比較で、現代は過去の時代に比べて思想的にも道徳的にも劣った時代だと思い込んでしまう。これは理屈から言っても全くの錯覚だと思います。いつの時代にも、天才というものは例外であって、その時代の民衆はもっと別のレイヤーで底暗い情動を働かせていた、こちらの方が信憑性のありそうな仮説です。例えば、資料の手に入れやすいこの三十年くらいでもいい、無名の一般人がどのようなことに興味を持ち、どのようなことを考えていたか、個人の日記や、新聞の投書や、人生相談への質問などから、比較研究を試みてみたら面白いだろうと思います。私に証拠はありませんが、三十年のスパンで見ても、この間の日本社会の道徳的意識の向上には、おそらく目を瞠るものがあるのではないかと予感します。(これは調査のしやすい手軽な問題ですし、学部の学生さんの卒論テーマになどいかがでしょう?)

 以上のような理由により(全然理由になっていませんが)、私はトーブ氏の主張する「人類の道徳的進化」という仮説に全面的に賛成するものです。それどころか、ここ五年か十年のあいだに、我々の道徳的意識の進化の速度は、どんどん加速度的に増大し、今ではほとんど怒涛の勢いにまで達しているという印象を私は持っています。そんな馬鹿な、と言われますか? しかし、例えば最近の<差別語>に対する社会を挙げての異常なほどの過敏さや、組織の中の<内部告発>によって不祥事が次々発覚している現状などを見ると、確かに現代人の道徳意識の中で、何か大きな変化が起こっている真っ最中なのではないかという印象を拭えないのです。単に現象としての<差別語規制の強化>や<内部告発の流行>ということなら、それはある部分では行き過ぎのところがあるような気もするし、いまはまだ昔から溜まっていた<道徳的な膿>を出している途中で、いわば過渡期なのかも知れないという気もする。それはやがて収まるべきところに収まる(収める)べきものだろうと思います。が、私が気になるのは、そういった最近の道徳的事象の背景にある、盲目的とも言える(差別語じゃないよね)未知の推力についてなのです。イメージで言えば、現代人は背後から強烈な道徳的圧力に推され、自らコントロールを失って、手足をバタバタさせながら前の方に押し出されているといった感じです。この推力は一体どこから来て、このまま私たちを一体どこに押し流そうというのか?

 私はこれまでにも、道徳の問題についてはこのブログでいろいろ書いて来ましたが、一貫して守って来たスタンスがあります。それは自分の中にある道徳的感情の強い圧力(自分ではそれを<道徳的リビドー>だとか<道徳的マグマ>などと呼んでいるのですが)に、決して逆らわないということです。逆らっても無駄なことは、経験上よく分かっているからです(内奥の心情が満足しないどんな道徳論も、机上の空論だという意味です)。むろん私は、哲学者を自称する以上、感情に流されるままでいることには絶対に耐えられないし、どうしても理屈で納得しないと気が済まないタイプの人間です。ですから、道徳の問題について考えようとすると、いつでもそこに葛藤が生じてしまう。時に理性が感情に対して譲歩し、時に理性が感情を説得してなだめようとする、そのぎりぎりの妥協点を探るのが私の道徳哲学の方法になってしまいました(特にブログの記事を書き始めてから、そのことがはっきりして来ました)。そして最近、よく思うのですが、このことは何も自分だけの特別な状況という訳ではなく、現代人なら(というより現代の日本人なら)たいていの人が共通に置かれている状況なのではないかと考えるようになりました。いや、抽象的なことを話している訳ではないんです。例えば前回取り上げた<代理出産>の問題について考えるとします。いろいろな人の書かれた意見を読めば、むろん賛成派もいれば反対派もいる訳ですが、一見それらの意見は対立しているように見えて、実はほとんど皆さん同じような心理的な受け止め方をしている。正直に心の内を覗いてみれば、<代理出産>という新しい事実に対して当惑し、ただこれに対して態度を決めなければならないという強迫観念が、いろいろな意見を言わせているだけなのだと感じます。重要なのは、こういった問題を放っておけないと感じさせる、この強迫観念を我々に植え付けるものの方です。私はそれを、現代人を背後から推す道徳的圧力と呼びたいのです。

 自分でも思わぬ方向に論が展開しました。今回はひとつの仮説を提示するにとどめておきたいと思います。現代人は道徳的な心性が衰微しているだとか、枯渇しているなんてとんでもない、むしろ我々は歴史上かつてないほどの強力な道徳的圧力で背中を推されている、そういう仮説です。これはつまらない問題で意見が対立しがちな現代人に、もうひとつ高次の視点を与えてくれる(あるいはもうひとつ違う次元で共通の敵を作ってくれる)という点で、功利的な意味でも有益な仮説であるように思います。問題は、背後から来るこの圧力の正体は何かということです。それはおそらく誰にも分からない。私の個人的な直感で言えば、その実体は霊的なものでも、神的なものでもなく、四十億年の生命の進化を推進して来たものと同根であるような気がするのですが、さて、どうでしょうか?

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