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2006年11月26日 (日)

笑いの効能、(笑)の効用

 岩波文庫でも出ているベルクソンの『笑い』は、笑いの哲学的考察というジャンルでの古典的名著と呼ばれている一冊です。その冒頭で著者は「笑い」というものの謎を、「哲学的思索に対して投げられた小癪な挑戦」と表現しています。「小癪な」という形容詞を久々に目にしたような気がします。これはなかなか含蓄のある言葉ですね(フランス語で何と言うのか分かりませんが、とてもいい訳語だと思います)。古来、哲学者というものは、時の喜劇作者や風刺家らによって、さんざんからかわれ、ほとんど「無用な考えをめぐらす役立たず」くらいの扱いしか受けて来ませんでした。今日でも、「あいつは哲学者だから」などと陰口をたたかれて、それを褒めコトバだと受け取る人はいないと思います。ベルクソンの著作は、この二千数百年もの<忍辱の歴史>に対して、哲学者の側から一矢を報いようとしたものだとも考えられます。今回は、私もマイナー・フィロソファーの端くれとして、小癪な謎である「笑い」について少し考えてみようと思います。

 この世界は喜びよりも悲しみに満たされていると考えたがる人は(たぶん宗教方面にそういう考えの人が多いような気がしますが)、そのひとつの証拠として、人間が生まれて最初にすることは、笑うことではなくて泣くことだなどと言います。しかし、生まれて来た赤ちゃんが、おぎゃあと言って産声を上げる時、あるいはお腹が空いておっぱいを欲しがって泣く時、あれは決して悲しみの感情に満たされて泣いている訳ではない。単に生物としての必要に迫られているだけで、そこに人間的な感情を読み取るのは間違いだと思います。人間的な感情という意味では、子供は泣くことよりも笑うことを最初に覚えるものだ、そのことに間違いはありません。私事で恐縮ですが、我が家の二歳児の息子を観察していると、それがはっきり分かるのです。本当に言葉も何も分からない0歳児の頃から、赤ん坊は大人の笑いかけに反応してよく笑う。人間は生まれながらに<笑いの共鳴板>を持っているに違いない、そんな表現をしたくなるほどです。逆に大人が泣いていると、もらい泣きする赤ちゃんなどは聞いたことがないでしょう? 子供を見ていると、なるほど人間というものはこの世に笑うために生まれて来たのだな、そう強く実感するのです。

 笑いというものが、人々のあいだの共鳴として存在することは、仮説として説得力のあるものだという気がします。深夜ひとりで本を読んでいても、私たちは思わず声を出して笑ってしまうことがありますが、それは同じ本を読んで、同じ箇所で笑っている人がいるという暗黙の確信があってこそ笑えるのだと思います。明日になれば、友達とこの本の感想を語り合うことも出来る。仮にこれが無人島にひとり取り残されてしまった状況だとしても、気持ちをうまくコントロールすれば、面白い本を読んで笑えないこともない。それはやがて救助されて、もとの世界に戻れるという希望が少しでもある場合です。ところが、もしも自分以外のすべての人類が絶滅してしまい、自分がこの世でたったひとりの生き残りだという事実を知っているという状況を想像してみれば、その時にはもういかにしても笑うことは出来ない気がする。事態が笑えないほど深刻だからというよりも、もはや自分の発した笑いが共鳴する何物もこの世に存在しないからです。おそらくそんな事態になっても、我々は泣くことなら出来るかも知れない、例えば自分がそんな境遇に置かれた不幸を神様に訴えることによって。泣くという行為に関しては、必ずしも人間の相手は必要ありません、相手は自分の心の中にいる神様であってもいい訳です。これを哲学者ふうに定式化して言うならば、笑いは人とつながる意志を、涙は超越者とつながる意志を表している、と言えるのではないだろうか。(この定式の証明はしませんよ。私はプロの学者じゃないですからね。笑)

 前回の記事で自殺の問題について書きましたが、想像するに自殺をする人は、自殺に至るまでの数週間(または数ヶ月間?)、笑うことを一切忘れていたというのが現実ではないでしょうか。ドストエフスキーは、その深刻な小説『悪霊』の中で、<完全に明晰な理性を保ったままでの自殺>というテーマを追究していますが、それはまあ一般にはあり得ないことだからこそ文豪の興味を惹くテーマになったので、ふつうは自殺まで追い詰められる人は、一種の狂気に取りつかれているものだと思います。狂気を胚胎し育成するものは孤独です。結局のところ、人間は孤独病になって、発狂したり自殺したりするのである。(もちろん内因性の精神病ということになれば話は別です。) だとすれば、発狂や自殺から自分を救う最も簡便な手段は、笑うことであるような気がするのです。何故なら、笑いとは他人とつながりたいという強烈な意志に他ならないから。不謹慎だと叱られてしまうかも知れませんが、私はこれから自殺をしようという人に、ひとつ小さなアドバイスをしてみたい。それは遺書の最後に、(笑)という文字を追加してみることです。『だれをも咎むることなかれ、われみずからなり。(笑)』 これではかのスタヴローギンでさえ、死ぬのが馬鹿々々しくなって、もう少し生きてみようかという気になるかも知れません。

 実は今回、笑いの問題について考えてみようと思ったのは、自分がこのブログの中で、(笑)という表現を多用しているのが以前から気になっていたからです。昔、文学青年だった頃には、旧漢字、旧仮名遣いで文章を書いていたくらい、私は<端正な日本語>というものに思い入れが強かった。最近は人間がずいぶんくだけて来たとは言え、自分が(笑)だなんておちゃらけた表現を文中に許すだなんて、ブログを始める前は想像だにしませんでした。(その証拠に、このブログの初めの頃の文章にはこの表現は見当たりませんし、使ったとしてもひとつの記事に1回だけだった。ところが途中からだんだん増えて来て、数えてみたら最近はひとつの記事に3回も4回も出て来たりします。笑…) でも、ここまでの考察で気が付くのですが、私に限らず、多くのブロガーが文章に(笑)を入れるのは、決して単なる自己韜晦や、照れかくしや、おちゃらけのためだけではないように思います。それは誰かとつながっていたいという切なる願いの現れなのです。特に私のこのブログのように、人跡まれなインターネット世界の極北のような場所では、読者とかすかにでもつながっていたいというこの身振りは、いじましくも哀しいものですらあります(笑…いごとではなく)。少なくとも自分自身について言えば、この身振りをとり続けていないと、独善的で狂気に近い世界に引き込まれてしまいそうな危機感があります(ちょっと大袈裟ですが)。

 もともと親しみを感じていない書き手の書き物に、(笑)という表現を見付けても、読者は面白くもなんともないし、むしろ鼻白むだけでしょう。しかし、それでも書き手にとって効能がまったく無い訳ではありません。少なくとも書き手が気難しい偏屈者ではなく、善意の隣人であることのアピールくらいにはなるのではないでしょうか。私にとってはそれで充分なのです。世捨て人でありながら世間とつながっていたいという矛盾したライフスタイルを志向している私にとって、それは文体(スタイル)上の一種の実験でもあるからです(ちょっとキザな言い方ですね)。これからも私はこのブログの中で、(笑)という語法を愛用して行くに違いありません。もしもここまで読んでいただいた読者の方がいらっしゃるなら、どうぞこの点を斟酌してこれからもお付き合いいただけたらと思います。読まされる方にとっては迷惑な話かも知れませんが、孤独な書き手にとって、それは簡単には手放せない麻薬のようなものなのです。(笑)

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