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2006年11月12日 (日)

おすすめ「護憲論のキャッチフレーズ」

 先週のニュースだったと思いますが、安倍首相が米国CNNテレビと英国ファイナンシャル・タイムズのインタビューに答えて、任期中の憲法改正に向けて強い意欲を語ったと報じられていました。ずいぶんと国民を馬鹿にした、ひどい話だと思います。もともと安倍さんが改憲に強い意欲を持っていることは誰でも知っています、しかし、総理大臣になってからの所信表明演説など、国民に向けられた言葉の中からは、改憲を一刻も早く実現したいといった個人的な願望は、少なくとも表面的には姿を消していた。私たちはそれがやはり一国の首相という重責を負った人の節度ある態度なのだと思い、(多少は)頼もしく感じたものです。ところが、こともあろうか海外のメディアに向けて、首相になって初めて改憲への意欲を熱く語ってしまった。語るならまず国民に向けて語るべきでした。護憲派の人間として腹が立つという以前に、こういう慎重さを欠く人間に、この大事な時期の国の舵取りを任せて本当に大丈夫なのか、そういう危うさを感じたのは私だけではない筈です。

 今週はそれに加えて、防衛庁を防衛省に昇格させる法案が、臨時国会で可決されそうな勢いです。それも国民の信を問うことなど一切無しにです(少なくとも私は問われた覚えがない)。最近政界を賑わしている核武装論議などを聞くにつけ、もはやこの国から軍事化を抑制する節度というものが、すっかり消失してしまったような印象です。まさにタガがはずれたという感じ。そして一部の政治家や政治評論家は、この期に乗じて毎度おなじみの恫喝的なフレーズを国民に浴びせかけて来る。曰く、「現行憲法はアメリカに押し付けられたものだ」、「九条は武力解除のための占領政策の一環である」、「憲法を変えてふつうの国になろう」。聞き飽きた陳腐なコトバであるには違いありませんが、護憲派のひとりとして情けないのは、これらのコトバのリアリティを支えているものが、十年一律変わらない、それよりもっと陳腐な護憲論の側の言説であるかも知れないという点です。曰く、「現行憲法は日本が世界に誇れるものだ」、「九条は私たち日本国民の平和への祈りである」、「憲法の精神を世界中に広めよう」。ね、どうです? 陳腐さという点では両者似たようなものですが、これが例えば<気恥ずかしさ>という尺度になると、圧倒的に護憲論の方が分が悪い。こういう気恥ずかしい護憲平和のキャッチコピーが巷に溢れれば溢れるほど、逆に好戦的な改憲派のコトバの方が現実味を増すという構造になっている。そういう意味では、今日護憲派の足を引っ張っているのは、護憲派自身であると言えるかも知れません。

 これから政治の世界は、ますます劇場型と呼ばれるものに近付いて行き、政治家には役者としての資質が求められるようになるのでしょう。ワンフレーズ・ポリティクスという呼び名が小泉政権時代に出来ましたが、そこでは役者が口にする短い台詞が世論に大きな影響を与えて行くことになる。だとすれば、憲法を守り、九条の精神を次世代に引き継ぎたいと思っている我々だって、改憲派に負けないような簡潔で、現代人のテイストに合う、ピリっとした惹句を発明して行かなくてはならない。今回の記事では、最近読んだ本から、現代の護憲論はここまで進化しているのだということを証明出来る、ひとひねり利いた魅力的なコトバを紹介したいと思います。本のタイトルは『9条どうでしょう』というもので、内田樹さん町山智浩さん小田嶋隆さん平川克美さんの四人が、それぞれ憲法九条への想いを綴った文章を集めたエッセイ集です。もともと内田さんの呼びかけに応じて集まった書き手たちだそうですが、全員が九条改正には反対の立場を採っている。しかもその主張を、昨今の常套的な護憲論の言説とは一線を画したいという強烈な意志でもって貫いています。憲法について論じるという「気鬱な仕事」に対し、四人が<ひねり>を競うという企画の勝利で、とてもユニークなアンソロジーが出来たのだと思います。ここでは四篇のエッセイの内容を紹介するのではなく、前後の文脈からも無関係に、私が護憲論のキャッチフレーズとして使えそうだと思ったコトバをご紹介したいと思います。それぞれ誰が書いたコトバかということも、意識しないで読んでみてください。

 『九条は、掟破りの条文だ。
 たとえるなら、ボクシングにおけるノーガード戦法、ないしは、サッカーにおけるノーキーパー戦術(←ええ、そんな戦術は存在しませんが)に近い。
 とすれば、この戦法は、よほどのフットワークと戦術的洗練がなければ貫徹できない。また、それゆえにこそ、九条のような例外的な規定は、100パーセント戦闘的に訴え続けなければならないのだ。』

 どうです? 「九条は日本国民の平和への祈り」などというふやけた言い方に比べて、なんて颯爽としてカッコいいコトバだろう。これならサッカー・ナショナリズムに染まる若者の心の琴線にも触れるんじゃないかな。いま私たちが認識しなければならないことは、九条を守ることは決して軟弱なことでも微温的なことでもなく、徹底的に戦闘的なことであるという事実だ。若者向けということでは、こんな分かりやすいコトバもありました。

 『せめて改憲に賛成した人は、自分で兵役について欲しいものである。軍備に賛成しながら自分は軍隊に入らないというんじゃ、口先だけじゃん。』

 同感。小林よしのりなんかに影響されて、靖国神社まで行っちゃう若者は、憲法が改正されて徴兵制が施行されたら、真っ先に自分たちが徴兵されることを想像してみなくちゃいけない。そしてさらに、「憲法を改正した当事者たちは、決して徴兵されることはないのだ」という事実についても想像してみなくちゃいけない。

 『公の思想?
 ははは。
 「公」という字を良く見てごらん。
 ハムというのは、死んだ肉で出来ているんだぜ。』

 ははは。意味不明の駄洒落コトバですが、コピーとしては最高ですね。いまの若者には公共心や道徳心が欠けているなどという訳知り顔の大人には、このコトバをぶつけてやればいいんだ。自民党が言う<愛国心教育>なんて、要するに死んだ肉の思想です。

 『憲法が形骸化したとは、改憲論者たちの口癖である。しかし、法律、とりわけ憲法というものは、はじめからひとつの形骸なのである。この形骸にリアリティを吹き込むのは時代の政治家であり、人々の意識である。もし、好んで形骸化という言葉を使いたいのなら、私は憲法に対する人々の構えというものが形骸化したと言わなければならないと思う。』

 少し真面目な議論に移りましょう。この本の四人の著者に共通しているのは、憲法というものは現実を映す鏡である必要はない、むしろ現実の方を憲法の理念に向けて変えて行く努力こそが重要なのだという考え方です。現行の憲法(特に九条)が現在の社会状況に合わなくなっていると主張する人は、憲法というものについて根本的な考え違いをしているのです(私もそう思います)。日本国憲法は60年前に制定されて、その間一度も改正を受けていません。もちろん60年のあいだに世界は大きく変りました。しかし、それを言うなら、アメリカ合衆国憲法が制定以来220年にも渡って基本的な条文の修正を受けていないという事実を、どう評価するか。

 『たとえば独立宣言は「すべての人間は現実に平等で自由だ」と言っているわけではない。実際、憲法が制定されてしばらくは女性や奴隷や先住民は人間扱いされていなかったのだから、憲法は機能していなかった。しかし憲法を実現するための努力が続けられ、それがアメリカの歴史を作ってきた。憲法は実現の努力によってはじめて機能する。もちろん「すべての人間が本当に平等で自由」になるまで、つまり永遠にこの努力は続くのだ。』

 日本が戦争に負けて以来、一貫してアメリカという国に追随して来られたのは、決して敗戦国のみじめな負け犬根性のせいではなく、建国以来のアメリカが持つ最良の部分、その理想主義への共感があったからこそだと思います。それは現在の日本国憲法の中にも、<永遠の努力目標>という形で色濃く反映されているものです。

 『歴史の教訓が教えているのは、「現実」はいつも陰謀と闘争の歴史であったということではない。戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するものは、軽蔑されるような「現実」しか作り出すことはできないということである。』

 この文章もいいですね。キャッチフレーズという点で見ると、ちょっとコトバが硬過ぎてイマイチという印象もありますが、書かれていることは正論だし、しかも過激です。『戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するもの』というのは、安倍さんを始めとする改憲派の人たちのことですし、『軽蔑されるような「現実」しか作り出すことはできない』という意味は、この人たちに政治を任せておいたら、やがて本当に日本は再び戦争に巻き込まれてしまうかも知れませんよ、という意味です(そう読めるよね?)。

 ここまでの引用は、内田さんを除く三人の筆者の文章から採ったものですが、最後はやはり内田先生の文章で締めていただきましょう。改憲論議の中心テーマである、「現憲法下での自衛隊の正当性」という問題についての考察です。哲学教授であると同時に、三十年に渡って修業を積んで来た武道家でもある内田さんは、老子の『兵は不祥の器にして、君子の器にあらず』という言葉を引いた上で、こう書くのです。

 『武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存する。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。(中略)
 自衛隊はその原理において「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条という「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。』

 名文だと思います。一般的には自衛隊の存在と九条の規定は相矛盾するものと捉えられています。それが九条改正の理由のひとつに数えられる訳ですが、この矛盾を「封印された武の正統性」という概念を導入することで、解消するどころかむしろ前向きに解決してしまっている。この内田さんの言葉に詭弁を読み取る人もいるかと思いますが、私は全然そうは思いません。「防衛庁を省に昇格して、自衛隊に軍隊としての正当な地位を与えよう」などという浅はかな考え方よりも、この内田さんの言葉の方が、よほど私たち国民の<自衛隊に対する静かな尊崇の念>をうまく代弁していると思います。これからも自衛隊が私たち国民の軍隊であり続けることを保証するのは、新しく制定される「防衛省設置法案」ではない、過去60年近くに渡って一度も戦争をせず、一人の民間人をも殺さなかった、奇跡のような軍隊に対する私たち国民の尊敬の念以外のものではないのです。それは長い日本の歴史の中で培われて来た「武士道」の精神にもつながるものであるような気がします。

 いかがでしたでしょうか。これから我が国初の国民投票に至るまで、国を挙げての論争が続く訳ですが、私たち護憲派のブロガーとしては、こういう護憲論のキャッチフレーズをたくさんストックしておくことも重要だと思います。敵がワンフレーズ・ポリティクスで攻めて来るのだから、こちらも魅力的なアフォリズムで対抗する。いろいろな人がいろいろな場所で、心を打ついい言葉をたくさん発表していると思います。(私の観測では、改憲論には煽動的なコトバはあっても、心を打つコトバはありえない。) それを集めて、いわば『護憲論の詞華集』を編纂するのです。これはちょっといい企画であるような気がする。どなたか私と一緒に編集作業に協力してくださる方はいらっしゃいませんか?

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コメント

この問題になると、私とLike_an_Arrowさんとでは、かなり意見が違うのですが、書かせていただくことを、お許しください。

日本は平和憲法(の精神)を、本当の意味で守ってきたかというと、それは大嘘だと思うのです。日本はアメリカの核の傘にずっと守られてきたし、国内には、いまも米軍基地が6箇所もある。戦後、日本列島が軍事的に空白化したことは、ただの一度もありません。だからソ連も中国も、日本を共産圏にとりこもうとしても、手が出せなかった。

日本人が、「私たちは平和憲法を守って平和を維持してきました」 なんて発言するのは、冗談のような笑い話です。日本という国の家は、アメリカさんが超重装備で守ってくれている。なのに家の中にいる住民は、ニコニコしながら、「僕たち私たちって、戦争なんかしない平和主義者だよね」 と無邪気に言っている。(私はこれが恥ずかしくてしょうがないです。)

私も戦争放棄の憲法は変えるべきでないと思います。ただし戦争行為と警察行為を明確に区別して、国際社会で合意された、国際的な平和維持活動には参加できるように、憲法を変えるべきと思います。平和維持活動には、武力行為を含みます。暴力団の抗争に対しては、警察の拳銃発砲行為が、ときとして必要であるように。

『ブレジンスキーの世界はこう動く』日本経済新聞社から引用です。

> クリントン大統領の補佐官だったブレジンスキーは、日本を米国の被保護国と呼ぶ。中国は「台湾も吸収して」「一級の世界大国としての地位を築」く国だと定義する一方で、日本がアジアの大国になることは「不可能」で、日本はひたすら経済成長に力を注ぎ、その経済力を国際社会に寄附し使ってもらう存在になるべきだと説く。

これは屈辱的な話ではないでしょうか。もし平和憲法を変えずに、しかも国家としての自主自立を実現し、国家の品格を高上させたいと思うなら、いますぐ在日米軍にすべて出て行ってもらい、日米安保条約を破棄すべきでしょう。そして、それでも国家としてやっていけるのだ、ということが世界に示せれば、日本は、世界中から、たいへん尊敬されるでしょう。(できっこないけど。)

日本が米国の被保護国というのは、事実そのものです。文学的修辞ではない。現実論として、平和憲法を維持することができるのも、核兵器を持つアメリカに守られていればこそです。この状態を知らずして(無視して)、日本が自力で平和を守ってきたかのように言う文化人や知識人を、私は心底、信用できないです。

アメリカや中国と対等の国になりたいのなら、日本も核を持つしかないです。フランスがなぜあんなに核を持つことにこだわったか。なぜインドやパキスタンは核を持つのか。なぜ北朝鮮は核を持つのか。核兵器が使いたいからじゃないです。核を持っていないと、国がなめられるからです。一人前の国家として、国際社会で認められないからです。すでに核を持つどこかの国の従属国にならざるを得ないからです。国家の自主独立が達成できないからです。

しかしそれでもなお、日本は核を持つべきでないと、私は思います。でも、いつまでもアメリカの従属国、被保護国の状態でいるのは嫌だ。だとしたら、どうしたらいいか。   難しいです。護憲を叫べば解決するような単純な問題じゃない。

(言葉が過ぎたようでしたら、ごめんなさい。)

投稿: mori夫 | 2006年11月18日 (土) 18時04分

mori夫さん、コメントありがとうございます。mori夫さんのご意見を読んで思ったのですが、たぶん私の意見とそうは違っていないように感じました。

基本的に現在の日本が米国の被保護国だというのはその通りだと思います。それどころか、いまだに日本は米国の被占領国と言ってもいいとさえ思っています。だって国内にアメリカ軍が駐留している限り、日本は絶対に本質的なところでアメリカに逆らうことは出来ない訳でしょう? もしもアメリカと日本が交戦状態になったら、通常兵器のレベルでなら自衛隊は国内のアメリカ軍を駆逐することが出来るのだろうか? とても無理ですよね。こういう状態って、被占領国とは言いませんか? アメリカや中国と対等な国になるためには、核兵器を持つだけでは駄目だと思います。mori夫さんがおっしゃるように、日米安保条約を破棄して、在日米軍に出て行ってもらうことが絶対条件です。

安倍首相の言うような「憲法改正によって国家の威信を取り戻す」というロジックは、この点に欺瞞があると思っています。もしも日本が真に誇りある独立国家になりたいのなら、憲法を改正することよりも、核兵器を持つことよりも、国内の外国軍隊に出て行ってもらうことから始めなければならない。もしも安倍さんがそういう主張をするのであれば、私は安倍さんを信頼してもいいです(支持はしないけど)。ところが安倍政権のやろうとしていることは、国内のアメリカ軍はそのままで、憲法だけを改正して、自衛隊を自衛軍(もしくは国防軍)にすることだけです。何故か? アメリカがそれを望んでいるからです。いま改憲をして、自衛隊に海外での「平和維持活動」に武力を持って参加することを認めるのは、要するに極東における米軍の戦力強化という意味しかないと思います。小泉政権や安倍政権が、何故ここまでアメリカべったりの政策を採るのか? 何か裏に汚らわしい密約でもあるのではないか、そう勘繰りたくもなります。

だから改憲論を主張するなら、話が逆なんです。まずは米国との対等ではない軍事同盟を解消し、ふつうの主権国家同士としての関係を取り戻してから、それから憲法を変えるか、あくまで平和憲法で行くかを議論すべきだと思います。でも、現実問題としてそれは難しいでしょう? だからせめてすべてをアメリカの思いどおりにさせないために、いま以上アメリカの属国として卑屈な国にならないために、この状況で憲法を変えてはいけないと思うんです。実はこれが私の護憲論の本音です。ブログの本文では書けませんが、相手がmori夫さんなので、ついつい本音を漏らしてしまいました。(笑)

投稿: Like_an_Arrow | 2006年11月20日 (月) 01時52分

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