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2006年11月26日 (日)

笑いの効能、(笑)の効用

 岩波文庫でも出ているベルクソンの『笑い』は、笑いの哲学的考察というジャンルでの古典的名著と呼ばれている一冊です。その冒頭で著者は「笑い」というものの謎を、「哲学的思索に対して投げられた小癪な挑戦」と表現しています。「小癪な」という形容詞を久々に目にしたような気がします。これはなかなか含蓄のある言葉ですね(フランス語で何と言うのか分かりませんが、とてもいい訳語だと思います)。古来、哲学者というものは、時の喜劇作者や風刺家らによって、さんざんからかわれ、ほとんど「無用な考えをめぐらす役立たず」くらいの扱いしか受けて来ませんでした。今日でも、「あいつは哲学者だから」などと陰口をたたかれて、それを褒めコトバだと受け取る人はいないと思います。ベルクソンの著作は、この二千数百年もの<忍辱の歴史>に対して、哲学者の側から一矢を報いようとしたものだとも考えられます。今回は、私もマイナー・フィロソファーの端くれとして、小癪な謎である「笑い」について少し考えてみようと思います。

 この世界は喜びよりも悲しみに満たされていると考えたがる人は(たぶん宗教方面にそういう考えの人が多いような気がしますが)、そのひとつの証拠として、人間が生まれて最初にすることは、笑うことではなくて泣くことだなどと言います。しかし、生まれて来た赤ちゃんが、おぎゃあと言って産声を上げる時、あるいはお腹が空いておっぱいを欲しがって泣く時、あれは決して悲しみの感情に満たされて泣いている訳ではない。単に生物としての必要に迫られているだけで、そこに人間的な感情を読み取るのは間違いだと思います。人間的な感情という意味では、子供は泣くことよりも笑うことを最初に覚えるものだ、そのことに間違いはありません。私事で恐縮ですが、我が家の二歳児の息子を観察していると、それがはっきり分かるのです。本当に言葉も何も分からない0歳児の頃から、赤ん坊は大人の笑いかけに反応してよく笑う。人間は生まれながらに<笑いの共鳴板>を持っているに違いない、そんな表現をしたくなるほどです。逆に大人が泣いていると、もらい泣きする赤ちゃんなどは聞いたことがないでしょう? 子供を見ていると、なるほど人間というものはこの世に笑うために生まれて来たのだな、そう強く実感するのです。

 笑いというものが、人々のあいだの共鳴として存在することは、仮説として説得力のあるものだという気がします。深夜ひとりで本を読んでいても、私たちは思わず声を出して笑ってしまうことがありますが、それは同じ本を読んで、同じ箇所で笑っている人がいるという暗黙の確信があってこそ笑えるのだと思います。明日になれば、友達とこの本の感想を語り合うことも出来る。仮にこれが無人島にひとり取り残されてしまった状況だとしても、気持ちをうまくコントロールすれば、面白い本を読んで笑えないこともない。それはやがて救助されて、もとの世界に戻れるという希望が少しでもある場合です。ところが、もしも自分以外のすべての人類が絶滅してしまい、自分がこの世でたったひとりの生き残りだという事実を知っているという状況を想像してみれば、その時にはもういかにしても笑うことは出来ない気がする。事態が笑えないほど深刻だからというよりも、もはや自分の発した笑いが共鳴する何物もこの世に存在しないからです。おそらくそんな事態になっても、我々は泣くことなら出来るかも知れない、例えば自分がそんな境遇に置かれた不幸を神様に訴えることによって。泣くという行為に関しては、必ずしも人間の相手は必要ありません、相手は自分の心の中にいる神様であってもいい訳です。これを哲学者ふうに定式化して言うならば、笑いは人とつながる意志を、涙は超越者とつながる意志を表している、と言えるのではないだろうか。(この定式の証明はしませんよ。私はプロの学者じゃないですからね。笑)

 前回の記事で自殺の問題について書きましたが、想像するに自殺をする人は、自殺に至るまでの数週間(または数ヶ月間?)、笑うことを一切忘れていたというのが現実ではないでしょうか。ドストエフスキーは、その深刻な小説『悪霊』の中で、<完全に明晰な理性を保ったままでの自殺>というテーマを追究していますが、それはまあ一般にはあり得ないことだからこそ文豪の興味を惹くテーマになったので、ふつうは自殺まで追い詰められる人は、一種の狂気に取りつかれているものだと思います。狂気を胚胎し育成するものは孤独です。結局のところ、人間は孤独病になって、発狂したり自殺したりするのである。(もちろん内因性の精神病ということになれば話は別です。) だとすれば、発狂や自殺から自分を救う最も簡便な手段は、笑うことであるような気がするのです。何故なら、笑いとは他人とつながりたいという強烈な意志に他ならないから。不謹慎だと叱られてしまうかも知れませんが、私はこれから自殺をしようという人に、ひとつ小さなアドバイスをしてみたい。それは遺書の最後に、(笑)という文字を追加してみることです。『だれをも咎むることなかれ、われみずからなり。(笑)』 これではかのスタヴローギンでさえ、死ぬのが馬鹿々々しくなって、もう少し生きてみようかという気になるかも知れません。

 実は今回、笑いの問題について考えてみようと思ったのは、自分がこのブログの中で、(笑)という表現を多用しているのが以前から気になっていたからです。昔、文学青年だった頃には、旧漢字、旧仮名遣いで文章を書いていたくらい、私は<端正な日本語>というものに思い入れが強かった。最近は人間がずいぶんくだけて来たとは言え、自分が(笑)だなんておちゃらけた表現を文中に許すだなんて、ブログを始める前は想像だにしませんでした。(その証拠に、このブログの初めの頃の文章にはこの表現は見当たりませんし、使ったとしてもひとつの記事に1回だけだった。ところが途中からだんだん増えて来て、数えてみたら最近はひとつの記事に3回も4回も出て来たりします。笑…) でも、ここまでの考察で気が付くのですが、私に限らず、多くのブロガーが文章に(笑)を入れるのは、決して単なる自己韜晦や、照れかくしや、おちゃらけのためだけではないように思います。それは誰かとつながっていたいという切なる願いの現れなのです。特に私のこのブログのように、人跡まれなインターネット世界の極北のような場所では、読者とかすかにでもつながっていたいというこの身振りは、いじましくも哀しいものですらあります(笑…いごとではなく)。少なくとも自分自身について言えば、この身振りをとり続けていないと、独善的で狂気に近い世界に引き込まれてしまいそうな危機感があります(ちょっと大袈裟ですが)。

 もともと親しみを感じていない書き手の書き物に、(笑)という表現を見付けても、読者は面白くもなんともないし、むしろ鼻白むだけでしょう。しかし、それでも書き手にとって効能がまったく無い訳ではありません。少なくとも書き手が気難しい偏屈者ではなく、善意の隣人であることのアピールくらいにはなるのではないでしょうか。私にとってはそれで充分なのです。世捨て人でありながら世間とつながっていたいという矛盾したライフスタイルを志向している私にとって、それは文体(スタイル)上の一種の実験でもあるからです(ちょっとキザな言い方ですね)。これからも私はこのブログの中で、(笑)という語法を愛用して行くに違いありません。もしもここまで読んでいただいた読者の方がいらっしゃるなら、どうぞこの点を斟酌してこれからもお付き合いいただけたらと思います。読まされる方にとっては迷惑な話かも知れませんが、孤独な書き手にとって、それは簡単には手放せない麻薬のようなものなのです。(笑)

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2006年11月19日 (日)

いじめによる子供の自殺について

 学校でのいじめによる自殺のニュースが相続いています。先月福岡県で13歳の中学2年生男子が自殺をしたのが発端で、その後も岐阜、大阪、埼玉、奈良、新潟、福岡で、いじめを苦にしたと思われる中学生の自殺が起きました。北海道では昨年起きた小学6年女児の自殺について、いじめが原因だったことが明らかになり、福岡では児童のいじめ問題に絡んで、小学校の校長先生までが自ら命を絶ってしまった。一連の事件に動揺する教育界への抗議(またはからかい?)のように、文部科学省には自殺予告の手紙が何通も送り付けられています。事態を重く見た文科省では、子供たちに向けて緊急のメッセージを発表しました。(伊吹大臣の記者発表の様子をテレビで見ましたが、なんだか棒読みの印象でしたね。とても子供たちの心に届くメッセージだとは思えませんでした。) 新聞各社も、子供のいじめと自殺を防止するキャンペーンを展開中です。文科省は、1999年以来廃止していた「いじめによる自殺」という項目を、自殺統計の中に復活したと言います。

 毎年3万人もの自殺者が出ることが常態化してしまった今日の日本でも、十代前半の子供の自殺はまだまだニュース・バリューが高いようです。昔から「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」などと言いますが、連日子供の自殺が大きなニュースになっているのは、きっとそれが珍しいことであるからに違いない、ふとそんなことを考えてしまいました。ニュースを聞いていると、いかにも最近は子供の自殺が急増しているような印象を受けます。果たして実際にその件数は増えているのだろうか、また自殺者全体に占める若年者の割合はどうなっているのだろうか? こういう時にインターネットというのは本当に便利ですね。キーワードで検索すると、すぐに情報が見付かりました。統計によれば、ここ約30年のあいだに、二十歳未満の若年者の自殺件数は、最低が平成5年の446件、最高が昭和54年の919件で、最近は毎年ほぼ5、600件台で推移しています。(さすがにロー・ティーンだけを対象にしたデータは見付かりませんでした。) むしろ増えているのは二十歳以上の成人の自殺、とりわけ中高年男性での増加が目立っています。もちろん毎年数百人の十代の若者が自ら命を絶っているという事実、それは言葉では尽くせないほど重い事実である訳ですが、かと言って日本が他の先進諸国と比べて特に若年者の自殺率が高いという訳でもないようです。

 青年時代にドストエフスキーやショウペンハウエルを耽読したことが関係しているのかどうか分かりませんが、私自身は自殺というものに対する抵抗感や嫌悪感が比較的少ない人間だと思います。もちろん、周りに自殺をほのめかすような人がいれば必死に止めようとするでしょうし、自分自身がいま自殺の危険性を抱えている訳でもたぶんありません。ただ究極のところ人間には自殺する権利だってあるのだ、そんな考えを心の底で持っているのです。そしてこうした考え方の傾向を持つ人間からすると、子供の自殺をさも重大な社会的事件のように扱うマスコミの論調には、ある種の反撥を感じるのです。みんな「自殺はいけないこと、自殺は忌むべきもの」というゆるぎない信念から出発している(まあ、当然ですが)。しかし、若い頃に自殺を想ったことがある人なら覚えがある筈です、いざとなったらいつでも自殺出来るという観念がどれほど心の苦痛を和らげてくれて、場合によっては生きる勇気さえも与えてくれるものであるかということを。私はこの心の甘露を子供から取り上げる権利は大人には無い、と考えます。逆説的ですが、人間には死とすれすれの平面にやっと足場を見付けて、そこに両足を着けてやっと立ち上がれるという状況だってあると思うのです(若い頃の自分の経験から言っています)。自殺に対するマスコミを挙げてのネガティブ・キャンペーンは、そういう危険な場所で平衡を保っている若い人にとって、最後の拠りどころを奪われるようなものであるかも知れない、そんな気がするのです。

 いや、最近の子供の自殺というのは、お前のような文学趣味の人間が考えるような甘っちょろい心の問題などではない、<いじめ>という、ほとんど犯罪にも等しい人格攻撃が要因としてあることが問題の本質なのだ、きっとそういう反論があると思います。それに関しては、まったく同意です(と言うより、この問題について考えてみようと思って、今回の記事を書き始めたのでした)。でも、そうであるならば、マスコミはいじめの問題と自殺の問題を分けて報道して欲しいというのが私の意見です。現在のマスコミの報道は、自殺の危険域にある子供たちの心理に対してあまりに配慮が欠けているような気がします。自殺した子供の自筆の遺書を写真で公開する、クラスメートの生徒にインタビューのマイクを向ける。何故そんな無神経な報道がまかり通っているのだろう。おそらく教育現場のいじめの実態というだけでは、現代のマスコミにとってはニュース・バリューが乏しいのでしょう。だから<実際に自殺した中学生>というスケープゴートがどうしても必要なのだ。(これが高校生ではインパクトが弱い、小学生ならば一層望ましい、そういう話です。) さすがに最近の報道の行き過ぎには警鐘を鳴らす人もいて、自殺報道がさらなる連鎖的な自殺を引き起こしている危険性も指摘されています。これはマスコミ関係者が真摯に受け止めるべき指摘です。例えばいじめに堪え兼ねて自殺した少年の遺書は、同じようにいじめに悩む同世代の子供にとっては、重要な啓示のように映るかも知れない。自殺を想うことと、これを実行することの間には大きな隔たりがあります。自殺すれば、いじめに対する命をかけた抗議としてテレビでも大きく取り上げてもらえる、このことから得られるヒロイックな高揚感は、行為としての自殺への強力なジャンピングボードになるかも知れないのです。

 子供の世界のいじめの問題は、私たちの社会全体の問題としてみなで話し合い、解決の方法を探って行くべき問題です。一方、自殺の問題を解決出来るのは、マスコミの力でも世論の力でもなく、その子の家庭や担任の先生やクラスメートや地域社会の取り組みだけだと思います。要するに自殺というものは、個々の事件のディテールを取材して報道する意味がまったく無い事柄なのです。これは殺人事件などについても言えることですが、マスコミがこうした<人が死ぬ事件>を取り上げるやり方は、本当に非人道的なものだと感じます。読者や視聴者が興味を持ちそうな事件だけが選択的に取り上げられているに過ぎない。つまり彼らは<人の死>を売り物にしている訳です。その証拠に、マスコミは年間三万人の大人の自殺者には、注意も払わない。人の命の重さに軽重はないというのが今日の民主主義の原則です。もしもすべての自殺を同じ重さで扱うならば、新聞の社会面は毎日自殺の記事で埋め尽くされる筈です。自殺というのは、ことの善し悪しは別として、最高度にプライベートな事柄です。大人が自殺をすることをマスコミは放っておいてくれるのに、何故子供が自殺をした場合にはこんなに大騒ぎをするのか。はっきり言って、私はこれは子供に対する人権侵害だとさえ感じるのです。

 教育者でもなく、精神科医でもない自分が、子供の自殺防止に関するまともな意見など言える訳はないし、また軽々しくものを言うべき領域ではないことも分かっています。しかし、このところの報道のされ方を見ていると、何かひとこと言わなくてはいられない気持ちになってしまい、それが今回の記事を書かせました。最後に現在いじめに遭っていて、自殺を考えている若い人へのメッセージを書いて、この文章を締めくくろうと思います。いじめの問題は学校の中だけではなく、大人の社会の中にも同じようにあります。しかし、現在、社会の中ではそれを克服しようとする大きな運動があちこちで展開されているのです。子供の世界でも大人の世界でも、いじめる側の中心にいる人というのは、自分というものに対して無自覚で無反省な人がほとんどですから、この運動は人々の心を目覚めさせる運動でもあります。そんな時代にあって、君のような若い人を失うことは本当に惜しいのです。だって、想像してください、いじめられた人が死んでしまい、いじめた側がのうのうと生き延びるとすれば、これからの世の中は弱肉強食の本当に嫌な世の中になってしまうじゃないですか。目に見える戦争というかたちではないけれど、これからの日本はこの内なる闘いの時代に入ります。しかもそれは充分に勝ち目のある闘いだと私は思っています。どうか君の近くに理解者がいることを信じてください、君の周りにたくさんの連帯者が現れることを信じてください。そしてやがては君をいじめた者たちをも、屈服させて仲間にさせてみせようじゃありませんか。

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2006年11月12日 (日)

おすすめ「護憲論のキャッチフレーズ」

 先週のニュースだったと思いますが、安倍首相が米国CNNテレビと英国ファイナンシャル・タイムズのインタビューに答えて、任期中の憲法改正に向けて強い意欲を語ったと報じられていました。ずいぶんと国民を馬鹿にした、ひどい話だと思います。もともと安倍さんが改憲に強い意欲を持っていることは誰でも知っています、しかし、総理大臣になってからの所信表明演説など、国民に向けられた言葉の中からは、改憲を一刻も早く実現したいといった個人的な願望は、少なくとも表面的には姿を消していた。私たちはそれがやはり一国の首相という重責を負った人の節度ある態度なのだと思い、(多少は)頼もしく感じたものです。ところが、こともあろうか海外のメディアに向けて、首相になって初めて改憲への意欲を熱く語ってしまった。語るならまず国民に向けて語るべきでした。護憲派の人間として腹が立つという以前に、こういう慎重さを欠く人間に、この大事な時期の国の舵取りを任せて本当に大丈夫なのか、そういう危うさを感じたのは私だけではない筈です。

 今週はそれに加えて、防衛庁を防衛省に昇格させる法案が、臨時国会で可決されそうな勢いです。それも国民の信を問うことなど一切無しにです(少なくとも私は問われた覚えがない)。最近政界を賑わしている核武装論議などを聞くにつけ、もはやこの国から軍事化を抑制する節度というものが、すっかり消失してしまったような印象です。まさにタガがはずれたという感じ。そして一部の政治家や政治評論家は、この期に乗じて毎度おなじみの恫喝的なフレーズを国民に浴びせかけて来る。曰く、「現行憲法はアメリカに押し付けられたものだ」、「九条は武力解除のための占領政策の一環である」、「憲法を変えてふつうの国になろう」。聞き飽きた陳腐なコトバであるには違いありませんが、護憲派のひとりとして情けないのは、これらのコトバのリアリティを支えているものが、十年一律変わらない、それよりもっと陳腐な護憲論の側の言説であるかも知れないという点です。曰く、「現行憲法は日本が世界に誇れるものだ」、「九条は私たち日本国民の平和への祈りである」、「憲法の精神を世界中に広めよう」。ね、どうです? 陳腐さという点では両者似たようなものですが、これが例えば<気恥ずかしさ>という尺度になると、圧倒的に護憲論の方が分が悪い。こういう気恥ずかしい護憲平和のキャッチコピーが巷に溢れれば溢れるほど、逆に好戦的な改憲派のコトバの方が現実味を増すという構造になっている。そういう意味では、今日護憲派の足を引っ張っているのは、護憲派自身であると言えるかも知れません。

 これから政治の世界は、ますます劇場型と呼ばれるものに近付いて行き、政治家には役者としての資質が求められるようになるのでしょう。ワンフレーズ・ポリティクスという呼び名が小泉政権時代に出来ましたが、そこでは役者が口にする短い台詞が世論に大きな影響を与えて行くことになる。だとすれば、憲法を守り、九条の精神を次世代に引き継ぎたいと思っている我々だって、改憲派に負けないような簡潔で、現代人のテイストに合う、ピリっとした惹句を発明して行かなくてはならない。今回の記事では、最近読んだ本から、現代の護憲論はここまで進化しているのだということを証明出来る、ひとひねり利いた魅力的なコトバを紹介したいと思います。本のタイトルは『9条どうでしょう』というもので、内田樹さん町山智浩さん小田嶋隆さん平川克美さんの四人が、それぞれ憲法九条への想いを綴った文章を集めたエッセイ集です。もともと内田さんの呼びかけに応じて集まった書き手たちだそうですが、全員が九条改正には反対の立場を採っている。しかもその主張を、昨今の常套的な護憲論の言説とは一線を画したいという強烈な意志でもって貫いています。憲法について論じるという「気鬱な仕事」に対し、四人が<ひねり>を競うという企画の勝利で、とてもユニークなアンソロジーが出来たのだと思います。ここでは四篇のエッセイの内容を紹介するのではなく、前後の文脈からも無関係に、私が護憲論のキャッチフレーズとして使えそうだと思ったコトバをご紹介したいと思います。それぞれ誰が書いたコトバかということも、意識しないで読んでみてください。

 『九条は、掟破りの条文だ。
 たとえるなら、ボクシングにおけるノーガード戦法、ないしは、サッカーにおけるノーキーパー戦術(←ええ、そんな戦術は存在しませんが)に近い。
 とすれば、この戦法は、よほどのフットワークと戦術的洗練がなければ貫徹できない。また、それゆえにこそ、九条のような例外的な規定は、100パーセント戦闘的に訴え続けなければならないのだ。』

 どうです? 「九条は日本国民の平和への祈り」などというふやけた言い方に比べて、なんて颯爽としてカッコいいコトバだろう。これならサッカー・ナショナリズムに染まる若者の心の琴線にも触れるんじゃないかな。いま私たちが認識しなければならないことは、九条を守ることは決して軟弱なことでも微温的なことでもなく、徹底的に戦闘的なことであるという事実だ。若者向けということでは、こんな分かりやすいコトバもありました。

 『せめて改憲に賛成した人は、自分で兵役について欲しいものである。軍備に賛成しながら自分は軍隊に入らないというんじゃ、口先だけじゃん。』

 同感。小林よしのりなんかに影響されて、靖国神社まで行っちゃう若者は、憲法が改正されて徴兵制が施行されたら、真っ先に自分たちが徴兵されることを想像してみなくちゃいけない。そしてさらに、「憲法を改正した当事者たちは、決して徴兵されることはないのだ」という事実についても想像してみなくちゃいけない。

 『公の思想?
 ははは。
 「公」という字を良く見てごらん。
 ハムというのは、死んだ肉で出来ているんだぜ。』

 ははは。意味不明の駄洒落コトバですが、コピーとしては最高ですね。いまの若者には公共心や道徳心が欠けているなどという訳知り顔の大人には、このコトバをぶつけてやればいいんだ。自民党が言う<愛国心教育>なんて、要するに死んだ肉の思想です。

 『憲法が形骸化したとは、改憲論者たちの口癖である。しかし、法律、とりわけ憲法というものは、はじめからひとつの形骸なのである。この形骸にリアリティを吹き込むのは時代の政治家であり、人々の意識である。もし、好んで形骸化という言葉を使いたいのなら、私は憲法に対する人々の構えというものが形骸化したと言わなければならないと思う。』

 少し真面目な議論に移りましょう。この本の四人の著者に共通しているのは、憲法というものは現実を映す鏡である必要はない、むしろ現実の方を憲法の理念に向けて変えて行く努力こそが重要なのだという考え方です。現行の憲法(特に九条)が現在の社会状況に合わなくなっていると主張する人は、憲法というものについて根本的な考え違いをしているのです(私もそう思います)。日本国憲法は60年前に制定されて、その間一度も改正を受けていません。もちろん60年のあいだに世界は大きく変りました。しかし、それを言うなら、アメリカ合衆国憲法が制定以来220年にも渡って基本的な条文の修正を受けていないという事実を、どう評価するか。

 『たとえば独立宣言は「すべての人間は現実に平等で自由だ」と言っているわけではない。実際、憲法が制定されてしばらくは女性や奴隷や先住民は人間扱いされていなかったのだから、憲法は機能していなかった。しかし憲法を実現するための努力が続けられ、それがアメリカの歴史を作ってきた。憲法は実現の努力によってはじめて機能する。もちろん「すべての人間が本当に平等で自由」になるまで、つまり永遠にこの努力は続くのだ。』

 日本が戦争に負けて以来、一貫してアメリカという国に追随して来られたのは、決して敗戦国のみじめな負け犬根性のせいではなく、建国以来のアメリカが持つ最良の部分、その理想主義への共感があったからこそだと思います。それは現在の日本国憲法の中にも、<永遠の努力目標>という形で色濃く反映されているものです。

 『歴史の教訓が教えているのは、「現実」はいつも陰謀と闘争の歴史であったということではない。戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するものは、軽蔑されるような「現実」しか作り出すことはできないということである。』

 この文章もいいですね。キャッチフレーズという点で見ると、ちょっとコトバが硬過ぎてイマイチという印象もありますが、書かれていることは正論だし、しかも過激です。『戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するもの』というのは、安倍さんを始めとする改憲派の人たちのことですし、『軽蔑されるような「現実」しか作り出すことはできない』という意味は、この人たちに政治を任せておいたら、やがて本当に日本は再び戦争に巻き込まれてしまうかも知れませんよ、という意味です(そう読めるよね?)。

 ここまでの引用は、内田さんを除く三人の筆者の文章から採ったものですが、最後はやはり内田先生の文章で締めていただきましょう。改憲論議の中心テーマである、「現憲法下での自衛隊の正当性」という問題についての考察です。哲学教授であると同時に、三十年に渡って修業を積んで来た武道家でもある内田さんは、老子の『兵は不祥の器にして、君子の器にあらず』という言葉を引いた上で、こう書くのです。

 『武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存する。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。(中略)
 自衛隊はその原理において「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条という「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。』

 名文だと思います。一般的には自衛隊の存在と九条の規定は相矛盾するものと捉えられています。それが九条改正の理由のひとつに数えられる訳ですが、この矛盾を「封印された武の正統性」という概念を導入することで、解消するどころかむしろ前向きに解決してしまっている。この内田さんの言葉に詭弁を読み取る人もいるかと思いますが、私は全然そうは思いません。「防衛庁を省に昇格して、自衛隊に軍隊としての正当な地位を与えよう」などという浅はかな考え方よりも、この内田さんの言葉の方が、よほど私たち国民の<自衛隊に対する静かな尊崇の念>をうまく代弁していると思います。これからも自衛隊が私たち国民の軍隊であり続けることを保証するのは、新しく制定される「防衛省設置法案」ではない、過去60年近くに渡って一度も戦争をせず、一人の民間人をも殺さなかった、奇跡のような軍隊に対する私たち国民の尊敬の念以外のものではないのです。それは長い日本の歴史の中で培われて来た「武士道」の精神にもつながるものであるような気がします。

 いかがでしたでしょうか。これから我が国初の国民投票に至るまで、国を挙げての論争が続く訳ですが、私たち護憲派のブロガーとしては、こういう護憲論のキャッチフレーズをたくさんストックしておくことも重要だと思います。敵がワンフレーズ・ポリティクスで攻めて来るのだから、こちらも魅力的なアフォリズムで対抗する。いろいろな人がいろいろな場所で、心を打ついい言葉をたくさん発表していると思います。(私の観測では、改憲論には煽動的なコトバはあっても、心を打つコトバはありえない。) それを集めて、いわば『護憲論の詞華集』を編纂するのです。これはちょっといい企画であるような気がする。どなたか私と一緒に編集作業に協力してくださる方はいらっしゃいませんか?

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2006年11月 5日 (日)

人類の道徳的進化という仮説

 最近このブログでよく取り上げる内田樹さんの、今年出た新刊『私家版・ユダヤ文化論』を読みました。もともと私は、文系人間である割には読書時間が少ない人なのですが(仕事や育児で忙しいこともあるけれど、ひとりでボーっと考えていることの方が好きな性分なんです)、内田さんの本はこの数ヶ月の間に六、七冊は読み、ご本人のブログにもよく目を通しています。おそらく自分の読書時間の半分以上は内田さんに捧げているのではないかしら。まあ、内田先生へのオマージュは以前にも書きましたから繰り返しませんが、そのくらい今の自分には波長の合うものがあるのです。今回の本も、斬新な着想と鋭い洞察が満載で、刺激的な読書時間を過ごすことが出来ました。が、この本の中で一番印象に残ったのは、内田さん自身の学説ではなく、初めて名を聞くひとりの思想家の言葉でした。ローレンス・トーブという人です。未来学者という肩書きで呼ばれる人で、既に70年代にベルリンの壁の崩壊やイラン革命を予言していたのだそうです。(往年のSFファンにはハリ・セルダンを髣髴させますね。) 日本語を含む十ヶ国語(!)を使いこなす人で、最近まで日本に住んでいらしたのだと言います。まだ著書の日本語訳は出ていないようですが、内田さんの紹介文を引用すれば、次のような思想を持った人です。

 『「人類は進歩しているだろうか?」という問いをポストモダン期の知識人は一笑に付すだろう。もちろん科学技術は進歩した。しかし、この戦争と虐殺と差別と迫害の連鎖のどこに人間性の成熟のあかしをお前は見ることができるのか、と。
 トーブはこのようなシニカルな評価を退ける。十九世紀以後の歩みをたどってみても、人間たちは人種的・性的・宗教的な差別や、植民地主義的収奪や奴隷制度をはっきり「罪」として意識するようになってきた。これらの行為はそれ以前の時代においては必ずしも「罪」としては意識されていなかったものである。たしかに依然として人は殺され続けているし、富は収奪され続けているが、そのような凶行の当事者でさえ、その「政治的正しさ」や「倫理的な根拠」について国際社会に向けて説明する義務を(多少は)感じている。これは百年前には存在しなかった感情である。そのことから見て、人類は霊的に成熟しつつあり、人間性についての省察を深めつつあるという見通しを語ることは許されるだろう。そうトーブは書く。』

 ここで内田さんが「霊的」と訳している単語は「Spiritual」でしょうが、スピリチュアルを「霊的」と訳すとスピリチュアリズムの言説と混同してしまいそうなので(込み入ってますね)、ここはとりあえず無難に「精神的に成熟」と訳しておいた方がいいと思います。トーブさんの言葉に無理矢理神秘的な予言者の色合いをかぶせて見なければ、単純明解な思想です、人類はここ百年のスパンで見ても、明らかに道徳的な進化を遂げているというのです。私が何故この言葉に感銘を受けたかと言うと、これはそのまま常日頃、私が考えていることとそっくり同じ思想だからです(笑)。内田さんが指摘するとおり、最近の知識人はシニカルでクールなので、現代が道徳的に見て過去の時代よりも進化しているなんて言い方をすると、おそらく反論されるよりも馬鹿にされるのがオチでしょう。しかし、素直に当たり前に考えてみれば、こんな分かりやすい事実は無いと私は思う。何故誰もそのことをはっきり言わないんだろう、私はいつもそのことを不審に思っていたのです。今回はトーブさん(とそれを推奨する内田さん)の言葉に力を得て、この問題に関して少し書いてみようと思います。

 道徳的な進化の証拠は、至るところに見付かるような気がします。以前死刑制度について調べていて、ひとつ驚いたことがありました。フランスが二十世紀の前半まで(正確には1939年まで)、ギロチンによる公開処刑を行なっていたという事実です。フランスと言えば、「自由・平等・博愛」の理念を掲げた民主主義の最先端国じゃないですか。日本だって明治時代以降、公開処刑なんて行なっていないのに、何故こともあろうにフランスで? 例えばこれが中世の頃の魔女狩りや宗教裁判の話、あるいはマリー・アントワネットが断頭台の露と消えたといった話なら、まあ、大昔にはそんな野蛮な時代もあったよね、で済ませることも出来るでしょう。が、フランスでの公開処刑廃止は、今からわずか六十七年前の話なのです。若い頃に自分の目でそれを目撃した人が、今でも生きているかも知れない、要するに現代史のひとコマです。もちろんその後に起こった侵略戦争やホロコーストのことを思えば、犯罪者が公衆の面前で処刑されることなど、大したことではないのかも知れません。しかし、戦争中のことは、一種の集団ヒステリーの結果と見ることも出来ますが、平時の刑事犯に対する公開処刑ということになれば、これはやはりその時代の道徳意識を反映したものだと考えざるを得ません。今日(の少なくとも先進諸国)では、公開処刑の復活などということは、現代人のメンタリティから見て絶対にありえない。ここから言えることは、少なくとも七十年前のフランス人は、道徳的なものの見方において我々とは非常に異なったメンタリティを持っていたに違いないということです。

 この本の中で、これに関連してもうひとつ面白く感じた箇所がありました(どうも作者の意図しないところでばかり面白がっています)。十九世紀の末に、エドゥアール・ドリュモンという人の書いた『ユダヤ人的フランス』という本が、(ルナンの『イエスの生涯』と並ぶ)十九世紀最大のベストセラーになったというくだりです。この本は、ユダヤ人と名指された人への個人的な攻撃まで含む、露骨で扇情的な「反ユダヤ主義のバイブル」としてナチスの時代まで読み継がれた書物なのだそうです。当然ですが、今日では(特別な研究者以外には)誰も読む人はいません。私たちはふつう、プラトンの時代から二十世紀前半に至るまで、その時代の最良の天才たちが残した最良の作品しか読みませんから、その時代の一般大衆がどのようなものを読み、どのようなことを考えて日々を送っていたかについては、あまり想像力を働かせません。そして、現代の一般大衆である私たちは、いまの時代のベストセラーになる本(例えば『戦争論』だとか『国家の品格』だとかいった類の本)しか読みませんから、単純な比較で、現代は過去の時代に比べて思想的にも道徳的にも劣った時代だと思い込んでしまう。これは理屈から言っても全くの錯覚だと思います。いつの時代にも、天才というものは例外であって、その時代の民衆はもっと別のレイヤーで底暗い情動を働かせていた、こちらの方が信憑性のありそうな仮説です。例えば、資料の手に入れやすいこの三十年くらいでもいい、無名の一般人がどのようなことに興味を持ち、どのようなことを考えていたか、個人の日記や、新聞の投書や、人生相談への質問などから、比較研究を試みてみたら面白いだろうと思います。私に証拠はありませんが、三十年のスパンで見ても、この間の日本社会の道徳的意識の向上には、おそらく目を瞠るものがあるのではないかと予感します。(これは調査のしやすい手軽な問題ですし、学部の学生さんの卒論テーマになどいかがでしょう?)

 以上のような理由により(全然理由になっていませんが)、私はトーブ氏の主張する「人類の道徳的進化」という仮説に全面的に賛成するものです。それどころか、ここ五年か十年のあいだに、我々の道徳的意識の進化の速度は、どんどん加速度的に増大し、今ではほとんど怒涛の勢いにまで達しているという印象を私は持っています。そんな馬鹿な、と言われますか? しかし、例えば最近の<差別語>に対する社会を挙げての異常なほどの過敏さや、組織の中の<内部告発>によって不祥事が次々発覚している現状などを見ると、確かに現代人の道徳意識の中で、何か大きな変化が起こっている真っ最中なのではないかという印象を拭えないのです。単に現象としての<差別語規制の強化>や<内部告発の流行>ということなら、それはある部分では行き過ぎのところがあるような気もするし、いまはまだ昔から溜まっていた<道徳的な膿>を出している途中で、いわば過渡期なのかも知れないという気もする。それはやがて収まるべきところに収まる(収める)べきものだろうと思います。が、私が気になるのは、そういった最近の道徳的事象の背景にある、盲目的とも言える(差別語じゃないよね)未知の推力についてなのです。イメージで言えば、現代人は背後から強烈な道徳的圧力に推され、自らコントロールを失って、手足をバタバタさせながら前の方に押し出されているといった感じです。この推力は一体どこから来て、このまま私たちを一体どこに押し流そうというのか?

 私はこれまでにも、道徳の問題についてはこのブログでいろいろ書いて来ましたが、一貫して守って来たスタンスがあります。それは自分の中にある道徳的感情の強い圧力(自分ではそれを<道徳的リビドー>だとか<道徳的マグマ>などと呼んでいるのですが)に、決して逆らわないということです。逆らっても無駄なことは、経験上よく分かっているからです(内奥の心情が満足しないどんな道徳論も、机上の空論だという意味です)。むろん私は、哲学者を自称する以上、感情に流されるままでいることには絶対に耐えられないし、どうしても理屈で納得しないと気が済まないタイプの人間です。ですから、道徳の問題について考えようとすると、いつでもそこに葛藤が生じてしまう。時に理性が感情に対して譲歩し、時に理性が感情を説得してなだめようとする、そのぎりぎりの妥協点を探るのが私の道徳哲学の方法になってしまいました(特にブログの記事を書き始めてから、そのことがはっきりして来ました)。そして最近、よく思うのですが、このことは何も自分だけの特別な状況という訳ではなく、現代人なら(というより現代の日本人なら)たいていの人が共通に置かれている状況なのではないかと考えるようになりました。いや、抽象的なことを話している訳ではないんです。例えば前回取り上げた<代理出産>の問題について考えるとします。いろいろな人の書かれた意見を読めば、むろん賛成派もいれば反対派もいる訳ですが、一見それらの意見は対立しているように見えて、実はほとんど皆さん同じような心理的な受け止め方をしている。正直に心の内を覗いてみれば、<代理出産>という新しい事実に対して当惑し、ただこれに対して態度を決めなければならないという強迫観念が、いろいろな意見を言わせているだけなのだと感じます。重要なのは、こういった問題を放っておけないと感じさせる、この強迫観念を我々に植え付けるものの方です。私はそれを、現代人を背後から推す道徳的圧力と呼びたいのです。

 自分でも思わぬ方向に論が展開しました。今回はひとつの仮説を提示するにとどめておきたいと思います。現代人は道徳的な心性が衰微しているだとか、枯渇しているなんてとんでもない、むしろ我々は歴史上かつてないほどの強力な道徳的圧力で背中を推されている、そういう仮説です。これはつまらない問題で意見が対立しがちな現代人に、もうひとつ高次の視点を与えてくれる(あるいはもうひとつ違う次元で共通の敵を作ってくれる)という点で、功利的な意味でも有益な仮説であるように思います。問題は、背後から来るこの圧力の正体は何かということです。それはおそらく誰にも分からない。私の個人的な直感で言えば、その実体は霊的なものでも、神的なものでもなく、四十億年の生命の進化を推進して来たものと同根であるような気がするのですが、さて、どうでしょうか?

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