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2006年10月29日 (日)

代理出産の是非をめぐって

 最近のニュースで代理出産に関するふたつの出来事が続けて報道されました。ひとつは子供を産めない娘のために50代の母親が代理母となり、子供(孫)を出産したというニュース、もうひとつはタレントの向井亜紀さん夫妻がアメリカ人の女性に依頼して得た双子の子供の出生届を、品川区が拒否していた問題に対して、高裁が向井さん側の訴えを認める判決を出したというニュースです。どうもこのごろは医療技術の進歩があまりに速くて、我々の常識の方がついて行けないような事態がいろいろ起こります。突然こういう問題に対して意見を求められたら、倫理学が専門の大学教授だって言葉に詰まってしまうのではないでしょうか。新聞や雑誌でもいろいろな人が意見を言っていますが、この問題をまともに受け止める視座を持った人はほとんどいないような気がする。容認派も否定派も実はみんな当惑していて、なんだかすごく底の浅い議論で終わってしまっている、そんな印象があります。

 私も倫理的な問題については一家言を持つ市井の哲学者という立場上(笑)、この問題の前を素通りすることは出来ないと感じます。で、この一週間ずっとこの問題について考えているのですが、どうしても新聞の論説委員が書いているようなこと以上に深い考察というものが思い付かないのです。どこかで聞いたような、誰でも思い付きそうな考えの周りを堂々巡りするばかりで、問題の核心に深く切り込んで行ける切り口が見付からない、そういったもどかしさを感じています。それで私がとりあえず考え付いた仮説は、この問題はもともとそんなに難しい問題でも、深い問題でもないのだということです。切り込んで行くべき問題の核心などというものはどこにも無いのかも知れない。そう考えると、少し肩の荷が下りた気がするし、別に鋭い視点だとか、深い洞察なんてことにとらわれずに、自由に自分の意見が言えるような気がして来ます。で、私の結論を先に言えば、私は代理出産については法律で禁止すべしという意見です。

 社会の抱える問題を大きく、「平時の問題」と「戦時の問題」というふたつに分けるとすれば、代理出産問題を始めとする生命倫理の問題は、まさしく典型的な平時の問題だと言えると思います。その意味は、この問題をめぐってどんなに鋭い意見の対立が起こっても、それがやがて党派間の激しい闘争になり、やがては内乱や戦争にまで発展する可能性はほとんどありえないという意味です。これが例えば靖国問題や日の丸君が代問題だったりすれば、仮にそれが右にぶれようが左にぶれようが、そこでの意見の対立は、やがては日本を軍拡の方向に向かわせ、次の戦争にまで導くものであるかも知れない。つまりそれは戦時の問題なのです。そして私の考えによれば、戦時の問題について議論することは、ほとんど常に人と人との対立を深め、相手への憎しみを募らせるだけで終ってしまいますが、平時の問題というのは基本的に議論のしがいがある、有意義な結論が約束されている問題だと思うのです。代理出産の問題は、まさに多くの人が自分の目線や自分の感情で発言し、意見を交換し合うべき問題のひとつです。そうすれば、間違いなくその時代に相応しい、ほとんどの人が納得(あるいは妥協)出来る結論に行き着けると思います。(ついでにこれは小さな声で言いますが、フェミニズムの問題一般というのも、この意味で平時の問題です。男と女の問題がこじれて個人的な殺人事件にまで発展することはあっても、過去にどこかの社会で男と女のあいだにホンモノの戦争や殺し合いが起こったためしは無いからです。) (あ、それからもうひとつもっと小さな声で言うのですが、現代でもまだ一部の人たちのあいだで命脈を保っている<優生思想>というものは、生命倫理の問題を平時問題から戦時問題へシフトすることを企図した思想であると定義出来ます。これについてはまたいつか書きます。)

 さて、代理出産問題です。私の基本的な認識は、たとえこれを法律で禁止したとしても、これからの時代これを実効的に廃除することは不可能だろうということです。(既に日本でも多くの夫婦がこれを行なっており、ただ報告が上がって来ないだけだと言います。ちょっとびっくりです。) ですから、これからの社会は、どうしても代理出産に対してはこれを黙認する態度を採るしか方法がありません。代理出産で生まれて来た子供に対して、行政が国籍や市民権を与えることを拒否することは、今日の社会通念として出来る訳がないからです。ただ問題は、(よく指摘されることですが)これに対する法整備が遅れており、社会の規範としてこれをどう捉えるべきかの枠組が存在しないという点です。だから、なんとなく後ろめたい気持ちもあるけど、違法行為という訳ではないし、医者は隠しておけば分からないからと言うので、代理出産を選んでしまう。私はこれは当の母親(卵子提供者)にとっても幸福なことではないと思います。そこで、私の意見としては、代理出産はやはり法律できっぱり禁止してしまう、但しこれに対しては決して厳罰などで臨むのではなく、ほんの軽微な罰金刑にとどめておく(例えて言えば駐車違反くらいの)。とにかく法的には、「一応代理出産は認めていないからね」という意思表示をしておくことが重要なので、代理出産を選択する親の側も、「本当はいけないことなんだけど」という程度の罪の意識を感じる構図を残しておく。当面はそれで充分なのではないかと思います。そして代理出産が法律上禁止されたからといって、生まれた子供の出生届を拒否する権利などは行政に対して認めない、そのこともきちんと法律に盛り込んでおくべきです。これもよく言われることですが、生まれた子供に罪は無いのですから。(実を言えば産んだ親にも罪は無いんだけれど。) そして社会は、<ふたりの>母親に対しては無事出産したことへの祝福の言葉を贈り、生まれて来た子供に対してはこれを差別することなく受け入れる決意をする。それが成熟した社会の採りうるほぼ唯一の正しい選択肢だと思います。

 ほら、やっぱりそうだよ、全然難しい問題でもなんでもないんだよ。こういう問題は、なんとなくタブーのように扱って、議論の対象からはずして来たこと自体に問題があります。ですから私は、向井さん夫婦が勇気をもってこれを公表したことは、社会に対する問題提起としてとても価値あることだったと評価します。(向井亜紀さんのブログには、今回の裁判への想いが率直な言葉でつづられています。私はなかなか好感を持って読みました。) しかし、それではお前は、代理出産を選択する夫婦に何も違和感を感じないのかと言われれば、これがまたそうでもありません。代理出産が問題なのは、それが自然の摂理に反しているからだとか、医療技術の行き過ぎた濫用に歯止めが利かなくなるからだとか、そういう固定的な価値観のためではない。妊娠、出産という母体にとっては非常に危険で、また主観的にはとても不愉快であるに違いない経験を、他人に押し付けること自体が当たり前に考えて容認し難いという、そのことの問題です。(妊娠や出産は決して苦痛で不愉快なだけの経験ではなく、悦ばしい経験でもあるという意見もあるでしょう。しかし、それはやがて自分が育てる子供を身ごもっている場合の話です。やがて生き別れになることが決まっている他人の子供を身ごもることは、嬉しいことはあまりなく、不愉快なだけの経験であるような気がする。男にはよう分からんけど。) これは想像ですが、おそらく代理出産によって子供を持った夫婦は、後々までそのことに対するある種のうしろめたさを持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。これから代理出産で子供を持とうと考えているご夫婦には、その点をよく考えて欲しいと思います。何故そのような心理的代償を払ってまで自分たちの遺伝子を残すことにこだわるのか、何故ふつうに養子を迎えることではいけないのか。代理母に謝礼のお金を払えば済むといった問題ではない筈です。

 ユーモアあふれる軽快な筆致と、奇抜なアイデアでいつも読者を驚かせてくれる、SF作家の松尾由美さんの代表作『バルーン・タウン』シリーズは、女性が自分の子宮で子供を産まなくなった近未来の物語です。この時代には、技術の進歩によって人工子宮なるものが発明され、子供を持ちたい夫婦は病院で受精卵を取り出してもらい、人工子宮の中で安全に育てられた赤ちゃんを十ヶ月後に受け取りに行くことで親になるのです。これなら母体に負担はかからないし、流産の心配もない、女性が妊娠によって仕事を中断しなければならないハンデも無くなります。生きた人体を培養基として利用する二十世紀型の代理出産に比べれば、ずっとスマートで人道的ですらある新しい代替出産の理想形です。ところが、そんな時代になっても、世の中には変わり者の女性がいて、不自由な生活と出産の危険を承知の上で自らの子宮で子供を産むことを決意する女性もいるのです。この時代には、妊婦を受け入れる社会的インフラが無くなってしまっているので(例えばお店にはマタニティー用品など売ってないし、産科医院なんてものも存在しない訳ですね)、少数派の妊婦はそのために特別に作られた街に集められて、そこでマタニティー・ライフを送っている。それが人呼んでバルーン・タウン(お腹の大きな妊婦の印象からそんなニックネームが付いた)なのです。もちろん作者は、このアイロニカルな未来の設定によって、フェミニズムの問題を論じようとしている訳ではありません(そんな無粋な小説ではないのです)。が、この小説を読む男性読者は、否応なく次の事実に気付かされるのです。バルーンタウンに行くかどうかを選択するのは、夫婦の問題ではなく妻だけの問題であり、同様に代理出産の是非をめぐって最終的な結論を出すことが出来るのは、男性の政治家どもでは決してなく、女性たち自身であるということです。私はこの問題をめぐっては、向井さんのように多くの女性ブロガーが本音で自分の意見を発表し始めることが必要だと思います。

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コメント

はじめまして。

>なんとなく後ろめたい気持ちもある
>当の母親(卵子提供者)にとっても幸福なことではない
>代理出産はやはり法律できっぱり禁止
>ほんの軽微な罰金刑にとどめておく
>禁止されたからといって、生まれた子供の出生届を拒否する権利などは行政に対して認めない

この一連の思考は、法律論的には大変困惑します。
人の行動を法的に禁ずるには充分な合理的理由が必要です。後ろめたいとか幸福でない(はず)という理由くらいで、法的に禁止する充分な理由があるのでしょうか?
罰金といえども刑罰です。刑罰は軽微であっても、強制力を伴う制裁なのですから、謙抑的でなければなりません。これが刑法のごく基本的な考えです。本当に代理出産は刑事罰の対象とする必要があるのですか?
刑罰を科しておきながら、「出生届を拒否する権利などは行政に対して認めない」……。まるで、「殴っておいて、頭をなでる」という感じです。態度が一貫していないので、妙な論理ではないですか?

>何故ふつうに養子を迎えることではいけないのか

……。今は、養子を迎えることは代理出産と同じくらい難しいです。

>私がとりあえず考え付いた仮説は、この問題はもともとそんなに難しい問題でも、深い問題でもないのだ

代理出産問題に関してどれほど文献を読んだのでしょうか? 何も読まず、法律論も知らず、医療現場の実情も知らない。何も知らないから分からず、「難しい問題でも、深い問題でもない」と思考停止しただけだと感じます。

投稿: sumika | 2006年10月29日 (日) 05時13分

sumikaさん、はじめまして。コメントありがとうございます。

お答えになるとも思えないのですが、いくつか感じた点をコメントさせていただきます。

> 人の行動を法的に禁ずるには充分な合理的理由が必要です。後ろめたいとか幸福でない(はず)という理由くらいで、法的に禁止する充分な理由があるのでしょうか?

代理出産を法的に禁止すべきだと私が考える理由は、それが他人(代理母になろうという人)の身体や生命に危害を及ぼす可能性がある行為だからという、その一点だけです。ですから、将来本当に<人工子宮>のようなものが発明されれば、その時には晴れて代理(代替)出産が法的に認められたものになると思います。(きっと反対する人も多いでしょうが、<出産の危険から女性を守るため>という大義名分には誰も反論出来ないと思います。)

> 刑罰を科しておきながら、「出生届を拒否する権利などは行政に対して認めない」……。まるで、「殴っておいて、頭をなでる」という感じです。態度が一貫していないので、妙な論理ではないですか?

そうでしょうか? 私は、「夫婦が代理出産によって子供を持とうとする行為」と「代理出産によって子供が生まれて来た事実」とは、法的に分けて考えるべきだと思うのです。今回の向井亜紀さんの裁判で、東京高裁が「子供の福祉」を第一に置いた判決を下したことに、私は賛成します。代理出産というものが現実になってしまった以上、法律上の母親の定義も見直すべきだと思います。

> 今は、養子を迎えることは代理出産と同じくらい難しいです。

そうなんですか。それはとても残念なことですね。最近多い実の親による幼児虐待のニュースなどを聞くと、むしろ昔のようなおおらかな養子縁組の制度を復活して、子供と親(里親)がベストマッチ出来るような仕組みを制度として検討して行くことが必要なのではないかと感じます。「子供は社会全体で責任を持って育てるもの」、これは今後の育児、教育の方向性として、中心に置いてもいいコンセプトだと思います。

> 代理出産問題に関してどれほど文献を読んだのでしょうか? 何も読まず、法律論も知らず、医療現場の実情も知らない。何も知らないから分からず、「難しい問題でも、深い問題でもない」と思考停止しただけだと感じます。

このロジックで批判されると、自分としては一番つらいです。おっしゃられたとおりだからです。しかし、私はこのブログで、自分の勉強の成果を発表しているのではなく、自分自身が世間一般で問題になっている事柄にどう対処して行くか、そのことの覚悟を語ろうと思っているのです。代理出産問題が「難しい問題でも、深い問題でもない」という意味は、医療技術の進歩によってそうした選択肢が増えたこと自体は、決して恐ろしいことでも困ったことでもなく、それを上手に社会制度の中に取り込んで行ければ、それは価値ある前向きな結論に到達出来ると考えているからです。いたずらに賛成、反対で対立するのではなく、まずは大局的なそういう視点を持つことが建設的な議論につながるのではないでしょうか?

投稿: Like_an_Arrow | 2006年10月29日 (日) 18時02分

お邪魔します。

> 今は、養子を迎えることは代理出産と同じくらい難しいです。

「同じくらい」ですか。なら「それ自体の是非」を巡って議論しなけれ
ばならない「代理出産」を選択する理由は何でしょうか。

投稿: ブロガー(志望) | 2006年10月29日 (日) 21時48分

基本的には、Like_an_Arrowさんのお考え(基層にあるもの)に同感なのですが。

私には、何かこうカトリック信者のようなところがあって、生命を人工的に操作することに、違和感や不倫理を感じます。自然(神の摂理?)に反することは、すべきではない。(あれ、このセリフ、前にもここで書いたような?)

あえて書きますと、子供は神から授かるものであって、生命誕生を、夫婦が自分たちの好きなように操っていいものではない。(この論法では、堕胎も相当な罪ですが。)

いかなる理由があろうと、出産は、人にお金で頼んでやってもらうことじゃない、という気がします。人間の心は、そんなにドライに割り切れない。アメリカでは、代理母が親権を主張して、自分の生んだ子を奪還しようとする裁判も、少なからず起こっているようです。

向井亜紀さんを非難する気持ちは、まったくありません。私にその資格などない。人間は皆弱いものです。しかしこういうことが、当然の権利のように世の中に広まることは、やはり・・・

投稿: mori夫 | 2006年11月 3日 (金) 21時50分

私にはどちらかと言うと仏教徒のようなところがあるのですが(笑)、やはり生命を人工的に操作することには違和感があります。と言うか、宗教的な立場だとか、政治的な立場に関係なく、この問題はほとんどの人(全ての人とは言いませんが)に同じように違和感を感じさせる問題なのではないかと思います。だからきっとスタートラインは一緒なんです。問題は、現実論としてどこまでそれを認めるかということですよね。

私もmori夫さんと同じく、これを「当然の権利のように」認めることには反対です。だからと言って、一部の強硬な保守派の人のように、代理出産を選んだ夫婦に対して<厳罰>を以って臨むというのにも抵抗があります。で、いまの社会的通念からしても、現実的な対応策としても、「軽い罰金刑」程度が妥当な線ではないかと考えたのです。本当にこれを禁止したいなら、職業倫理の面からも手術を行なった医師に対して厳罰で臨むべきでしょう。

それにしても、私はこの問題を「哲学的な問題」として見た場合に、それほどの難問だとは考えないのですが、特に今回のようなテーマだと、哲学になど興味が無い人もグーグル検索で飛んで来る訳で、それがいきなり「この問題は、難しい問題でも、深い問題でもない」などと言われたら、やはり面食らいますよね。特にその方が、自らこの問題で悩んでいる場合などはなおさらです。という訳で、今回は少し表現に配慮が足りなかったと反省した次第です。(笑)

投稿: Like_an_Arrow | 2006年11月 5日 (日) 03時59分

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