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2006年10月29日 (日)

代理出産の是非をめぐって

 最近のニュースで代理出産に関するふたつの出来事が続けて報道されました。ひとつは子供を産めない娘のために50代の母親が代理母となり、子供(孫)を出産したというニュース、もうひとつはタレントの向井亜紀さん夫妻がアメリカ人の女性に依頼して得た双子の子供の出生届を、品川区が拒否していた問題に対して、高裁が向井さん側の訴えを認める判決を出したというニュースです。どうもこのごろは医療技術の進歩があまりに速くて、我々の常識の方がついて行けないような事態がいろいろ起こります。突然こういう問題に対して意見を求められたら、倫理学が専門の大学教授だって言葉に詰まってしまうのではないでしょうか。新聞や雑誌でもいろいろな人が意見を言っていますが、この問題をまともに受け止める視座を持った人はほとんどいないような気がする。容認派も否定派も実はみんな当惑していて、なんだかすごく底の浅い議論で終わってしまっている、そんな印象があります。

 私も倫理的な問題については一家言を持つ市井の哲学者という立場上(笑)、この問題の前を素通りすることは出来ないと感じます。で、この一週間ずっとこの問題について考えているのですが、どうしても新聞の論説委員が書いているようなこと以上に深い考察というものが思い付かないのです。どこかで聞いたような、誰でも思い付きそうな考えの周りを堂々巡りするばかりで、問題の核心に深く切り込んで行ける切り口が見付からない、そういったもどかしさを感じています。それで私がとりあえず考え付いた仮説は、この問題はもともとそんなに難しい問題でも、深い問題でもないのだということです。切り込んで行くべき問題の核心などというものはどこにも無いのかも知れない。そう考えると、少し肩の荷が下りた気がするし、別に鋭い視点だとか、深い洞察なんてことにとらわれずに、自由に自分の意見が言えるような気がして来ます。で、私の結論を先に言えば、私は代理出産については法律で禁止すべしという意見です。

 社会の抱える問題を大きく、「平時の問題」と「戦時の問題」というふたつに分けるとすれば、代理出産問題を始めとする生命倫理の問題は、まさしく典型的な平時の問題だと言えると思います。その意味は、この問題をめぐってどんなに鋭い意見の対立が起こっても、それがやがて党派間の激しい闘争になり、やがては内乱や戦争にまで発展する可能性はほとんどありえないという意味です。これが例えば靖国問題や日の丸君が代問題だったりすれば、仮にそれが右にぶれようが左にぶれようが、そこでの意見の対立は、やがては日本を軍拡の方向に向かわせ、次の戦争にまで導くものであるかも知れない。つまりそれは戦時の問題なのです。そして私の考えによれば、戦時の問題について議論することは、ほとんど常に人と人との対立を深め、相手への憎しみを募らせるだけで終ってしまいますが、平時の問題というのは基本的に議論のしがいがある、有意義な結論が約束されている問題だと思うのです。代理出産の問題は、まさに多くの人が自分の目線や自分の感情で発言し、意見を交換し合うべき問題のひとつです。そうすれば、間違いなくその時代に相応しい、ほとんどの人が納得(あるいは妥協)出来る結論に行き着けると思います。(ついでにこれは小さな声で言いますが、フェミニズムの問題一般というのも、この意味で平時の問題です。男と女の問題がこじれて個人的な殺人事件にまで発展することはあっても、過去にどこかの社会で男と女のあいだにホンモノの戦争や殺し合いが起こったためしは無いからです。) (あ、それからもうひとつもっと小さな声で言うのですが、現代でもまだ一部の人たちのあいだで命脈を保っている<優生思想>というものは、生命倫理の問題を平時問題から戦時問題へシフトすることを企図した思想であると定義出来ます。これについてはまたいつか書きます。)

 さて、代理出産問題です。私の基本的な認識は、たとえこれを法律で禁止したとしても、これからの時代これを実効的に廃除することは不可能だろうということです。(既に日本でも多くの夫婦がこれを行なっており、ただ報告が上がって来ないだけだと言います。ちょっとびっくりです。) ですから、これからの社会は、どうしても代理出産に対してはこれを黙認する態度を採るしか方法がありません。代理出産で生まれて来た子供に対して、行政が国籍や市民権を与えることを拒否することは、今日の社会通念として出来る訳がないからです。ただ問題は、(よく指摘されることですが)これに対する法整備が遅れており、社会の規範としてこれをどう捉えるべきかの枠組が存在しないという点です。だから、なんとなく後ろめたい気持ちもあるけど、違法行為という訳ではないし、医者は隠しておけば分からないからと言うので、代理出産を選んでしまう。私はこれは当の母親(卵子提供者)にとっても幸福なことではないと思います。そこで、私の意見としては、代理出産はやはり法律できっぱり禁止してしまう、但しこれに対しては決して厳罰などで臨むのではなく、ほんの軽微な罰金刑にとどめておく(例えて言えば駐車違反くらいの)。とにかく法的には、「一応代理出産は認めていないからね」という意思表示をしておくことが重要なので、代理出産を選択する親の側も、「本当はいけないことなんだけど」という程度の罪の意識を感じる構図を残しておく。当面はそれで充分なのではないかと思います。そして代理出産が法律上禁止されたからといって、生まれた子供の出生届を拒否する権利などは行政に対して認めない、そのこともきちんと法律に盛り込んでおくべきです。これもよく言われることですが、生まれた子供に罪は無いのですから。(実を言えば産んだ親にも罪は無いんだけれど。) そして社会は、<ふたりの>母親に対しては無事出産したことへの祝福の言葉を贈り、生まれて来た子供に対してはこれを差別することなく受け入れる決意をする。それが成熟した社会の採りうるほぼ唯一の正しい選択肢だと思います。

 ほら、やっぱりそうだよ、全然難しい問題でもなんでもないんだよ。こういう問題は、なんとなくタブーのように扱って、議論の対象からはずして来たこと自体に問題があります。ですから私は、向井さん夫婦が勇気をもってこれを公表したことは、社会に対する問題提起としてとても価値あることだったと評価します。(向井亜紀さんのブログには、今回の裁判への想いが率直な言葉でつづられています。私はなかなか好感を持って読みました。) しかし、それではお前は、代理出産を選択する夫婦に何も違和感を感じないのかと言われれば、これがまたそうでもありません。代理出産が問題なのは、それが自然の摂理に反しているからだとか、医療技術の行き過ぎた濫用に歯止めが利かなくなるからだとか、そういう固定的な価値観のためではない。妊娠、出産という母体にとっては非常に危険で、また主観的にはとても不愉快であるに違いない経験を、他人に押し付けること自体が当たり前に考えて容認し難いという、そのことの問題です。(妊娠や出産は決して苦痛で不愉快なだけの経験ではなく、悦ばしい経験でもあるという意見もあるでしょう。しかし、それはやがて自分が育てる子供を身ごもっている場合の話です。やがて生き別れになることが決まっている他人の子供を身ごもることは、嬉しいことはあまりなく、不愉快なだけの経験であるような気がする。男にはよう分からんけど。) これは想像ですが、おそらく代理出産によって子供を持った夫婦は、後々までそのことに対するある種のうしろめたさを持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。これから代理出産で子供を持とうと考えているご夫婦には、その点をよく考えて欲しいと思います。何故そのような心理的代償を払ってまで自分たちの遺伝子を残すことにこだわるのか、何故ふつうに養子を迎えることではいけないのか。代理母に謝礼のお金を払えば済むといった問題ではない筈です。

 ユーモアあふれる軽快な筆致と、奇抜なアイデアでいつも読者を驚かせてくれる、SF作家の松尾由美さんの代表作『バルーン・タウン』シリーズは、女性が自分の子宮で子供を産まなくなった近未来の物語です。この時代には、技術の進歩によって人工子宮なるものが発明され、子供を持ちたい夫婦は病院で受精卵を取り出してもらい、人工子宮の中で安全に育てられた赤ちゃんを十ヶ月後に受け取りに行くことで親になるのです。これなら母体に負担はかからないし、流産の心配もない、女性が妊娠によって仕事を中断しなければならないハンデも無くなります。生きた人体を培養基として利用する二十世紀型の代理出産に比べれば、ずっとスマートで人道的ですらある新しい代替出産の理想形です。ところが、そんな時代になっても、世の中には変わり者の女性がいて、不自由な生活と出産の危険を承知の上で自らの子宮で子供を産むことを決意する女性もいるのです。この時代には、妊婦を受け入れる社会的インフラが無くなってしまっているので(例えばお店にはマタニティー用品など売ってないし、産科医院なんてものも存在しない訳ですね)、少数派の妊婦はそのために特別に作られた街に集められて、そこでマタニティー・ライフを送っている。それが人呼んでバルーン・タウン(お腹の大きな妊婦の印象からそんなニックネームが付いた)なのです。もちろん作者は、このアイロニカルな未来の設定によって、フェミニズムの問題を論じようとしている訳ではありません(そんな無粋な小説ではないのです)。が、この小説を読む男性読者は、否応なく次の事実に気付かされるのです。バルーンタウンに行くかどうかを選択するのは、夫婦の問題ではなく妻だけの問題であり、同様に代理出産の是非をめぐって最終的な結論を出すことが出来るのは、男性の政治家どもでは決してなく、女性たち自身であるということです。私はこの問題をめぐっては、向井さんのように多くの女性ブロガーが本音で自分の意見を発表し始めることが必要だと思います。

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2006年10月22日 (日)

さらに深刻な「2008年問題」

 2007年問題ということが言われています。来年から始まる団塊世代の大量リタイアによって、企業の中では情報システムの中身が分かる人がいなくなってしまったり、熟練が必要な技術の継承が途切れてしまうことが懸念されているのです。が、私はそれよりももっと困ったこととして、企業の中でのリーダーの不在ということが大きく社会問題化するのではないかと思っています。「2007年問題」のすぐあとに顕在化する問題ということで、これを仮に「2008年問題」と名付けましょう。経営トップから各部門の中間管理職まで、組織のあらゆる層で指導力が失われ、企業が沈滞または迷走するという問題です。

 コンピュータ業界では、この何年かのあいだずっと、慢性的なPM不足ということが言われて続けています。PMというのはプロジェクト・マネージャーの略で、システム構築プロジェクトの総責任者のことです。構築するシステムの大きさによって、プロジェクトにも十人規模から千人規模までさまざまなサイズがある訳ですが、PMに期待される資質と、課される責務は同じです。預かったヒト・モノ・カネのリソースを最大限有効に活用して、プロジェクトを計画どおり遅滞なく進捗させること、顧客企業および自社の経営陣に対しては、熟練したコンサルタントのようなコトバでもって説明と説得を行なうこと、顧客担当者のクレームに対しては丁寧に耳を貸し、しかも毅然とした態度で過剰な要求の切り捨てを行なうこと、そして何よりも、部下であるシステム開発者に対しては、時には鬼軍曹のような厳しさと、時にはカウンセラーのような忍耐強さをもって、モチベーションを与えながら引っ張って行かなくてはならない。それらをすべて同時進行でこなすのがPMの仕事です。とても人間ワザとは思えませんね。単に経験や能力だけでは一人前のPMにはなれない、成功への飽くなき執念と不屈の闘志を持った人でなければ務まりません。そして業界では今このPMが払底しているのです。でも、考えてみればそれも当たり前なことです。よほど自虐的な人か逆境を好む人でもない限り、そんな立場に進んで身を置こうというのは合理的な選択ではない。優れたPMになれるくらいの才能と意欲を持った人なら、もっとずっとストレスの少ない生き方だって選べる訳ですから。

 もちろん苦労の多いプロジェクトをやり遂げた時の達成感は、他では味わえないほど大きなものです。それは長年の苦労が実って社長にまで昇りつめた人にとって、それが人生のゴールであるのと同じようなものです。おそらく団塊の世代くらいまでの日本のサラリーマンには、そういった価値観が共有されていたのではないかと思います。が、それよりも下の世代になるに従って、こういう<組織の中での上昇志向>であるとか、<与えられた難しい課題の達成>といったものに対する価値観は、薄れて行く一方なのではないでしょうか。最近の新入社員の中には、入社3年目くらいで辞めて行く人が増えているのだそうです。世間でいわゆる一流企業と呼ばれる会社でも、若い社員がどんどん辞めて行く。辞めて行く若者にはたぶんふたつのタイプがあって、キャリアを積んで自分で会社を起こそうとしているか、会社の中のふつうの人間関係にも疲れてしまって、気楽なフリーターに逃避して行くのか、そのどちらかではないかと思います。ここは二極化ではなくて三極化です。その中間にいる会社に残った層は、いい意味でも悪い意味でも平均的で、能力はあるが大きな野心はない、仕事においても人間関係においてもそこそこ、といった集団です。団塊世代が去ったあとには、この<そこそこ主義>の中間層が会社に充満する訳ですから、必然的に強力なリーダーシップも失われて行くことになります。(そこそこ主義の第1世代に属する私が言うのだから間違いない。笑) これがすなわち私の言う「2008年問題」の核心です。

 今週NHKで放送された茂木健一郎さん司会の番組に、コンビニ第2位のローソンの若い社長さんが出ていました。新浪剛史さんという方です。自分と同世代の人の中にも、こんな強烈なリーダーシップを持った経営者がいるんだ、そう思って素直に感心しました。ただ、ひとつ特徴的だと思ったのは、新浪さんはローソンの生え抜き社員ではなく、米国で経営学を学び、MBA(経営学修士号)を取得したプロの経営者(の卵)だったという点です。その彼が入社した商社の中で頭角を現し、セブンイレブンを追撃するローソンの社長として送り込まれた。私たちは、カルロス・ゴーンさんが日産を<奇跡の復活>に導いて以来、要請されて外部から来た人が大企業のトップに就任することにも、それほど抵抗を感じなくなっています。が、それを受け入れた企業の側から見れば、やはりそれは経営陣の層の薄さだとか、次の経営者に足る人材の不足だとかいうことが、お家の事情としてあったのではないかと勘ぐってしまう。本来なら、やはりその会社で叩き上げた人物が、樹木が大木に成長するように自然にトップの座に就くことが望ましいと思います。日産やローソンのようなケースは、あくまで緊急避難的な例外であって欲しい、そう考えないと日本企業の将来が心配です。例えば日本の上場企業4000社の経営トップが、すべてゴーンさんや新浪さんのような人たちで占められてしまった時のことを想像してみてください。それが果たして産業界の健全な姿と言えるだろうか。

 ゴーンさんのような(おそらく)真のプロフェッショナルと呼べる経営者(私はむしろ<経営請負人>と呼びたい気がしますが)は、平均的なリーダーの質が低下するなかで、今後ますますその存在感を増すことになると思います。しかし、社内の生え抜きではない、外部から来たプロの経営請負人に会社の舵取りを任せることは、結局は社内の求心力を弱め、長い目で見た場合企業の競争力を失わせる結果になるであろうことは、最近の事例を見ても想像出来ることです。これは米国と日本では事情が違うといった問題ではありません。辣腕の経営請負人であったカーリー・フィオリーナさんを追放したあとのヒューレット・パッカード社は、いまだに経営陣の内紛が収まっていないようです。逆に雇われ経営者のもとで業績が落ち、息も絶え絶えだったアップル・コンピュータは、創業者のスティーブ・ジョブズ氏を呼び戻して、見事に復活を果たした。フィオリーナはいかにも頭の切れる女性経営者といった風貌でしたが、ジョブズという人は傲慢で怒りっぽく、人間としては最低の人格なんだそうです(笑)。これは象徴的なことだと思います。社員は最高の経営理論で武装したロボットのような経営者にはついて行けないが、数々の伝説を持つカリスマ創業者のもとでは再びやる気を取り戻したのです。

 組織の中でトップに立つ人のなり手がいないという問題は、民間企業の中でだけ起こっている問題ではないようです。例えば全国の公立学校で、校長先生のなり手がいないという問題も、同じ構図ではないかと思いますし、政治の世界でも各政党は同じ悩みを抱えているのではないかと思います。(ただ、政治の世界には定年制がない分、2008年問題が一挙に露呈することもない訳ですが。) 安倍晋三さんは、団塊の世代に遅れて生まれて来た、日本で初めて誕生した「優しさの世代」の首相ということになります。著書の中ではずいぶん勇ましいことを言い、タカ派の前評判が高いので心配していたのですが、首相になってからの演説を聴けば、なんのことはない、自分と同じ優柔不断ではっきりものが言えない、典型的なポスト団塊世代のタイプの人でした。たぶんああいうもの言いでは、国民の人気を長くつなぎ止めておくことは無理でしょうね。リーダーの不在は、これからの社会のあらゆる方面で深刻な問題となって現れて来るような気がします。特に政治の世界では、それがまた別の危険性を孕む可能性もあります。長いあいだのリーダー不在は、逆に強力な個性に対する期待を国民のなかに醸成させることにつながるでしょう。長く続いた小泉人気を思い出してみれば、政治家が小粒になればなるだけ、際立つ異能のカリスマを舞台に登場させる危険性は増すように思うのです。

 今回もまたなんだかまとまりのない記事になってしまいました。たまたまテレビを見ていて、<2008年問題>という言葉を思い付いたので、そこから何か議論を展開出来ないかと思ったのです。最近は日本でもリーダーシップ論というのが盛んなようです。しかし、問題は単に組織を効率的に運営したり、部下にやる気を起こさせたりするテクニックの問題ではないような気がします。むしろ企業や政治や教育がこれからどこに向かうべきか、いま時代は大きな岐路に差しかかっていると思うのですが、その方向性や目標を社会全体で共有することなしには、どんなリーダーシップもありえないように思うのです。いや、そんな大所高所からの議論で締めくくってみても、何も言ったことにはなりませんね。安倍さんの改革はまだ始まったばかりですし、新浪さんの挑戦もまだまだこれからです。当面はその行方を見守ることにしたいと思います。

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2006年10月14日 (土)

「罪と罰」に関する論考の完結編

 先週に引き続き、『罪と罰の問題に関する一考察』の第2回目を掲載します。今回が完結編です。もしも内容に興味を持ってくださる方がいらっしゃるなら、前回の第1回目の方からお読みいただけると嬉しいです。読み返してみれば、文章の勢いでずいぶん偉そうなもの言いをしていますが、本質的にはごくプライベートな内容のエッセイです。私自身はいわゆる<徳のある>人間でもないし、またそれを目指している訳でもありません。ただ、私が道徳的な問題に関してしばしば立ち止まって考えざるを得ないのは、自分の自然な(と思われる)道徳的感覚が示すものと、自分の頭で考えた理論的な結論が、鋭く対立する場合が多いからなのです。で、私が最終的にどちらをより信頼するかと言えば、私は自分の道徳的な感覚の方を信頼します。と言うよりも、心情的な部分で自分を納得させられなければ、どんな理論も無効だと感じているのです。それで私が試みたいと考えたのは、頭で考えたところに従って、心情の方を作り変えるということでした。もしも死刑が廃止されるべきものなら、たとえ愛するものが殺された場合でさえ、犯人に対して<自然な心情としても>死刑を望まないように自分を作り変えたい。まあ、そんなことは土台無理だし、年齢のおかげでそういうオブセッションからも多少は自由になったのですが、それが若い時代の空想的な理想だったと回想するには、まだまだ自分は年季が足りないようです。

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2006年10月 1日 (日)

安全性の標準化に関する提言

 タイムマシンと並んで、SFでよく取り上げられる夢の技術に、テレポーテーションというものがあります。日本語で言えば、瞬間物質転送装置とでもいうのでしょうか、テレビドラマで人気のスタートレックにも出て来るあの機械のことです。もしもこれが発明されたら、その実用性と有用性はタイムマシンなどの比ではないと思います。これがあれば従来の交通手段や物流手段はすべて不要なものになる。世界中の街角に電話ボックスのような送受信機が置かれ、電話をかけるような気軽さで、世界のどこの国にも一瞬で移動出来るといったイメージです。しかも省エネルギー型の技術なので、環境にも優しい。まさに究極の技術革新とも呼ぶべきものです。仮にそんな技術が本当に実現したと想像してください。しかし、この夢の技術にもひとつだけ欠点があって、たまに起こる事故だけはどうしても防げない、日本国内で転送中の事故により、毎日平均二十人くらいの人が死亡するとしたらどうでしょう。便利さと引き換えに、その程度のリスクは甘受しますか? たぶんほとんどの人はそれを受け入れられないという気がします。(なにしろこの装置による事故は悲惨で、人間の胴体と首が別々の場所に転送されてしまったりする。) ところが、これと同じくらい危険で、しかもこれよりずっと不便で、コストもかかり、環境にも悪い技術が、当たり前のように普及しています。自動車のことです。

 今回は自動車の安全性の問題について書こうと思ったら、こんな書き出しになってしまいました。自分自身、もともとクルマがあまり好きではないこともあって、このような未成熟で危険な機械を、何故現代社会は当たり前のように受け入れてしまっているのかと考えることがよくあります。最近、飲酒運転による重大な事故が立て続けに起こり、世間の関心が集まっていますね。たいていは飲酒運転をする人のモラルの低さや、罰則の甘さが議論になるだけで、自動車そのものの危険性が指摘されることはあまりありません。私自身はクルマを運転しない人間なので、ドライバーの気持ちはよく分かりませんが、酒の方は人並み(以上?)にたしなむので、酒飲みの気持ちはよく分かる(笑)。クルマ嫌いの自分としては、どんどん飲酒運転を取り締まってもらって、違反者はどんどん交通刑務所に送ってもらって構わない訳ですが、冷静に考えれば、<酔っ払い>を取り締まることにはどこか無理があります。酒を飲んだら運転してはいけないということは、理性を持った大人なら誰でも知っている、しかしその理性を失わせるのが酒というものなんですから。酔っ払いに対しては何を言っても無駄なことは、私たちは日常生活の中でよく承知している筈です。飲酒運転者をつかまえて罰することは、子供のおねしょを叱るのと同じような、どこか滑稽なところがあるように感じます。(いや、だからと言って飲酒運転を大目に見るつもりは毛頭ありませんよ。)

 自動車の性能は、ここ百年のあいだに格段の進歩を遂げました。しかし、こと安全性能ということに限っては、初期のT型フォードの頃からいくらも進歩したとは思えない。逆に自動車自体が高性能化するに伴って、事故の際の危険度は増しているように思います。(運転者はエアバッグで守られているかも知れませんが、歩行者の立場で言わせてもらえば、最近の4WDに轢かれるよりは、昔のT型フォードに轢かれた方が、まだ生き残る可能性は高い気がする。) 私にはどうしても、現在のクルマというものが、安全性を置き去りにしてアンバランスに進化しているとしか思えないのです。むろん各自動車メーカーが、最新の電子技術を駆使して、安全なクルマ作りに取り組んでいることは知っています。でも、それならば、安全性が確保出来るまでは製品化して世に出すのを控えるというのが企業の倫理というものではないだろうか。仮に国内で毎日20件の死亡事故を起こす電子レンジやガス湯沸かし器なんてものを想像してみてください。そんなものに対してマスコミが黙っている訳がない、大問題です。では、何故自動車だけはそれが問題にされないのだろう? たぶん自動車が危険なのは、運転者の不注意や交通違反によるもので、製品自体の欠陥ではないというのがメーカーの論理なのでしょう。しかし、年間7000人の死者を出し、数十万人の怪我人を出しているという事実が、そのメーカーの論理を裏切っています。自動車というものは、大量生産が始まった百年前から今日に至るまで常に、安全に操作するためには人間の能力を超えた製品だったのだと思います。

 トヨタの最高級車レクサスの新型には、クルマの前に飛び出した人影をレーダーで感知して、急ブレーキをかける機構が備わっているそうです。そんな技術が実現しているなら、何故すべての自動車にそれを標準装備しないのでしょう? カーナビゲーションやエアコンなどはオプション装備であって構いませんが、安全に関する装置は、オプションのコストを払った人だけを守るものであってはならないと思います。たとえそのために、すべてのクルマが数十万円ほど価格アップするとしても、それを標準化するのはメーカーの良心というものでしょう(これまで百年間も欠陥商品を売って来たんだから)。それにもうひとつ、安全装置をオプション装備にすることには、別の危険性が潜んでいる気もします。例えば、世の中の8割のクルマにレクサスのようなレーダー探知機が着いたとします。そうなると子供たちは、クルマというものは、その前に飛び出しても止まってくれるものだと思い込んでしまうかも知れない。そしてそれが着いていないクルマの前に飛び出して、轢かれてしまうかも知れない。あるいは、アンチロックブレーキが装備されたクルマで運転感覚を覚えた<走り屋>の若者は、たまたま人に借りたクルマで山道を攻めていて、いつもの感覚でカーブに突っ込み、曲がり切れずに谷底に転落してしまうかも知れない。そんな原因で事故が起こらないと果たして言えるでしょうか? 安全性をオプションで売ろうとしている自動車メーカーは、そんな危険性のことまで考えているのでしょうか?

 自動車を安全なものにする研究は、各メーカーが競合の垣根を超えて共同で行なうべきものです。そしてその成果は、メーカーや車種の違いに関係無く、標準で搭載されるべきものだと考えます。レクサスには航空機並みの巨大なシステム・ソフトウェアが搭載されているのだと聞きました。こうした複雑なシステムは、もちろん故障の危険性はありますし、ソフトウェアである以上、誤動作の可能性だって無くはないでしょう。しかしそれでも<人間の誤動作>よりは、はるかにマシであるに違いない。なにしろ放っておけば、これからも毎日20人の生命が自動的に奪われて行くのです。この点に関しては、行政も規制緩和の流れに逆らってでも、実用化の目処が立った技術の義務化に動くべきだと思います。もちろん飲酒者が運転席に座った時に、エンジンがかからなくする仕組みなど、真っ先に標準化を義務付けるべきものです。

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