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2006年9月24日 (日)

文系人間が考える時間論

 政治・経済ネタが続いたので、そろそろ哲学の話題に戻したいと思っていたところ、タイムリーにもmori夫さんが「時間」についての考察を書かれていましたので、それに相乗りしようと思います。なんだか毎回テーマを貰っている感じですね(笑)。哲学に興味を持っている者にとって、時間とは何かという問題は避けて通れない基本問題だと思いますが、そこには道徳や宗教について考えるのとはまた違った難しさがあります。mori夫さんも触れられているように、現代人にとって時間を考えるということは、相対性理論を始めとする物理学的な時間理論と無関係ではいられないからです。そうなると、自分のような数式アレルギーの文系人間には手も足も出ません。しかし、本当に時間論の問題は、理論物理学によってのみ探求されるべき問題なのだろうか? 今回は無謀を承知で、文系人間が考える時間論というものについて書いてみようと思います。きっと間違ったことを書くと思いますので、気付いた方はぜひご指摘ください。

 アインシュタインの理論によって、宇宙の中では時間の進み方が一定ではないということが常識のように語られるようになった訳ですが、これがまず文系人間には気に食わないところです。加速度や重力の影響によって、ある環境では物質の変化のスピードが遅くなるというのは分かります。亜光速まで加速したロケットの中や、ブラックホールに落ちて行く物体の上では、時計の針は地球上よりもゆっくり進みます。分からないのは、何故そのことが<時間そのもの>の進み方が遅くなるという言い方で表現されるかです。SFなどでもよく取り上げられる「浦島効果」というのがありますね。光速に近い速度で宇宙旅行をして来た人が地球に戻ってみると、宇宙船の中では1年しか経っていないのに、地上では数十年が経過していたというあれです。一見驚くべきことのように思われますが、よく考えてみれば、私たちの時間に関する常識をくつがえしてしまうほど驚くべきことではないと気付きます。宇宙船の乗組員にとっては、時計の進み方が遅くなったと感じられる訳ではない、ただ地球に戻って来て初めて両者が経験した時間の長さが違っていたことに気付く訳です。注意しなければならないのは、宇宙から帰還した人は、決して未来の地球にタイムスリップをしてしまったのではないという点です。両者は物理的な変化のスピードが異なる世界にいたけれども、同じ時間を過ごして来たことに変りはない。これがもしも地球を旅立った日よりも過去の日付に戻ってしまったというなら話は別ですが、相対性理論でもそれは許していないと思います(光より速い物質は存在しない)。

 人類が発明した最も精度の高い原子時計だって、時間というものを計るには物質の変化の速度を利用するしかない訳で、基本的なアイデアは古代から伝わる水時計や火時計のようなものと変りありません。今日でも私たちは時間そのものを直接計る術を持たないのです。であるならば、アインシュタインが発見した真理とは、加速度や重力の影響によって、従来一定だと思われていた物質の変化の速度が、<相対的に>変化するというそれだけのことだったのではないでしょうか(なんて言い切っちゃって平気か? 笑)。時間そのものは、そんな周囲の状態とは無関係に一定の速度で流れている、という言い方も誤解のもとです、時間というものはそれ自体が実体を持って川のように流れているものではないからです。むしろ哲学者のカントが考えたように、時間だとか空間だとかいうものは、人間の認識能力にアプリオリに与えられた形式なのだと考えた方がいいと思います(カント哲学だって、私はよく理解している訳ではないんです。苦笑)。ですから、mori夫さんが時間の非実体性を説明するのに、アインシュタインを持ち出した点には私は疑問を感じますけど、『時間が変化を生み出すのではない。変化を自己参照するから、時間みたいなものがあると錯覚するのだ』という表現には、深く共感するのです。

 (いま、気が付いたのですが、特に日本語では「時計」という名前がよくないのかも知れませんね。<時間を計る機械>、アインシュタインが相対性理論を完成させてしまった以上、そんなものはこの世に存在する筈がないのです。むしろ私は、この小さな機械を「共時性測定器」と呼ぶことを提案します。それはこの地球上でしか通用しないものですが、それが無ければ人と落ち合うことも、列車を無事に運行することも出来ない。現代では、<共時性>こそ社会を成り立たせている最も根本的な原理です。)

 この同じ理由によって、相対性理論が<同時性>というものを否定したというのも納得が行きません。ブラックホールに飲み込まれた宇宙船と、この地球上では、なるほど物質の変化の速度はうんと違う。いまこの瞬間、ブラックホールにつかまった宇宙船の中では、地上の私たちから見たら、止まっているとしか思えないほど、のろのろと時間が進んでいるでしょう。が、両者の距離が文字どおり天文学的に離れていても、「いまこの瞬間」というものはお互いに共通に存在する。ただ、それをお互いに確認する手段は、現実的にはもちろん、理論的にも絶対ありえないというだけの話です。(なにせ、宇宙の広大さから見れば、この世で一番速いという光だって、うんざりするほどのろのろ進むものでしかない訳ですから。) だから同時性と言っても、それは観測や実験によって証明出来るものではない、いわば「神の目」によってのみ見通せるものなのです。しかし、人間は本質的に神のごとき目を持って生まれて来る生物だということを忘れてはいけません。もっと分かりやすい言葉で言えば、「想像力」だとか「思考実験」だとかいうことですね。アインシュタインが相対性理論を発見出来たのも、彼が人一倍強力な、この神のごとき目を持っていたからではないですか。

 哲学者ニーチェの根本思想のひとつは、「永劫回帰思想」というものだと言われます。これはひとつの時間理論です。もしも時間が永遠なものであるなら、あらゆる物質が過去にあったのと全く同じ配置をとる瞬間があるに違いない。そこを結節点として、時間は円環を成していると仮定出来る。もしそうであるならば、私のこの人生も無限回に渡って繰り返される(繰り返されて来た)に違いない。しかも、そこには何ひとつ違いの無い、全く同じ人生が繰り返しやって来るのだ。そしてニーチェは、孤独で、貧しくて、病弱で、やがては発狂する運命にある自分の生を、無限回に渡って受け入れることを、いや、受け入れるだけでなく、全身全霊でこれを愛することを決意する。「運命愛」という思想にたどり着くのです。私は理論的な意味での永劫回帰思想には全く賛同出来ませんが、これに向き合ったニーチェの生き方には、心が震えるほど共感します。これこそが真の哲学者の態度であるに違いないと思ってしまうのです。

 相対性理論は、従来の時間や空間に関する考え方を、根底からくつがえしてしまったと言います。しかしそれは、生まれて、生きて、やがては死んで行かなければならない我々の生のあり方までも変えてしまった訳ではない。時間に関する現代科学の洗練された理論は、私たちが素朴に感じている時間というものに対するおそれや、あるいは無常というものを感じ取る感性に比較すれば、まだまだ物足りないものだと感じます。それは脳の研究によって、人の心が解明出来ないのと同じレベルの話です。正直な気持ちを言えば、自分が何故ここにこうして存在するかという問題と、どこかでつながってくれない限り、どんな時間論を持って来られても最終的な納得は出来ないような気がする。いつかはアインシュタインよりもさらに偉大な天才物理学者が現れて、人間の生き方をさえ根本的に変えてしまう、そんな理論を編み出す日が来るのでしょうか?

 最後にひとつ蛇足ですが、私が昔から考えている、恐ろしい地球消滅のシナリオについて書いておきます。光の速度を超えるものは存在しないという定理から思い付いたものです。もしも我々の銀河系の中心部近く、望遠鏡では観測出来ない暗黒物質の裏側で、とてつもなく巨大な超新星爆発が起こったとしましょう。ビッグバンのミニチュア版だと思ってください。それはほとんど光の速度で膨張し、周囲の恒星系を飲み込んで行く。やがてそれは我々の太陽系さえも飲み込んでしまいます。恐ろしいのは、この破局が現代の科学をもってしても全く予知出来ない、不意打ちとしてやって来ることです(光速より速い情報伝達手段は無いのですから)。原爆があっと言う間に広島の街を飲み込んだように、人類は何が起こったかも分からないまま一瞬で絶滅する。それが今日かも知れないのです。いやあ、恐ろし過ぎてSF小説の題材にもなりませんね。どなたか私のこの恐怖を、理論的に取り除いてくださる方はいらっしゃいませんか?

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2006年9月18日 (月)

若者が右傾化する本当の理由

 前回の記事で、もしかしたら安倍晋三さんは小林よしのりさんの愛読者なのでは?という疑惑について書きました。それで思い出したことがあります。今年の8月15日には26万人近い人が靖国神社を参拝したそうで、その中には二十代の若い人も目立っていました。一部には首相の参拝に抗議するために集まったグループもあったようですが、ほとんどは戦争で命を失った旧日本軍の兵士たち(その多くは彼らと同じくらいの年齢でした)に対する追悼や敬慕の気持ちから参拝したのではないかと思います。若者の右傾化については、いろいろな人がいろいろな理屈をつけて説明していると思いますが、私の仮説は単純です。彼らの多くは小林よしのりさんの漫画を読み、それに感化されて靖国神社まで出向いて来たのです。その証拠に、テレビのインタビューに答える彼らの言葉は、ほとんどが小林さんのコトバそのままの受け売りでした。

 ひとりの漫画家ごときに、そんなたいそうな影響力がある筈はない、現代の若者が右傾化している背景には、もっと根本的な現代社会の問題が横たわっているのだ、そんな反論もあるだろうと思います。私は小林よしのりさんの漫画以外に、いわゆる右寄りと言われる人たちの文章をほとんど読んでいないので、一体誰が彼らの黒幕なのかといったことは分かりません。ただ、小林さんの漫画が本当に面白いと感じている私には、ひそかに確信していることがあるのです。それは若者だけではなく、この国の保守派と言われる大人の論客たちの多くも、実は小林さんの影響下にあるに違いないということです。理由は簡単です。小林さんの言葉(というか漫画としての表現全体)には、国内のすべての論客が束になってもかなわないほどの(たぶん)、爆弾のような強烈な感化力があるからです。『戦争論』はシリーズ全部で150万部売れたと言います。『ゴーマニズム宣言』は通算700万部くらい売れたらしい。しかもそれは高橋哲哉さんや藤原正彦さんのような単発のヒット作ではなくて、息の長い固定ファンに支えられたロングセラーなのです。これが社会に影響を与えない訳がない。ことに小林よしのりさんは、現在のような社会派の漫画家になる前は、少年漫画の世界でもヒット作を次々に生み出していた作家です。今の二十代、三十代の若い人たちの中には、子供の頃から一貫して<よしりん>ブランドで育った人も少なくない筈です。単行本の発行部数だけでも、一千万部を優に超えているだろう人気作家が、いまの若い世代をまるごと感化し尽くしたと言っても、あながち誇張表現だとは思われません。

 おそらく左寄りの立場の人たちの多くは、(いや、右寄りの立場の人たちでさえも)、このような小林よしのりさんの絶大な人気と影響力については、実のところいまいましく感じているのではないかと思います。私も最初に『靖国論』を読んだ時には、そう感じたのを覚えています。しかし、その後、初期の作品も含めて何冊かの話題作を読んでみて、私は小林よしのりという人は、見た目ほど思想的に偏向した人でもないし、むしろふつうの思索人として実にまっとうなやり方をしている人だと考えるようになりました。文庫本になった『ゴーマニズム宣言』第1巻のまえがきには、こんな言葉があります、『知識人というものがいかに知識を膨大に蓄積していようと、結果として世の中に意見を披露する際、どれほどの我々一般人の常識に腑に落ちる言葉を吐いてくれて、我々の庶民としての生活を落ち着かせてくれているだろうか。わしは知識人を無視して勝手に庶民の思想を表現してしまおうと企んだ。』 大学教授や評論家の肩書きを持つ知識人と呼ばれる人たちの言葉は、いくら知識が豊富で正しい理屈に見えても、我々庶民の心には決して届かない、そう感じ取る感性を持った人なら、小林さんのこの言葉に共感と期待を抱かずにはいられない筈です。そして小林よしのりという表現者は、多くの著作を通して、この宣言がウソでないことを証明してみせた。誰もがもっともらしいことばかり言って、誰も本当のことを言おうとしないこの閉塞した時代のなかで、彼だけは「王様は裸だ!」とはっきり叫んだのです。

 たまたま現在の小林さんは、右翼的な評論家と同じような口ぶりをしていますが、私はこの人は右翼的思想を漫画で宣伝している単なるイデオローグではないと思っています。むしろ漫画というメディアによって、自分の思想の変遷をどこまで正直に、どこまで赤裸々に表現出来るかを執拗なまでに追い求めた、実験的なアーティストなのだと思います。そしてこのようなパフォーマンスが、若い人も含めた多くの読者の心をとらえたのも当然なことだし、むしろ健全なことだとさえ思えます。って、なんだか私自身の口ぶりも評論家みたいですね。今回の文章は、実を言うと小林よしのりさんへのオマージュのつもりで書いているのですが(笑)、こんなふうに賢い評論家みたいな言葉を連ねていると、それこそゴーマニズムの餌食になってしまいそうです。で、ここから先は私も敬愛するよしりんにならって、ひとりのゴーマニストとしての意見を言うのですが(そもそもブロガーなんていうものは、プチ・ゴーマニスト以外の何者でもありません)、現在の小林よしのり人気に起因する若者の右傾化問題で一番深刻なのは、まさしく現代の政治を覆っているポピュリズムの問題そのものなのだと考えます。

 自民党の三人の総裁候補のうち、国民のあいだで安倍さんの人気が一番高いのは何故でしょう? 私の考えは簡単で、安倍さんが(失礼ですが)あとのお二人よりも好男子で、グッド・ルッキングだからです。政策の内容なんて大した問題じゃない。私たち日本人は、いまだに西洋人に対して体格や外見でコンプレックスを持っているので、一国の総理を選ぶ時には、欧米の居並ぶ首長連中と並んだ時、あまりにみすぼらしく、ちんちくりんであって欲しくない。小泉さんが長く国民の支持を得られていたのも、ひとつにはここに理由があったと思います。これは日本だけの問題ではありません、アメリカの大統領選でケネディとニクソンが争った時、演説の内容と議論において勝っていたニクソンよりも、専門のスタイリストをつけてテレビ映りに最大限配慮したハンサムなケネディを米国民が支持した時、はっきりと証明されてしまった時代の現実です。(とても口惜しいし、絶対に認めたくないことですが、石原都知事の人気だって、これと無関係ではない筈です。笑) 小林よしのりさんの人気も、要するにこれと同じです。いや、小林さん自身がハンサムだという意味ではないですよ(失礼だな。笑)、そうではなくて、現代のように誰もが同じ一票の投票権を持っている時代には、大衆の求めるところに照準を当ててものを言わなければ、効果は無いという意味です。いまの若い人はあまり活字を読まない。いくら加藤典洋さんと高橋哲哉さんが質の高い論争をしても、誰も読まなければ社会的な影響力はありません。しかし、若い人も漫画なら読むのです。このメディアを政治的に利用するという点で、よしりん企画(小林よしのりさんの会社)が長年に渡って独占企業になっているという点こそが、最大の問題なのではないだろうか。

 mori夫さんからいただいたコメントによれば、日本のアニメは世界中を席捲しているし、それは単に商業的に成功しているだけではなく、例えば日本の若者たちの「かわいい」という価値観を世界に広めることにも成功しているのだそうです。私は、日本人が伝統的に持っている宗教的な寛容さだとか、憎しみを世代を超えて引き継がない恬淡さだとかいうものを、世界中に輸出出来たらいいなと思っているのですが、mori夫さんの言われるとおり、それは分厚い哲学書や小説によってではなく、漫画やアニメによって成し遂げられることなのかも知れません。最近の漫画が到達した高度な表現力を駆使すれば、政治だってもっと面白くなることは、小林よしのりさんが証明してみせたとおりです。それは若者たちをもう一度政治に引き戻す牽引役にもなるでしょう。漫画を政治の道具に使うなどけしからんという意見もあるかと思いますが、それを言うなら活字を政治の道具に使うこともけしからん訳で、漫画という表現形式を見下した意味の無い偏見に過ぎない。むしろ、小林さんとは違う政治的立場の漫画家が、小林さんに真っ向から反論するような作品を描いてくれたらいいと私は思う。そして、政治に対するいろいろな考えを持った作者の魅力的な作品が、百花繚乱、頭がクラクラするくらい乱立すればいい。そうなれば漫画好きの若者たちも、様々な作品に触れるなかで、政治に対する目を肥やすことも出来るのです。これは次の世代がポピュリズムに対抗する批評精神を持つために、重要なことであると思います。若い漫画家や出版社は、この方面での市場開拓をもっと積極的にしたらどうでしょう。

 ところで、今回の文章を書きながら、私は小林よしのりさんにぜひ訊いてみたいことがあるのに気付きました。最近の若者たちの多くが、小林さんの本を読み、その言葉をそのまま受け売りするような、いわば小林エピゴーネンになってしまっていることを、小林さん自身がどうお考えになっているかということです。もちろん、その若者の中には、政界の若きリーダー、安倍晋三さんその人も含まれます。

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2006年9月10日 (日)

「闘う政治家」に「宣戦布告」?

 次期総裁候補の筆頭と目されている安倍晋三さんの著書、『美しい国へ』を読みました。今回はその読後感について書いてみたいと思います。著者自身、あとがきの中で述べているように、この本は政策提言として書かれたものではなく、安倍晋三という人のいわば自叙伝として書かれたものだそうなので、個々の政治的見解については、(言いたいことはいろいろあるけれども)、今回は触れません。ただ、これだけは書いておきたいと思うのは、安倍さんの政治家として、いや人間としての狭量さという問題です。

 私は安倍晋三さんとは世代が近いこともあって、この本の基調にある明るい気分がとてもよく理解出来ます。東京オリンピックの開会式の記憶について、『青い空にくっきり浮かんだ白い雲の輪は、子ども心にも、これから日本で、なにか輝かしいことがおきそうな気配を予感させた』と書いていますが、これは高度経済成長期に少年時代を送った世代に共通の気分だったような気がします。でも、祖父に岸信介氏を持ち、大叔父に佐藤栄作氏を持ち、父に安倍晋太郎氏を持つ著者の少年時代には、私のような平凡人には窺い知れない苦労もあったようです。子供の頃、「お前のじいさんは、A級戦犯の容疑者じゃないか」と言われ、反発を感じたというエピソードが紹介されています。高校時代には、安保反対を唱える教師と対立し、こちらが反論するとうろたえて話題を変えてしまった教師に、内心深い侮蔑を感じたりしている。わざわざこういうエピソードを紹介しているのは、子供の頃からのこうした長年の対立関係が、今の政治家安倍晋三の信念を形成するのに大きく影響したことを示唆しているのだと思います。安倍さんは、自ら「闘う政治家」を自認していますが、なるほど闘う姿勢は子供の頃から一貫しているようです。

 まったく先入観なしに、つまり次期総理大臣候補の書いた本だという前提なしにこの本を読んでみれば、その内容の偏向していることは明らかだと思います。保守主義やナショナリズムに偏向しているという意味ではありません、対立する意見や考え方に対する攻撃的な姿勢が、(私の感覚からすれば)常識の範囲を超えているという意味です。ほとんどどのページを開いても、著者は何者かを敵と定め、何者かと対決しているといった印象です。この本の中には、「反論」、「批判」、「敵対」、「否定」といった、対立する言論の場にこそふさわしいネガティブな言葉は毎ページのように出て来ますが、それとは反対の「対話」だとか「共感」だとか「和解」だとかといったような、対立関係を乗り越えようとする意志のこもった言葉はほとんど出て来ません。たまたまなのかも知れませんが、私はそこに安倍さんという人の精神の傾向が端的に表れているような気がするのです。そう言えば、こういう言葉づかいはどこかで読んだ気がするぞ、と思って気が付きました、私の愛読する小林よしのりさんの言語世界そのものじゃないですか。あんまり想像したくないことですが、もしかして安倍晋三さんも小林よしのりさんの愛読者で、その影響を受けているんじゃないでしょうね(笑)。まあ、それは冗談ですが(冗談じゃないかも知れん?)、問題は、権力の座とは無縁の小林さんの繰り出すコトバは、政治的な主張であると同時に表現者としての一種の<芸>でもあり、本物の政治家であり、次期首相であることが確実な安倍さんのコトバとは、おのずからその意味合いも影響力も異なるという点です。

 私は首相になられる安倍さんには腹を割って聞いてみたいのです、あなたは闘う政治家を自認していらっしゃるが、その闘う相手とは一体誰のことなのかと。おそらく今の日本では、国民のちょうど半数くらいが憲法九条を守りたいと思っている訳です。ということは、美しい日本を目指すあなたは、日本人の半分を敵と見なして、それと闘う訳ですね? 改憲派の半分の人たちと手を携えて、次の日本を作ろうというのですね? ということは、残りの半数(私もその中のひとりです)は日本から追放しますか? それともホロコーストにでも送りますか? もしもそうでないと言うなら、あなたは我々護憲派の日本人を、どうにかして納得させてくれなくちゃいけない、それが無理だったとしても、対話の土俵には乗って来てくれなくちゃいけない。ところが、私はあなたの本を読んで、(少なくとも改憲論や軍事論に関しては)ただのひと言も納得が行かなかったし、この人とは対話が出来るとも感じさせてくれなかった。今になってみれば、小泉さんが長いあいだ首相の座にいて、高い支持率を保っていられたのは、任期中何ひとつ決定的なコトバを発しなかったからだと思います。この人の本心がどこにあるのか、最後まで分からず仕舞いだった。それが深慮遠謀の末のことだったのか、単なる能天気のなせるわざだったのかは、永遠の謎になってしまいました(この問題に関して、内田樹さんはひとつの結論を出したようですが。笑)。ところが、安倍さんの場合には、まだ首相にもなる前から、はっきりしたコトバで国民の半数に喧嘩を売っている。私は論理が明解なことは歓迎します、しかし対話の意志の無い明解さは、単なるプロパガンダに過ぎないとも考えるのです。

 いまの時代、国内では右を見ても左を見ても、みんなが喧嘩をしています。靖国参拝の是非をめぐって、日の丸君が代をめぐって、護憲か改憲かをめぐって。それはもう建設的な議論なんてもんじゃない、まさしく口喧嘩です。お互いに最初から折り合う意思がまったく無いんだからどうしようもない。そんななかに、「闘う政治家」の看板を掲げて登場するなんて、どう考えても利口なことだとは私には思えないのです。あなたはきっと、本当に憲法改正案を国会に通して、国民投票にかけることまでやってのけるのでしょう。そして、おそらく憲法は改正されることになるのでしょう。その時、あなたは自民党五十年の悲願がやっと叶ったと考えて、満足するのでしょうか? もしかしてそれが、戦後日本の深い分裂の病理を、その深刻な症状を、さらに亢進させることだったとしても? 私は新しい日本の首相には、少なくとも現在この国が重篤な症状に陥っているということの病識を持った人になって欲しい。そういう人なら、まずは相手の言葉を聴くことから始めるでしょうし、自分の信念にこだわって性急にことを決することも控えるでしょう。

 と、ここまで書いて、少し脳味噌がヒートアップしてしまったので、気分転換に近所の本屋に行って来ました。新聞の広告で見た、立花隆さんが安倍晋三さんに向けて書いた批判文のことを思い出し、読んでみたくなったのです。すぐに見付かりました、『月刊現代』という雑誌です。記事のタイトルがすごい、『安倍晋三「改憲政権」への宣戦布告』というのです。読んでみました。読んだらさらに気持ちが滅入った。立花さんの本は、過去に何冊か読んだことがあります。ことに『臨死体験』は私の座右の一冊でもあります(オカルト、好きなもので。笑)。立花さんと言えば、その硬質な文体と世間に迎合しない骨太の批評精神において、私の敬愛する文筆家のひとりです。今回の記事に付く『宣戦布告』という軽薄な言葉だって、きっと雑誌の編集者が売らんかなで後から付けたタイトルなんだろうと思っていた。ところが、読んでみたら、これがホンモノの<宣戦布告>でした! 立花さんは、最近の著作でも取り上げている南原繁氏の言葉を手がかりに、戦後民主主義の理念と、それを保障して来た現行憲法の意義を説きます。そこまではいい、私も同意です。しかし、安倍晋三さんのことを「昭和の妖怪」岸信介のDNAを継ぐ者と規定し(そりゃ継いでいるわな)、自分のことを南原繁の精神的DNAを継ぐ者と規定して、両者の対決が歴史的な因縁であるかのように演出してみせる。こんなのは傍から見てもみっともない挑発だし、最初から対話の道を閉ざしているとしか思えない。立花さんは、安倍さんが自らの憲法改正発言に今後も縛られ続けるだろうと言いますが、宣戦布告などしてしまったあなたこそ、今後安倍総理に対して心を開いた発言が出来るのでしょうか?

 この雑誌には、同じく重厚なルポルタージュ作家として知られる辺見庸さんのインタビュー記事も載っています。こちらもそのコトバの体温は、立花論文と変りません。辺見さんは言います、『小泉氏は単純で陽性な独裁者、ファシストの一面がありますが、安倍氏はあの一見柔和な表情の裏に底暗い世界観を秘めた、いわば“陰熱”の国家主義者であると感じます。』 そしてさらに安倍さんのことを「ちんぴら」と呼び、自らの病身をおしても『(憲法をめぐる)この喧嘩に最期まで付き合う覚悟です』と言って、言葉を締めくくっている。立花さんにしても、辺見さんにしても、喧嘩上手であることはよく分かりました。が、相手だって喧嘩の腕前はまだ分からないが、「闘う政治家」を標榜する人ですよ。闘う政治家に、こちらから宣戦布告をしてどうする。ゴングが鳴る前にもう場外乱闘が始まった様相です。こんな最後通告のような言葉を発してしまった以上、もうこの人たちのあいだには、どんな対話もありえないのではないだろうか、私はそれを心配します。自らを闘う者と規定する人は、相手からの攻撃によって余計に戦意を高揚させるものです。最初から作戦が間違っています。

 気分転換のつもりが、雑誌の記事でいっそう脳味噌が発熱してしまいました。本当に熱があるのかも知れん。それにしても、安倍さんにしろ、立花さんや辺見さんにしろ、こういった発言をする場合の、その言葉の平板さに私は驚き呆れます。例えば、最近私が愛読している内田樹さんの、複雑で重層的でためらいがちな思考法に比べると、なんとまあ単純で平面的で自信満々な思考法なのだろうと思ってしまう。もしかしたら、攻撃的であることと単純であることとの組み合せが、いま世界で起こっているあらゆる対立の大元にあるのかも知れない、そんな仮説さえ思い付いてしまいました。素朴で悪意の無い単純さというものは、いまのような時代にだって、結構ありふれたものとしてあると思います(例えば私のこのブログのように)。しかし、自分の持つ信念やイデオロギーに対しては一切批判的な目を向けず、対立する意見やイデオロギーに対しては本能のように牙を剥く、そういった短絡的な思考同士がぶつかり合った時には、もうどうしようもない。少なくとも商業主義や有権者の支持率には気をつかわなくてもいい我々ブロガーは、こういった犬の喧嘩からは距離を置きたいものです。

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2006年9月 3日 (日)

Googleが倒産する日

 前回の記事でブログの機能について考えたのをきっかけに、最近話題になっている梅田望夫さんの『ウェブ進化論』という本を読んでみました。このところ、戦争責任をめぐっての重苦しい本ばかり読んでいた自分には、とてもいい気分転換になりました。著者は長年、アメリカのIT産業の中心であるシリコンバレーに住み、コンサルタントをしている方だそうです。現在インターネットの世界で起こっている革命的とも言える変化を、現場から臨場感豊かに伝えてくれるのがこの本です。何よりも、全編にあふれているオプティミズムがいい。梅田さんは、いま進行中のインターネット革命に、未来の明るい希望を見出しています。日本の若い人たちの中から、十年後、二十年後に次の革命を起こす人が出て来るかも知れないと予感している。梅田さん自身の行動力もすごい。そのために日本人一万人をシリコンバレーに移住させてしまおう、そんなことを真面目に考えてNPOまで立ち上げてしまう人なのです。

 『ウェブ進化論』の明るい未来志向の世界観に私も共感します。ただ、ひとつだけ梅田望夫さんとこの点だけは意見が違うなと感じた部分がありました。それはグーグルという企業に対しての評価です。この本の中で、梅田さんはグーグルをIBMやマイクロソフトと並ぶ、十年に一社しか現れないエポックメーキングな企業なのだと力説しています。確かに説得力はあるのですが、冷静に考えてみれば、やはりちょっと無理がある気がします。私もGoogle検索にはひとかたならずお世話になっている人間のひとりですし、これはもうインターネットの世界で必要不可欠なサービスであることも認めます。でも、いくら「シリコンバレー史の頂点を極めるとてつもない会社」だと言われても、所詮はインターネットのテキスト検索だけを売り物にしている会社ではないかと思ってしまう。そこに巧妙なアイデアで、莫大な広告収入を得る仕組みを付け加えているからと言って、それが十年に一度の大革命だとは私には思えないのです。いや、私がグーグルという会社に一種のうさん臭さを感じるのは、梅田さんが言うところの「玉石混交問題」だとか「自動秩序形成」という、それ自体いろいろと問題をはらむ課題に対し、グーグル社が独自の<秘法>によって解答を与えようとしている、その点にあります。何の話かと言えば、グーグル検索で出て来る結果の順番、つまり<ランク付け>の話です。

 グーグルのサービスが素晴らしいのは、利用者にとっては無料で、全世界のインターネット・サイトから、キーワードを含んだページを瞬時に探し出して来てくれること、そのことが素晴らしいのであって、ランク付けの結果が素晴らしい訳では断じてありません。『ウェブ進化論』の中には、「グーグルの生命線たるページランク・アルゴリズム」という表現が出て来ますが、これが私には信じられないのです。むしろみんながグーグルを使うので、広告を出稿する企業も、たとえどんなにグーグルのランク付けが恣意的なものだったとしても、文句は言えないというだけのことではないのでしょうか。グーグルのランキング方法は企業秘密ですが、私自身は秘密の方法でランキングされた検索結果を見せられることを好みません。これを企業秘密にしておくのは、グーグルという会社の儲ける仕組みに関わる問題だからで、利用者のことを考えた結果ではないからです。

 もしも私がグーグルに対抗する検索エンジンを作るとすれば(お、話がデカいぞ。笑)、ページランク・アルゴリズムは決してブラックボックスにはしないでしょう。単純なページビューでのランキングや、そのページに向けられたリンク数でのランキングの他に、各国別のアクセス・ランキング、時系列で見た場合のランキング推移など、検索者の自由な指定によって抽出や並べ替えが出来るようにする。さらに贅沢を言えば、検索者の好みを学習して、その人向けのランキングを表示する機能も欲しいところです(業界用語ではパーソナライゼーションと呼ばれている手法です。インターネット書店のアマゾンが、個人向けの推薦商品を表示するのと同じ仕組みですね)。例えば私が「超人」という言葉を検索したら、これはもうニーチェの超人思想のことを調べようとしているのに決まっているので、「超人ロック」や「キン肉マン」の話題などは上位に表示しないでいただきたい(笑)。まあ、そんなふうなことです。私ならこのパーソナライズの機能については、たとえお金を出しても使いたいような気がします。

 今日ではもう誰も、当たり前のようにグーグルのサービスを使って、インターネットの世界を歩き回っている訳ですが、最初にこれを使った時の驚きは、誰もが覚えのあることだと思います。どんな難しいキーワードで検索しても(難しいかどうかはコンピュータには関係ありませんが)、わずかコンマ数秒で結果を出して来る。まるで魔法のような世界です。梅田さんの本を読んで、おぼろげながらそのカラクリが分かりました。ふつうインターネットの世界で何か事業を始めようという会社は、まずは大手のコンピュータ・メーカーに見積りを依頼して、ハードウェアとソフトウェアを調達するところから始めます。ところが、グーグルという会社では、自社で使うコンピュータを自分で設計して、自分で作ってしまったというのです。創立者である二人の若者は、大学でコンピュータ・サイエンスを学び、最新の研究成果をふんだんに注ぎ込んで、世界でたったひとつしかないシステム・アーキテクチャを生み出した。グーグル社の何処にあるか分からないデータセンターでは、そうして作られた30万台ものサーバーが24時間、365日休みなく稼動しているのだと言います。私もコンピュータ業界の末席にいる者として、一体それがどのようなシステムなのか興味はそそられますが、それにしてもそれが十年先にも他社の追随を許さないほど画期的なものだとは信じ難いことです。いくら世界最優秀の頭脳を集めたと言っても、1年半で性能が2倍になるというこの世界で、十年分も先進的なコンピュータが作れるものだろうか?

 グーグルという会社の存在意義は、他の企業が真似の出来ない、インターネット上の全テキスト情報の高速検索ということを、力ずくでやってみせたというその一点にあります。逆に言えば、他にもっと高性能で高機能の検索サービスが出てくれば、グーグルはその存在意義を一瞬で失うことになる。これが例えばパソコンの世界なら、ウィンドウズに代るどんな優れたパソコンが登場したとしても、マイクロソフトからそのシェアを奪うのは容易なことではない筈です(事実、ウィンドウズよりも優れた小型コンピュータは過去にいくつも存在しました)。パソコンという商品の特性もありますが、マイクロソフトは顧客が容易に他社の製品に乗り換えられないような仕掛けを、ウィンドウズという製品の中に作り込んでいるからです。しかし、グーグルは違います。私たちがグーグルを使うのは、グーグルという会社が好きだからでも、みんながそれを使っているからでもありません。現在のところ、それよりも高性能な検索エンジンが他に無いから使っているだけのことだと思います。それを超える魅力あるサービスを提供する会社が現れれば、もうグーグルを使い続ける意味は無い。インターネット検索は、言ってみれば世界の市場にたったひとつしか生き残れないタイプのソフトウェア・サービスです。人が集まらない検索サービスに、広告を出すスポンサー企業は無くなります。株式時価総額十兆円を誇るグーグルも、つぶれる時はあっと言う間ではないかと思うのです。

 あ、誤解しないでください、私はグーグルという会社が嫌いな訳ではありませんし、つぶしたいと思っている訳でもありません(正直なところマイクロソフトはちょっと嫌いですが)。ただ、梅田さんが「情報発電所」と呼ぶ、30万台のコンピュータ・パワーにものを言わせただけのビジネスモデルは、意外と脆いものであるかも知れないと考えているのです。それでは、グーグル社はこの先どういう方向を目指せばいいのか? グーグルに対抗心をみなぎらせているマイクロソフトの追撃をふりほどいて、そのビジネスモデルを磐石なものにする戦略はあるのでしょうか? さて、ここからが今回の記事の本題なのですが(前置きが長くてすみません)、これから私が考えている他社を寄せ付けない究極の検索エンジンについて説明したいと思います(冗談だと思って読んでくださいね)。ヒントはグーグル自身にあります。これもグーグル・ユーザーが一度は驚く経験ですが、グーグルの検索結果にはキャッシュというものがあって、見たいホームページが更新されたり消されたりしていても、暫くのあいだはそのコピーがグーグルのシステムの中に保管されています。世界のほとんど全てのページを、自社のハードディスクに一時的とは言え保存しておくという発想自体が驚きです(何故そんなことが出来るんだろう?)。しかし、グーグルのヘビーユーザーなら時に思うことがある筈です、何故キャッシュをもう少し長いあいだ取っておいてくれないのだろうと。

 私が考える検索エンジンの理想形は、この過去のインターネット情報を、その日の日付のまま永久に保存しておくというものです。全世界のサーバー上に散らばった30億ものホームページ、しかも日々すごい勢いで増加しているその情報の全てを保存することなど不可能だと言われるでしょう。しかし、全てのページが毎日更新されている訳ではありませんし、変更があったところの差分だけを保存すればいいのですから、まったく荒唐無稽ということでもないような気がします。また毎日が無理だとすれば、一週間ごとならどうでしょう。このサービスでは、検索のオプションで過去のある日付を指定すると、その日のインターネットの状態がデスクトップ上にほぼ完全に再現されることになります。言ってみれば、仮想的にその時代にタイムスリップ出来る訳です。もちろん過去に削除されたページもすべて保存している訳ですから、リンク切れもほとんど無くなる。こうなるともう誰もインターネットの本体(?)など見に行かなくなるかも知れない、インターネット検索サービス会社のバックアップ・サーバーの方が、インターネットのメイン会場になるような気がします。(笑)

 これがどれほど画期的な仕組みであるかは、こんな想像をしてみるとすぐに分かります。もしもインターネットが発明されたのが西暦1900年で、その時以来、すべてのホームページやブログが一日単位ですべて保管されているとしましょう。1945年8月15日と指定して検索をかければ、多くの人のその日の日記や記事が、その日の状態のまま読めるのです。そこにはまだ日本の経済的復興も、中国共産党政権の誕生も、ベトナム戦争の勃発も、何も知らなかった時代の空気がそのまま残っている。私はこれは学問研究に大きな変化をもたらすような気がします。ある社会的通念がどのように世界に伝播して行くのかを追跡調査することも出来ますし、ある流行語や新語がいつどこで誕生したかなどということもすぐに調べられる。今はまだインターネットが普及して十年くらいしか経っていないので、それが持つ史料的価値と言われてもピンと来ませんが、今から百年先の人類にとって、それがどれほどの贈り物になるかを想像してみてください。これはもうタイムマシンの発明にも匹敵するものかも知れません。

 もちろん、そんなマニアックな機能を一般の人が使いこなすかという疑問もあるかと思います。そこまで金をかけて作るべきシステムかと考える人もいるでしょう。しかし、それはグーグルの創業者たちが気付いていた、インターネット検索サービスの特別な意味を理解しない人の考えです。重要なのは、ふつうのシステムのような費用対効果などというケチな損得勘定の問題ではありません、インターネット検索は間違いなくインターネットそのものと不可分なほど重要なサービス分野であり、そこで最終的に生き残れるのはたったひとつの事業者だけだという点なのです。グーグル社は最初にそのことに気付いたという点で、莫大な先行者利益を手にしました。しかし、彼らのビジネスモデルとて完璧ではない。相手に資金力さえあれば、いつでも逆転される危険性があるからです。私が空想している、過去の情報も丸ごと保管するというビジネスモデルは、この点においても強力です。どんな豊富な資金力を持った企業でも、失われた過去の情報まで買い戻すことは出来ないからです。

 私はこの壮大なビジネス構想を、日本のどこかの大企業か、または産学共同体が企画してくれたらいいのにと思います。プロジェクトは初め、秘密裡に進行します。巨大なデータセンターに、全世界のインターネット情報を<時系列的に網羅した形で>ひたすら貯め込みます。急ぐことはありません。最低限五年分くらいの情報が蓄積されたら、そこで新しいインターネット検索サービスの開始を宣言する。キャッチフレーズは、「時空を自由に行き来出来る、リンク切れの無いネット空間」というものです。五年間の蓄積があるので、もう誰も追いつけはしない。つまり、その日がGoogle社の倒産する日です。

(追記1 この文章を本気にされる方がいると困るので(笑)、お断りしておきます。このビジネスモデルの最大の問題は、資金の問題ではなく、著作権の問題です。実際、現在でもグーグル社は、そのキャッシュ機能に関して著作権法違反で訴えられることが多いのです。ですから、もしもこれに近いアイデアが実現するとすれば、それは一営利企業によるものではなく、各国政府の共同プロジェクトとして行なわれるものである筈です。)

(追記2 梅田さんの『ウェブ進化論』に対して、他のブロガーの方たちがどのような評価をしているのかが気になって、いろいろGoogleで検索してみました。賞賛の声がとても多いのですが、中におひとりだけとても鋭い批判を投げ掛けている方がいらっしゃいました。think or dieさんという方の『愛と苦悩の日記』というブログです。私にはとても共感出来る意見が多かったです。『ウェブ進化論』という本は、ある意味で煽動的な内容の本でもありますから、バランスを取るためにthink or dieさんの文章と併せて読むことをお勧めします。)

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