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2006年8月20日 (日)

私のナショナリスト宣言

 お盆休みは、久し振りにゆっくりして、家族で短い旅行に行ったり、離れて住む母親に孫の顔を見せに行ったりしていました。この時期は、日頃のあくせくした日常から離れられると同時に、日本人であることを強く意識する時期でもありますね。考えてみれば、8月15日が終戦記念日であるということも、不思議な符合であるような気がします。戦後61年が経った今日でも、私たちは1年で最も強く先祖のことを想う日に、あの戦争で亡くなった多くの人々のことを想っている。それがこの時期の私たちの気分を作っています。それもやがて時が経ち、戦争の記憶が薄れて行くに従い、失われて行く一時的な気分なのでしょうか。いや、これは私の予感ですが、8月15日が特別な日であることは、あの戦争が歴史の教科書の中に埋もれてしまった後も、永く私たちの想いとして残るに違いないという気がする。それというのも、8月15日という日は、日本があの戦争を最後に永久に戦争を終らせたという意味で、まさしく特別な記念日であるからです。つまり、これから百年が経とうが千年が経とうが、8月15日は日本にとって永遠の「終戦記念日」であるという意味です。事実や信念を述べているのではありません、心からの願いをこめて、そう強く思うのです。

 以前にもこのブログでご紹介したビル・トッテンさんの今週のエッセイに、心を打たれるものがありました。ご存知の方も多いと思いますが、トッテンさんは来日して38年にもなる在日のアメリカ人で、京都に居を構え、ソフトウェアの会社を経営する企業家でもある方です。日本の伝統的な文化に深く傾倒され、またアメリカ化する現代の日本には強い危惧をお持ちの方で、たくさんの著書もお持ちです。そのトッテンさんが、今回晴れて日本の国籍を取得され、日本に帰化されたということでした。本文から引用させていただきます。

 『私は平成の日本人が捨ててしまった日本の価値観が好きである。なぜならそれが、私が日本に来てビジネスを始めたときに手本とした、日本を高度成長時代に導いたリーダーたちの価値観だからだ。そしてそれは日本人の多くが劣っているとみなしていた「江戸時代」に主流だった価値観である。江戸時代が長いこと続き成功した理由の一つは、自然神道(明治神道ではない)や道教、儒教や仏教が混ざり合って出来上がった武士道ではなかったかと私は思う。 』

 私は(平和のためなら戦争も厭わないというほどの?)根っからの平和主義者なので、<武士道>と言われるとちょっと引いてしまうのですが、トッテンさんの気持ちはとてもよく分かる気がします。それが武士道であるかどうかは別として、平成の私たち日本人が失ってしまった大事な価値観があったに違いないとは感じています。それは過去の日本人が当たり前に持っていたものです。私自身は高度経済成長の時代に、典型的な核家族の中で育った人間なので、そういった伝統からはきわめて遠いところにいたと自覚しています。(亡くなった私の父親は、どちらかと言うとアメリカナイズされた価値観の持ち主で、若い頃は進駐軍の通訳のアルバイトをしていたような人でした。) そんな私でも、日本人が失った大事なものが何だったかは分かる気がする。難しい話ではありません、外国の方の目から見れば、とても簡単で明らかなものです。トッテンさんの文章からさらに引用します。

 『私の家族も友人も、仕事仲間も、過去38年間に私が出会った日本の人たちである。私は彼らと暮らし、共に楽しみ、これからも一緒に悩んだり苦しんだりしたいと思う。武士道精神が失われたとはいえ、私の接する多くの日本人は大部分の米国人よりも親切で、他者に対して思いやりがあり、協力的だ。他者に一方的に自分の意見を押し付けるのではない、最初は理解しにくかったやり方がだんだん分かってくるにつれ、それがあいまいさからくるのではなく、相手を尊重する思いやりからきていることに私は気付いた。余生を過ごす国はやはり日本以外考えられない。』

 藤原正彦さんや櫻井よしこさんに日本の美質を言われると、なんとなく反撥したくなるのに、ビル・トッテンさんに言われると、とても納得感があって、嬉しく感じるのは何故でしょう(笑)。平成の時代に生きる我々が、「武士道」の精神を回復するのは難事である気がしますが、「相手を尊重する思いやり」くらいなら、努力次第でもう一度取り戻せるかも知れない。しかし、そんな単純な美質が、何故日本人に特有なものだと言えるのでしょう? 親切で、思いやりがあって、協力的な国民と言うなら、日本以外にもっとその形容詞に相応しい国々が世界にはたくさんあるような気がする。トッテンさんのエッセイは、次のような文章で締めくくられています。

 『私は南カリフォルニアで生まれ、育った。近くに川も山もない、砂漠のような土地であり、一年中季節は同じだった。だから日本に来て、初めて四季を経験したときは感動的だった。移り変わる風景、温度や湿気、季節ごとに違う香りがもたらす刺激。季節ごとにすべき行事があり、食卓には「旬のもの」を味わう楽しさがある。日本に生まれ育った人々には、これらはすべて当然のことかもしれない。当然すぎるからこそ、人々はそれが人間の感情や、人と人、人と自然のかかわり合いにとっていかに大きく影響しているかを見逃してしまったのかもしれない。鴨川の流れ、上空を舞うトンビ、百日紅が咲き誇る暑い午後、私はこの恵まれた国に日本人として生活することに喜びを感じている。』

 現在の日本人は、複雑化した社会の様々な問題やストレスに日々さらされているので、自分たちが基本的にいかに恵まれた環境にいるのかを忘れてしまいがちです。しかし、エアコンが普及した今日でも、私たちは四季おりおりの自然や行事を楽しんでいますし、養殖やハウス栽培の技術が進歩しても、旬のものを味わう楽しさは捨てていない。誰でも考えることだと思いますが、もしも日本人の気質のなかに、<思いやり>だとか<繊細さ>だとかが特長的なものとしてあるのならば、それはこの恵まれた自然と無関係なものではない筈です。それは日本の近代化、西欧化の流れのなかで、多少は歪められて来たものかも知れませんが(特に外国との度重なる戦争によって)、それでもビル・トッテンさんのような外国の方が長く日本に住んでみれば、否応なく気付く日本人の特性である訳です。

 日本がこの百年余りの間に犯した多くの過ち、すなわち侵略戦争の数々をもって、日本という国が人類にとってマイナスの存在だったと考えるようなことは、私はもう止めたいと思います。だってもしも日本という国が歴史に存在していなければ、世界中の人が寿司や和食の素晴らしさを知ることは無かった訳ですし、浮世絵がヨーロッパに輸出されていなければ、ゴッホという画家だっていなかったかも知れない訳でしょう? もちろんエレクトロニクスや自動車産業といった分野での日本の貢献は、言うまでもありません。天然資源に乏しい日本は、開国以来、貿易で身を立てるしかありませんでした。しかし、貿易立国とは一体何でしょう? それは貰ったものよりも多くを与えて行く、国としての生き方のことではないですか。ナショナリズムというものは、互いに自国の優秀性を競うから対立の火種になってしまう。そうではなくて、自分たちが誇れる優れたものを持っているならば、それを加工して世界に受け入れられる品質にまで高め、人類に新しい価値として提供して行くこと、それを新しいナショナリズムの定義としてはどうでしょう。

 日本は、古来八百万(やおよろず)の神と言って、たくさんの神様が(多少は喧嘩をしながらも)お互いに共存するという、先進国の中では珍しい宗教を持っている国です。それがあったからこそ、日本では、儒教も仏教もキリスト教も(明治神道でさえ?)、同じひとりの人間のなかに自然に共存させることが出来るのだと思います。例えば、このユニークな宗教観を、洗練させ、理論づけ、外国語に翻訳して、パレスチナやイスラエルに輸出することは出来ないものだろうか? もちろん輸出ですから、相手が気に入って、欲しいと思う品質のものでなければならない。まあ、とんでもなく難しいことのような気はしますが、これからの日本の思想家にとって、この上なく取り組み甲斐のあるテーマであるようにも思えます。

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コメント

mori夫です。しばらくご無沙汰していました。すみません。

> 日本は、古来八百万(やおよろず)の神と言って、たくさんの神様が(多少は喧嘩をしながらも)お互いに共存するという、先進国の中では珍しい宗教を持っている国です。それがあったからこそ、日本では、儒教も仏教もキリスト教も(明治神道でさえ?)、同じひとりの人間のなかに自然に共存させることが出来るのだと思います。例えば、このユニークな宗教観を、洗練させ、理論づけ、外国語に翻訳して、パレスチナやイスラエルに輸出することは出来ないものだろうか? もちろん輸出ですから、相手が気に入って、欲しいと思う品質のものでなければならない。まあ、とんでもなく難しいことのような気はしますが、これからの日本の思想家にとって、この上なく取り組み甲斐のあるテーマであるようにも思えます。

同感です。この「輸出」のためには、日本のアニメが最適だし、実際、高い効果を発揮しているように思います。最近読んだ、日下公人さんの「数年後に起きていること」(207P)から、紹介させてください。

■要約引用はじめ■
(日本では)子供は人間の原点で、世俗にまみれた大人より、仏や神に近いと思われている。これは欧米の逆である。

「かわいい」という言葉が、日本語のまま世界に広がっていることはよく知られている。英語にすればイノセントとか、プリティとか、キュートになるが、それでは微妙に感覚が違う。だから「かわいい」をそのまま使うようになった。

今や世界中の人々が「(よくわからないが)カワイイはいいことだ」と思い始めた。(アニメの)絵とストーリーによって、日本人の感覚が先方に伝わったのである。文章に頼るアカデミズムではできないことを、日本の映像文化は成し遂げたのである。

私は「カワイイとは何ですか」と聞かれたら、こう答えている。

「かわいいの要素の一つはパワーレスです。あなたがたはパワーレスは未発達だと言うが、それは間違いです。かわいい子供は全身全霊をもって、相手と一緒になろうとしている。同調しようとしている。『一緒に仲よくしようね』と、全身全霊で言っている子供の姿を、日本は肯定するのです。」

ポケモンブームがアメリカに始まって十年たっているから、あのころの子供がすでに大学院にいる。その子供の親も、今や40歳、50歳になって、ひとかどの地位にいる。十年前の話だが、あるエリートが日本に出張するとき、「ポケモンのぬいぐるみを買ってきてね」と、家族総出で見送られたそうだ。

ある物語をつくってオチをつけるとき、キリスト教的なオチと、ポケモン的なオチは正反対だと言っていい。ポケモン的なオチでは、みんなで話し合って、わかり合って、許し合って、涙を流しておしまいというオチになる。キリスト教的な勧善懲悪で、悪だからと退治して、皆殺しにはしない。手をとってお互いにわかり合うというオチになる。

ジョセフ・ナイ氏も、先日新聞に書いていた。

「日本のソフトパワーを代表するものとして『ポケモン』を忘れてはなりません。実を言えば、私の孫たちはポケモンの大ファンなのです。私はいつもそのユニークなキャラクターたちについて、孫から丁寧に説明してもらっています。」(「日経」2006.3.8)
■要約引用おわり■

中国でも、子供や若い人の間では、ドラエモンが大人気です。日下公人さんによれば、アニメによって日本精神が世界中に広まれば、欧米の訴訟社会は改まるだろうし、すべての人々を「共生する人間」として、認め合うようになるだろうということです。「言葉による正義・善悪の争い」から解放されるだろうと語っています。

ポケモンは、「八百万(やおよろず)の神」の話なのかも知れません。

投稿: mori夫 | 2006年9月 9日 (土) 14時20分

mori夫さん、コメントありがとうございます。とても面白い話ですね。アニメというのは気が付きませんでした。ポケモンやドラエモンが日本精神を代表するものだと言われると、なんとなく抵抗感があるのは、きっと自分が古い人間だからなのでしょうね。この話にインスピレーションを受けて、新しい記事を書いてみました。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年9月18日 (月) 02時40分

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