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2006年8月12日 (土)

A級戦犯問題雑感

 小林よしのりさんの最新作『いわゆるA級戦犯』を読んで、いろいろと感じるところがありました。小林さんの著作は、この半年余りのあいだに何冊か読みましたが、今回のこの本が一番心にしっくり来ました。ジャンルが漫画ということもあって、たぶん論壇では軽んじられる傾向があるのではないかと思いますが、私は小林さんの人気はそのジャンルによるところよりも、私たちと同じような<悩める一般人>の視点でものを考え、タブーと思われている問題に対しても果敢に切り込んで行く、その知的な誠実さにあるのではないかと思っています。今回の著作では、小林さんの「いわゆるA級戦犯」の主要な人物(東条英機や広田弘毅や重光葵といった人たち)の足跡をたどり、その人物像を浮かび上がらせることに主眼が置かれていて、ゴーマニズムの傲慢度は(比較的)抑制されているように感じられました。私自身不勉強で教えられるところが多かったのですが、重光葵(まもると読みます、それさえ知らなかった自分が恥ずかしい)の章や、パール判事の最後の来日を描いた章などは、特に胸に迫るものがありました。これを読む前に、高橋哲哉さんと加藤典洋さんの「歴史主体論争」というのを読んで、抽象的でいかにも頭脳戦という感じの議論に食傷していた自分には、この本は一服の清涼剤のように感じられました。と言っても、私は決して著者の右翼的な思想に同調しようというのではありません、個人の中で<思想を鍛える>ということについて言えば、小林さんのようなやり方の方が正統ではないかと思ったのです。

 これもこの半年間の読書目録の一冊ですが(ブログを始めて、にわか勉強をしている最中なのです)、佐藤早苗さんという方の書かれた東条英機に関するルポルタージュには、A級戦犯の筆頭に挙げられるこの人物の遺書が併録されています。図書館で借りて読んで、これだけはまた読み返したいと思い、コピーを取ってあります。その文面から小林よしのりさんが描くとおりの、いかにも几帳面な能吏という印象を私は受けたのですが、またこれだけ立派な遺書を遺し、戦争裁判においても堂々とした態度を崩さなかった人物が、並みの人格者である筈がないとも感じました。やはり小林秀雄の言うように、歴史は非凡な人物を選んで、常人では負えない重荷を背負わせるものなのだろうか、そんなことを思ったりもしました。人間の価値は、その人がどのようにして死んだか、その死に際の様子に最もはっきり表れると言います。私にはこれは強迫的で恐ろしい観念なのですが、一面の真実は含まれていると思います。小林よしのりさんの本を読めば、処刑されたA級戦犯の人たちは、みな自分自身の死の恐怖よりも、戦闘で死んだ兵士たちのことを思い、天皇陛下のことを思い、また将来の日本のことを思い、それだけを心残りに従容として死に臨んでいる。果たして今の日本の政治家にそれだけの器量があるかと思うのは、私だけではない筈です。

 東京裁判が、実は国際的に正当な裁判ではなく、勝者の敗者に対する復讐劇に過ぎなかったとする小林さんの考え方に、私は全面的に賛成しますが、それでもやはり当時の政府および軍の最高指導者は、死刑を免れるべきではなかったろうと考えます。自国の三百万の民と、他国の二千万の民(定説によれば)を死なしめた責任の重さは、通常の犯罪などとは別次元のものであり、これを裁くものはもはや法ではなく、いわんや敵対国の復讐心などでもなく、戦争というものの要求する本源的なルールそのものだと思うからです。東条英機の遺書にはこうあります、『今日刑死されることは個人的には慰められるが、国内的にこれを見れば到底その責任は免れ得るものではない。』 おそらく高橋哲哉さんのような論者であれば、『国内的にこれを見れば』という部分を批判的に読むかも知れない。私もここは残念です。東条英機の遺書は立派ですが、そこで彼が遺恨に感じているのは、日本国内のことであって、日本が侵略した国々のことはひと言も出て来ないからです。しかし、今日の目で遺書を文学作品のように読んではいけないと思います。私は単純にそれがこの時代の限界だったと思うのです。今日の社会でも、社会的に大きな不祥事を起こした企業の経営者は、責任を取って辞任するのが常識になっています。たとえその不祥事に当の経営者が関与しておらず、その事実さえ知らされていなかったとしてもです。それが組織というもののルールだからです。現在の企業活動の中では、たとえどんなに大きな社会的影響を与えた事件でも、社長が死刑になることはありません。しかし、国民の生命を文字どおり資源として投入する戦争という事業においては、責任者は生命をもって責任を全うするしかない。このことは東京裁判が連合国の茶番だったということとは関係なく言えると思う。私は原爆投下を決定したトルーマンも、同じように裁かれるべきだったと考えているのです。

 それにしても、あの泥沼のような戦争のさなかにも、一部の指導者はこれを食い止めようと必死の努力を続けていたことは、我々は記憶しておく必要があるし、これを若い人たちや他国の人たちにも伝えて行く義務があると思います。『いわゆるA級戦犯』という漫画を読みながら、私はこれを中国語や韓国語に翻訳して、かの国で出版出来ないものだろうかと思ったのです。「歴史主体論争」などを外国語に翻訳しても、こんなものは観念の遊びに過ぎないと言われるだけのような気がしますが、小林よしのりさんの漫画は、いい意味でも悪い意味でも、一般の人たちに問題提起をするものになるでしょう。(それとも、こんな時代だから、すでに中国語版や韓国語版が出ているのかな?) 日本の漫画は世界中を席捲していますし、こんな面白いものを国内だけで独占しておく手はないという気もします。インターネットでたまたま見付けたのですが、最近、中国海南省に東条英機のこんな銅像が建てられました(中国政府が建てたのではない、地元の業者が観光のために建てたのです)。道行く人が唾を引っ掛けるための銅像だそうです。一見して不愉快を感じるのは、私が日本人だからではないと思います。心ある人なら、中国の人でも何処の人でも、嫌悪感を覚えずにはいられないものだと私は思う。そして、いまこの時代、自国にこんな銅像が建つことの愚かさを感じ取る感性を持った中国人なら、小林よしのりさんの漫画にも、共感とまでは言わないまでも理解を示してくれるかも知れない(少なくとも、興味は持ってくれるでしょう)。これは日本人も同じですが、そういう感性を研ぎ澄ませること、それがこれからの時代の日中対話の土台でなければならないのではないか、私はそう思います。

 今年も8月15日がめぐって来ます。終戦記念日には、果たして小泉さんは靖国神社を参拝するのでしょうか? いつもの勘違いで、それが引退の花道だなどと考えているのかも知れませんね。中国政府と韓国政府は、靖国神社からのA級戦犯の分祀を求めています。私は首相の靖国参拝には反対の立場なのですが、それは靖国神社にA級戦犯が合祀されているからではありません。小林さんの本を読むまでもなく、A級戦犯という呼称は連合国の恣意的な分類によるものであり、処刑された指導者の中にも戦争を食い止めるよう、また拡大させないように尽力した人もいたのです(もちろん、そうではない人もいましたが)。それに、A級戦犯さえ分祀してしまえば、靖国参拝を容認するという中韓の言い分も私には納得が行かない。日本が行なった侵略戦争のおぞましさは、たった十四人のA級戦犯を分祀したからといって、免罪されるようなものではない筈でしょう? 私が現在の靖国神社に対して感じる違和感は、その祭祀システムのあまりにアナクロニックな硬直性にあります。もともと<軍神>を祀る宗旨なのだから、日本国のため、官軍として戦った兵士だけを祀ることはまあいいとしましょう(日本には宗教の自由があるのだから)。しかし、祀られている兵士の中には、自ら(遺族が)分祀を願い出ているクリスチャンもいれば、当時日本に併合されていた満州や朝鮮の人たちもいる。それを一度祀ってしまったものは分祀出来ないのが神道の教義だと言って突っぱねる。最初に合祀された時にも、遺族側には打診や相談無しです。知らないあいだに靖国神社の祭神にされている。こんな強引で自分勝手なやり方がいまどき許されるもんじゃない。新しい時代に向けて、この点だけでも靖国神社自身が自ら改革して欲しいと思う。そうすれば、基本的な宗旨は変えずとも、開かれた国際社会の中でも、靖国神社の生き残る道はまだあると思うのですが、いかがでしょうか?

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