« 働かなくてもよい時代は到来するか? | トップページ | 「南京で通じたご免なさい」について »

2006年7月16日 (日)

とほほ教授、内田先生『名言録』

 最近、そのタイトルの奇抜さに惹かれて、内田樹(うちだたつる)さんという方の『態度が悪くてすみません』という新書本を読みました。自分には滅多に無いことですが、それがあんまり面白かったので、アマゾンで検索して自分にとってテーマが一番興味のありそうな『ためらいの倫理学』というのをもう一冊読んでみた。するとこれがさらに面白くて、これはブログのネタにしなくては、そう思ってしまいました。へえ、今の時代にこんなタイプの思想家がいるんだ。そうだよ、自分がめぐり逢いたかったのはこういう本だったんだよ。後で知ったのですが、内田さんは数年前からご自分のブログをお持ちで、しかもそれは大変な人気ブログで、毎日平均1万件、現在通算660万件のアクセスを誇る有名ブログなのです。知らなかった私が迂闊だったのです。

 今回はこの『ためらいの倫理学』についての書評(というか感想)を書こうと思います。とても心に染みるいい文章が随所に散りばめられているので、鉛筆で傍線を引きながら読んでいたら、一冊まるごと傍線だらけになってしまった。こういう本の内容を紹介するのは難しいことです。内容を抜粋しようと思っても、著者自身が見事な表現でそれを簡潔にまとめてしまっている。で、無理に内容を要約するよりも、傍線を引いた心に残った言葉をそのまま引用して、それに感想を書き足すことを思い付きました。ブログのタイトルを『名言録』とした所以です(著者から無断引用のクレームが付くことは無いと思います。それは内田さんご自身ブログの中でさんざんやっていることですから。笑)。自分がこれまで考えて来たことや、このブログに書き留めて来たことと通じ合うところが多いので(と私は思っているのですが…)、自分の意見を正当化するための引用にならないように注意しなければなりません。何故かと言うと、内田樹さんという人は、追随者というものが一番似合わないたぐいの思想家だからです。まずはそのことから書き始めます。

 現在の日本の思想的状況をひと言で言うならば(なんて、何も勉強していない自分に言える訳はないのだけれども)、例えば首相の靖国神社参拝に対する賛否両論に代表されるような、いわゆる<右寄り>の党派と<左寄り>の党派の対立の構図というのがまず挙げられると思います。自分のようなノンポリ(死語かな?)のブロガーでさえ、どちらかに偏って不用意な発言をすると、批判の矢面に立たされるのではないか、そういう警戒心から言葉を選んでいたりするのです。しかし、戦後日本が育んで来たこの二つの党派性というものは、本来なら戦後の日本人が銘々の心の中にこそ深く刻み込むべきだった本質的な矛盾、いわば「ねじれ」の構図そのものではなかったかというのが、内田さんの考え方なのです。(以下『』の中が引用です。)

 『「ねじれ」は一人の人間が矛盾を抱え込むから「ねじれる」のであって、矛盾や対立が二人の人間に分割されれば、そこには「すっきり」と対峙する二人の人間がいることになり、内的な「ねじれ」は消滅する。簡単な算術だ。』

 この簡単で安易な方法に従って、例えば「親米派」と「反米派」、「護憲派」と「改憲派」、あるいは「アジアの人民への謝罪」を呼号する「知識人」と「失言」を繰り返す「大臣」といった単純な役割を振られた役者同士が、予定調和的な芝居を演じ続けて来たという訳です。矛盾する部分は相手に投影してしまうので、自分自身は少しも「ねじれて」いないという状態で。

 『この二党派の絶妙な「分業」によって、日本は自己矛盾からも罪責感からも自己免罪を果たし、かつ主体的に判断することも行動することもできないまま、何もしないで半世紀をやり過ごしてきた。』

 この部分の引用は、内田樹さんのまったくの独創ではなく、加藤典洋さんという方の著作(こちらも読まなくちゃ)へのコメントとして書かれた部分なのですが、私にはどうしようもないほど正論だと思えます。そして、このような考え方を持った人に、思想的に追随しにくい理由もはっきりしています。だって、「お前は首相の靖国参拝に賛成なのか反対なのか?」と問われて、「いや、私は賛成とも反対とも言えません、その矛盾こそ私なんです」なんて言う態度の煮え切らない論客に、いったい誰がついて行くのでしょう? 例えば高橋哲哉さんの思想に共鳴する人は、容易にその追随者になれるような気がしますが(高橋さんの話題はこのあとすぐに出て来ます)、内田樹さんの場合、愛読者になることは出来ても、追随者になることは難しい。この点にまず私は心を惹かれるのです。(かくいう私も、実は生意気で、「態度が悪くて」、人には追随したくないタイプの人間だから。笑)

 『誤解してほしくないので、繰り返し言うが、私は高橋の政治的私見そのものは正論だと思っている。しかし、「政治的に誤り得る自由」を認めない政治的私見は、たとえ正論であっても私はそれを支持することができないのである。』

 内田さんの高橋哲哉さんに対する批判には鋭いものがありますが、その批判の根幹には、<正しさにこだわり過ぎることは正しいことではない>という、言わば生活人の当たり前の知恵のようなものがあるように思います。そしてその批判の言辞は、私にはとても腑に落ちるものでした。私自身、高橋さんの著作を読んで、一方で明解な論理とその知的な誠実さに共感すると同時に、一方では何か言葉に出来ない違和感のようなものを感じていたからです。それがこの本を読んで何だったのかが分かった。この本の中で、内田さんは高橋さんの『戦後責任論』に対し、反論を試みています。内田さんの論旨を自分なりに注釈すると、こんなふうなことだと思います。もしも高橋氏の言うように、日本に侵略されたアジア諸国に対する戦争責任を、史実にもとづいて自己査定し、自己審問することが唯一戦争責任を果たす方法であり、アジア諸国からの信を回復する道であるとするならば、まずは史実というものを誰にも異論の無いように確定することが大前提でなければならない。しかし、それは原理的に不可能なことだし、また実はこの前提自体も間違っている。精神分析学の知見からしても、人は実際に経験していない被害に対してもトラウマを持ち得るし、実際に犯していない加害に対しても罪責感情を持ち得るからだ。むろん史実を明らかにする努力が中断されていい訳はない、しかし、史実が明らかにならなければいかなる責任遂行もあり得ないというのは知性の怠慢である。歴史的事実には、絶対中立な物理的事象としての事実とは別に、それに巻き込まれた人たちの受けた心理的事実というものがあるからだ。そして内田さんは、次のような<名文>を記すのです。

 『信の回復とは、「外傷経験」が「何を言おうとしているのか」を聞き取るということである。それは「真相究明」が要求するような検察官的なものではなく、もっと忍耐強い、そして、もっと開放的でもっとぬくもりのある仕事のように思う。
 検察官の仕事は、「邪悪なるものと無垢の被害者の物語」を作り上げることである。私は「戦後責任の引き受け」というものが、そのような検察的な作業であってほしくないと考えている。その点が私と高橋の相違点である。』

 著者はこの本の中で繰り返し、検察官的な「審問」の語法が持つ隠された自己権力化の構図を暴き出して見せます(対象は高橋哲哉さんであったり、上野千鶴子さんであったり、ジャン・ポール・サルトルであったり)。それは一見弱者の側に立ち、それを抑圧する権力への異議申し立ての装いをしているけれども、実は「邪悪なるものと無垢の被害者」というそれ自体誰も正面から反論出来ない二項対立の構図に相手を引き込み、自分自身が(少なくとも言論の世界では)不敗のポジションを獲得する最も簡便で常套的な語法なのです。

 『「審問の語法」が領する場では、誰ひとり、その語法以外の言葉づかいではおのれの経験を記述することも、内心の思いを語ることもできなくなる。
 それは「勝ち負け」の語法や「停滞と乗り超え」の語法や「革命と反動」の語法や「健常と異常」の語法と同じものである。ひとたびその言葉づかいで語り始めたら、どのポジションにいようとも、もうそれを繰り返すしかない。(中略)
 その閉塞感に私はどうしてもなじむことができない。
 だから、「それとは違う言葉づかい」で同じ論件を語ることはできないのだろうかと自問するのである。』

 内田樹さんがこの本でやろうとしていることは、この「それとは違う言葉づかい」で語ることの試みに他ならないと思います。私のような弱小ブロガーでさえ、多少政治的な問題について書こうとすると、自分自身が「審問の語法」で語り始めているのに気付くことがあります(自分なりにそれを避ける努力はしているのですが)。それだけでなく、自ら上ったこの土俵が、内田さんの言う「審問の語法が領する場」であることにも気付くのです(別に誰に審問される訳でもありませんが)。「それとは違う言葉づかい」とはどういう言葉づかいでしょう? 別に特殊な語法がある訳ではないのだと思います、この本のどの頁を開いても、著者が目指す言葉づかいがどういうものであるのかは伝わって来ます。(で、チェックしようとすると、傍線だらけになってしまう。)

 『不幸にして、哲学者たちは「愛」についてよりも「審問」について語ることを好む。その対象がたとえ自分自身であってさえ、彼らは「愛すること」よりも「告発すること」を好むのである。』

 それでは、それとは反対側の人たち、<愛国心>を説き、歴史や伝統に対する尊敬を唱えるいわゆる<右寄り>の人たちはどうなのでしょう? 彼らは自分の国に対して、「告発すること」よりも「愛すること」を優先させようとしている人たちなのではないだろうか。が、ここでも内田さんの眼光は鋭く、愛国心という美名の裏に彼らが隠し持っているものは簡単に見透かされてしまいます。例えば、同じ問題を扱って、高橋哲哉さんと同様に大きな社会的影響力を持ち、しかも正反対の立場の代表である漫画家の小林よしのりさんに対しては、こんな分析がなされます。

 『小林は死者を安らかに死なせようとしない。彼らには「仕事」があるのだ。それは小林自身のイデオロギー的立場の正しさの「証人」となるという仕事である。文学者たちが「死者たちの証人」となろうとしているのに対して、小林は「自分の証人」として死者たちを蘇らせるのである。』

 小林よしのりさんの『戦争論』は私も読みましたが(実は『靖国論』を初めて読んで以来、結構小林さんのファンだったりします。笑)、やはり共感と同時に大きな違和感も感じたことを覚えています。内田さんに指摘されれば、なるほどそういうことかと思い当たります。例えば、特攻隊員として死地に向かった若者たちの遺書を小林さんは好んで引用します。誰だって心が騒ぎ胸が痛むのです。ふだんそのことを忘れている我々に(特に先の戦争を歴史上の事実としてしか感じとる機会の無い若い人たちに)思い出させてくれること、これは人気漫画家である小林よしのりさんでなくては出来ない仕事だと思います。しかし、作者は我々読者にその遺書を読んだ時の印象にたたずませておいてはくれない、その印象が薄れないうちに<大東亜戦争肯定論>や<国立追悼施設反対論>に引っ張って行かれるからです。この点が内田さんをして、『「自分の証人」として死者たちを蘇らせる』と断ぜしめる理由だと思います。

 (考えてみれば、高橋氏や小林氏のような言わば<思想のプロ>は、極端に徹することでプロとしてのレゾンデートルを獲得しているとも言えるかも知れません。こういう著者に原稿を頼む出版社は、当然一定の党派性を予測して、と言うより期待している訳でしょう。常に立場を明確にする著者には追随者も多いでしょうし、そういった読者を裏切れないという事情もあるに違いない。しかし、これは思索家としてはとても不自由な立場に自分を追い込むことだと思います。またこの不自由さは最終的に思想家としての不誠実さにまで至らせるものであるかも知れません。)

 以前このブログでも論争になった(え、なってない?)国歌斉唱問題に関する記述もありました。これも私にはとても共感出来る文章です。(この本のエッセイにはどれも違和感なく共感出来るんです。自分としては不思議なくらいです。そういうのを追随者って言うんじゃないの? ああ、そうか!) 少し長いですが引用します。

 『先日、合気道の全国学生大会を見学に行った。開会式の次第に「国歌斉唱」とあった。司会者が「それでは国歌斉唱です」というと、会場中の数百人が素直に立ち上がって国旗に向かった。しかし「君が代」を声に出して歌うものは、来賓を含めて数名しかいなかった。しん、と静まり返った体育館の中に小さな声とテープの伴奏音だけが響いていた。
 私はこの風景には現代日本人の実感がみごとに表現されていると思う。
 その場には、みっともないから「みな、大声で歌え」と怒鳴るものも、どうせ歌わないのだから「国歌斉唱なんかやめてしまえ」というものもいなかった。全員が「どっちつかず」の気まずさを静かに共有していた。
 国家の象徴を前にしたときのこの「気まずさ」、この「いたたまれなさ」が私たちの国家とのかかわりの偽らざる実感なのである。ならば、そのような実感に言葉を与え、市民権を与え、それを国家への態度の基本として鍛え上げてゆくことが、いま私たちに課されている思想的な仕事ではないだろうか。』

 なんだか、もうこれ以上コメントするのがバカバカしくなってしまいました。何を書いても、原作者の方がはるかに雄弁なんだもん。それに、これ以上書いても、同じことしか書けない気がするし。だいたい、引用してみると分かりますが、この本の中で著者は毎回ほとんど同じようなことしか言っていない(内田さん自身もそう書いていたと思います)。しかし、真の思想家というのは実はそういうものなのではないでしょうか。作品リストを見ると、内田さんはこれまでに数多くの著書をものされていますが、著作家としてのデビューは遅かったようです。こういう思想が熟成され発酵するまでには、それだけの年月が必要だったんだろうなあ、そんなことまで考えてしまいます。今回は『名言録』と銘打ったので、どちらかと言えばおかたい、<格式の高い>文章ばかり集めてみましたが、「とほほ主義」を標榜するウチダ先生には、もっと楽しくて笑ってしまうような文章もたくさんあります。いや、まだ読み始めたばかりの自分が言うのも何ですが、まだ読んだことのない方には絶対おすすめですよ。

 (実は今回の文章は、単にひとりの著作家のエッセイ集に心打たれたから、それを感想文として書いたという素直なものではありません。そうだ、相手もブログなんだからトラックバックしちゃえばいいんだ、なにしろ相手は毎日1万人が訪れる人気ブログだ、間違ってクリックしてこちらに来てくれる内田樹ファンの方がいるかも知れん、そんな不純な動機で書いた文章なのです。しかし、そうすると内容も大事だが、タイトルはもっと大事だぞ。内田ブログの愛読者が、思わずクリックしちゃうようなフレンドリーで興味をそそるタイトルでないと。で、自分のコピーライター的センス(?)を総動員して考えついたのが、「とほほ教授、内田先生『名言録』」というもの(とほほ)。ウチダ先生、どうもすみません、たいへん失礼致しました。笑)

|

« 働かなくてもよい時代は到来するか? | トップページ | 「南京で通じたご免なさい」について »

コメント

> 正しさにこだわり過ぎることは正しいことではない

> 著者はこの本の中で繰り返し、検察官的な「審問」の語法が持つ隠された自己権力化の構図を暴き出して見せます(対象は高橋哲哉さんであったり、上野千鶴子さんであったり、ジャン・ポール・サルトルであったり)。それは一見弱者の側に立ち、それを抑圧する権力への異議申し立ての装いをしているけれども、実は「邪悪なるものと無垢の被害者」というそれ自体誰も正面から反論出来ない二項対立の構図に相手を引き込み、自分自身が(少なくとも言論の世界では)不敗のポジションを獲得する最も簡便で常套的な語法なのです。

思わず快哉をあげたくなる文章ですね。これなんです。私が高橋哲哉氏や、上野千鶴子氏に嫌悪を感じる理由は。彼らは、「正義の権力者」になろうとするんです。彼らは、頭が良すぎて、能力がありすぎて、「人間はエゴのために罪を犯すことの多い弱い者」ということに、すこぶる鈍感なんです。

> 『「審問の語法」が領する場では、誰ひとり、その語法以外の言葉づかいではおのれの経験を記述することも、内心の思いを語ることもできなくなる。それは「勝ち負け」の語法や「停滞と乗り超え」の語法や「革命と反動」の語法や「健常と異常」の語法と同じものである。ひとたびその言葉づかいで語り始めたら、どのポジションにいようとも、もうそれを繰り返すしかない。

政治闘争の世界が、まさにこれですね。非人間的。だから小林秀雄は「政治的言論」を、非常に嫌っていました。

> 『不幸にして、哲学者たちは「愛」についてよりも「審問」について語ることを好む。その対象がたとえ自分自身であってさえ、彼らは「愛すること」よりも「告発すること」を好むのである。』

うーーむ。至言。こういう人(ブロガー)は本当に多いです。社会悪を告発することで、自分がいかに優れた知見を有する人間であるかを誇示する人ばっかり。

> その場には、みっともないから「みな、大声で歌え」と怒鳴るものも、どうせ歌わないのだから「国歌斉唱なんかやめてしまえ」というものもいなかった。全員が「どっちつかず」の気まずさを静かに共有していた。国家の象徴を前にしたときのこの「気まずさ」、この「いたたまれなさ」が私たちの国家とのかかわりの偽らざる実感なのである。ならば、そのような実感に言葉を与え、市民権を与え、それを国家への態度の基本として鍛え上げてゆくことが、いま私たちに課されている思想的な仕事ではないだろうか。

うーーん、いいですねえ。こういう考えというか心情には、ものすごく共感します。きっちりかっちり線を引いて、その中に入ってこない者を断罪するのは、絶対に悪いことだと思う。人間、生きていること自体が矛盾を抱えざるを得ないのであり、「自分や自分の国のエゴを捨ててきれいに生きる」なんて、できっこないですから。

投稿: mori夫 | 2006年7月23日 (日) 08時29分

訂正及び追加です。

「エゴ」という言葉は「私情」という言葉のほうが適切であるように思いました。何人といえども、私情をきれいさっぱり捨てて、公的正義のみに生きることはできないです。

高橋氏も上野氏も、「東大教授」という大学教師としては最高の権威的ポジションに、ちゃっかりと座っているのも、彼らの正義(という権威及び権力)への志向性と、無関係ではないと、私は思っています。

上野氏について言えば、「東大教授」のような「権威」に対する批判者の急先鋒であったはずなのに、おかしな話です。

投稿: mori夫 | 2006年7月23日 (日) 15時18分

mori夫さん、コメントありがとうございます。

内田樹さんの文章、いいでしょう? 最近ブログのネタ探しで、いろいろ話題の本を読んだりするのですが、心に染みる文章に出会ったのは久し振りな気がします。ほんとに「名言集」にそのまま採用出来るような文章が多いんですよ。私も小林秀雄には非常に影響を受けた人間ですが、方向性は違っていても、内田さんは小林秀雄の正統な後継者のひとりなのではないかとさえ思ってしまいます。ご本人、そう言われても全然嬉しくないでしょうが。

もともとブログから出発したこともあって、内田さんの文章には自分の嫌いな著者を歯に衣着せずこきおろす癖があります。高橋哲哉さんや上野千鶴子さんのことは、宿敵のように嫌ってますね。大江健三郎さんや江藤淳氏のような大物にだって、遠慮をするというところがない。それが痛快だと言えば言えるんでしょうが、それはちょっと危険なことでもあると思います。内田党になっちゃいますから。

今週は高橋哲哉さんの文庫本を1冊読んで、その感想をブログに書きました。高橋さんも結構いいこと言ってるじゃない、そう正直に感じたのです。まあ、影響されすやすいんですね、私の場合。以前のmori夫さんの記事をまた紹介させていただきました。TBさせていただきましたので、またご感想をお聞かせください。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年7月23日 (日) 18時46分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/10971132

この記事へのトラックバック一覧です: とほほ教授、内田先生『名言録』:

« 働かなくてもよい時代は到来するか? | トップページ | 「南京で通じたご免なさい」について »