« サッカー・ナショナリズム | トップページ | 働かなくてもよい時代は到来するか? »

2006年7月 2日 (日)

生活保護制度改革案に思う

 先週日曜の朝日新聞の一面トップには、「生活保護費を削減」という見出しで、厚生労働省の生活保護制度に関する見直し案が載っていました。もちろんこの時期の見直し案ですから、生活保護を手厚くする見直しである筈がない、基準額の引き下げや母子家庭に対する特別加算の縮小など、要するに生活保護全体にかかる予算の削減を目的としたものであることは言うまでもありません。新聞の記事にも、「最後のセーフティネットのあり方にかかわるだけに議論を呼びそうだ」とのコメントがありました。政府は今回もまた、「骨太の方針」などと、言葉の響きの良さだけでその内実をカムフラージュするキャッチフレーズを付けて、国民の中でも最も弱い(すなわち発言力も小さい)人たちに赤字財政のしわ寄せを押し付けようとしています。いくら予算削減と言っても、削っていい予算といけない予算がある、もういい加減にしてくれと言いたいのは、一部の人権擁護派の人たちばかりではない筈です。

 生活保護と言えば、福祉政策の中でも最後の聖域であるような気がしていましたので、こうも早い時期に改革の手が付けられるとは思っていませんでした。ちょっと不意を突かれた感じです。生活保護制度の問題については、以前の記事でも少し触れましたし、一度は真面目に考えてみなければならない問題だと思っていました(将来は自分だってそのお世話になるかも知れないし。笑。いや、笑いごとではなく)。この記事を読んだのを機会に、まだ考えがすっかりまとまっていないこの問題について、書いておこうと思いました。書きながら、漠然と感じていることを、はっきりした形にして行こうと思ったのです。不勉強である上に、なんだか過激なことを書きそうで、自分でも心配です。

 この問題が重要であるのは、これが最後のセーフティネットにかかわる問題だからというよりも、これが国家(政府)が国民に保障する基本的人権を、金額に置き換えた場合の基準ラインをどこに置くかという問題だからだと思っています。新聞の記事によれば、東京23区内のひとり暮らしのお年寄りの場合、生活保護の基準額は約8万1千円、それに対して国民年金の満額は約6万6千円しかないのだそうです。このことから、生活保護の基準額を引き下げるべきだという意見が、自民党議員などから出されているという話です。しかし、これはおかしな話だと私は思います。生活保護を受給している人は、ふつうその8万1千円でひと月の生活費のすべてを賄わなければならないのに対し、国民年金を受給している人の中には、預金や副収入を持っている人もいるでしょうし、当然ですが持ち家に住んでいる人も多い筈です。それを単純に金額で比較して、不公平だから一方を引き下げるべきだなんて、いくらなんでも乱暴過ぎる議論ではないでしょうか。もしも年金生活のお年寄りで、他に収入も資産も無く、6万6千円で家賃と生活費のすべてを賄わなければならない境遇の方がいるなら、むしろそういう人にこそ年金額の不足分を生活保護で補填すべきだ、私ならそう考えます。私はその自民党議員さんに聞いてみたいですね、あなたは生活保護の月額を国民年金に合わせて引き下げるべきだとおっしゃるが、そもそも都内に住む借家暮らしのお年寄りに、1ヶ月6万6千円でどうやって生活して行けというのか? それどころか8万1千円だって全然足りないでしょう。それがこの国の保障する基本的人権の月額なのですか? 生存権の評価額なのですか?

 現在の生活保護制度の何が一番の問題かと言うと、その金額の妥当性ということよりも、私はそれが現金支給によって実施されていることではないかと思っています。問題はふたつあります。ひとつは、生活保護世帯に現金を渡す制度では、審査の厳しさから本当に必要な人に支給が行き渡らなかったり、逆に審査の目をかいくぐった不正な受給が起こる可能性があるということ、もうひとつは、各世帯に個別に現金を渡すやり方は、経済的に見てとても非効率であるに違いないということです。生活保護を申請した人の体験談などを読むと、この制度がいかに支給側と受給側のストレスに満ちた駆け引きの上に成り立っているかが分かります。どうやって認定を渋るケースワーカーと交渉するかをアドバイスしたマニュアル本まで出ている有り様で、福祉事務所の周りではまさに生存権を賭けたバトルが日々繰り広げられている。これもおそらくその地区の決められた福祉予算内で生活保護費もやり繰りしなければならない苦しい台所事情があってのことでしょう。生活に困っている人を非情にも突き放す、官僚的体質の福祉行政職員、そんなステレオタイプな批判で片付くような問題でもないと思います。

 もしも限られた予算内で、効率良く、必要な人に必要な支援を提供する仕組みを考えるなら、現在のような現金ばら撒きのやり方は根本的に見直すべきでしょう。素人の頭で考えても、方法はたったひとつだと思います。生活保護世帯向けの大規模な共同住宅を作り、そこに現金ではなく、生活物資を集中的に投入するやり方です。単身者が都会で部屋を借りて生活するには、8万1千円でもかつかつだと思いますが、土地の安い郊外に何十世帯、何百世帯が入居出来る大きなアパートを建て、その中に給食センターを設け、身体が不自由な人のための介護施設や共同の入浴設備なども備え付ける。民間企業で培った効率化のノウハウを応用すれば、同じ予算でももっと多くの人に、もっと豊かで人間らしい生活を提供出来るのではないでしょうか。これが自分が漠然と考えていた、生活保護制度についての抜本的な改革案のビジョンです。

 ここまでの議論でもたくさんの反論が予想されますが(笑)、もう少しだけこの空想を続けさせてください。こういった施設を、現代の姥捨て山や難民キャンプのようなものにしないために、そこでは一定基準の生活の質を保障することが重要になります。具体的な生活水準の設定は、個別に議論すべきことですが、例えば施設の中には図書室や娯楽室、パソコンルームなども併設する(入居者は、その気になれば自分のブログを持つことだって出来る)。つまり現代人として相応しい文化的な生活が保障されているのです。現行の制度のもとでは、生活保護世帯と言えば、世間に対してはうしろめたい、世間からは厄介なお荷物と見られるような、マイナスのイメージしかないと思います。ところが、この集合住宅では、そういった暗いイメージは払拭されるのです。同居しているのはみな同じような境遇の人たちですし、入居者は日がな一日ぶらぶらと無為徒食の毎日を送る訳ではない。給食センターで食事を作るのも、施設内を清掃するのも、お年寄りの介護をするのも、すべて入居者の仕事です。地域社会の中でばらばらに隔離されてしまっている現在の生活保護世帯には、社会で働く機会も充分に与えられていないのではないかと思いますが、ここには仕事が山ほどある。それは入居者にとっての生きがいにもなるでしょうし、さらには国の社会福祉予算の節約にもつながるのです。

 もちろんこの施設を、単なる貧乏人のユートピアとして描く訳には行きません。私が考えるに、そこには絶対に守らなければならない厳格なルールがひとつだけ必要です。すなわち、私的な財貨の所有を、一切とまでは言わないまでも、原則として認めないということです。もともと現金支給だった生活保護費を廃止して、現物支給に切り換えるのがこのアイデアの骨子ですから、入居者に月々の手当てなどを支給することは理屈に合わない。つまり、ここに住んでいる限り、衣食住には困らないが、その代り貯金も出来なければ、施設の外で買い物をしたり旅行をしたりといったことも許されない。(レクリエーションとしての小旅行や、施設内でのみ通用する貨幣を使ったバザーのようなものはあってもいい。と言うかむしろそういう楽しみは必要だと思います。) と言って、この施設に住む人は、今日の自由主義経済から追放されてしまう訳ではありません。働く意欲のある人が、外に働きに出て<外貨>を稼いで来ることは認められますし、むしろ奨励されます。この場合、賃金は本人に手渡されるのではなく、施設の口座に振り込まれます。施設はその一部を運営費として徴収し(これも福祉予算削減の一助になる)、残りの金額を本人の貯金として預かります。本人がこの貯金を下ろせるのはたったひとつの場合だけです。つまり施設を出て、自活する時の準備資金としてのみ使えるのです。こうして生活保護世帯から、社会へ復帰するルートが確保出来ます。負け組にも再挑戦するチャンスが与えられるのです。(そう考えれば、施設内の労働に対しても、一定の対価を支払う必要がありますね。)

 こうした施設が、各都道府県に何ヶ所かずつ作られた社会を想像してみましょう。私のシナリオでは、そこに入るための入居資格は、特に設けません。病気や高齢で働けない人はもちろん、若くて健康な人でも、本人が望めば入居出来るようにします。財産を持っている人でも、それを施設に預ければ即入居可能です(それは退去時に返還されます。但し、その一部は運営費として徴収されます。累進課税です)。何故ここで厳しい入居資格を設けないかと言うと、今の福祉現場で起こっているような生活保護認定をめぐっての不愉快なやり取りを無くしたいのと、もうひとつ、これからの時代にますます増えるであろう、ニートやひきこもりと呼ばれる若い人たちのことを考えているからです。社会経験を積まずに年を取って行ってしまう若者たちを、どうやってもう一度社会復帰させるかということは、これからの時代の重要なテーマだと思います。生活保護住宅という一種の互助的な<ぬるい>社会は、ニートの若者が社会復帰をする訓練の場としては、とても相応しいのではないかと思います。もしもそこが居心地が良くて、ずっと居ついてしまっても構いません。少なくとも実家の部屋に閉じこもって、じっと動かないでいるよりはずっとましです。

 このような制度は、今の日本で進みつつある裕福な家庭と貧しい家庭への二極化を、より加速させ、定着化させるものだと言われるかも知れません。しかし、私は思うのですが、最近の日本の社会がなぜこうもストレスに満ちているのかと言えば、勝ち組と言われる人たちでさえ、いつ足場を踏みはずしてホームレスにまで転落するか分からない、そういう恐怖感に誰もがさらされているからではないでしょうか。文字どおり、みんながセーフティネットの無いところで綱渡りをしているような感じです。サラリーマンをしていると、本当に恐さを感じるのですが、そこそこのところで満足する、そこそこのところで諦めるといったふうな、<そこそこ>という場所がどこにも無くなってしまったのを感じます。規制緩和でアメリカ型の社会を目指すと言うならそれも結構です。しかし、二十世紀のような大量消費型の社会が、今後百年に渡って続けられる見込みは無いのですし、どこかで方向転換が必要なことは誰もが感じていることだと思います。最近は<持続可能な社会>だとか<ロハスな生き方>なんて言葉もよく耳にしますが、案外この生活保護住宅から、二十一世紀の新しい方向性が生まれて来るかも知れない、そんな予感がするのですが、いかがでしょうか?

|

« サッカー・ナショナリズム | トップページ | 働かなくてもよい時代は到来するか? »

コメント

オウム真理教みたいですね。
そこにはいればレッテルが貼られますが、
あなたは世間にそのレッテルを貼るな、と言えますかね。そしてそのレッテルを背負ってもあなたは入居したいですかね。

投稿: nazo | 2006年7月 3日 (月) 21時17分

入居するのは努力しない貧乏人だけですよ。努力家には関係ありません。もともと生活保護はあくまで無能な怠け者を保護するための制度なんですから。

投稿: カコ | 2008年7月22日 (火) 20時50分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/10755558

この記事へのトラックバック一覧です: 生活保護制度改革案に思う:

» 生活保護制度の問題点 [野分権六の時事評論]
先日のNHKテレビ総合「ニュースウオッチ9」で報道された生活保護を受けている老婆 [続きを読む]

受信: 2006年7月10日 (月) 08時59分

« サッカー・ナショナリズム | トップページ | 働かなくてもよい時代は到来するか? »