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2006年7月30日 (日)

ワーキングプア問題の根本にあるもの

 先週日曜のNHKテレビの番組で、ワーキングプアの問題が取り上げられていました。最近日本の社会の中で、富裕層と貧困層の二極化が進みつつあるという話はよく聞きますが、番組はその一方の極にいる貧しい人たちに取材したドキュメンタリーで、視聴者になるほどいま世の中で起こっていることはこういうことなのかと強く印象づけるものでした。職を転々とした挙句、住むところも失い、定住所が無いために仕事も見付けられない三十代の男性、ガソリンスタンドでのアルバイトを3件もかけ持ちし、昼も夜も働いて月に20万円程度の収入を得、二人の息子を育てている五十歳の元サラリーマンの男性、東北の町で長年仕立屋を営んで来た六十代の男性は、町が過疎でさびれるに従い仕事が少なくなり、とうとう昨年の年収は24万円にまで落ち込んでしまいました、年金は月に6万円ほどありますが、それはすべてアルツハイマー病の妻の介護費に消えて行くのだと言います。痛ましいのは、番組に登場するどの人も、決して勤労意欲が無い訳ではないし、これまで一途に働いて来たにも関わらず、そういう現在の境遇に落ち込んでしまっているという点です。働いても、働いても、貧しさから脱け出せないワーキングプア。私自身もそうですが、視聴者の多くは、明日は我が身かも知れないという怖さを感じながら、番組を見終わったのではないかと思います。

 こういう問題が起こっている背景には、小泉政権が推し進めた経済自由化と規制緩和の影響があることはよく指摘されますが、私はそこにはもっと本質的で構造的な要因があるのではないかと思っています。例えば私が働いているコンピュータ業界では、お客さんに営業する時に、こんな常套的な宣伝文句を使います、「IT(情報技術)によって業務の効率化を図り、無駄なコストを省くことが、これからの時代を生き抜くための条件です」。なるほど良く設計されたコンピュータ・システムは、業務を驚くほど効率化し、これまで十人で行なっていた仕事が一人でこなせるようになる。我々システム屋は、「そこで残りの九人は解雇して、人件費を削減しましょう」とは言わない、「コンピュータでやれる仕事はコンピュータに任せ、社員はもっと付加価値の高い創造的な仕事にシフトすべきです」なんてことを言う。間違いではないけれども、きれいごとです。誰もがそんな質の高いクリエイティブな仕事に適応出来る筈がないからです。で、企業の中では、コンピュータにも劣るルーティンワークしか出来ないような人は淘汰され、一部の才能ある人(または自分を高く売る営業的センスのある人)だけが生き残り、高収入を得ることになる。人間の仕事の価値を下落させているのは、コンピュータだけではありません、日本のお家芸である工業ロボットや、高性能な農業機械や、銀行のATMに至るまで、こうした効率化システムの根本には人間排除の思想があります。それにさらに海外の安い人件費が追い討ちをかける。こうして構造的に貧富の二極化がどこまでも進んで行く、まったく当然な話です。

 人類はわずか百年あまりのあいだに驚くほど高度な技術文明を築き上げて来ました。しかし、生物としての人間が、それに追い付くスピードで進化出来る筈はありません。あまりに進歩し過ぎた科学や技術の世界では、不適応を起こす人が増えて来るのも当然だと思います。最近の理論物理学や高等数学のような研究分野は、大学の4年間くらいではとても習得不可能なレベルにあると聞いたことがあります。いや、そんな最先端の研究者ばかりでなく、コンピュータの世界だって、自分が若かった頃とは比較にならないほど、開発者が習得しなければならない知識や技術は複雑で広範なものになっています。しかも変化の速度が速いので、習得した知識や技術はすぐに古びて陳腐化してしまう。もうそろそろ限界なのではないかと感じることがあります。最近はよくシステムの不具合で、社会的な影響を与えるほどの大きなトラブルが発生することがありますが(銀行のATMが使えなくなったり、航空機の搭乗券が発行出来なくなったり)、それは単にプログラマーのミスや不注意のせいにすることは出来ないと思います。巨大化し複雑化したシステムに、もはや人智が追い付かないのです。一部ではこうした高度なテクノ社会から落ちこぼれる人たちがいて、一部にはそこに必死にしがみついて、過労やストレスで心を病む人たちがいる。ワーキングプアの問題は、こうした社会全体の大きな問題のひとつの現れであるように思います。

 こういった問題を解決するのに、どのような社会システムの変更が必要なのでしょう? ヨーロッパなどで提唱されているワークシェアリングの試みも、私は一時しのぎの解決策に過ぎない気がします。高度に機械化、システム化された産業界にあって、残されたわずかな仕事を人々が仲良く分け合い、少ない賃金をシェアする、それは決して仕事と人間の幸福な関係ではないような気がします。一般的に本当にやりがいのある仕事というのは、人を長時間拘束するものだと思うし、自分でなければ出来ない(つまり他人とシェア出来ない)仕事にこそ、人は喜びや達成感を感じるものだと思うからです。だとすれば、これからの時代の重要な課題は、いかに我々のような一般の人間(特に秀でた才能を持っている訳でもなく、成功に対する意欲も人並みであるような人間)にも、取り組みがいのある仕事の分野を開拓して行けるかというところにあると思います。もっと分かりやすく言えば、特に何の技能も無いふつうの勤労者(十五歳から六十五歳まで)が、生活するために十分な収入を得て、しかもやりがいのある仕事をいつでも見付けられる、そんな社会が実現出来るかということです。しかもそれは大都会だけではなく、過疎の村に住む人にも当てはまるものでなくてはならない。そんなことが果たして可能でしょうか?

 以前このブログの記事で、日本の所得税の累進率に関する問題を取り上げたことがあります。例えばワーキングプアや生活保護世帯の問題を、社会の富の再配分がうまく行っていないことに原因を求めようとすれば、税率の累進性を見直して、高額所得者からもっと多くの税金を取ることが当然の施策になると思います。が、その後インターネットで調べてすぐに分かったのですが、現在の税制上、最高税率が(地方税も含め)50パーセントで止まってしまう高額所得者に、かつてのように最高80パーセントを超す重い所得税率を課したとしても、年間での税収増加額は、国と地方を合わせても、せいぜい数千億円程度のものに過ぎないのです(私の大雑把な試算によればです。間違いがあればご指摘ください)。現在の日本の生活保護予算は、約1兆9千億円ですから、数千億円の増収分をそのまま生活保護に回せば、まあ貧困層を救済する上で多少の意味が無いこともない。しかし、それは国全体の経済的な活力を削ぐことにつながりますし(まず資本が海外に逃げます)、今後構造的に増え続けるであろう貧困層のことを考えれば、焼石に水でしかないとも言えます。ですから、この問題はやはり、いかに貧しい人を救うかということよりも、いかにワーキングプアだとかニートだとか呼ばれる人たちの潜在的な労働力を有効に活用して、効率の良い経済の仕組みを組み立て直して行くかという議論に向かうべきだと思うのです。

 これからの時代に、間違いなく人手不足が起こり、失業者の受け皿になることが期待される分野として、高齢者介護を始めとする社会福祉関係の仕事があると思います。私の知り合いには、何故か福祉関係の仕事をしている人が多いのですが、彼らの話で驚かされるのは、その激務に反比例するかのような賃金の安さです。結局、お金になる商品やサービスを産み出さない仕事は、今日の経済社会の目から見れば、何も価値を生み出さない非効率なものでしかないのです。それは、経済的に貧しい高齢者や障害者の人たちが、社会の<お荷物>でしかないとする考え方と通底するものであるような気がします。番組の中で出演者のひとりが言っていた、「貧乏人は早く死ねということか」というのが、彼らを代表する声なき声です。しかし、そういう彼らの(また我々の)怒りを、現在の政治や社会体制の問題に向けている限り、何も解決策は見えて来ないような気がする。おそらく我々自身の価値観の転換が必要なのです。つまり、お金がすべての価値の基準であり、貧しい家庭は生活保護費を勝ち取ることが、福祉施設は国の補助金を勝ち取ることが、最終的な目的ではないことを、もう一度我々自身が確認することだと思います。そんなことを言っても、今の世の中、お金が無ければ食べ物も買えないし、住む家も借りられないではないか、そういう反論が当然あると思います。でも、本当にそうなのでしょうか? 人が豊かに生きて行くためには、お金を媒介にするしか方法が無いのでしょうか?

 これも以前紹介した話ですが、私が尊敬していた企業家の故小倉昌男さんは、知的障害者の作業施設を経済的に自立させるための活動に取り組んでいました。私はこれは素晴らしい取り組みだと思うのですが、やはり厳しい企業競争を戦い抜いて来た小倉さんならではの発想だと思います。障害者の作業所がパン屋さんを開けば、当然そこには地元のパン屋さんとの競争が発生し、その競争に打ち勝つということは、競争相手の売上げを奪うことにつながる訳です。むろんそれが現在の自由経済の掟なのですが、全国のすべての作業所がそういった競争に参加するというのも、なんだかしんどい話です。それならむしろこういう発想はどうだろう、各地の作業所はそれぞれ自らの得意な商品やサービスを開発し、それをお互いに物々交換で交換するというのは。例えば現在の洗練された市場の中では商品価値が見劣りするものでも、貧しくてそれが買えない人にとっては貴重な商品である筈です。東北の貧しい仕立屋さんは、中国の縫製工場が大量生産する安いスーツとは戦って行けないかも知れないが、この方の持つ技術は絶対に誰かの役に立つものだと思います。番組では、毎日1個百円の缶詰で飢えをしのいでいる様子が映し出されていました。この方のところに、地元の作業所から毎朝新鮮なパンや野菜が届けられる、その代りに作業所で使う作業服の仕立ては、彼が一手に引き受ける。そこで得られるものは、単に生活物資だけではないと思います。社会のネットワークにつながっているという喜び、自分の労働が誰かの役に立っているという喜び、それが人を幸福にする。

 とにかく今の社会で問題だと思うのは、貧しい人、弱い立場の人が、ほんとうに孤立無援だということです。人と人との基本的なネットワークが、ずたずたに分断されているように思える。これは行政の責任であると同時に、我々自身の責任でもあります。企業が24時間絶えず訴えかけて来るコマーシャリズムの洗脳を受けて、誰もが画一的な幸福観に染まっている。人は人と結びつく代りに、商品と(つまりお金と)結びついている。この悪夢から脱け出さない限り、いくら社会保障の充実だとか、機会均等だとか言っても、本質的な問題は何も解決されないような気がします。逆に言えば、「お金なんて無くたって平気」という社会の互助的な仕組みが整っていれば、仕事の選び方や幸福の求め方にも、人それぞれいろいろな選択肢が生まれて来るでしょう。今回もまたなんだかまとまりがない話になってしまいました。このまま続けると、例の生活保護住宅構想をまた蒸し返したくなるので止めますが(結構自分としては気に入っているんです。笑)、本質的にこの問題は、いまニュースを騒がしているヒズボラ対イスラエルの問題などとは違って、工夫次第ですべての人をハッピーに出来る可能性のある問題だと思うのです。もっともっと議論を活発にして行く必要がありますね。

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