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2006年7月 8日 (土)

働かなくてもよい時代は到来するか?

 前回の記事では、生活保護制度の今後のあり方について、ひとつのアイデアを提示しました。自分の周りの人に話しても、どうもあまり評判のよくないアイデアで、貧しい人の人権を無視しているだとか、まるでスターリン時代の収容所のようだと言う人もいた。もしも老後になって、お金が無くなった時に、そんな施設があったらいいね、そう我が家の奥さんに話したら、私はそんな所に入るのはまっぴら御免と言われてしまいました(笑)。そんなにひどいアイデアだろうか? もしもこれからの時代が、規制緩和によっていっそう自由競争を煽る方向に向かうならば、貧富の差がさらに広がるのは必然的なことです。その時に、競争に負けた側の人々、または最初から競争に参加するつもりの無い人々、あるいは競争に参加する資格さえ持っていない人々に対して、一定の受け皿を用意しておくことは、国の政策として当然行なっておくべきことである、ここまでは同意してもらえることではないかと思うのです。そうであるならば、これからの政府は単純に規制緩和や民営化を推し進めるだけでなく、天秤のもう一方の錘として福祉政策の充実も図らなければならない、これは道理だと思うのですが。

 生活保護世帯やホームレスといった、言わば社会の底辺の人たちへの福祉政策が、すんなりと合意を得にくい理由は、「働かざる者、食うべからず」という古い倫理観が、現代の私たちの心にも深く染み付いているからではないだろうか、そんなことを考えたりもします。生活保護認定で貰える金額が国民年金よりも高いなんて、そんなことは絶対に許せない、私たちがそんなふうに感じるのは、一方で真面目に働いて税金を納めている人がいるのに、一方で自らは働きもせずにそれに寄食している人がいる、それは不当なことだと道徳心が感じるからではないでしょうか。病気で働けない人や身体に障害を抱えた人に福祉が手を差し延べるのは当然としても、若い頃さんざん遊んだ挙句に貯金も年金も無く老年を迎えた人や、健康なくせに働く意欲の乏しいような人を、なんで我々の税金で救ってやらなければならないんだ? そうあからさまに言う人は少ないとしても、そういう気分は多くの人に共通している気がします。

 自分が子供の頃(昭和三十年代から四十年代にかけてですが)、時代は高度経済成長のただ中にあり、子供の目から見ても未来は明るいものでした。今でもあるのかどうか知りませんが、子供向けの図鑑の中には、動物や植物や昆虫の図鑑などと並んで、<未来>の図鑑というのがあった。今でもその印象はよく覚えています、真鍋博さんの描くイラストにある未来の社会では、自動車にはタイヤもハンドルも無いし、家の中ではロボットが家事のすべてをやるし、工場にも工員さんはいなくて自動的に新製品がどんどん産み出されて来る(あくまで子供の頃の印象としての記憶です、正確ではないかも知れません)。つまりそこは人が生きるために働く必要の無い世界でした。一方、現実を見れば、サラリーマンだった自分の父親は、毎日仕事の帰りは遅いし、土曜日だって最近のように休みではなかった。図鑑にあるような、働かなくても豊かに生きて行ける社会は、当時としてはまだまだ先の夢でした。自分が大人になる頃には、そういう未来が実現していて欲しいなあ、子供だった自分は(たぶん)そんなことを思いながら図鑑に見入っていたのです。

 小さい頃から勉強嫌いだった少年は、社会に出てそのまま仕事嫌いの大人になりました。私自身のことです(笑)。ところが、あの頃から40年も経つのに、生活には一向にゆとりがないし、労働時間は親父の時代から比べてそう短縮されたとも思えない。確かに週休二日の会社は増えましたが、その代り平日の残業が増えた、しかも手当の付かないサービス残業です。図鑑にあったような宙を飛ぶエアカーこそ実現してはいませんが、工場には産業用ロボットが大量に導入されて、工員は確かに減っている(少なくとも正社員は減っている)。つまり確かに豊かにはなったのです、たぶん経営者や投資家だけが。それは考えてみれば当たり前の話で、会社を経営する側からすれば、無人化や省力化を極限まで進めて、無駄な人件費は省きたいに決まっている。経営者や株主にとって理想の会社というのは、社員が一人もいないのに、製品がどんどん出来て売れて行く会社でしょう。もちろん多くの会社は社是に社員への福利厚生という一項を挙げていますが、社員を福利厚生費のかからないロボットに置き換えられれば、その方がずっといいに決まっています。

 営利企業というのは現代の怪物のようなもので、放っておけばこの世界のどんなニッチな隙間にも触手を伸ばして、どんな小さな利益でも吸い取ろうとする。その際にそこで暮らす人々の生活を打ち壊すことだっておかまいなしです。(例えば貧しい国の農園に外国資本が入って、その国の人々が食べる作物を輸出用の作物に代えてしまうとか、大型のスーパーマーケットが地元の商店街を壊滅させてしまうとか。) すぐれた製品やサービスを通じて社会貢献をするというのも、多くの企業がアピールしていることですが、その社会貢献というのは、お金を払ってくれる顧客への貢献であって、路上で凍えるホームレスやアフリカの難民に何かを貢献する訳ではない(税金対策として福祉事業に寄付をするくらいのことはあるかも知れませんが)。今の政府が進めようとしている規制緩和というのは、この怪物の手綱をほどいて、自由にのさばらせることに他ならない、私はそんなイメージを持っています。規制を取り払って経済を自由化すれば、市場の自律原理が働いて、最終的には貧困のない調和のとれた社会が実現する、そんな考え方はまったくの幻想だと思う。

 と、こんな意見を書くと、ははあ、やっぱりお前は共産主義者なんだなと言われてしまうかも知れません。まあ、そういう傾向があることは否定しませんが、私とても旧ソ連のような計画経済が望ましいとはまったく思いませんし、北欧のような重税高福祉型の社会が唯一目指すべき方向であるとも思わない。子供の頃、空中をエアカーがビュンビュン飛び交い、家事ロボットが炊事洗濯すべてをやってくれる未来に憧れた自分は、今でも工業技術の進歩には無邪気な期待を寄せている部分があります(これは私たちの世代に特徴的なことかも知れません)。技術革新によって生産性が上がることは好ましい、さらにそれが人に優しく、環境にも優しい技術であればさらに好ましいと思います(絶対に事故を起こさない自動車だとか、地熱を利用した発電所だとか)。そういう技術の発展を促進する規制緩和だったら、どんどん進めてもらっていい。ただ、そこで産み出された豊かさを、(顧客だけではなく)ふつうの人間に広く還元する仕組みも準備しておいてもらいたい。それは政治の役割だろうと言うのです。

 結局、自分たちの現役時代には、働かなくても豊かに暮らせる時代は到来しませんでした。しかし、今のフリーターやニートと呼ばれる若い人たちの中には、過度の贅沢は求めず、許容出来る程度の貧乏にも折り合い、むしろ自分の時間を大切にして、精神的な余裕を持って暮らして行きたい、そんな人生観を持っている人も多いと思います(私だって本当はそういう人生を送る筈だったのですが。苦笑)。今の日本には、そういう人たちの行き場がどこにも無い、そのことが問題だと思うのです。私の言いたいことは単純です。豊かな時代になったのだから、「働かざる者、食うべからず」なんてケチなことを言うのはやめようよ、お金が使い切れないくらい儲かっている企業や個人には、税金をもう少したくさん払ってもらおうよ、自分たちの子供や孫の時代には、朝から晩まで働きづめに働かなくてもそこそこ豊かに暮らせるような社会を遺してあげようよ、というくらいの控えめな主張なんですが、やっぱり反論されてしまうかなあ。

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