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2006年6月26日 (月)

サッカー・ナショナリズム

 類は友を呼ぶというのでしょうか、私の友人連中のあいだには、競馬の宝塚記念には並々ならぬ興味を持っていた人が多いのですが、ワールドカップに関心を持っていた人はほとんどいませんでした。このあいだまでワールド・ベースボール・クラシックとかで、世間が騒がしかったと思ったら、今度はワールドカップ。知り合いの中には、日本中がこういったナショナリズムの喧騒に巻き込まれるのは耐え難いと公言する人もいて、この時期、われらリベラリスト達は、とても居心地の悪い思いをしながら毎日を送っていたのです。(そのくせ、凱旋門賞ではディープインパクトを熱烈に応援するに違いないのですが。笑)

 若い頃から自身が運動オンチだったということもあって、サッカーに限らず、私はスポーツというものに特別な思い入れを持ったことがありません。ところが、今年のワールドカップでは、ひょんなことから応援したい国が現れたのです。大会が始まる前に、テレビでアンゴラのキャプテン、アクワ選手を紹介するドキュメンタリーを見たのです。アフリカ南部の小国アンゴラは、三十年に及ぶ内戦がやっと終結して、いままさに国の再建が始まったばかりなのだそうです。アクワ選手は、そんな新生アンゴラの国民的英雄なのです。もちろん、日本やヨーロッパの選手のように、子供の頃から英才教育を受けた訳ではない。28歳の彼自身、子供の頃から民族の内戦を目の当たりにして育ち、かつてのサッカー仲間の中には、戦いで傷ついてサッカーを諦めざるを得なかった友人もいた。アフリカの強敵ナイジェリアを奇跡的に撃破して、アフリカ代表の権利を勝ち取ったアンゴラ・チームは、まさにこれからの国作りを象徴する希望の星だったのです。

 ところが、せっかくサッカーに興味を持って、応援しようと思ったチームが現れたのに、アンゴラ戦なんてテレビで放映もされない。新聞で結果だけを確認するのですが、予選リーグ1敗2引き分けで敗退してしまいました。それでもゴールは1回決まりましたし、負けた試合も1点差だったところを見れば、非常に善戦したことが窺われます。きっとアンゴラの人たちも、帰国した選手たちを温かい拍手で迎えたに違いないと思います。日本はマスコミがあんまり騒ぎ立てて、期待を煽り過ぎるものだから、選手たちも過度のプレッシャーの中で戦わざるを得なかったでしょうし、ファンも帰国する選手団に無条件で拍手を送ることが出来なかったのではないでしょうか。これは不健全なことだと感じました。

 この10年で、日本のプロ・サッカーのレベルもずいぶん向上したのだろうと思いますが、おそらくそれ以上に向上したのは、応援する人たちの(サッカーでは応援団のことをサポーターって言うんでしたね)意識ではないかと思います。前回の大会の時だったか、前々回だったか、日本のサポーターたちが負けた試合のあと、みんなで黙々と会場のゴミの片付けをしていたというニュースを聞いて、当の試合の結果よりもそちらの方に感激した記憶があります(もともと感激屋なのです)。一部の国では、サッカー自体のレベルでは一流なのに、試合中は相手チームのファイン・プレイにブーイングを出したり、サポーターはすぐに暴徒化(フーリガンって言うんでしたっけ?)したりする国もあるというのに、日本人は、サポーターのレベルとしては世界最高なのではないか。日本選手は、そういうサポーターを持てたことを誇りに感じていいと思います。

 自分のようなリベラルな(つまり左寄りの?)人間は、ナショナリズムと言えば、何でもかんでも目の敵にする傾向がありますが、私はナショナリズムにも二通りあるのではないかと思うようになりました。ベルクソン流に言うなら、おそらく閉じたナショナリズムと開かれたナショナリズムというものがあるのだと思います。試合に負けたら、相手国のサポーターと暴力沙汰の喧嘩を起こすのが閉じたナショナリズム、試合中は熱烈に自国を応援するが、相手チームの健闘にも惜しみない拍手を送り、試合後には会場のゴミ拾いまでするのが開かれたナショナリズム。ベルクソンの言う閉じた道徳と開いた道徳が、程度の差ではなく本質の差であったように、この両者は本質的な違いを内包するものだと感じます。

 負け試合で会場のゴミ拾いをしていたサポーターたちの心をおもんぱかるに、そこには屈折した負け惜しみのような感情はほとんど無かったのではないかと思います。選手たちもベストを尽くした、自分たちもやるだけのことはやった、それでも適わなかった相手チームの実力と強運には惜しみない拍手を送ろう。見回せば、周りのサポーターたちも一種すがすがしい表情をして拍手をしている。泣いている人もいるけど、それは口惜し涙ばかりではない。そこで味わった連帯感や達成感は、試合に勝った側のサポーターの味わう勝利の陶酔にも負けないものであるかも知れません。ナショナリズムを批判するのは容易なことです、しかし、私たちは誰もエスペラント語を話すコスモポリタンとして生まれて来る訳ではないし、まずは自分の生まれた国を好きになるところから始めなければ、何も始まらない気がするのです。

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コメント

mori夫です。

うすうすお気づきかも知れませんが、私は若干右寄りの人間です。若いころは本多勝一や小田実を熱心に読んで、左翼運動などにも首をつっこんでいたのですが、20代後半以降に、江藤淳や小林秀雄に大きく影響されて、ゆりもどしが起きて、今度は右のほうにぶれてしまっているみたいです。

私も若いころは、右翼的、民族主義的、体育会的なものが、本当に大嫌いでした。それは精神的な愚か者、イナカ者のすることであり、とってもダサイことなのだと思っていました。

しかし子を持つ親になってみて、日本語と言う言葉や、日本列島で成熟してきた日本人の心や、祖先たちの歴史を想うとき、それがかけがえのない大切なものであるとも感じるようになりました。

左寄りのリベラルな方々の基本思想は、「国境なんか無くしてしまえ。世界中の人が、みんな手を取り合って仲良く暮らそうではないか。」ということだろうと思います。(そこまではっきりと言ってはいなくとも)

しかしそういうリベラル思想は、まだまだ、かなりの少数派です。先進国の、自由さと、豊かさを満喫している、一部の人たちの間だけの意識だと思うのです。まだ一度も自国の発展や栄華を経験していない国、戦争で大きな屈辱を味わって、いまだ相手国への憎しみが消えない国。そういう国は、いわゆるナショナリズムを、まさにこれから燃え上がらせようとしています。中国も韓国も、そういう意味では、非常に「右翼的、民族主義的、体育会的」であり、他民族や他国への思いやりのある「大人」の次元には達していないと思うのです。

そういうなかで、日本のリベラルな知識人たちが、中国も韓国の立場に立って、彼らの応援をする。(例えば高橋哲哉さんのような。)これに私は、危うさを感じるのです。日本の民族主義を批判するなら、中国も韓国の民族主義も批判しなければならないです。中国の覇権的な軍事大国化や、韓国の狭量でヒステリックな領土政策(竹島問題)に対して。日本の侵略反省はいいとして、それが彼らの民族主義的な野心に利用されることがあってはならない。

私もスポーツには、それほど興味はありません。でもW杯サッカーは熱くなって応援しました。(笑) なんか、「大人しくて、優しくて、オレがオレがというような我の強くない日本(日本人)」を、身内として応援せずにはいられないのですね。他国の強烈なナショナリズムに、なすすべなくボロカスにやられてほしくはないのですね。日本人にも筋肉はあるし、キンタマもついているというところを、見せてほしいのですね。(笑) これはスポーツであり、戦争ではないのですし。

投稿: mori夫 | 2006年6月27日 (火) 08時50分

すみません。訂正です。

誤)中国も韓国の民族主義も批判しなければならないです

正)中国や韓国の民族主義も批判しなければならないです

投稿: mori夫 | 2006年6月27日 (火) 08時55分

 私が不思議なのはなぜ「国」を応援するか?です。

 私はずっとスポーツをやってきて、現在でもよく見に行きます。アメリカンフットボール、ボクシングです。

 いいプレーを期待します。だから双方ともいいコンディションである事を願います。しかし特定のチームを応援する心理はありません。

 どうも、スポーツ観戦と応援は全く違うジャンルのようです。

 例えば高校野球ですが、好きな人はまず出身校を応援し、次に近い学校を応援し、次に県代表を応援し、次に関東圏、関西圏などの圏を応援し、決勝の時はどちらを応援しようか考える、という人がいます。

 つまり「応援」することに「楽しみ」を見つけているようです。

 では、「国」を応援する人は何を応援しているのでしょうか?
 それはチームのアイデンティティーに関わってきます。種族でしょうか?人種でしょうか?国籍でしょうか?(種族という言葉はジョークですが…)

 WBC(野球)の時、王監督は日本国籍ではありませんでした。 今回のサッカーでもジーコ監督は日本国籍ではありません。
 だから、国籍にアイデンティティーを見出しているようではないようです。ワールドカップサッカーの国籍条項は知らないのですが、日本のチームに在日の選手もいましたから、選手の国籍にアイデンティティーを見出している訳ではなさそうです。(帰化したのかも)

 サントスのように日本国籍は持っているが、言語的バンドが異なる人もいるので、いわゆる「民族的アイデンティティー」を見出しているようでもありません。

 本当に不思議なのです。

投稿: lera | 2006年6月30日 (金) 16時16分

mori夫さん、コメントありがとうございます。ご返事が遅くなりました。すみません。

mori夫さんからご覧になると、Like_an_Arrowという人間は、やっぱり<リベラル>だとか<左寄り>に見えますか? 見えますよね、本人もそうはっきりと言明しているんですから(笑)。でも、mori夫さんのおっしゃるような、「国境なんか無くしてしまえ。世界中の人が、みんな手を取り合って仲良く暮らそうではないか」というようなストレートな左翼思想には、私も与したくないです。出来れば、以前別の記事で書いたように、右にも左にも偏らず、対立軸を自分の中に抱え込んだままで、自らの思想(というか考え方)を深められたらいいと思っています。

最近は自分も年をとったせいか、日本に生まれた幸福をしみじみ感じることが多くなりました。ブログで政府を批判するような記事を書き散らしても、お咎めがある訳でもありませんし、何より日本語で読み、書き、考えられる幸せというのが私には大きいです(外国語でものを考えられるほど、語学が堪能ではないというのもありますが…)。たとえ百年後か千年後に、世界の国境がすべて無くなる日が来ても、日本語が地球から消えてしまうのは寂しいという気がします。

ワールドカップはやはり、テレビの前でひとり見ていてもつまらないですね。酒でも飲みながら仲間とワイワイ応援すれば、そりゃ楽しいと思います。これが実際に競技場で、選手と同じ色のユニフォームを着て応援したら、その一体感というか絶頂感は、いかばかりのものだろう。しかも日本のサポーターは節度をわきまえていて、たとえ試合が不利に進行していても、相手チームのサポーターに毒づいて鬱憤を晴らすなんてことはない。これは頼もしいことだと思います。

高橋哲哉さんが韓国や中国を応援しているかどうかは分かりませんが、ナショナリズムに敵意を持っている人は、サッカーは見ない方がいいですね。自国を熱烈に応援しながら、負けた試合でも相手に悪感情を持たない、これはやはりスポーツファンとして年季を積まないと到達出来ない境地かも知れません。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年7月 1日 (土) 01時58分

leraさん、コメントありがとうございます。

これはまた私などのような凡俗には想像出来ない、さらに進化したスポーツファンの心理であると受け止めました。きっと純粋にスポーツが好きで、<応援>よりも<観戦>する立場の人にはそれが自然なのかも知れません。

でも、自分の国を応援する心理が、そんなに不思議なものだとは思えません。例えば、運動会に自分の子供が出ていれば、やはり応援したくなるでしょう。(ならないかな?) それが母校になり、県代表になり、国になる。ごく自然なことのような気がします。(国籍が人工的な概念であるならば、県人という概念だって同じでは?) もしも、異星人との交流が始まり、惑星間競技大会が開かれれば、私はきっと地球人を応援すると思いますよ。(笑)

投稿: Like_an_Arrow | 2006年7月 1日 (土) 01時59分

>自分の子供が出ていれば、やはり応援したくなるでしょう
 まさしくその心理を分析するところに「哲学」があるような気がします。

 応援のひとつの層は、自分との共通点を「見出す」ということです。共通点に気がつくのはではなく、「見出す」「作り出す」のです。

 子どもとの共通点は「容易」です。

 では、国家チームとの共通点とは?

投稿: lera | 2006年7月 3日 (月) 14時50分

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