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2006年6月13日 (火)

「自分とは何か」の自分とは何か?

 ここ何回か政治的な話題が続きましたので、気分を変えて本来の哲学的テーマに戻りたいと思います。と言っても、私にとって重要な哲学のテーマは実はひとつしかなくて、それはすでに手垢にまみれてしまっている古くさい問題、つまり「自分とは何か?」というあの問題なんです。これの何が難しいかって、いったいどういう解答が出されればこの問題が解けたことになるのか分からない、いや、そもそもこれがまともな哲学的問いなのかどうかさえはっきりしない、いや、別に哲学的と限定しなくてもいいのですが、要するにこれが論理的あるいは実証的に正解を与えられるような問題だとは思えないというところに根本的な難しさがあるのです。もうずいぶん昔に読みかじった知識ですが、二十世紀前半に現れた分析哲学だとか論理実証主義と呼ばれる哲学者の一派は、哲学という学問が長い歴史を持ちながら、数学や自然科学のような進歩を遂げられず、いつも同じ問いのまわりで堂々巡りを繰り返しているのは、要するに問いの出し方に誤りがあったからだと主張しました。自分とは何か、などというのはその最たるものです。それは天才ウィトゲンシュタインが放った有名な言葉で、とどめを刺されてしまった類の問いです。「人は語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」

 しかし、分析哲学派や現代の知的に洗練された哲学者たちが何と言おうと、人がこの問いを発することがなくなることは、人類が続く限り無いと思います。たとえ答えの無い問いと分かっていても、論理的に考えれば意味の無い設問だと分かっていても、心の底からじくじくとこの問いかけが湧き起こって来るのを、人はとどめることが出来ない。それはその時代や社会の環境に応じて、いろいろ形を変えて現れて来る問いかけのようにも思えます。ひところ、〈本当の自分〉だとか〈自分探しの旅〉といった惹句がもてはやされたことがあって、それが若い人の生き方にまで影響を与えていた時期がありました(一部では今も与え続けているかも知れません)。その反動でしょうか、最近はこういったコトバもあまり見かけなくなった気がします。むしろどこにも存在する筈のない〈本当の自分〉などという幻想を現代のコマーシャリズムが喧伝するから、若い人がいつまでも〈自分探しの旅〉から卒業出来ず、定職にも就けないニートやひきこもりなどといったモラトリアム層を生み出すことになるのだ、そんな論調に出会うことの方が多いような気がします。

 私自身、心理学で言うところのセルフ・アイデンティティの確立にはずいぶん手間取ってしまった人間なので(いまだに手間取っているかも知れない?)、どこかにある筈の本当の自分という観念にはずいぶん悩まされました。たぶん若い頃に作家志望の文学青年だった人間なんて、みんなそんなものだろうと思います。いまここにいる現実の自分と、本来あるべき自分とのあいだに、あまりに大きな隔たりがあるものだから、常に自己不全感というか、現実からの疎外感がつきまとう。さらにこの百年余りのあいだ、世界の著名な文学者たちはこうした社会から孤立した青年像を好んで描き、一種病的な青春文学の傑作を数多く輩出しましたから、こうした若年期の心のあり方はひとつのファッションとしてのステータスを獲得してしまった。現代ではこのセルフ・アイデンティティの混乱というものが、いわば青年が大人になるための避けられない通過儀礼のようにさえなっている印象があります。食うに困らない豊かな時代の、一種の贅沢病だと言われればその通りだという気もしますが。

 しかし私は、自我の問題をこのような現代という時代の病理として捉える見方や、あるいは〈自我の形成〉といった発達心理学上のテーマとして捉える見方には、どうしても抵抗を感じるのです。私が考える〈自我〉とは、赤ん坊が成長する過程で芽生えて来るものでもなければ、青年が大人になる過程で確立されるべきものでもない、それはもっと根源的で絶対的なひとつの〈実在物〉なのです。と、こう書けば、もう現代哲学の専門家からは嗤われてしまうかも知れない。そもそも〈実在〉などという言葉が多義的で曖昧な、形而上学的概念ではないかと。でも、私はウィトゲンシュタイン先生には叱られるでしょうが、たとえば次のような問いは、純然たる正しい哲学的設問だと思う。「もしも自分を生み出すもとになった母親の卵子に、父親の別の精子が受精していたら、その時に生まれたのは自分だったろうか、それとも別の誰かだったろうか?」。(これは以前、mori夫さんが提起されていた疑問ですが、私も同じ問題を十代の頃から考えていました。たぶん巷間の素人哲学者が陥りやすい問題なのでしょう。笑)

 考えてみましょう、これがもしも同じ両親から生まれた子供でも、自分が誕生したのとは別の時期に、つまり別の卵子と精子が結び付いて出来た子供だったなら、そこで生まれたのは自分ではなかったというのは常識的に正しい言い方だと思います。要するにそれは自分にとっての兄弟姉妹が自分とは別の人間であるのと同じことですから。しかし、自分を生み出すもとになったその時に排卵された卵子はたった一個だったとしても、それと受精する可能性のあった精子は、何億、何十億とあった筈です。我々はその何十億倍の倍率を勝ち抜いて生まれて来たチャンピオンなのだろうか? もしもそう考える人がいるなら、その人は人間の〈魂〉というものは父親由来の精子から来たものだと考えていることになる。逆に母親の卵子にすでに魂が〈宿って〉いたと考えるなら、父親の精子は単にそれを胚として発現させるきっかけに過ぎなかったということになるかも知れない。そう考えるなら、もしも自分を生み出すもとになった母親の卵子に、父親の別の精子が受精したとしても、その時に生まれたのは、(多少容姿や素質に違いはあったにせよ)現在と同じこの自分であったということになる。さあ、正解はどちらでしょうか? それともそのどちらでもない第三の正解というものがあるのでしょうか?

 だからさあ、そんなふうに実体としての自我なんて考え方をするから矛盾が出て来るんだよ、そんなふうに反論するもうひとりの自分がいます。だって考えてもみなよ、同じ精子と卵子が結び付いても、それがたまたま初期の分裂の段階でふたつの胚に分かれ、一卵性双生児となって生まれて来る子供もいるんじゃないか。その場合には君の言う〈魂〉がふたつに分割されたとでも言うのかい? だが、君の考える魂だとか自我だとかいうものは、分割されることも統合されることもない〈唯一絶対の実在物〉なんだろう? ほら、もう矛盾してるじゃないか。いいかい、もしも君が生まれるもとになった卵子に別の精子が受精していたら、少なくとも現在存在するままの君は存在していなかった。ということは、その〈誰か〉が今の君だったか、別の誰かだったかという質問自体が成り立たんじゃないか、違うかい?

 なるほど。別に難しい分析哲学の方法論に頼らなくても(笑)、自我の実体性を論駁するのは容易なことのようです。けれども、こうした思考実験を通して我々が感じる、自分自身が存在していることの不思議さという意識は、こういう論理的な反論によって静まるようなものでもないと思います。何故かと言うと、自分が存在することを不思議だと感じる心は、それ自体何かを主張している思想というようなものではないからです。自我の実体性などという言葉を使えば、それはいわゆる唯物論的な世界観に対抗するひとつの主張のようにも見えます。しかし、それでは例えば、自我というものが一種の霊的な実体で、現在の自分が生まれるまでに何度も輪廻転生を繰り返しながら現在に至っているというスピリチュアリズムの考え方を受け入れるならば、自己の存在は不思議なものではなくなるのだろうか? そんなことはないと思います。そうやって輪廻転生を繰り返している霊的な実体が、何故他の誰でもない、この自分なのかという問題はやはり残る。何も解決していません。この問題は(というよりも、実存主義哲学が言うところのこの根源的な不安は?)、唯物論と観念論の対立などという地平よりも、もっとずっと深いところから湧き起こって来るものだと思う。

 何かの本で読んだ記憶があるのですが、生きている人間の身体は常に細胞レベルでの新陳代謝を繰り返していて、およそ数ヶ月でほぼすべての分子的組成が入れ替わってしまうそうです(それとも数年だったかな?)。同じように人間の精神も常に変化しているので、生まれてから死ぬまで一貫した常住不変の自己なるものが、心の真ん中に鎮座ましましている訳ではない、一年前のあなたは明らかに現在のあなたとは別人なのだ、そんなふうな言い方も最近はよく目にする気がする。こういうものの考え方は、いかにもスマートで現代風だと感じます。またそれは古来から日本人が育んで来た〈無常といふもの〉に対する感性にもしっくり来るのかも知れませんし、あまりに肥大化してしまった西洋的な近代的自我というものから距離を置くためにも有効な思考法であるかも知れない。が、それでもやはり私は主張したいのですが、そんな言い方は単なる喩え話に過ぎないと思う。もしもそれが喩え話ではないと言うなら、すべての犯罪者は数ヶ月で時効になって無罪にされるべきですし、貸した金は数ヶ月以内に取り立てないと、踏み倒されても文句は言えない。なにしろ数ヶ月経てば、人は別人になるのだから。自我の実体性というものが、現実的な存在感(?)をアピールするようになるのは、このように一種の倫理的な文脈の中にそれを置いた時です。つまり、明らかに自我というものは、実体を持ったものなのだが、それは心理学的、生物学的、物理学的、あるいは霊的な実体物という意味ではなく、倫理的な実体物なのである。

 いや、しかし、今回の記事ではそんな論圧の高い(?)主張をするつもりじゃなかったんです。(私が〈倫理〉を語り出すと、こいつは危険信号です。笑) ただそれでもやっぱり考えてしまうんですよ、もしも自分が生まれた瞬間、もしも母親の卵子に父親の別の精子が受精していたら、その時に生まれたのは、やはりこの自分だったのだろうか、それとも別の誰かだったのだろうか? ひょっとして半分だけ自分だった? まさかね。どうです、ねえ、不思議じゃありませんか?

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コメント

mori夫です。私の書いたものにふれていただき、ありがとうございます。ここのところ、とても忙しくて、失礼をしていました。ごめんなさい。

Like_an_Arrowさんが書いておられること、まったく同感です。私が本当に興味のあるテーマは、これだけであるといってもいいくらいです。考えても考えても、わからない。大きな謎です。このことに同感してくださった方は、Like_an_Arrowさん以外では、いまのところS氏だけです。提出している問題の意味すらわかってもらえないことが多い。永井均さんも書いていますが、これをすぐに理解して反応を示すのは、大学の哲学科でも、一人くらいだそうです。

私は、この、

・一回こっきり性・唯一無二性・
・発生(誕生)因果の説明できない(語りえぬ)不条理性

は、自意識を持つ人間だけでなく、生物共通のものだろうと思っています。犬や猫だって、この二つの不思議性を持つものであることに変わりはないです。植物や微生物にはこの不思議性は、もしかしたら、無いかもしれません。

しかし、微生物だって、個々にすべてユニークなものであり、一回こっきりの命を持つものです。素粒子や水の分子のような、無個性のものではない。この神秘性・不思議性こそが、生命の本質だと思うのです。

で、結局、何が言えたことにもならないのですが。

投稿: mori夫 | 2006年6月24日 (土) 15時22分

mori夫さん、コメントありがとうございます。お元気そうで安心しました。

永井均さんの著書は、『これがニーチェだ』というのを1冊読みました。ニーチェは私も若い頃からずいぶん読んでいますが、永井さんのこの本は力作ですね。いわゆる解説や批評ではなく、著者がニーチェという哲学者と真っ向から対決している、そんな気概が感じられる本です。こういう先生に習っていたら、大学の哲学科ももっと面白かったのかも知れません。(笑)

最近、理系の研究者の方が心脳問題についてよく本を書きますでしょう、養老孟司さんだとか茂木健一郎さんだとか。パラパラと読んでみるのですが、私にはあまりピンと来ないんです。茂木さんのクオリア党宣言なんて、なんだかまるでピントはずれだという気もします。つまり<自分>が存在していることに対する根本の驚きのようなものが感じられないというか。いや、それを感じない訳ではなくて、それに過度に捉われ過ぎないだけなのかも知れませんが。

自分を省みて思うんですが、やっぱり発想が暗いというか、マイナス思考なんですね。いつも<いつか来る死>という視点からものを考えています。養老さんなんて、『死の壁』の中で、「私は死を怖れない」ってはっきり書いてらっしゃいますものね。うらやましいと言うか、自分には縁のない方だと言うか…

それにしても<精子と卵子>の思考実験は秀逸だと思います。こんなふうに問いを出されたら、誰でもこの問題のキモの部分に気付きそうなものですが、「教えてgoo!」の中では、みんなトンチンカンな(?)答えをしていて面白い。さすがにstomachmanさんだけは、問いの真意を理解して茶化していらっしゃるんですね。いやあ、何度読んでも面白いです。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年6月26日 (月) 23時50分

早い話、寝ている間も規則正しく心臓を鼓動させているのはあなたご自身ですか?
そうではないでしょ。

 私たちは、自分が選んだのではなくて、宇宙がいのちを吹き込んで創った(創ってくれた)
宇宙の子として、自分の花を咲かすべくここに生かされているのです。
 従って、「宇宙は、“この自分”を産み出すために存在し、
そして“この自分”は宇宙からの奇跡的な素晴らしい贈り物。」

ということになります。(日本初の「自分原理の宇宙論」)

ですから、感謝と喜びで受け取るべきものと“気がつけば”、
“自分の世界”が太陽のように光り輝くのです。 
詳しくは→ http://www31.ocn.ne.jp/~mminoru/book.html

 ここには、「自分」とは何か? そして「自分の存在の意味と目的」は何か?
についての、今までの幻想の宗教、言葉遊びの哲学、独り善がりの文学の答えを打破した、
究極の一つの正しい答えがあります。

 ぜひお役にたててみて下さい。よろしく _(._.)_ です。
疑問、ご質問、ご意見など、何なりとどうぞ。
これが私の「生きる意味と目的」なのですから。 みのる

投稿: みのる | 2008年10月 3日 (金) 12時12分

*自分のブログはほんとに何か魅力があるわけではなくて、だけど、知り合い以外にも自分のブログに訪れている人がいる。

幾千とあるブログの中、一体どういう風にたどり着いて自分のページをどう見ているのか。

それが気になって、何気ないキーワードで検索をかけて出てきたブログに目を通し、自分がどう思うのか、全くの他人が全く無関係な自分のページになにを感じるのか、それを探すためにランダムに飛んでいます。


まさに僕自身セルフ・アイデンティティを確立できずにいる巷の素人哲学者で、定職につけない若者だったりします(苦笑

なるほど。
僕が思うに、自分というのは一つのプランそのものなのだと思います。プランというのは体そのものはどれくらいかの周期で細胞が入れ替わってしまうが、体内の臓器などは形や機能が一定で決して違うものになってしまわない為のプラン。そのようなものなんじゃないかと。
見えないけど、確実にそこに存在しているプラン。それが自分を自分たらしめている・・・そんな気がします。
(使う言葉が本などをあまり読んでいないため、自分なりの言葉なので恥ずかしい文章になっているかもしれません。(苦笑)すみません;)

投稿: のら | 2008年12月10日 (水) 04時15分

のらさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

「自分というのはひとつのプラン」だという感覚は、私たちが心の底で持っているひとつの共通する観念ではないかと思います。ただそれが生物学的な意味でのプラン(細胞だったり、遺伝子だったり)のレベルに留まってしまうと、自分がこうして生まれて来たことの意味にはなり得ない。やはり「人間という生物」をではなく、この「自分」を生み出したものが何か大きなプランの一部なのかどうか、そうしたことを知りたい気がします。

この記事は、私の過去の記事の中では比較的アクセスが多いものなんですよ。検索キーワードはいつも決まっていて、「自分とは何か?」というコトバなんです。この問題に関心があったり悩んでいる人は、結構いらっしゃるんだと思います。特に今の若い人は、私などが若い頃以上に社会のなかでのポジショニングが取りにくいのではないかと思います。のらさんも「定職につけない若者」だそうですが、自分というものが生まれた根本的な不思議さということに思いを致せば、単に就職することだけが目的ではない、もっといろいろな生き方が見えて来るのかも知れません。

(私自身はもう五十歳を過ぎて、会社の中では平社員、自分より若い後輩が上司という社会的ステータスの人間です。いつリストラされるかも分かりませんし、安定した老後が待っているとも思えない。それでも自分が死ぬ時は、ひとりの無名のブロガーとしてのポジショニングというものを意識して死んで行きたいとは思っています。)

投稿: Like_an_Arrow | 2008年12月11日 (木) 06時36分

「自分」とは、自ら分を弁える者のことです。

人間が、もし、偶然に生まれたのなら、哲学する必要はありません。
人生の目的など端から無いからです。

有史以来、自分の意志で生まれてきた人がいるでしょうか?
一人もいません。それは何を意味するかというと、
自分の為に生まれてきた人は一人もいないということなのです。
これだけは間違いない。なのに、「私は、自分の為だけに生きる!」
という人がいれば、それは明らかに間違いだと言うことになります。

つまり、偶然に発生したアメーバーの遺伝子のエラーの
成れの果てが「人間」であるか、さもなければ、神が創造し
たかのいずれか一方でしかないということです。
難しく考える必要はありません。

もし、神が目的を以て人間を創造したのであれば、その目的の為に
存在することこそが、最高に自分の存在価値を発揮する
ことになります。
要は、創造目的=存在目的=存在価値なのです。
これ以上、哲学する必要はありません。

造られた目的が最初からないのなら、存在目的が元来
ないので、存在価値があるはずがないのです。

理論的にそうなのです。

神がいるかどうかは、信じる信じないではなくて、
二尺択一なのです。いずれか一方でしかないのです。
絶対にです。実在するかしないかです。それだけです。
それが、事実なのです。
信じる信じないの前にです。
だから、貴殿が、神を信じないのならば、哲学する
必要はもうありません。論理的にそうなるのです。

もし、創造主なる神を信じるのならば、人生の目的を
探さなければなりません。それは、
神の人間創造の目的です。

人間が、もし、単なる偶然に発生したDNAの成れの果てなら
私は、人生の目的とは・・・?などと恐らく人間は
悩まないだろうと考えています。
つまり、人間は堕落して神が分らなくなったのです。
これを霊的無知といいます。
だから、まず、神を信じるところから始めましょう・・・
そうでないと、あなたのアイディンティティーが有り得ないのです。
自分には価値があると自分で言い聞かせることは
ただの自慰的な行為でしかありません。永遠に、価値論には成り得ません。

ではでは。失礼致しました。

投稿: hide | 2009年2月27日 (金) 11時07分

自分とは何か?

心は脳からどようにして生まれるのか? 脳と桜

のキーワードで検索して頂きますと論文があります。
どうぞ宜しくお願いし致します。

投稿: 永井哲志 | 2012年9月 6日 (木) 20時59分

初めまして。

ふと気になって検索した単語に引っかかり、
こちらの記事を拝見いたしました。

哲学の知識はございませんが、
感じ思ったことをコメントさせて頂きます。


自分とは何か?

まず私は、自分とは、現象だと思いました。
音楽の再生装置が肉体や思考で、レコードが記憶や経験、だとすれば、
自分はそこから出てくる音のようなものです。

そのスピーカーとレコードの完全コピーが作られたとしても、
そこから出てくる音は1つしかないので、
自分とは違う別のものだと、そう思います。

しかし、一晩たって、それが答えになっていないことに気付きました。
何故自分は自分なのか、分からない。
現象というのは自分を客観的に捉えたに過ぎませんでした。

オリジナルから出てきた音は、何故自分がオリジナルから出てきた音なのか、
コピーから出てきた音は、何故自分はコピーから出てきた音なのか、
全く同じものなのに、何故自分は貴方でなく、貴方は自分でないのか
疑問に思うに違いないと思いました。

考えても答えが出ないので、今回はやめました。
ただ、自分が哲学者にはなれないことは分かりました。
考え過ぎて、流した時間を惜しいと思ってしまうからです。

投稿: ゆきい | 2012年10月26日 (金) 22時15分

単刀直入に。
自我の本質は、記憶(状態)と思考(プロセス)だと思っています。
必要十分ではなくて、必要条件、という意味で。
記憶がなければ、同じように考えたとしても、対象を認識できませんし、記憶があっても思考できなければやはり対象を認識できません。自己をテープとマシンを分離して考えたフォンノイマンは偉大だと思います。が、この考えに現代の多くの人が引きずられている気もします。未だ自我をもつコンピュータは作り出されていないような気がしますが、それはそもそもフォンノイマンの考えが足りなかったのか、自我を生成できるプログラムが誕生していないだけなのか。

多分この問題は、生物学的に遺伝子を特定したり、個体発生や系統発生の因果律を明らかにしたり、脳の物理的構造を明らかにしたりしても無意味で、自我とは、物理的、化学的、生物学的、社会的な様々な階層および階層間での相互作用の中で形成される一時的に安定的に分離独立して形成されているように見える局所的なある種の動的平衡な状態(アトラクター)、なんじゃないか、というのが私の仮説です。

多くの方は「自分」と「他」とが完全に独立したものだという前提があるようですが(その方が一見シンプルに考えられそうですし、見た目そもそも物理的に身体や脳が独立しているし)、一旦これを壊して、「自分」とは「他」の一部、あるいは「他」は「自分」の一部で、あるいは「自分」と「他」との一部は共有されている、という仮定を置くと「なぜ私はカンガルーではないのか」という質問が「私とカンガルーの違い(共通項)はなんのか」に変わると思うのですがいかがでしょうか。

投稿: self-reference | 2012年10月27日 (土) 21時40分

>自我の本質は、記憶(状態)と思考(プロセス)だと思っています。
> 必要十分ではなくて、必要条件、という意味で。

「精神とは何か」という問題について考えておられるようですね。
mori夫さんが述べておられるのはそういうことではないでしょう。

投稿: bluedragon228 | 2014年6月 6日 (金) 14時57分

bluedragon228さん、こんにちは。

そう言えば、mori夫さんにもご無沙汰してしまっています。「自分とは何か?」というのが、私の最大のテーマなのですが、この話題からも長く遠ざかってしまっています。いつか復帰する日は来るのだろうか…

投稿: Like_an_Arrow | 2014年6月 7日 (土) 11時24分

# どういうわけかこのサイトに時折たどり着いてしまいますのはきっと疑問が堂々巡りしているせいかもしれません。

>「精神とは何か」という問題について考えておられるようですね。
>mori夫さんが述べておられるのはそういうことではないでしょう。

「精神とは何か」の「精神」はよくわかりませんが「自分とは何か」問い問いの「自分」についての考えです。ちなみに私は唯物論者でも二元論者でも遺伝子還元論者でもないです。かといって全体論者というわけでもないです。違う精子と卵子が出会っていたら...という思考実験ですが、精子と卵子に「自分」の実在物を還元しようとする試み自体が無意味だと考えています。精子と卵子が形成される以前の分子状態が違えば...さらに父母の栄養状態、精神状態、生活環境、生育環境が違えば...祖父母の精子と卵子が違えば...とありとあらゆる因果律がほんの少しでも違えばきっと今の「自分」とは別の「自分」になるでしょう、と私なら答えます。この流れで考えれば、例えば昨日食べた一粒の米を食べなかったら、きっと今現在私を構成する身体のどこかの一分子が形成されていないことをもってきっと今の「自分」とは別の「自分」であろうと私は結論づけます。例えば、昨日眠いと思って我慢して徹夜していたのをやめてすぐに寝ていれば、きっと今の脳のニューロンの結合状態と違った状態が形成されたことをもって今の「自分」とは別の「自分」であっただろうと私は結論づけます。しかし、私が「自分」だと信じているモノは遺伝子でも身体でも身体を構成する一分子一分子でもなく、またはその分子状態でもなく、いわゆる心とか精神とか言われるものでもなく、宇宙が誕生してから現在に至るまで世界のありとあらゆるすべてのプロセスの結果、世界のある一点にとどまっているように見える、とあるアトラクタである、というのが私の考える「自分」です。それがいわゆる観察可能な実在物であるかどうかというのはまた別の話になると考えています。今日はこの辺で。また数年後に書き込むかもしれませんm(_ _)m

投稿: self-reference | 2014年9月26日 (金) 00時46分

補足です。物質的組成および状態が異なっているにもかかわらず昨日の一粒の米を食べたのが確かに「自分」だと認識できる今この瞬間「自分」は「昨日一粒の米を食べた」という記憶をもっているからにすぎず、その記憶といま現在の認知主体である「自分」というものを同一視できる能力が「自分」にはあるから、というのが私の見解です。「自分」というものを認識できるのは「自分」の存在(行動、経験)を観察対象として客体化した場合だけ、であると考えています。今現在進行形で進んでいる思考をもつ「自分」を客観的に認識するすべは今この瞬間の「自分」にはないと考えています。

投稿: self-reference | 2014年9月29日 (月) 01時01分

ここで問題にしている「自分とは何か」の「自分」については
掲示板などでも、ほとんどがあさっての方向を向いた考え方になっています。

「自分が何故存在するのか」という問いは「ヒトは何故存在するのか」とか
「自分という認識はどのように形成されるのか」等々といったこととは全く
次元の異なるものです。

このページの冒頭に書いてある下記の部分をよく読むと、この問題の
本質が分かるかもしれません。
**********************************************************
なるほど。別に難しい分析哲学の方法論に頼らなくても(笑)、
自我の実体性を論駁するのは容易なことのようです。
けれども、こうした思考実験を通して我々が感じる、
自分自身が存在していることの不思議さという意識は、
こういう論理的な反論によって静まるようなものでもないと思います。
何故かと言うと、自分が存在することを不思議だと感じる心は、
それ自体何かを主張している思想というようなものではないからです。
自我の実体性などという言葉を使えば、それはいわゆる唯物論的な
世界観に対抗するひとつの主張のようにも見えます。
しかし、それでは例えば、自我というものが一種の霊的な実体で、
現在の自分が生まれるまでに何度も輪廻転生を繰り返しながら現在に
至っているというスピリチュアリズムの考え方を受け入れるならば、
自己の存在は不思議なものではなくなるのだろうか?
 そんなことはないと思います。
そうやって輪廻転生を繰り返している霊的な実体が、何故他の誰でもない、
この自分なのかという問題はやはり残る。何も解決していません。
この問題は(というよりも、実存主義哲学が言うところのこの根源的な不安は?)、
唯物論と観念論の対立などという地平よりも、もっとずっと深いところから湧き
起こって来るものだと思う。
*********************************************************************

投稿: bluedragon228 | 2016年2月28日 (日) 20時37分

「自分とは何か」という問いの意味は、ほとんどの場合、「本当の自分
とは何か」とか「人は自分という観念をどのように認識しているか」、
「自我はどのように確立されるか」などといった問いと同じようなもの
と解釈されるようだ。ここで問題になっている「自分とは何か」という
意味は、そのようなこととは異質のものだが、これを問う人も勘違い
されやすいことが分かっていて、慎重に言葉を選んで書いているのだが、
それでもやはり、意味が伝わらない。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4481774.html
「アイデンティティの問題ではなく、自分とは何か」


自分が存在することについて不思議な感覚を味わったことのない人に、
この問題の意味を伝えることは可能なのだろうか?

「なぜ私は私なのか」という表現の方が分かってもらえるかもしれない。
下記ページでは、これについて詳しく書かれており、
次のようなことも書いてあります。
************************************************************
すべての人がこの問いと出会うわけではないが、渡辺が日本の全国の
大学生を対象として調査した結果では、およそ10人に一人に近い高率で、
この種の問いが発生していたという。また、こうした問いを初めて体験
する時期については、天谷の調査よれば、小学校後半から中学一年生を
中心とした時期が多いと言う。
************************************************************
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B

投稿: bluedragon228 | 2016年3月 1日 (火) 15時37分

bluedragon228さん、こんにちは。コメントをどうもありがとうございます。

この記事にコメントをいただいているbluedragon228さんは、間違いなくこの問題の本質(?)を理解している方なのでしょう。というか、この問題を「問題」として感じる感性を持った方なのだと思います。

「自分とは何か?」などというのは、経済的効率性が何より重視される現代では、最もくだらない質問ということになってしまうのだと思います。でも、私の考えは違います。この問題はすべての倫理的考察の中心に持ってくるべき問題であって、そこから発想すれば私たちの道徳的価値観も大きく修正を迫られる可能性がある。まあ、私にとっては生涯のテーマなのですが…

投稿: Like_an_Arrow | 2016年3月 1日 (火) 23時47分

初投稿から早3年が過ぎましたが、Like_an_Arrowさんからするとおそらく私はこの『「自分とは何か?」の「自分」とは何か?』という問いの本質を理解していない者だと理解されている、私は理解しています。言葉尻をつかむようで申し訳ないですが、この問いは「自分とは何か?」という問いではなく「自分とは何か?」という問いの意味を問いているのだろうことがbluedragon228のコメントで3年かけてやっと理解できました(この理解すら間違っている可能性もありそうですが...)。ただこのことと精子卵子の話、唯一無二性、が私の中ではどうしてもつながらないのでまた考えてみます(3年後になるかもしれませんが...)。またLike_an_Arrowさんはこれまでの文章から推察しますところ、「自分」というものが存在していること、あるいは「自分」というものを(「自分」が?)認識できていること、を前提にして話をされているように見受けられますが(bluedragon228さんも同様ですが)、はたしてその前提をおいて「自分とは何か?」という問いを、考えることに問題はないのでしょうか?もし本質と異なった指摘であるようであれば指摘していただきたいと思います。また数年後になるかもしれませんが....

投稿: self-reference engine | 2016年3月24日 (木) 00時48分

最近TEDで「本当の自分」は存在するか?というジュリアンバジーニさんのスピーチを見ました。
https://www.ted.com/talks/julian_baggini_is_there_a_real_you?language=ja

これはまさしくbluedragon228がおっしゃっている
「本当の自分とは何か」とか「人は自分という観念をどのように認識しているか」という問いに対する一つ回答/モデルに過ぎないのでしょう。

これは「自分はそもそも存在するか」とか「自分はなぜ存在するか」という問いとは異なる問いだということは理解できます。しかし「自分」の定義(自分というモノの捉え方/認識の仕方のモデル)なしに「自分はなぜ存在するか」という問いは成り立ちません。

>自分が存在することについて不思議な感覚を味わったことのない人に、
この問題の意味を伝えることは可能なのだろうか?

この中にすでに「自分」というモノをbluedragon228さんがどう捉えているか/認識しているのか、ということが前提として含まれている、と私は考えます。さらにいえば「自分」というモノが存在していることを前提にしています。

bluedragon228さんはwikipediaから引用されていますが、これも誤解を生じる可能性があると私は考えます。私はLike_an_Arrowさんの問いの真意を理解できていませんが、いわゆる意識の超難問と言われる問いとLike_an_Arrowさんが言っている問いは異なるものではないでしょうか。同じだというなら話は簡単ですが(問いに対する解答という意味ではなく問いの意味を理解する意味において)。そうだとするなら問いの立て方が不適切です(「自分とは何か」あるいは『「自分とは何か」の自分とは何か』あるいは「自分はなぜ存在するのか」という問いでは意識の超難問について問いている、と理解するのは難しいです。「自我」「自分」「私」という言葉を混同して使われていますがこれも注意した方がよろしいかと。またお気づきだと思いますが、日本語の「なぜ」「何か」という問い方は実に非常に曖昧な表現です。幾通りもの視点があり幾通りもの回答ができるからです。「なぜ」と問う場合多くの場合「理由」「原因」を回答として期待しますが原因(前提)から結果(帰結)までを含めた「プロセス」「因果律」の回答から原因、結果に関する相関関係、確率関係や前提の真偽、原因も直接的な原因、間接的な原因、原因から結果に至までの関係する要素、パラメータ、関係性など多岐にわたります。「何か」という問いについても同様です。)

投稿: self-reference engine | 2016年3月24日 (木) 19時20分

「自分」とは何かを考えると、自然界で「自分」が存在するのは、私のつたない知識の中では動物だけで、その中でもある程度脳の機能が発達している動物でなければ、自他の明確な区別はつかないので(昆虫の場合でも、捕食者から身を守るすべはあるので、何がしかの「自分」というものが存在しないでもないかもしれないが)、もっと脳の発達した動物でなければ、今議論されている「自分」は存在しないとしても問題はない考えます。
それでは、もっと脳の発達した動物、鳥類や哺乳類は「自分」を持つか? この問いについては、人それぞれで見解を持つので、私が代弁すること避けます。また、人間に近い類人猿であれば、そこにはある種の自分が存在するというのは無理なことではないかもしれません。ただし、それが今議論されている自分という概念と同じか否かで、諸論者の主張の基礎が異なります。

ここでは議論分散を避けるため、人間特有の「自分」を、言語で思考するまでに発達した脳によってのみ認識されうる概念であると定義します。こうするとその固体の活動しているときにのみその脳に「自分」が存在します。つまり人間という固体が、生命維持の必然性から「外世界」と生体としての自分を分離して認識する、その認識方法が「自分」という概念を要請しているのではないかと考えます。

言い換えると人間は、自他の区別をより重要視する社会を形成するから脳が「自分」という概念を持つ つまり創造し、また、その脳が「自分」の存在意義をも求めるのではないでしょうか。そして「自分」を意識することにより、自然(社会も含む)の仕組みや不条理に思いを馳せ、宗教や科学、哲学が発展したのではないかと考えます。

現在の社会の良し悪しは分からないが、「自分」を強く意識しなくてもいい社会では、宗教も科学も哲学も必要は無いように思えます。これも哲学ですね。

人間特有の「自分」に限定しましたが、やはり他の「自分」について述べるのは蛇足ですね。

投稿: 孫空海 | 2016年7月27日 (水) 17時00分

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