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2006年6月 4日 (日)

教育と国歌斉唱の問題について

 先日のニュースで、都内の高校の元教諭が、卒業式での国歌斉唱に反対する行動を起こし、威力業務妨害で罰金刑を言い渡されたという事件が報道されていました。教育現場における、国旗掲揚、国歌斉唱の問題は、戦後六十年経っても解消されない(それどころか、だんだん尖鋭化して来ているようにも見える)、例のステレオタイプな対立軸の表れのひとつだと思います。特に東京都は、教職員に対する行政の圧力が強く(まあ、知事がああいう方ですから)、これに反撥する気風も強いのだと聞きます。それが時々、こうした一種神経症的な(?)事件となって爆発する。

 この事件の記事を読んで、まず自分の心が感じたものは憤りでした。正直に言います。それは事件を警察に通報した学校に対してでも、罰金刑の有罪判決を下した裁判所に対してでもなく、事件を起こした元教員その人に対しての憤りだったのです。もちろんこういう事件の背景には、一般論としては括れない文脈がある筈だし、それを知らない自分が新聞記事の字づらだけを見て腹を立てるなんてお門違いも甚だしい。だから批評的なことを書くつもりはまったく無いのですが、自分が何故このニュースに接して憤りを感じたのか、その点については自省しておかなければならないように思います。

 記事によれば、来賓として招かれていたこの元教員の方は、来場していた保護者らにビラを配り、国歌斉唱時の不起立を大声で訴え、校長らが退場を求めると「なんで追い出すんだよ」と毒づいて式の開始を遅らせたのだと言います。ここまでの派手なパフォーマンスになれば、またそこに裁判で実刑判決が出たとなれば、当然ニュースバリューは高い訳ですが、この手の事件はもっと目立たないけれども、広くどこの学校でも起こっている問題の氷山の一角に過ぎないとも言えます。国歌斉唱の際に、教師が不起立で懲戒処分を受けたというような話は、今では卒業式、入学式シーズンの風物詩のようでさえあるからです。もちろん個人の信条や信念の問題に、国家が介入すべきではないという議論はもっともです。しかし、国歌斉唱拒否の問題は多くの場合、教育の現場で起きています。これは私は常識的なことだと思うのですが、教師が生徒の目の前でとる行動は、本人の信念を貫きとおすことよりも(言い換えれば、本人の自己満足ということよりも)、まずは子供たちに対する影響という点で評価されなければならないのではないでしょうか。この点で君が代を歌うことを拒否する教師は、自分の信念に忠実である点では立派かも知れないが、教育のプロフェッショナルとしてはやはりどこか問題があるのではないか。

 そんなことはお前が実際の教育の現場を知らない傍観者だから言えることだ、そんなお叱りを受けることを覚悟で言います。現在の国や自治体の国旗、国歌強制は、明らかに度を過したものだと思うし、そのために行政が望んでいる愛国心の涵養という点でも逆効果なのではないかと思いますが、だからと言ってその対立の土俵に現場の教師が乗せられてしまうところが一番の問題なのではないでしょうか。テレビの国会中継での野次り合いを見ても、インターネット上に繰り広げられる批判や中傷の応酬を見ても、現代は成熟した大人の節度ある対話というものが実に得がたい時代になってしまったという印象があります。そんな大人を見ながら、今の子供たちは育っているのです。例えてみれば、いつも親の夫婦喧嘩を見ながら育っているようなものです。そうしたものが子供たちの心をどれほど傷つけているか、私たち大人はよくよく考えてみる必要があると思います。それとも、中学生や高校生くらいになれば、そろそろ大人を批判的な目で見られるようにもなるのだから、むしろそうした大人の世界の現実を隠さず見せた方がいいとでも言うのでしょうか。

 インターネットで、君が代強制反対の立場をとる方々の意見を読んでいると、その主張が感情的に流れて、論理的に首尾一貫していないような印象を受けます。憲法に思想の自由が謳われているのだから、国は日の丸や君が代を強制すべきではない、仮にそれが正しかったとしましょう。では、ある生徒が自分はこの学校の校歌に思想的な反撥を感じるので、校歌斉唱を拒否すると言ったらどうしますか? 自分はテストの点数によってヒエラルキーを決定される仕組みに思想的反撥を感じるので、試験を受けることを拒否すると言ったらどうしますか? さらには、義務教育というもの自体が従順な国民を再生産する全体主義の思想である、だから自分は登校を拒否するという生徒が現れたらどうするのですか? 考えてみれば当たり前のことですが、教育というものは本質的に〈強制〉を含むものだと思う。それをすべて否定しては、教育そのものが成り立たないと思います。誤解されたくないのですが、私は君が代斉唱には昔から心理的抵抗を感じて来た人間です(日の丸の方はそのシンプルなデザインが結構気に入っていたりします。軟弱ですね。苦笑)。しかし、これに反対するなら、思想信条の自由を持ち出しては駄目だと思う。むしろ〈君が代〉というものの持つ重い負の歴史や、その時代錯誤の歌詞内容に絞って、その一点に反対した方がいい。そこまで論点を絞れば、次にやるべきことも明確になります。

 それにしても、今回の裁判で控訴している、この元教諭という方は、どういった先生だったのでしょう。もしかしたらいま私が感想で述べたようなことは全部承知の上で、それでも断固として日の丸、君が代を拒否する信念の人だったのかも知れない。そんな先生なら、生徒にこんな話をしていたかも知れません、「さあ、今年もまた君が代で不起立かどうかを試される踏み絵の季節がやって来た。今年は都の教育委員会も断固たる態度で臨むと言って来ている。でも、先生は負けないぞ。もしもそのために先生が停職処分になったら、君たちにも迷惑をかけることになるが、どうかその点は赦して欲しい。そして馬鹿な先生だと嗤って欲しい。ただ、それでも先生がこの身をかけても守ろうとしたものがあったことだけは、どうか君たちにも分かって欲しい。」 もしも自分が高校生だったとしたら、こんな担任の先生がいたら、感激して心酔してしまったかも知れません。しかし、どうでしょう、今のもっとクールで賢い高校生たちが、そんな昔のテレビドラマみたいなセリフに心を動かされるものでしょうか?

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コメント

 現況について補足説明をしておきましょう。

 東京都教育委員会のみ突出しています。職員会議は会議ではなくなり、挙手も多数決も禁止になりました。校長は委員会の意思を伝えるだけの「機関」です。

 かつていた教頭という存在もなくなりました。副校長です。教頭という言葉は教師たちの代表を連想させるからです。

 ひのきみ問題に関しては、今度は生徒の起立斉唱を担任指導責任と位置付けました。

 これらの問題で最も深刻なことはふたつあります。

 ひとつは、学校現場で「論議」がなくなったことです。これは「知・智」からの逃走です。

 もうひとつは、先生の退職です。

 なにも物を言わない先生ばかり増えてきました。

投稿: lera | 2006年6月19日 (月) 15時41分

事実確認をしておきましょうか。
>来場していた保護者らにビラを配り
 ビラではなく大手週刊誌の記事のコピーです。
>国歌斉唱時の不起立を大声で訴え
 国歌斉唱時にはすでに会場にいませんでした。
>式の開始を遅らせたのだと言います。
 式は2分遅れとなっていて、連れ出した副校長が戻ってくる時間です。
 以上は公判で事実関係を争っていません。
 私たちはメディアのおもちゃになってはいけない、と思いますが…

>いつも親の夫婦喧嘩を見ながら育っているようなものです。
 という理由で「規律」を求めるのが教育委員会の方針です。「平穏な式」というのは教育委員会の方針に従うということで、国家権力の言いなりになるということです。その行為を批判はしません。

 少なくとも「子どもの権利条約」にある「意見表明権」を求めるべきだと思います。

 備考:私立学校はもっとスゴイ、とんでもないことになってるって知ってますか?

投稿: lera | 2006年6月21日 (水) 12時59分

leraさん、コメントありがとうございます。コメントバックが遅くなりすみません。

私は昭和三十年代前半に生まれた世代なのですが、自分の学校時代を思い返しても、君が代問題で学校が揺れていたという記憶が無いんです。当時はまだ学生運動で教育界が混乱していて、反体制的な気運も今より強かったと思います。が、私が通っていた中学や高校では、国旗国歌に反対するような運動は、少なくとも目に見えるかたちでは起こっていなかった。(たまたま例外的な学校にいたのかな? 認識が間違っていたらご指摘ください。)

職員会議での挙手や多数決の禁止というのは、太平楽な(?)私にとっても違和感を感じさせるニュースでした。なんだか学校が「スゴイ、とんでもないことになって」いるという感覚は持っています。(実は私にも子供がひとりいるのですが、晩婚だったせいもあってまだ就学年齢前なんです。それで現場感覚が希薄なんですね。) それは三十年前のような、体制派対反体制派、国家対市民といったような分かりやすい対立軸ではなくて、もっと個人の中に内攻した複雑で、すっきりしない対立関係のような気がします。

卒業式の国歌斉唱で、同僚や生徒の目を気にしながら、起立せずに脂汗をかいている先生がたのことを思うと、なんだか痛々しくて、気の毒になります。「そんなところで意地を張らなくてもいいのに。そこで意地を張るから、教育委員会側だって意地を張ることになるんだよ」そんなふうに言ってあげたい気がする(ここは反論を受けそうですね)。でも、少なくともこの問題を一種の<踏み絵>にしてしまったのが間違いだったのではないかとも思うんです。踏み絵というのは、踏んでも踏まなくても、踏まされる側が負けるように出来たゲームです。つまり、君が代反対は個人の自由ですが、それを表現するために<不起立>という戦略を採ってしまったところがまずかったのではないか。なんだか自縄自縛という気がするんですけど。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年6月23日 (金) 23時58分

 埼玉県はさらにがんばる。

 戸田市教育委員会はひのきみ問題で「来賓も調査する」とのこと。

 高橋秀樹議員(民主クラブ)が「放置すれば日本国家の崩壊につながりかねない」と発言し、伊藤良一教育長が「腹が煮え繰り返るほど怒っている」と呼応した。

 酒宴の席ではないよ、市議会での発言だよ。

 私は楽しみだよ。今後どうなっていくのか?歴史が自分で見られる。

 ちなみに、私は小学校から大学まで「ひのきみ」はありませんでした。そういう時代だったんでしょう。歌ったことは1回もない。

投稿: lera | 2006年6月30日 (金) 15時59分

 高校生のとき、<リベラル>かぶれの同級生が口コミでこんな運動をやってました:民主主義だって言うのに「君が代」って、おかしくないか?歌い出しの「き」を「た」に変えて歌おうぜ。
 誰にも気付かれない自己満足の抵抗運動ですが、不起立で悶着を起こすよりもよっぽどオトナの解決法です。裏返して見れば、悶着を起こす人たちには悶着を起こさねば居られない理由があるってことでしょう。くだらん悶着を。

投稿: たみがよ | 2006年7月 8日 (土) 13時06分

私も昭和30年初頭の生まれです。小学校の頃は国歌をごく自然に歌っていたような記憶がありますが、中学になると当時の日教組の方針もあってか、斉唱を拒否する先生たちもいることを知りました。生徒にも斉唱の強制はなかったので誰も歌っていなかったと思います。

しかし今の時代、子供たちの運動会などに出かけると、国旗掲揚時には生徒だけでなく父兄までもが起立して、硬い表情をでぼそぼそと歌わされる。ちなみに私は歌いませんが。私がそのとき感じるは違和感です。やはり強制するべきものではないと。先生が自分の信条を貫くことが出来た時代の方が、やはり良かったなと思います。

>ある生徒が自分はこの学校の校歌に思想的な反撥を感じるので、校歌斉唱を拒否すると言ったらどうしますか?

その生徒が真剣に校歌の意味を考えて反発するのなら、むしろ歓迎すべきことではないでしょうか。その考えに間違いありと教師が感じるなら、真摯に議論をすればいい。義務教育に真剣に疑問を感じて「俺はこう生きたい」と思う生徒がいるなら、むしろたくましく思う。

愛国心を否定するものでは決してありません。しかし、教育の現場では強制ではなく、自然に校歌や国歌を口ずさむようになることが大切だと思います。それでも歌いたくないという言う奴は自由にさせておけばいい。これが僕らの頃の教育だった。それでも今、ワールドカップなどで君が代を聞けば、こういう教育を受けた私でも感動します。日本人の誇りもひしひし感じます。それでいいんじゃないでしょうか? 「歌わないと叱られるから歌う」では、子供たちはあまりにも可哀想です。若いうちから本音と建前を器用に使い分けるこじんまりとした人間を作りだしていることになりませんか?

投稿: shimo | 2010年11月18日 (木) 22時55分

shimoさん、こんにちは。コメントをありがとうございます。

だいぶ昔に書いた記事で、自分でも久し振りに読み返してみたのですが、特に自分が書いた内容で訂正したいような点は見付かりませんでした。私と同年代で、同じようにどちらかと言えばリベラルであるように見えるshimoさんが、この文章の何に引っかかったのかよく分からないのです。もしかして「教育というものは本質的に〈強制〉を含む」という言い方に反撥を感じられたのでしょうか? 「義務教育に真剣に疑問を感じて「俺はこう生きたい」と思う生徒がいるなら、むしろたくましく思う」というのは、大人が口にする一般論としては気持ちが分からなくもありませんが、教育の現場では通用しない考え方だと思います。少なくとも、義務教育に携わっている教師の立場で、義務教育に真剣に疑問を感じている生徒をたのもしく感じていたのでは、教育そのものが成立しない気がするのですが。

投稿: Like_an_Arrow | 2010年11月21日 (日) 02時39分

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