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2006年6月18日 (日)

頭の中の小さな宝石

 オーストラリアにグレッグ・イーガンというSF作家がいます。若い頃にヴォークトやアシモフの作品でSFというジャンルに魅入られ、スタニスワフ・レムによってSFが持つ文学性や哲学性に開眼させられたと思っていた自分ですが、最近はあまり新しい作家の作品に接する機会がなくなってしまいました(そもそも小説というものを読まなくなった)。グレッグ・イーガンを読んだのも、だからほんとに偶然だったのです。久し振りに小説を読んで興奮しました。ひとつには作品のアイデアがびっくりするほど斬新で、しかも最新の(たぶん)科学的知見を見事にプロットに織り込んでリアリティーを実現しているという点もあるのですが、何よりも扱っている主要なテーマが私にとっても一番興味のある自己同一性の問題なのです。そうか、このアイデアはこんな料理の仕方もあったのか? そうだよ、自分もSF作家になって、こういう作品を書きたかったんだ! 今回はイーガンの短編のひとつ、『ぼくになることを』(原題“Learning to be Me”)を題材にして、前回書いた「自分とは何か?」の問題をもう一度考えてみます。

 ストーリーを簡単に紹介します(オチは伏せてありますからご心配なく)。と言っても、30頁にも満たない短編には、ストーリーというほどのものもなくて、アイデアがすべてなのですが。時は(たぶん)はるか未来、所は(たぶん)この地球上のどこか、その時代には誰もが幼い頃に頭の中に小さな宝石のような機械を埋め込まれることが当たり前になっていた、というところから話は始まります。この宝石は、子供の脳の活動と完全に同期を取っていて、子供が成長するのに合わせて自分も成長して行き、いわば本人のコピーになることを学んでいるのです。神経経路は完全に多重化されていて、生身の脳に入る信号はすべて宝石側でも傍受可能になっている。それだけでなく、この宝石にはコントローラーが付いていて、宝石から出される信号の方も厳密にモニターされているのです。もしも宝石が生きている脳と食い違った信号を発信した場合には、1マイクロ秒ごとに補正を受ける。こうして宝石は、完璧に〈本体〉と同じ思考法、感受性を身に付けて行く。その精度の高さは、例えば〈本体〉が腕を上げれば、それは宝石が指令したことではないにも関わらず、宝石自身にとってみればあたかも自分の意志で腕を上げたかのように思える、それほど完璧な模倣なのです。(ここの設定はちょっと苦しいかも知れない?) 

 それにしても何のためにそんな技術が開発されなければならなかったのか? それは要するにバックアップのためです。現在でも、進歩した医療技術は人間の身体の損傷した部分を取り換えたり、衰えた部分の機能を補ったりすることを当たり前に行なっています(臓器移植から眼鏡、補聴器に至るまで)。しかし、現在も、また将来もおそらく、交換不可能と思われるものは脳です。もしも人間の脳が交換可能なら、我々はいかなる病気や不慮の事故に遭っても、そこで即死する心配は無くなる。もちろん新品の人工頭脳を埋め込まれたのでは、それは〈自分〉ではない別人でしかありません。だから子供の頃から、宝石にはたゆまなく本人を模倣する長い訓練を積ませるのです。今でもそれに似たような話はありますよね。コンピュータの世界では、重要なシステムはCPU(中央演算装置)やデータを二重化して、たとえメインのシステムが何かしらの原因でダウンしても、まったく同じ性能を持ったバックアップ・システムがただちに処理を引き継ぐ仕組みが一般的になっていますが、アイデアとしては同じです。

 こういうシチュエーションを読者に納得させてしまえば、あとはどんな魅力的なストーリーを思い付こうが、それは作者の自由です。例えばある日、宝石が突然身体を乗っ取り、生身の人間は自分の身体に対するコントロールを失う。しかもそれが地球規模で同時に起こり、生きた人間の脳と宝石のあいだですさまじい戦争(電子化された戦争)が起こる。いかにも最近のSF小説にありそうなプロットです。しかし、イーガンがここで描く状況は、もっとずっと地味だけれども、もっとずっと恐ろしいものです。つまり、この時代には、誰もが自分の意志で、しかるべき時を選んで生身の脳から宝石に〈スイッチ〉するのが習慣になっているというのです。何故わざわざそんな選択を? もちろんそれは人が永遠の生を得るためです。いくら技術が進歩した時代でも、生身の脳が生きられる時間は百年かそこいら、ところが宝石の方は衰えた身体を交換しながら、人類が存続する限り永遠に生き続けられるのです。小説の表現を引用すれば、「これで少なくとも理論上、ぼくはビッグクランチの観覧席も、宇宙の熱死への参加権も保証されたことになる。」

 いや、待ってくれ、そんなふうにして永遠の生を獲得したとしても、生き続けるのは宝石の方なんだろう? スイッチしたあとは生身の脳は処分され、代りに綿のようなものが頭蓋に詰め込まれるんだって? 冗談じゃない、そんな取り引きには絶対に乗らないぞ。常識的な判断力はそう反論すると思います。小説の主人公も同じように考え、この時代の人間としては珍しく〈スイッチ〉に抵抗を示すのです。しかし、ここでよく考えてみましょう。生きている脳と宝石が同じ肉体の中に同居していた時、我々は自分の方がオリジナルだと主張する根拠は何もないのです。宝石の方も同じように考え、〈スイッチ〉を恐れている筈です。いや、問題はどちらが生き残るかというロシアン・ルーレットのような話ではない、どちらか一方しか生き残れないとすれば、永遠に減耗することのない宝石の方が生き残るべきだし、今こうして悩んでいる自分が、実は宝石なのだという二分の一の可能性に賭ける方が理に適っているではないか。いや、手術の際に麻酔で眠らされ、生身の脳は何の苦痛も無く除去されるのであれば、賭けに負ける自分というものも実はどこにもいないのだ。麻酔から覚めれば、今こうして考えている自分が不死身の存在として確定しているだけのことである。まるでそれまでの並行ランの期間が、本当の自分を誕生させるための準備期間であったかのように。

 どうでしょう。まったく眩暈を起こさせるような話です。しかもこれが荒唐無稽なSF小説の中だけの話ではなく、実は現在の我々の生も本質的には同じ状況にあるのだ、そこまで考えを推し進めれば、これはひとつの哲学的思想と言ってもいいような気がします。もしもまったく苦しまず、自分が死んだことにも気付かないくらいすみやかに死に移行出来るなら、そして家族にも見分けがつかないくらい精巧なコピーが、自分の仕事や将来の計画や家族に対する義務を果して行ってくれるなら(もちろんコピー本人も自分がコピーだと気付かない前提で)、死というのもそんなに悪いものではないような気がする。仮に現在の自分が不治の病の宣告を受けて、家族にも言い出せない状況にあったと仮定しましょう。そんな選択肢があったら、魅力的に感じない人がいるだろうか? こう考えると、かけがえがないと思っている現在の〈生〉が、また違った光のもとに照らし出される気もします。

 グレッグ・イーガンの短編には、読者の常識をくつがえし、深い哲学的思考に誘わずにはいないようなアイデアがたくさん詰まっています。毎朝目覚めると、一貫した記憶を引き継いだまま別の肉体に乗り移っている主人公を描いた『貸金庫』、腫瘍に冒された脳にニューロンの働きを模倣する物質を注入される『しあわせの理由』、生きている脳から人工脳に人格がコピーされる際に見る悪夢の恐怖を描いた『移相夢』。もとは同じテーマがこれでもかというくらいリアリティーをもって読者に迫って来ます。まったくアイデアは無尽蔵。若いころ作家になりたくて、SF小説を書いてみようとしたこともある自分には、こういった才能はうらやましい限りです。私も出来ればイーガンのような作家になりたかった。だが、待てよ、私が生まれた時からずっと同じ私であったという保証が無いなら、実はこれらの小説を書いていた時のイーガンが、本当は私だったという仮説も否定出来ないのではないか? そう言えば、なんだかこの小説には、他人が書いたとは思えない懐かしさがあるぞ。あれ? もしかして私が? グレッグ・イーガン?

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