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2006年6月26日 (月)

サッカー・ナショナリズム

 類は友を呼ぶというのでしょうか、私の友人連中のあいだには、競馬の宝塚記念には並々ならぬ興味を持っていた人が多いのですが、ワールドカップに関心を持っていた人はほとんどいませんでした。このあいだまでワールド・ベースボール・クラシックとかで、世間が騒がしかったと思ったら、今度はワールドカップ。知り合いの中には、日本中がこういったナショナリズムの喧騒に巻き込まれるのは耐え難いと公言する人もいて、この時期、われらリベラリスト達は、とても居心地の悪い思いをしながら毎日を送っていたのです。(そのくせ、凱旋門賞ではディープインパクトを熱烈に応援するに違いないのですが。笑)

 若い頃から自身が運動オンチだったということもあって、サッカーに限らず、私はスポーツというものに特別な思い入れを持ったことがありません。ところが、今年のワールドカップでは、ひょんなことから応援したい国が現れたのです。大会が始まる前に、テレビでアンゴラのキャプテン、アクワ選手を紹介するドキュメンタリーを見たのです。アフリカ南部の小国アンゴラは、三十年に及ぶ内戦がやっと終結して、いままさに国の再建が始まったばかりなのだそうです。アクワ選手は、そんな新生アンゴラの国民的英雄なのです。もちろん、日本やヨーロッパの選手のように、子供の頃から英才教育を受けた訳ではない。28歳の彼自身、子供の頃から民族の内戦を目の当たりにして育ち、かつてのサッカー仲間の中には、戦いで傷ついてサッカーを諦めざるを得なかった友人もいた。アフリカの強敵ナイジェリアを奇跡的に撃破して、アフリカ代表の権利を勝ち取ったアンゴラ・チームは、まさにこれからの国作りを象徴する希望の星だったのです。

 ところが、せっかくサッカーに興味を持って、応援しようと思ったチームが現れたのに、アンゴラ戦なんてテレビで放映もされない。新聞で結果だけを確認するのですが、予選リーグ1敗2引き分けで敗退してしまいました。それでもゴールは1回決まりましたし、負けた試合も1点差だったところを見れば、非常に善戦したことが窺われます。きっとアンゴラの人たちも、帰国した選手たちを温かい拍手で迎えたに違いないと思います。日本はマスコミがあんまり騒ぎ立てて、期待を煽り過ぎるものだから、選手たちも過度のプレッシャーの中で戦わざるを得なかったでしょうし、ファンも帰国する選手団に無条件で拍手を送ることが出来なかったのではないでしょうか。これは不健全なことだと感じました。

 この10年で、日本のプロ・サッカーのレベルもずいぶん向上したのだろうと思いますが、おそらくそれ以上に向上したのは、応援する人たちの(サッカーでは応援団のことをサポーターって言うんでしたね)意識ではないかと思います。前回の大会の時だったか、前々回だったか、日本のサポーターたちが負けた試合のあと、みんなで黙々と会場のゴミの片付けをしていたというニュースを聞いて、当の試合の結果よりもそちらの方に感激した記憶があります(もともと感激屋なのです)。一部の国では、サッカー自体のレベルでは一流なのに、試合中は相手チームのファイン・プレイにブーイングを出したり、サポーターはすぐに暴徒化(フーリガンって言うんでしたっけ?)したりする国もあるというのに、日本人は、サポーターのレベルとしては世界最高なのではないか。日本選手は、そういうサポーターを持てたことを誇りに感じていいと思います。

 自分のようなリベラルな(つまり左寄りの?)人間は、ナショナリズムと言えば、何でもかんでも目の敵にする傾向がありますが、私はナショナリズムにも二通りあるのではないかと思うようになりました。ベルクソン流に言うなら、おそらく閉じたナショナリズムと開かれたナショナリズムというものがあるのだと思います。試合に負けたら、相手国のサポーターと暴力沙汰の喧嘩を起こすのが閉じたナショナリズム、試合中は熱烈に自国を応援するが、相手チームの健闘にも惜しみない拍手を送り、試合後には会場のゴミ拾いまでするのが開かれたナショナリズム。ベルクソンの言う閉じた道徳と開いた道徳が、程度の差ではなく本質の差であったように、この両者は本質的な違いを内包するものだと感じます。

 負け試合で会場のゴミ拾いをしていたサポーターたちの心をおもんぱかるに、そこには屈折した負け惜しみのような感情はほとんど無かったのではないかと思います。選手たちもベストを尽くした、自分たちもやるだけのことはやった、それでも適わなかった相手チームの実力と強運には惜しみない拍手を送ろう。見回せば、周りのサポーターたちも一種すがすがしい表情をして拍手をしている。泣いている人もいるけど、それは口惜し涙ばかりではない。そこで味わった連帯感や達成感は、試合に勝った側のサポーターの味わう勝利の陶酔にも負けないものであるかも知れません。ナショナリズムを批判するのは容易なことです、しかし、私たちは誰もエスペラント語を話すコスモポリタンとして生まれて来る訳ではないし、まずは自分の生まれた国を好きになるところから始めなければ、何も始まらない気がするのです。

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2006年6月18日 (日)

頭の中の小さな宝石

 オーストラリアにグレッグ・イーガンというSF作家がいます。若い頃にヴォークトやアシモフの作品でSFというジャンルに魅入られ、スタニスワフ・レムによってSFが持つ文学性や哲学性に開眼させられたと思っていた自分ですが、最近はあまり新しい作家の作品に接する機会がなくなってしまいました(そもそも小説というものを読まなくなった)。グレッグ・イーガンを読んだのも、だからほんとに偶然だったのです。久し振りに小説を読んで興奮しました。ひとつには作品のアイデアがびっくりするほど斬新で、しかも最新の(たぶん)科学的知見を見事にプロットに織り込んでリアリティーを実現しているという点もあるのですが、何よりも扱っている主要なテーマが私にとっても一番興味のある自己同一性の問題なのです。そうか、このアイデアはこんな料理の仕方もあったのか? そうだよ、自分もSF作家になって、こういう作品を書きたかったんだ! 今回はイーガンの短編のひとつ、『ぼくになることを』(原題“Learning to be Me”)を題材にして、前回書いた「自分とは何か?」の問題をもう一度考えてみます。

 ストーリーを簡単に紹介します(オチは伏せてありますからご心配なく)。と言っても、30頁にも満たない短編には、ストーリーというほどのものもなくて、アイデアがすべてなのですが。時は(たぶん)はるか未来、所は(たぶん)この地球上のどこか、その時代には誰もが幼い頃に頭の中に小さな宝石のような機械を埋め込まれることが当たり前になっていた、というところから話は始まります。この宝石は、子供の脳の活動と完全に同期を取っていて、子供が成長するのに合わせて自分も成長して行き、いわば本人のコピーになることを学んでいるのです。神経経路は完全に多重化されていて、生身の脳に入る信号はすべて宝石側でも傍受可能になっている。それだけでなく、この宝石にはコントローラーが付いていて、宝石から出される信号の方も厳密にモニターされているのです。もしも宝石が生きている脳と食い違った信号を発信した場合には、1マイクロ秒ごとに補正を受ける。こうして宝石は、完璧に〈本体〉と同じ思考法、感受性を身に付けて行く。その精度の高さは、例えば〈本体〉が腕を上げれば、それは宝石が指令したことではないにも関わらず、宝石自身にとってみればあたかも自分の意志で腕を上げたかのように思える、それほど完璧な模倣なのです。(ここの設定はちょっと苦しいかも知れない?) 

 それにしても何のためにそんな技術が開発されなければならなかったのか? それは要するにバックアップのためです。現在でも、進歩した医療技術は人間の身体の損傷した部分を取り換えたり、衰えた部分の機能を補ったりすることを当たり前に行なっています(臓器移植から眼鏡、補聴器に至るまで)。しかし、現在も、また将来もおそらく、交換不可能と思われるものは脳です。もしも人間の脳が交換可能なら、我々はいかなる病気や不慮の事故に遭っても、そこで即死する心配は無くなる。もちろん新品の人工頭脳を埋め込まれたのでは、それは〈自分〉ではない別人でしかありません。だから子供の頃から、宝石にはたゆまなく本人を模倣する長い訓練を積ませるのです。今でもそれに似たような話はありますよね。コンピュータの世界では、重要なシステムはCPU(中央演算装置)やデータを二重化して、たとえメインのシステムが何かしらの原因でダウンしても、まったく同じ性能を持ったバックアップ・システムがただちに処理を引き継ぐ仕組みが一般的になっていますが、アイデアとしては同じです。

 こういうシチュエーションを読者に納得させてしまえば、あとはどんな魅力的なストーリーを思い付こうが、それは作者の自由です。例えばある日、宝石が突然身体を乗っ取り、生身の人間は自分の身体に対するコントロールを失う。しかもそれが地球規模で同時に起こり、生きた人間の脳と宝石のあいだですさまじい戦争(電子化された戦争)が起こる。いかにも最近のSF小説にありそうなプロットです。しかし、イーガンがここで描く状況は、もっとずっと地味だけれども、もっとずっと恐ろしいものです。つまり、この時代には、誰もが自分の意志で、しかるべき時を選んで生身の脳から宝石に〈スイッチ〉するのが習慣になっているというのです。何故わざわざそんな選択を? もちろんそれは人が永遠の生を得るためです。いくら技術が進歩した時代でも、生身の脳が生きられる時間は百年かそこいら、ところが宝石の方は衰えた身体を交換しながら、人類が存続する限り永遠に生き続けられるのです。小説の表現を引用すれば、「これで少なくとも理論上、ぼくはビッグクランチの観覧席も、宇宙の熱死への参加権も保証されたことになる。」

 いや、待ってくれ、そんなふうにして永遠の生を獲得したとしても、生き続けるのは宝石の方なんだろう? スイッチしたあとは生身の脳は処分され、代りに綿のようなものが頭蓋に詰め込まれるんだって? 冗談じゃない、そんな取り引きには絶対に乗らないぞ。常識的な判断力はそう反論すると思います。小説の主人公も同じように考え、この時代の人間としては珍しく〈スイッチ〉に抵抗を示すのです。しかし、ここでよく考えてみましょう。生きている脳と宝石が同じ肉体の中に同居していた時、我々は自分の方がオリジナルだと主張する根拠は何もないのです。宝石の方も同じように考え、〈スイッチ〉を恐れている筈です。いや、問題はどちらが生き残るかというロシアン・ルーレットのような話ではない、どちらか一方しか生き残れないとすれば、永遠に減耗することのない宝石の方が生き残るべきだし、今こうして悩んでいる自分が、実は宝石なのだという二分の一の可能性に賭ける方が理に適っているではないか。いや、手術の際に麻酔で眠らされ、生身の脳は何の苦痛も無く除去されるのであれば、賭けに負ける自分というものも実はどこにもいないのだ。麻酔から覚めれば、今こうして考えている自分が不死身の存在として確定しているだけのことである。まるでそれまでの並行ランの期間が、本当の自分を誕生させるための準備期間であったかのように。

 どうでしょう。まったく眩暈を起こさせるような話です。しかもこれが荒唐無稽なSF小説の中だけの話ではなく、実は現在の我々の生も本質的には同じ状況にあるのだ、そこまで考えを推し進めれば、これはひとつの哲学的思想と言ってもいいような気がします。もしもまったく苦しまず、自分が死んだことにも気付かないくらいすみやかに死に移行出来るなら、そして家族にも見分けがつかないくらい精巧なコピーが、自分の仕事や将来の計画や家族に対する義務を果して行ってくれるなら(もちろんコピー本人も自分がコピーだと気付かない前提で)、死というのもそんなに悪いものではないような気がする。仮に現在の自分が不治の病の宣告を受けて、家族にも言い出せない状況にあったと仮定しましょう。そんな選択肢があったら、魅力的に感じない人がいるだろうか? こう考えると、かけがえがないと思っている現在の〈生〉が、また違った光のもとに照らし出される気もします。

 グレッグ・イーガンの短編には、読者の常識をくつがえし、深い哲学的思考に誘わずにはいないようなアイデアがたくさん詰まっています。毎朝目覚めると、一貫した記憶を引き継いだまま別の肉体に乗り移っている主人公を描いた『貸金庫』、腫瘍に冒された脳にニューロンの働きを模倣する物質を注入される『しあわせの理由』、生きている脳から人工脳に人格がコピーされる際に見る悪夢の恐怖を描いた『移相夢』。もとは同じテーマがこれでもかというくらいリアリティーをもって読者に迫って来ます。まったくアイデアは無尽蔵。若いころ作家になりたくて、SF小説を書いてみようとしたこともある自分には、こういった才能はうらやましい限りです。私も出来ればイーガンのような作家になりたかった。だが、待てよ、私が生まれた時からずっと同じ私であったという保証が無いなら、実はこれらの小説を書いていた時のイーガンが、本当は私だったという仮説も否定出来ないのではないか? そう言えば、なんだかこの小説には、他人が書いたとは思えない懐かしさがあるぞ。あれ? もしかして私が? グレッグ・イーガン?

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2006年6月13日 (火)

「自分とは何か」の自分とは何か?

 ここ何回か政治的な話題が続きましたので、気分を変えて本来の哲学的テーマに戻りたいと思います。と言っても、私にとって重要な哲学のテーマは実はひとつしかなくて、それはすでに手垢にまみれてしまっている古くさい問題、つまり「自分とは何か?」というあの問題なんです。これの何が難しいかって、いったいどういう解答が出されればこの問題が解けたことになるのか分からない、いや、そもそもこれがまともな哲学的問いなのかどうかさえはっきりしない、いや、別に哲学的と限定しなくてもいいのですが、要するにこれが論理的あるいは実証的に正解を与えられるような問題だとは思えないというところに根本的な難しさがあるのです。もうずいぶん昔に読みかじった知識ですが、二十世紀前半に現れた分析哲学だとか論理実証主義と呼ばれる哲学者の一派は、哲学という学問が長い歴史を持ちながら、数学や自然科学のような進歩を遂げられず、いつも同じ問いのまわりで堂々巡りを繰り返しているのは、要するに問いの出し方に誤りがあったからだと主張しました。自分とは何か、などというのはその最たるものです。それは天才ウィトゲンシュタインが放った有名な言葉で、とどめを刺されてしまった類の問いです。「人は語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」

 しかし、分析哲学派や現代の知的に洗練された哲学者たちが何と言おうと、人がこの問いを発することがなくなることは、人類が続く限り無いと思います。たとえ答えの無い問いと分かっていても、論理的に考えれば意味の無い設問だと分かっていても、心の底からじくじくとこの問いかけが湧き起こって来るのを、人はとどめることが出来ない。それはその時代や社会の環境に応じて、いろいろ形を変えて現れて来る問いかけのようにも思えます。ひところ、〈本当の自分〉だとか〈自分探しの旅〉といった惹句がもてはやされたことがあって、それが若い人の生き方にまで影響を与えていた時期がありました(一部では今も与え続けているかも知れません)。その反動でしょうか、最近はこういったコトバもあまり見かけなくなった気がします。むしろどこにも存在する筈のない〈本当の自分〉などという幻想を現代のコマーシャリズムが喧伝するから、若い人がいつまでも〈自分探しの旅〉から卒業出来ず、定職にも就けないニートやひきこもりなどといったモラトリアム層を生み出すことになるのだ、そんな論調に出会うことの方が多いような気がします。

 私自身、心理学で言うところのセルフ・アイデンティティの確立にはずいぶん手間取ってしまった人間なので(いまだに手間取っているかも知れない?)、どこかにある筈の本当の自分という観念にはずいぶん悩まされました。たぶん若い頃に作家志望の文学青年だった人間なんて、みんなそんなものだろうと思います。いまここにいる現実の自分と、本来あるべき自分とのあいだに、あまりに大きな隔たりがあるものだから、常に自己不全感というか、現実からの疎外感がつきまとう。さらにこの百年余りのあいだ、世界の著名な文学者たちはこうした社会から孤立した青年像を好んで描き、一種病的な青春文学の傑作を数多く輩出しましたから、こうした若年期の心のあり方はひとつのファッションとしてのステータスを獲得してしまった。現代ではこのセルフ・アイデンティティの混乱というものが、いわば青年が大人になるための避けられない通過儀礼のようにさえなっている印象があります。食うに困らない豊かな時代の、一種の贅沢病だと言われればその通りだという気もしますが。

 しかし私は、自我の問題をこのような現代という時代の病理として捉える見方や、あるいは〈自我の形成〉といった発達心理学上のテーマとして捉える見方には、どうしても抵抗を感じるのです。私が考える〈自我〉とは、赤ん坊が成長する過程で芽生えて来るものでもなければ、青年が大人になる過程で確立されるべきものでもない、それはもっと根源的で絶対的なひとつの〈実在物〉なのです。と、こう書けば、もう現代哲学の専門家からは嗤われてしまうかも知れない。そもそも〈実在〉などという言葉が多義的で曖昧な、形而上学的概念ではないかと。でも、私はウィトゲンシュタイン先生には叱られるでしょうが、たとえば次のような問いは、純然たる正しい哲学的設問だと思う。「もしも自分を生み出すもとになった母親の卵子に、父親の別の精子が受精していたら、その時に生まれたのは自分だったろうか、それとも別の誰かだったろうか?」。(これは以前、mori夫さんが提起されていた疑問ですが、私も同じ問題を十代の頃から考えていました。たぶん巷間の素人哲学者が陥りやすい問題なのでしょう。笑)

 考えてみましょう、これがもしも同じ両親から生まれた子供でも、自分が誕生したのとは別の時期に、つまり別の卵子と精子が結び付いて出来た子供だったなら、そこで生まれたのは自分ではなかったというのは常識的に正しい言い方だと思います。要するにそれは自分にとっての兄弟姉妹が自分とは別の人間であるのと同じことですから。しかし、自分を生み出すもとになったその時に排卵された卵子はたった一個だったとしても、それと受精する可能性のあった精子は、何億、何十億とあった筈です。我々はその何十億倍の倍率を勝ち抜いて生まれて来たチャンピオンなのだろうか? もしもそう考える人がいるなら、その人は人間の〈魂〉というものは父親由来の精子から来たものだと考えていることになる。逆に母親の卵子にすでに魂が〈宿って〉いたと考えるなら、父親の精子は単にそれを胚として発現させるきっかけに過ぎなかったということになるかも知れない。そう考えるなら、もしも自分を生み出すもとになった母親の卵子に、父親の別の精子が受精したとしても、その時に生まれたのは、(多少容姿や素質に違いはあったにせよ)現在と同じこの自分であったということになる。さあ、正解はどちらでしょうか? それともそのどちらでもない第三の正解というものがあるのでしょうか?

 だからさあ、そんなふうに実体としての自我なんて考え方をするから矛盾が出て来るんだよ、そんなふうに反論するもうひとりの自分がいます。だって考えてもみなよ、同じ精子と卵子が結び付いても、それがたまたま初期の分裂の段階でふたつの胚に分かれ、一卵性双生児となって生まれて来る子供もいるんじゃないか。その場合には君の言う〈魂〉がふたつに分割されたとでも言うのかい? だが、君の考える魂だとか自我だとかいうものは、分割されることも統合されることもない〈唯一絶対の実在物〉なんだろう? ほら、もう矛盾してるじゃないか。いいかい、もしも君が生まれるもとになった卵子に別の精子が受精していたら、少なくとも現在存在するままの君は存在していなかった。ということは、その〈誰か〉が今の君だったか、別の誰かだったかという質問自体が成り立たんじゃないか、違うかい?

 なるほど。別に難しい分析哲学の方法論に頼らなくても(笑)、自我の実体性を論駁するのは容易なことのようです。けれども、こうした思考実験を通して我々が感じる、自分自身が存在していることの不思議さという意識は、こういう論理的な反論によって静まるようなものでもないと思います。何故かと言うと、自分が存在することを不思議だと感じる心は、それ自体何かを主張している思想というようなものではないからです。自我の実体性などという言葉を使えば、それはいわゆる唯物論的な世界観に対抗するひとつの主張のようにも見えます。しかし、それでは例えば、自我というものが一種の霊的な実体で、現在の自分が生まれるまでに何度も輪廻転生を繰り返しながら現在に至っているというスピリチュアリズムの考え方を受け入れるならば、自己の存在は不思議なものではなくなるのだろうか? そんなことはないと思います。そうやって輪廻転生を繰り返している霊的な実体が、何故他の誰でもない、この自分なのかという問題はやはり残る。何も解決していません。この問題は(というよりも、実存主義哲学が言うところのこの根源的な不安は?)、唯物論と観念論の対立などという地平よりも、もっとずっと深いところから湧き起こって来るものだと思う。

 何かの本で読んだ記憶があるのですが、生きている人間の身体は常に細胞レベルでの新陳代謝を繰り返していて、およそ数ヶ月でほぼすべての分子的組成が入れ替わってしまうそうです(それとも数年だったかな?)。同じように人間の精神も常に変化しているので、生まれてから死ぬまで一貫した常住不変の自己なるものが、心の真ん中に鎮座ましましている訳ではない、一年前のあなたは明らかに現在のあなたとは別人なのだ、そんなふうな言い方も最近はよく目にする気がする。こういうものの考え方は、いかにもスマートで現代風だと感じます。またそれは古来から日本人が育んで来た〈無常といふもの〉に対する感性にもしっくり来るのかも知れませんし、あまりに肥大化してしまった西洋的な近代的自我というものから距離を置くためにも有効な思考法であるかも知れない。が、それでもやはり私は主張したいのですが、そんな言い方は単なる喩え話に過ぎないと思う。もしもそれが喩え話ではないと言うなら、すべての犯罪者は数ヶ月で時効になって無罪にされるべきですし、貸した金は数ヶ月以内に取り立てないと、踏み倒されても文句は言えない。なにしろ数ヶ月経てば、人は別人になるのだから。自我の実体性というものが、現実的な存在感(?)をアピールするようになるのは、このように一種の倫理的な文脈の中にそれを置いた時です。つまり、明らかに自我というものは、実体を持ったものなのだが、それは心理学的、生物学的、物理学的、あるいは霊的な実体物という意味ではなく、倫理的な実体物なのである。

 いや、しかし、今回の記事ではそんな論圧の高い(?)主張をするつもりじゃなかったんです。(私が〈倫理〉を語り出すと、こいつは危険信号です。笑) ただそれでもやっぱり考えてしまうんですよ、もしも自分が生まれた瞬間、もしも母親の卵子に父親の別の精子が受精していたら、その時に生まれたのは、やはりこの自分だったのだろうか、それとも別の誰かだったのだろうか? ひょっとして半分だけ自分だった? まさかね。どうです、ねえ、不思議じゃありませんか?

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2006年6月 8日 (木)

死刑制度に関する論考

 いつものように残業を終えて、家で遅い夕飯を食べていたら、テレビのニュースで、今日6月8日はあの事件から丸5年に当たると報じていました。そう、大阪の池田小学校の事件のことです。もう5年も経ったのですね。この忘れられない日に、死刑制度に反対する文章を投稿することを思いつきました。別に皮肉なつもりはありません、だいぶ以前に書いて、出し惜しみしていたものです。長い文章なので、2回に分けて連載します。今日はその第1回目。例によってご意見、ご感想はこちらのブログにお願いします。

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2006年6月 4日 (日)

教育と国歌斉唱の問題について

 先日のニュースで、都内の高校の元教諭が、卒業式での国歌斉唱に反対する行動を起こし、威力業務妨害で罰金刑を言い渡されたという事件が報道されていました。教育現場における、国旗掲揚、国歌斉唱の問題は、戦後六十年経っても解消されない(それどころか、だんだん尖鋭化して来ているようにも見える)、例のステレオタイプな対立軸の表れのひとつだと思います。特に東京都は、教職員に対する行政の圧力が強く(まあ、知事がああいう方ですから)、これに反撥する気風も強いのだと聞きます。それが時々、こうした一種神経症的な(?)事件となって爆発する。

 この事件の記事を読んで、まず自分の心が感じたものは憤りでした。正直に言います。それは事件を警察に通報した学校に対してでも、罰金刑の有罪判決を下した裁判所に対してでもなく、事件を起こした元教員その人に対しての憤りだったのです。もちろんこういう事件の背景には、一般論としては括れない文脈がある筈だし、それを知らない自分が新聞記事の字づらだけを見て腹を立てるなんてお門違いも甚だしい。だから批評的なことを書くつもりはまったく無いのですが、自分が何故このニュースに接して憤りを感じたのか、その点については自省しておかなければならないように思います。

 記事によれば、来賓として招かれていたこの元教員の方は、来場していた保護者らにビラを配り、国歌斉唱時の不起立を大声で訴え、校長らが退場を求めると「なんで追い出すんだよ」と毒づいて式の開始を遅らせたのだと言います。ここまでの派手なパフォーマンスになれば、またそこに裁判で実刑判決が出たとなれば、当然ニュースバリューは高い訳ですが、この手の事件はもっと目立たないけれども、広くどこの学校でも起こっている問題の氷山の一角に過ぎないとも言えます。国歌斉唱の際に、教師が不起立で懲戒処分を受けたというような話は、今では卒業式、入学式シーズンの風物詩のようでさえあるからです。もちろん個人の信条や信念の問題に、国家が介入すべきではないという議論はもっともです。しかし、国歌斉唱拒否の問題は多くの場合、教育の現場で起きています。これは私は常識的なことだと思うのですが、教師が生徒の目の前でとる行動は、本人の信念を貫きとおすことよりも(言い換えれば、本人の自己満足ということよりも)、まずは子供たちに対する影響という点で評価されなければならないのではないでしょうか。この点で君が代を歌うことを拒否する教師は、自分の信念に忠実である点では立派かも知れないが、教育のプロフェッショナルとしてはやはりどこか問題があるのではないか。

 そんなことはお前が実際の教育の現場を知らない傍観者だから言えることだ、そんなお叱りを受けることを覚悟で言います。現在の国や自治体の国旗、国歌強制は、明らかに度を過したものだと思うし、そのために行政が望んでいる愛国心の涵養という点でも逆効果なのではないかと思いますが、だからと言ってその対立の土俵に現場の教師が乗せられてしまうところが一番の問題なのではないでしょうか。テレビの国会中継での野次り合いを見ても、インターネット上に繰り広げられる批判や中傷の応酬を見ても、現代は成熟した大人の節度ある対話というものが実に得がたい時代になってしまったという印象があります。そんな大人を見ながら、今の子供たちは育っているのです。例えてみれば、いつも親の夫婦喧嘩を見ながら育っているようなものです。そうしたものが子供たちの心をどれほど傷つけているか、私たち大人はよくよく考えてみる必要があると思います。それとも、中学生や高校生くらいになれば、そろそろ大人を批判的な目で見られるようにもなるのだから、むしろそうした大人の世界の現実を隠さず見せた方がいいとでも言うのでしょうか。

 インターネットで、君が代強制反対の立場をとる方々の意見を読んでいると、その主張が感情的に流れて、論理的に首尾一貫していないような印象を受けます。憲法に思想の自由が謳われているのだから、国は日の丸や君が代を強制すべきではない、仮にそれが正しかったとしましょう。では、ある生徒が自分はこの学校の校歌に思想的な反撥を感じるので、校歌斉唱を拒否すると言ったらどうしますか? 自分はテストの点数によってヒエラルキーを決定される仕組みに思想的反撥を感じるので、試験を受けることを拒否すると言ったらどうしますか? さらには、義務教育というもの自体が従順な国民を再生産する全体主義の思想である、だから自分は登校を拒否するという生徒が現れたらどうするのですか? 考えてみれば当たり前のことですが、教育というものは本質的に〈強制〉を含むものだと思う。それをすべて否定しては、教育そのものが成り立たないと思います。誤解されたくないのですが、私は君が代斉唱には昔から心理的抵抗を感じて来た人間です(日の丸の方はそのシンプルなデザインが結構気に入っていたりします。軟弱ですね。苦笑)。しかし、これに反対するなら、思想信条の自由を持ち出しては駄目だと思う。むしろ〈君が代〉というものの持つ重い負の歴史や、その時代錯誤の歌詞内容に絞って、その一点に反対した方がいい。そこまで論点を絞れば、次にやるべきことも明確になります。

 それにしても、今回の裁判で控訴している、この元教諭という方は、どういった先生だったのでしょう。もしかしたらいま私が感想で述べたようなことは全部承知の上で、それでも断固として日の丸、君が代を拒否する信念の人だったのかも知れない。そんな先生なら、生徒にこんな話をしていたかも知れません、「さあ、今年もまた君が代で不起立かどうかを試される踏み絵の季節がやって来た。今年は都の教育委員会も断固たる態度で臨むと言って来ている。でも、先生は負けないぞ。もしもそのために先生が停職処分になったら、君たちにも迷惑をかけることになるが、どうかその点は赦して欲しい。そして馬鹿な先生だと嗤って欲しい。ただ、それでも先生がこの身をかけても守ろうとしたものがあったことだけは、どうか君たちにも分かって欲しい。」 もしも自分が高校生だったとしたら、こんな担任の先生がいたら、感激して心酔してしまったかも知れません。しかし、どうでしょう、今のもっとクールで賢い高校生たちが、そんな昔のテレビドラマみたいなセリフに心を動かされるものでしょうか?

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