« 裁判員制度、再考 | トップページ | ふたつの『憲法前文』を読み比べる »

2006年5月14日 (日)

安楽死問題について

 少し旧聞になりますが、富山県射水市の病院で患者七人に対する安楽死処置が行なわれた事件では、罪に問われた外科部長に対する同情、支援の声が全国から集まったそうです。病院に寄せられた電話や手紙の中に、抗議や脅迫めいた内容のものは、ほとんど無かったということでした。この事実を知った時、まず私はほっとしたような気持ちになりました。やはり世間もそう見ているんだ。それぞれの患者さんの状況がどうだったのかは分かりませんが、少なくともこういった事件で、担当の医師を殺人罪に問うということは、とても自分の倫理的感覚からして違和感があるのです。きっとそこには、人間の生と死をめぐるぎりぎりの苦渋の決断があったに違いない、そんなことを想像して、むしろ医師という職業が持つ厳粛なまでの責任の重さに、思わず襟を正さずにはいられないような気持ちにさえなるのです。終末医療と安楽死の問題には、私たちの道徳的感情に強く働きかけて来る要素が多くありますが、まずは自分の素直な気持ちに耳を傾ける、そのことから始める必要があるように思います。

 1991年に同じ問題が神奈川県の東海大付属病院で起きた時にも、やはり担当の医師を支援する人たちが集まって、有罪取り消しを求める会を結成しました。結局、裁判の結果は執行猶予付きの殺人罪でしたが、この時もこういった問題を正しく扱うことの難 しさを感じました。おそらく裁判官にとっても苦渋の判決だったに違いないと思います。整備されていない法制度のもとでは、この判決より他に仕方が無かったという面もあったのでしょう。この時の判決文では、医師による安楽死の処置が是認されるための四つの条件が提示されました。①患者に耐え難い肉体的苦痛がある。②死が避けられず、死期が迫っている。③他に苦痛を緩和、 除去するための方法が無い。④患者本人に安楽死を望む明確な意思表示がある。以上の四項目です。一見して、常識的な倫理観から見ても首肯出来る妥当な条件設定であるように思えます(このことはまた後で考察します)。ここには将来の法整備に向けての布石という意図もあったのでしょうが、その後十五年の間に、安楽死に関しては何の立法もされることはありませんでした。同じような事件が起こるたびに、担当医師が執行猶予付きの殺人罪になったり、医師の採った処置と死因の関係が不明瞭だという理由で不起訴になったり、ともあれ釈然としない決着が毎回のように繰り返されて来たのです。少なくとも、実際にこの問題が医療の現場でいつでも起こる可能性がある以上、国民の広い議論を通してコンセンサスを作り、それに基づいて法の整備を行なって来なかったことは、国民も含めた政治の怠慢であったように思います。

 リビング・ウィルという考え方があります。自分自身が終末医療に何を望むかをあらかじめ書き記しておく、言わば〈死に方に対する遺言書〉のことです。これによって、上記の四つの条件の最後にある患者本人の意思について、家族や医療関係者に明示しておこうというのです。日本尊厳死協会という団体が作成しているリビング・ウィルの雛型には、三項目の要望があらかじめ記載されており、署名、捺印すれば遺書としての体裁が整うよう工夫されています(なんと手軽なこと!)。その三項目というのは、 ①死期が近付いている状況での徒な延命措置の中止、②苦痛を緩和する措置の最大限の実施(たとえそのために死期を早める結果になったとしても)、③回復する見込みの無いいわゆる〈植物状態〉に陥った場合に一切の生命維持措置をとりやめること、以上の三つです。それなりに納得出来る内容ではありませんか? 特に死期を早めても苦痛を取り除いて欲しいとする第二項が、死に行く人の切実かつ正直な気持ちを代弁しているような気がします。また自分で遺言出来なくなった場合のことも考えて、第三項を付け加えておいた点も用意周到で、よく考えられている。日本尊厳死協会というのは、前身を日本安楽死協会といい、医療現場での安楽死合法化を目指して活動している団体だそうです。

 単純に考えれば、リビング・ウィルというのは、患者と医師の双方にとってメリットのある制度であるように思えます。現在の日本では、まだ安楽死裁判において、実際にそれが効力を発揮したという例は無いようですが、もし法廷にこれが提出されれば、間違いなく被告である医師にとって有利に働くと予想出来ます。患者本人がそれを望み、家族もそれに同意している、言わば〈被害者無き殺人事件〉を、検察や司法の思惑だけで捏造(とまで言うと、言い過ぎかも知れませんが)されるのを防ぐ意味もあると思います。また、現実的な話として、今の日本の医療制度のもとでは、病院側は安楽死という法律的にグレーな部分で危険を冒すよりも、出来る限りの延命措置を採っていた方が、法律的に安全なばかりか、高額な医療報酬も期待出来、一挙両得な訳です。おそらく良心ある医師は、そんな病院の経営方針から圧力を受ける場面もあるのだと思います。リビング・ウィルは、そんな病院側の都合で、本人の意思に反してまで生かされ続けることへの、患者側の対抗策のひとつと見ることも出来ます。

 このように考えて来れば、自分もひとつ元気なあいだにリビング・ウィルを書いて登録しておこうかという気にもなりますが、 どうも話はそんな簡単なことでもないようです。安楽死問題について考えてみようと思い、インターネットで参考になる文献を探していたら、立岩真也さんという方の文章に出会いました。この方は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の患者さんに取材 したルポルタージュや、生命倫理に関する著書を持つ社会学者の方だそうです。安楽死問題に関しても、それを安易に認めることへの警戒感から、鋭い発言を続けていらっしゃいます。その主張は、要約するとこういうことだと思います。リビング・ウィルがあれば患者本人の意思が確固たるものだとは言えない、人間というものは、たとえ末期の病の床でも、苦痛を取り除いて欲しいという欲求と同時に、心のどこかでは少しでも長く生き続けたいと願っているものだ。もしも医師による安楽死が合法化されれば、 患者のそのような揺れ動く心など顧みられることなく、手続きとしての安楽死が一般化されるおそれがある。それどころかALSのような、不治ではあるが適切な治療を受ければ生き続けられる難病患者に対しても、自ら選び取る死という無言の圧力が加えられる可能性がある。それはまた、高齢者や障害者といった社会的に弱い立場にある人たちに、〈価値無き生〉という強迫観念を与えることにもつながるだろう。この問題を論じる場合、生命そのものの質など問うべきではなく、すべての生を等しく肯定するところから議論を始める必要があるというのが、立岩さんの一貫した主張であるように感じました。

 射水市の事件で、漠然と終末医療の現場での安楽死を肯定する気分だった自分は、この文章を読んで深く考えさせられました。 リビング・ウィルに署名することくらい、さほどの決意も要さず自分にも出来る気がしますが、もしも実際に自分が不治の病に冒され死の床についたとしたら、そんな気軽にリビング・ウィルに署名した元気だった頃の自分をどう省みるだろうか。結局、病気でもない健康な人間には、自分の死というものを切実に想像することが出来ないからこそ、安楽死や延命措置の拒否などということを軽々しく口に出来るのではないでしょうか。「尊厳死」だとか「人間らしく死ぬ権利」などと言えば、いかにも美しい言葉のように響きますが、本当に死に直面した人間の嘘いつわりのない心の叫びは、「死にたくない」というその一点ではないかとも思います。(もちろん苦しみを取り除いて欲しいというのも切実な叫びだと思いますが、それは早く死にたいということと同じではないと思います。)

 医療現場での安楽死に関しては、ふたつのものを分けて考えるのが一般的なようです。ひとつは、医師が致死量の薬品を投与して患者を死に至らしめる「積極的安楽死」というもの、もうひとつはいわゆる延命装置をはずして患者が自然に死に至るのを待つ「消極的安楽死」というものです。現在、法制化によって認可が求められているのは、後者の消極的安楽死の方で、推進派の中にも医師による積極的安楽死まで認めさせようという意見はあまりないようです。しかし、これも考えてみれば奇妙なことです。終末期における苦痛の除去という点からすれば、延命装置をはずすことは、常識的に考えて患者をひどい苦痛の中に突き落とすことであるかも知れない。むしろ現代の医学でも緩和出来ないような苦痛が存在するなら、積極的安楽死こそ終末医療で求められる安楽死かも知れません。そもそも、延命装置をはずして得られる「自然死」なるものがくせものです。考えてみれば当たり前のことですが、自然死というものが安らかな苦痛の無い死である保証は全くないのですから。

 この問題はとても複雑で、短いブログの記事で何かの結論を出すことはとても無理だと感じます。安楽死を認めるにせよ認めないにせよ、社会的な合意の上で何かしらの法制化は必要だと感じるのですが、そのための議論はまだまだ充分ではないという気がします。この問題は、またあらためて取り上げたいと思います。皆さまのご意見をお聞かせいただければと思います。

(すっかりブログの更新をサボってしまいました。本業の方が忙しいと言えば言い訳になりますが、ブログというのも自分の中で習慣づけなければ、あっという間に2ヶ月くらい開いてしまうものですね。いつも気持ちの上では何か書かなければと思っているんですが…。これからまた少しずつ復帰して行きますので、よろしくお願い致します。)

|

« 裁判員制度、再考 | トップページ | ふたつの『憲法前文』を読み比べる »

コメント

Like_an_Arrowさん、こんにちは。おひさしぶりです。
私も3月4月は忙しくて、ほとんど自分のブログを更新できませんでした。5月に入って、またちらほら書き始め、こちらにもたまに拝見しに来ていました。

>もしも医師による安楽死が合法化されれば、 患者のそのような揺れ動く心など顧みられることなく、手続きとしての安楽死が一般化されるおそれがある。それどころかALSのような、不治ではあるが適切な治療を受ければ生き続けられる難病患者に対しても、自ら選び取る死という無言の圧力が加えられる可能性がある。

まさにここですよね。「無言の圧力」。家族や親類が、「どんなことをしても助けたい」「少しでも長生きさせてあげたい」という優しい人ばかりではない、という恐ろしい現実もあります。深沢七郎の「楢山節考」じゃないですけど、「お山」に行かない、行きたがらない老衰老人が、白い目で見られるというような現象も、起こりかねないです。「どんな理由があっても殺人はいけない」というのは、社会の絶対的な掟なのかもしれません。

(「死刑はどうなんだ」という反論がすぐに予想されますが。)

投稿: mori夫 | 2006年5月15日 (月) 19時03分

mori夫さん、お久し振りです。コメントありがとうございます。

この2ヶ月のあいだ、私も時々mori夫さんのブログを訪問させていただき、「ああ、mori夫さんも同業者だし、忙しいんだな。自分も忙しいことだし、ブログの方はまあいいか」と自分に言い訳をしておりました。(笑)

安楽死については、それが法制化され、一定の範囲で認められることによって、救われる人たちがいる反面、追いつめられる人たちもいるに違いないという点が難しいですね。周りからの無言の圧力だけでなく、家族にこれ以上経済的な負担や、介護の苦労をさせたくないという、本人の切ない気持ちもある。本当はそんな気持ちの負担など感じることなく、人生の最期の期間を過ごせるような環境が整っていることが望ましいんでしょうけれど。

安楽死を含む生命倫理の問題というのは、私達ひとりひとりが否応なく関らざるを得ない現代的な問題ですよね。特に日本人はこれをタブーのように扱う傾向もあるような気がします。この問題はこれからも継続的に考えて行きたいと思います。ぜひまたご意見をお聞かせください。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年5月17日 (水) 01時43分

 安楽死を法制化したのはヨーロッパ圏ですが、問題となるのはアメリカと日本です。
 アメリカの自己破産の原因の第一位は「医療費」です。

 日本でも医療から疎外された人々が出始めました。国民健康保険の未払いと、医療費の引き上げです。

 アメリカと日本はヨーロッパに比べると医療費が「自己負担」の国です。つまりヨーロッパとアメリカと日本では「安楽死問題」の意味が異なってきます。

 生命保険業界の強く圧力で、アメリカと日本は安楽死が法制化されることはないでしょう。日本では生命保険の「転売」も認められませんでした。

 安楽死問題とは、医療サービスを受けられない格差社会の問題なのです。医療行為による延命時間の格差に他ならないわけです。

投稿: lera | 2006年6月19日 (月) 15時33分

leraさん、コメントありがとうございます。お久し振りです。

いわゆる末期の患者さんが、家族に経済的負担をかけまいとして、延命措置の中止を願い出ることはよくあることだと思います。これは切ないことですね。一生懸命生きて来た人生の最期くらい、そんな世俗の心配とは無縁なところで過させてあげたい(自分もその時が来たらそう過したい)というのは自然な気持ちだと思います。そのための制度の確立はぜひとも必要なことだと思います。

安楽死問題には、もちろん「医療サービスを受けられない格差社会の問題」という側面もあります。ただ、私が関心を持って考えて行きたいと思っているのは、「これからの医療サービスの中に、安楽死というものをメニューとして取り込むべきか? 取り込むならどのようなメニューにし、サービス提供の条件をどう設定すべきか?」ということなんです。格差社会の是正というのは、比較的合意が形成されやすいテーマだと思いますが、<安楽死サービスのメニュー化>などというのは、結構議論が紛糾しそうなテーマです。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年6月23日 (金) 23時51分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/10072022

この記事へのトラックバック一覧です: 安楽死問題について:

« 裁判員制度、再考 | トップページ | ふたつの『憲法前文』を読み比べる »