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2006年5月27日 (土)

国民投票法案に関する私見

 前回のエントリーで改憲問題について取り上げましたが、昨日これに関連した重要な法案が国会に提出されました。憲法改正に必要な国民投票の具体的手続きを定めた国民投票法案というものです。現実的なものとなった憲法改正に向けて、着々と準備が進められているといった印象です。意外だったのは、自民党の案とは別に、民主党が独自に同じ名称の法案を出して来たことです。比較してみれば、多少内容に違いはあるものの、憲法改正を第一に目指したものである点は同じです。政治オンチの私は知りませんでしたが、小沢一郎さんという人も、昔から熱心な改憲論者だったんですね。民主党もつまらないところで意地を張っています。国民のあいだに憲法九条だけは守ろうという意見も根強いなか、国民の声をバランスよく代弁すべき国会という場においては、民主党も(今回に限っては)憲法改正に反対の立場を採るのが、野党第一党としてのむしろ責任であるように私などは思うのですが。

 与野党がこぞって憲法改正に熱心で、これに反対する共産党や社民党がほとんど〈死に体〉である現状では、憲法九条を守れるのは、実際に国民の直接的な意思表示だけなのかも知れません。私は憲法改正議案を国民投票にかけること自体が、現在の危うい世界情勢のなかで、取りかえしのつかない危険な賭けのような気がしているのですが、そんな悠長なことも言っていられない状況です。もしも国民ひとりひとりの良識が、日本の軍事大国化を食い止める最後の防波堤だとするならば、国民投票を具体的にどのような方法で行なうかは、慎重に検討すべき重要な問題になる筈です。ところが、これを論ずること自体が、すでに国民投票の実施を前提にしている、つまり実質上これを是認するという構図にどうしても陥ってしまう。小沢氏は、この法案を単なる手続法だと言ったそうですが(なんという暴言!)、この点でも護憲派はどうしても守勢に回らざるをえないのです。

 今回の法案を見ると、自民党案では、憲法改正に賛成か反対かをマルかバツかで、民主党案では賛成ならマルのみを記入することになっているそうです。そんなつまらない違いでも、投票の結果には多少の差が出るのかも知れません。しかし、私は危惧するのですが、まさか憲法改正への国民投票って、投票用紙にたったひとつのマルかバツを書くだけのものではないのでしょうね。当然のことですが、いくら熱心な改憲派の人でも、改憲さえすれば何でもいいと思っている人はいない筈です。ところが、この部分は今回の法案では曖昧にされているようです。当然、戦争放棄を謳った九条と、国家の宗教的活動を禁じた二十条と、憲法改正のための条件を定めた九十六条とを、十把ひとからげに論じることは出来ない。国民投票を行なうなら、個別の条文ごとに行なうべき、これはもう絶対の条件でしょう。

 憲法改正はもちろん、憲法改正議案の提出にも、国民投票の実施にも私は断固反対なのですが、もしも現実問題としてそれが仕方の無いことであるなら、私は二段階での国民投票を提案したい気がします。つまり、一回目の国民投票でまずは現行憲法を改正すべきかどうか二者択一での投票を行なう。その結果、改憲賛成派が過半数を占めたなら、次に今度は個別の条文ごとの国民投票を行なう。最初から個別の案件に対して国民の意思を問うことは、すなわち既成事実としての憲法改正を前提として受け入れさせる心理的な誘導を含むものだと思うからです。また一回目の投票と二回目の投票のあいだに、ある程度の期間を置けば、そこで国民の議論が深まるという効果も期待出来ます。また、もしも一回目の投票で改憲案が否決されれば、国際的な注目が集まるなか、日本国民が九条に対してどのような認識を持っているのか、その赤裸々な事実を晒さなくて済むというメリットもある。いずれにせよそれは他の国の対日感情に影響を与えずにはいないものでしょうから。憲法改正は国家百年の計、そのくらいの労を惜しんではならないと思います。

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2006年5月21日 (日)

ふたつの『憲法前文』を読み比べる

 憲法改正については、これまでもこのブログで何度か触れていますし、これからも折にふれて考えて行かなければならないと思っているのですが、今回は昨年発表された自民党の新憲法案と、現在の日本国憲法とを読み比べてみたいと思います。但し具体的な憲法の内容について比較するのではなく、むしろこれを文学的な見地から味わい比べてみたい(個々の条文の内容については、まだ勉強中の段階ですので)。しかも全文を比較するのは、ブログのテーマとして重過ぎるので、とりあえず両者の前文だけを見てみます。そこにふたつの憲法の性格の違いが、最も端的に表れていると思うからです。まずは我々日本人が六十年近くにも渡って慣れ親しんで来た、現行憲法の前文をここに引用してみます。あらためてこれをひとつの〈作品〉として鑑賞する気持ちで読み直してみましょう。

<日本国憲法前文>

 『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。』

 どうでしょう。とても名文とは言えないと思います。翻訳調なのは仕方無いとしても(実際にアメリカが作った原案の翻訳なのですから)、文章はだらだらと長くて冗漫だし、読点で区切られたフレーズ間の論理的整合性はあやしいし、〈てにをは〉や〈かかりむすび〉もなんだかおかしい。ありていに言ってしまえば、ひどい悪文であると言っても差し支えないと思います。しかし、それでも、これは私が護憲派の人間だからそう思うだけなのかも知れませんが、この前文には何か読む者の心に迫って来るものがある。何と言うか、一種のたたみかけるような迫力が文章から感じられるのです。この迫力が何に由来するのかは、まったく明らかなことだと思います。それは『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し』という部分に明示されています。この短い前文の中に、「決意し」、「宣言し」、「誓う」といった宣誓の言葉がやたら散りばめられていますが、こういった仰々しい言葉の羅列は、一般的には何か空々しい印象を読者に与えるものです。しかし、これが決して空疎な言葉ではない理由は、これが人類がかつて経験したこともないような大戦争の直後に書かれたという事実に拠っているのだと思います。その点では、起草者が日本人であってもアメリカ人であっても同じことです。この憲法は、戦争直後の異常な心理の中で書かれたという点において特殊なのです。

 現行の日本国憲法の比類なき価値は、何を措いてもまずこの歴史的価値という点に求められると思います。例えてみれば、それは広島の原爆ドームのようなものです。つまり、それが訴えて来るものは、かつての戦争の悲惨さであり愚かしさであり、その前にたたずむとき我々は(日本人も、アメリカ人も、その他の国々の人たちも)、二度とあのような過ちを犯すまいと自然に心に誓っている、そのための装置として機能しているのです。原爆ドームは汚らしいからペンキで塗り直してしまえと考える人がいないように、日本国憲法は現代人の趣味で簡単に書き直していいようなものではない、なにしろそれはかけがえのない歴史的記念物なのですから。

 と、こんなふうに書くと、いくらなんでも原爆ドームと憲法は別ものだろうという反対意見も聞こえて来そうです(いま自分で書いていてもそう思いました。笑)。しかし、問題は、ここに謳われているような平和への願いや不戦の誓いというものが、今日ほどアップトゥデートな緊急の課題となって国内で問われたことは、過去六十年の間に一度も無かったのではないかということです。つまり、(護憲派の主張としては)今こそこの歴史的記念物である憲法が、その本領を発揮すべき時なのではないかということなのです。日本国憲法は、歴史的記念物ではあっても、決して過去の遺物ではありません。以前このブログで紹介した、自衛隊に関する浅田次郎さんの言葉を借りれば、「GHQと戦後日本政府がこしらえたおもちゃの憲法が、実は人類の叡智の結晶ともいえる理想の憲法であることを、ブッシュにも、無能な政治家どもにもわからせてやれ」。現行の憲法は、六十年前にアメリカの進駐軍に押し付けられた筈のものなのに、最近ではアメリカ政府自身が日本の憲法改正に賛成の意向を表しています。これは重大なことです。単に日本一国の問題としてではなく、世界の平和に対する最後の砦としての日本国憲法の役割は、今日非常に重いと見なければならない。

 さて、以上が護憲派から見た多少強引な憲法擁護論です。(文学的見地から鑑賞すると書いておきながら、やはり政治的な立場から意見を書いてしまいました。すみません。) では、気を取りなおして、次に昨年出された自民党の新憲法案の前文を見てみましょう。こちらはそう長くないですし、文章も簡潔なので読みやすいと思います。

<自民党新憲法草案前文>

 『日本国民は、自らの意志と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。
 象徴天皇制は、これを維持する。また、国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。
 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治体の発展を重視する。
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。
 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。』

 もちろんこの新憲法案で危惧すべき点は、自衛軍の設置を含む憲法九条の改正が第一なのですが、今回はそれには触れません。素直に読めば、具体的なひとつひとつの内容は、いいことが書かれていると思います。いきなりのっけから『象徴天皇制は、これを維持する』は、なんだか唐突な印象ですが、象徴天皇制については、民主主義との関連もあるので前文に盛り込んでおくのはいいと思う。国や社会に対する『愛情と責任感』については、憲法に謳うようなことかという反論はあろうかと思いますが、実際にそれがあまりに希薄な現代においては、効果は無いだろうけど書き込んでおいてもいい(ただ『気概』というのは余計だと思います。『地方自治体の発展』というのも、この場では違和感がある)。さらに『圧政や人権侵害を根絶させる』という過激で物騒な表現は止めて欲しいけれども、国際協調主義については賛成です。最後に『自然との共生』や『地球の環境』について触れているのも、きれいごとと言ってしまえばそれまでですが、二十一世紀の憲法としては相応しいと思います。

 このように全体としては無難に、まあ過不足無くまとまった前文だと思うのですが、単純に新しい日本の憲法の前文として読んだ時の印象はどうでしょう? 私は最初にこれを読んだ時、これは憲法の本文そのものではなく、そこに織り込む内容のメモ書きなのかと思いました。いや、比較した現憲法の異様な迫力があまりに圧倒的なものだから、そう感じただけなのかも知れません。でもなんだかあっさりし過ぎているように感じて、食い足りない。一国民として、何も鼓舞されるものがありません。現行の憲法が、広島の原爆ドームのように、まるで呪文のように、私たちの心に訴えかけてくるのとは対照的です。この自民党案でも、これから六十年経てば歴史の重みが染み込んで、何かしらの存在感を持つようになるのでしょうか? 私にはとてもそうは思えない。自分のなかに真の理想や、その理想に対する信念を持っていない人や政党が憲法草案を起草しても、国民の心に届くような文案は書けないのだと思います。これは自民党を批判して言うのではありません、現代という時代がそういう時代なのです。だから私は言うんです、現代人のさかしらな頭で今の憲法を改正しようとしても、しょせんかないっこないんだって。

(この文章を書くに当たって、他の国の憲法前文がどういうものなのか、調べてみようと思いました。アメリカだとかフランスの憲法なんて、さぞかし志の高い格調ある名文が掲げられているに違いない、そう思っていたんですが、全然そんなことはないんですね。自民党案と比べてもあっさりし過ぎているくらい。そういう意味でも、今の日本国憲法というのは特殊なものなのだと思いました。)

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2006年5月14日 (日)

安楽死問題について

 少し旧聞になりますが、富山県射水市の病院で患者七人に対する安楽死処置が行なわれた事件では、罪に問われた外科部長に対する同情、支援の声が全国から集まったそうです。病院に寄せられた電話や手紙の中に、抗議や脅迫めいた内容のものは、ほとんど無かったということでした。この事実を知った時、まず私はほっとしたような気持ちになりました。やはり世間もそう見ているんだ。それぞれの患者さんの状況がどうだったのかは分かりませんが、少なくともこういった事件で、担当の医師を殺人罪に問うということは、とても自分の倫理的感覚からして違和感があるのです。きっとそこには、人間の生と死をめぐるぎりぎりの苦渋の決断があったに違いない、そんなことを想像して、むしろ医師という職業が持つ厳粛なまでの責任の重さに、思わず襟を正さずにはいられないような気持ちにさえなるのです。終末医療と安楽死の問題には、私たちの道徳的感情に強く働きかけて来る要素が多くありますが、まずは自分の素直な気持ちに耳を傾ける、そのことから始める必要があるように思います。

 1991年に同じ問題が神奈川県の東海大付属病院で起きた時にも、やはり担当の医師を支援する人たちが集まって、有罪取り消しを求める会を結成しました。結局、裁判の結果は執行猶予付きの殺人罪でしたが、この時もこういった問題を正しく扱うことの難 しさを感じました。おそらく裁判官にとっても苦渋の判決だったに違いないと思います。整備されていない法制度のもとでは、この判決より他に仕方が無かったという面もあったのでしょう。この時の判決文では、医師による安楽死の処置が是認されるための四つの条件が提示されました。①患者に耐え難い肉体的苦痛がある。②死が避けられず、死期が迫っている。③他に苦痛を緩和、 除去するための方法が無い。④患者本人に安楽死を望む明確な意思表示がある。以上の四項目です。一見して、常識的な倫理観から見ても首肯出来る妥当な条件設定であるように思えます(このことはまた後で考察します)。ここには将来の法整備に向けての布石という意図もあったのでしょうが、その後十五年の間に、安楽死に関しては何の立法もされることはありませんでした。同じような事件が起こるたびに、担当医師が執行猶予付きの殺人罪になったり、医師の採った処置と死因の関係が不明瞭だという理由で不起訴になったり、ともあれ釈然としない決着が毎回のように繰り返されて来たのです。少なくとも、実際にこの問題が医療の現場でいつでも起こる可能性がある以上、国民の広い議論を通してコンセンサスを作り、それに基づいて法の整備を行なって来なかったことは、国民も含めた政治の怠慢であったように思います。

 リビング・ウィルという考え方があります。自分自身が終末医療に何を望むかをあらかじめ書き記しておく、言わば〈死に方に対する遺言書〉のことです。これによって、上記の四つの条件の最後にある患者本人の意思について、家族や医療関係者に明示しておこうというのです。日本尊厳死協会という団体が作成しているリビング・ウィルの雛型には、三項目の要望があらかじめ記載されており、署名、捺印すれば遺書としての体裁が整うよう工夫されています(なんと手軽なこと!)。その三項目というのは、 ①死期が近付いている状況での徒な延命措置の中止、②苦痛を緩和する措置の最大限の実施(たとえそのために死期を早める結果になったとしても)、③回復する見込みの無いいわゆる〈植物状態〉に陥った場合に一切の生命維持措置をとりやめること、以上の三つです。それなりに納得出来る内容ではありませんか? 特に死期を早めても苦痛を取り除いて欲しいとする第二項が、死に行く人の切実かつ正直な気持ちを代弁しているような気がします。また自分で遺言出来なくなった場合のことも考えて、第三項を付け加えておいた点も用意周到で、よく考えられている。日本尊厳死協会というのは、前身を日本安楽死協会といい、医療現場での安楽死合法化を目指して活動している団体だそうです。

 単純に考えれば、リビング・ウィルというのは、患者と医師の双方にとってメリットのある制度であるように思えます。現在の日本では、まだ安楽死裁判において、実際にそれが効力を発揮したという例は無いようですが、もし法廷にこれが提出されれば、間違いなく被告である医師にとって有利に働くと予想出来ます。患者本人がそれを望み、家族もそれに同意している、言わば〈被害者無き殺人事件〉を、検察や司法の思惑だけで捏造(とまで言うと、言い過ぎかも知れませんが)されるのを防ぐ意味もあると思います。また、現実的な話として、今の日本の医療制度のもとでは、病院側は安楽死という法律的にグレーな部分で危険を冒すよりも、出来る限りの延命措置を採っていた方が、法律的に安全なばかりか、高額な医療報酬も期待出来、一挙両得な訳です。おそらく良心ある医師は、そんな病院の経営方針から圧力を受ける場面もあるのだと思います。リビング・ウィルは、そんな病院側の都合で、本人の意思に反してまで生かされ続けることへの、患者側の対抗策のひとつと見ることも出来ます。

 このように考えて来れば、自分もひとつ元気なあいだにリビング・ウィルを書いて登録しておこうかという気にもなりますが、 どうも話はそんな簡単なことでもないようです。安楽死問題について考えてみようと思い、インターネットで参考になる文献を探していたら、立岩真也さんという方の文章に出会いました。この方は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の患者さんに取材 したルポルタージュや、生命倫理に関する著書を持つ社会学者の方だそうです。安楽死問題に関しても、それを安易に認めることへの警戒感から、鋭い発言を続けていらっしゃいます。その主張は、要約するとこういうことだと思います。リビング・ウィルがあれば患者本人の意思が確固たるものだとは言えない、人間というものは、たとえ末期の病の床でも、苦痛を取り除いて欲しいという欲求と同時に、心のどこかでは少しでも長く生き続けたいと願っているものだ。もしも医師による安楽死が合法化されれば、 患者のそのような揺れ動く心など顧みられることなく、手続きとしての安楽死が一般化されるおそれがある。それどころかALSのような、不治ではあるが適切な治療を受ければ生き続けられる難病患者に対しても、自ら選び取る死という無言の圧力が加えられる可能性がある。それはまた、高齢者や障害者といった社会的に弱い立場にある人たちに、〈価値無き生〉という強迫観念を与えることにもつながるだろう。この問題を論じる場合、生命そのものの質など問うべきではなく、すべての生を等しく肯定するところから議論を始める必要があるというのが、立岩さんの一貫した主張であるように感じました。

 射水市の事件で、漠然と終末医療の現場での安楽死を肯定する気分だった自分は、この文章を読んで深く考えさせられました。 リビング・ウィルに署名することくらい、さほどの決意も要さず自分にも出来る気がしますが、もしも実際に自分が不治の病に冒され死の床についたとしたら、そんな気軽にリビング・ウィルに署名した元気だった頃の自分をどう省みるだろうか。結局、病気でもない健康な人間には、自分の死というものを切実に想像することが出来ないからこそ、安楽死や延命措置の拒否などということを軽々しく口に出来るのではないでしょうか。「尊厳死」だとか「人間らしく死ぬ権利」などと言えば、いかにも美しい言葉のように響きますが、本当に死に直面した人間の嘘いつわりのない心の叫びは、「死にたくない」というその一点ではないかとも思います。(もちろん苦しみを取り除いて欲しいというのも切実な叫びだと思いますが、それは早く死にたいということと同じではないと思います。)

 医療現場での安楽死に関しては、ふたつのものを分けて考えるのが一般的なようです。ひとつは、医師が致死量の薬品を投与して患者を死に至らしめる「積極的安楽死」というもの、もうひとつはいわゆる延命装置をはずして患者が自然に死に至るのを待つ「消極的安楽死」というものです。現在、法制化によって認可が求められているのは、後者の消極的安楽死の方で、推進派の中にも医師による積極的安楽死まで認めさせようという意見はあまりないようです。しかし、これも考えてみれば奇妙なことです。終末期における苦痛の除去という点からすれば、延命装置をはずすことは、常識的に考えて患者をひどい苦痛の中に突き落とすことであるかも知れない。むしろ現代の医学でも緩和出来ないような苦痛が存在するなら、積極的安楽死こそ終末医療で求められる安楽死かも知れません。そもそも、延命装置をはずして得られる「自然死」なるものがくせものです。考えてみれば当たり前のことですが、自然死というものが安らかな苦痛の無い死である保証は全くないのですから。

 この問題はとても複雑で、短いブログの記事で何かの結論を出すことはとても無理だと感じます。安楽死を認めるにせよ認めないにせよ、社会的な合意の上で何かしらの法制化は必要だと感じるのですが、そのための議論はまだまだ充分ではないという気がします。この問題は、またあらためて取り上げたいと思います。皆さまのご意見をお聞かせいただければと思います。

(すっかりブログの更新をサボってしまいました。本業の方が忙しいと言えば言い訳になりますが、ブログというのも自分の中で習慣づけなければ、あっという間に2ヶ月くらい開いてしまうものですね。いつも気持ちの上では何か書かなければと思っているんですが…。これからまた少しずつ復帰して行きますので、よろしくお願い致します。)

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