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2006年3月19日 (日)

裁判員制度、再考

 すでに裁判員制度に関しては、哲学論考と題する別ブログの中で自分の考えを述べました。この記事にコメントがついたのを機に、もう一度この問題について考えてみたいと思います。コメントされた方のご意見は、司法制度においても市民が主体とならない限り、自立した市民社会とは言えないというものだと思います。問題は、裁判員制度が(またはもう少し広義に市民の直接司法参加というものが)、果して市民社会の成熟を促すための仕組みとして有効なのかどうかという点です。欧米では陪審制や参審制は長い歴史を持ち、社会に広く根づいています。一方で今の日本にはまだ時期尚早だという意見もある。それでは現在はともかく、将来的にはやはりそちらの方向に向かうべきであるのか? しかし、私の答えは、どちらに対してもはっきりノーなのです。

 人は人を裁くことができるか? これは個人の信条や人生観の問題でもあり、議論をしても答えの出るような問いではないでしょう。しかし、裁判に関しては、議論の余地なく誰もが納得できる前提がひとつだけあります。それは現代の民主主義国家においては、人はその国の法律に定めるところに従って裁かれるという原則です。日本では殺人罪の最高刑は死刑ですが、すでに死刑を廃止しているドイツやフランスやイタリアのような国にあっては、例えば大久保清や宅間守のような度はずれた殺人犯でさえ、死刑にはならない訳です。だからと言って、それは不公平ではないかと文句をつける人はいない。死刑制度を法律上復活させるかどうかの議論はあっても、個々の事件に対して法律を曲げて例外的に死刑を適用しようという議論はふつうは起こりません。それは法治主義そのものを否定するものだからです。それほど〈法〉というものの絶対性は、現代社会に深く浸透しているのだと思います。

 この前提を受け入れられるならば、少なくとも理論的には、あるべき理想の刑事裁判の定義はとても簡単なものになります。すなわち、理想的な裁判とは、法に照らして最も厳正に、しかも誤りなく判決を下す裁判であると定義出来る。そんなことは当り前だと言われるかも知れませんが、実はこの前提が充分共有出来ていないところで、裁判員制度の細部に関する議論だけが先行しているように思えるのです。今週の新聞記事で、最高裁が一般市民とプロの裁判官を対象に実施したアンケートの結果が報じられていました。ある殺人事件を想定して、適当と思われる量刑を回答してもらったところ、職業裁判官ははぼ一致して懲役十年程度と答えたのに対し、一般市民の方からは死刑から執行猶予まで様々な回答が出たというのです。最高裁がどういう意図でこのアンケートを実施したのか想像はつきますが、結果は予想どおり、期待どおりのものだったと言えるでしょう。

 重要なのは、刑事裁判において被告人を裁く時、それは道徳によって裁くのではない、という一事です。道徳ということになれば、それは我々ひとりひとりの心の問題になります。殺人に対してはどんな情状酌量もあってはならない、すべての殺人者は死刑にすべきだと考える人もいるでしょう。あるいは死刑に対しては断固反対で、どんな凶悪な殺人者に対しても死刑を申し渡すべきではないと考える人もいる筈です。誰もそれを間違いだとは言えない。それは個人の価値観の問題だからです。しかし、それが現実の裁判に持ち込まれるとなれば、これは話が別です。任意に選ばれた6人の裁判員がどのような道徳観を持っているか、被告人にとってみればまるでくじ引きのようなものです。当然裁判の公平性など保てる訳がない。刑事裁判は、裁かれる側にとっても納得のいくものである必要があると私は思っています。公平性を欠いた裁判制度は、犯罪者の更生という点でもマイナスに働くでしょうし、従って再犯率の増加という結果にだってつながりかねない気がします。

 世論調査では、自分が裁判員に選ばれた時、それを引き受けたくないという人が70パーセントを超えているのだそうです(裁判員制度そのものに反対する人が70パーセントという訳ではありません)。ところで、私はもうひとつ実施すべき重要な世論調査があると思っているのです。それは自分が刑事被告人になった場合、現行の裁判制度で裁かれたいか、それとも新しい裁判員制度によって裁かれたいかという二者択一です。しかも、出来ればこの調査は、現在未決拘留中の被告人の人たちや、すでに刑が確定した服役中の人たちを対象にも行なってもらいたい。なにしろこの件に関しては、彼らこそがもう一方の当事者なのですから。こんな重要な問題を決するのに、彼らの声を聞かないのはおかしいではないか。だが、私の感覚では、そんなアンケートは実施するまでもないと思います。まあ、想像してみてください、満員電車の中や都会の雑踏の中で、そこにいる人々の任意の6人に自分が法廷で裁かれる場面を。端的にホンネを言いますが、私だったらゾッとしますね。しかし、これが裁判員制度の名で行なわれようとしていることなのです。

 アメリカの陪審員制度に関する、こんな興味深い調査結果のことを以前何かで読みました。多くの陪審裁判の結果について統計を取ってみると、どうやら被告人の容姿の良し悪しが、判決の結果に一定の影響を持っているらしいというのです。つまり、美男美女は全体的に判決が軽くなる傾向にあるのだそうです。しかもそこにはひとつだけ例外があって、不倫問題にからむ傷害事件や殺人事件の場合には、逆に美男美女であることが刑を重くする傾向にあるらしい。ブラックジョークのような話ですが、気持ちはとてもよく分かります(笑)。アメリカの陪審裁判では、それ以上に深刻な問題として、人種や階層や宗教の違いによって大きなバイアスがかかるという事実がある。よく話題になる、スポーツ選手や俳優など有名人に対する判決の甘さも、問題としては同根でしょう。しかし、だからと言って、そのことを私はアメリカ国民の民度が低いからだなどとは決して考えないのです。そうではなくて、要するに制度の問題なのだ。アメリカという国は、言わば民主主義の実験国家という性格を持っています。民主主義の社会においては、誰もが公正無私な聖人君子である必要はない、法に触れない範囲でのならず者や変人の存在だって、容認されてしかるべきものです。

 私は素朴に当り前にこう考えます、法治国家において、法律を知らない市民によって市民を裁かせようとすること自体が無茶なのです。そもそも多様な価値観を認める民主主義の理念と、公平公正であるべき裁判制度とは、折り合いのいいものではない筈です。そこには歴史的に形作られた、何かとてつもなく大きな誤解があるのに違いない、私はそう考えています。日本は、なにも今からそんな道を歩む必要は無いのです。市民の司法参加は時期尚早であるなどと、自己卑下する必要もまったく無いと考えます。多くの日本国民の持っている裁判員制度に対する違和感には、もっとずっと健全で、前向きなものがあると私には感じられます。それはもしかしたら、西欧型の民主主義の限界を突破するものであるかも知れない、そんなことさえ夢想しているのです。

 ついでですから、私の考える理想の刑事裁判についても少し書いておきたいと思います。先ほど「理想的な裁判とは、法に照らして最も厳正に、しかも誤りなく判決を下す裁判である」と書きましたが、それを実現したイメージというのはどういうものでしょう。私の考えるひとつの方向性は、なるべく人間の判断の入らない裁判というものです。ここからは例によって多分にSFチックな私の空想ですが、例えば国内のすべての法令と、過去のあらゆる判例を記憶したデータベースを持ったコンピュータ・システムのようなものを考えます。そこに今回の事件の特徴を、決められた項目に従って細大もらさずインプットして行きます。すると、コンピュータが瞬時に判断して、被告人に対する罪状と量刑をアウトプットするのです。裁判官だって人間ですから、人によって多少は考え方の違いもあるでしょうし、たまにはミスを犯すことだってあるでしょう。しかし、相手がコンピュータならその心配は無い。日本中どこの裁判所でも、同じ内容の犯罪に対しては、確実に同じ重さの刑が下される。これこそ公平な裁判の実現です。(もっとも、事件の特徴を入力する手続きに、人間の恣意が入る可能性はあります。この部分については充分慎重に検討する必要があります。)

 もしも未来において、本当にそんな裁判が実現した時のことを想像してみましょう。その時には、もはや裁判員はおろか職業裁判官も要らなくなる。弁護人さえもいなくていい。検察官と被告人は、いわばコンピュータ裁判長のご託宣を黙って待つだけです。ここまで来ると、もはや夢物語というだけではなく、人間性を無視した恐るべき管理社会の様相を呈して来る、おそらく読者の方の多くはそう感じられただろうと思います。犯罪というものを軸として、検察側と被告側が様々な思いを持って向かい合う裁判という場に、心を持たないコンピュータが一瞬で解答を与えるなんてあまりにひどい。法廷というのは、言ってみれば人間のドラマが凝縮された場所なのだ、そこにはやはり〈血のかよった裁判〉というものがどうしたって必要な筈だ。特に理想的な裁判の雛型として、大岡裁きというものに一種の郷愁を持っている日本人の感覚としては、そのような思いはことのほか強いのではないかと思います。

 しかし、ここからが私の(自称)哲学者としての見解なのですが、裁判が人間のドラマであることは認めるとしても、判決そのものに血をかよわせる必要は無いのではないかというのが私の仮説なのです。(もちろん犯人に対する情状や被害者感情を無視しろと言っている訳ではありません。それらのファクターもきちんとパラメータとしてシステムにインプットされているのです、当然。) 現代のような複雑な時代には、プロの裁判官だってすべての事件に対して正しい相場感を持てる訳ではありません。すでに裁判所には過去の判例が検索出来るシステムが導入されており、裁判官もそれを参考にして判決を決めているのです。ということはつまり、私の想像したような機械的で非人格的な量刑方法が、すでに半ば実現されているのだとも言えます。「だからこそ民間人である裁判員が、世間の道徳感覚を持って、裁判に血をかよわせることが必要なのではないか?」 いや、違う。違うのです。我々の前提は、人は法律によってのみ裁かれるというものだった筈です。個々の裁判員の道徳感覚によって裁かれたのでは、裁判所は文字どおり無法地帯になってしまう。裁判においては、道徳という徳よりも、公平という徳の方が優先されるべきなのです。

 私は、成熟した市民社会が、犯罪や刑事裁判に対して道徳的な力を発揮出来るのは、裁判の判決に対してではなく、もっと別の部分に対してだと思っています。それにはふたつの方向があります。ひとつは法律そのものを、常に時代の感覚でもって監視し、必要があればこれを改正して行く努力を続けるということ(これには過去の判例に対する評価と見直しという作業も含まれます)。もうひとつは、判決というものは誰が下そうと、犯人や被害者に対して重大な影響を与えるものなのですから、メンタルな面も含めて充分なアフターフォローの体制を作るということです。判決そのものは機械的なものでいい、これからの時代には名判事というような人も要りません(どの裁判官も同じ判決を下すことが理想なのですから、名判事というのもありえない理屈です)。ただ、ささくれ立っている犯人の心をなだめ、本来持っている改悛の情を呼び戻して更生の途につかせるプロフェッショナルな教務官であるとか、無力感に打ちひしがれている遺族の心を慰め、再び生きる勇気を与えられるような犯罪被害者の会の活動といったものは、これはぜひとも必要だと思います。それは犯罪という不幸な出来事に対する、社会を挙げての闘いなのです。ところが、裁判員制度という暴力的な仕掛けによって、この闘いにも水が差されてしまうのです。

 いや、しかし、また書きたいことが止まらなくなってしまいました。(まったく、こんな長文のブログを一体誰が読んでくれると言うのでしょうか? 苦笑) どうもこの問題は、私のアキレス腱のようです。しかし、いずれにせよ、これは国民ひとりひとりの問題であることには変りはありません。我々ブロガーも含め、もっともっと国民レベルでの議論を活発にして行く必要があると感じます。ぜひ皆さんのご意見もお聞かせください。

(裁判員制度について、他のブロガーの方たちがどんな意見をお持ちなのか、ネット上を検索してみました。そんな中で、いろいろな観点から一貫して裁判員制度に対して批判を投げかけているサイトを見付けました。高野善通さんという方のブログです。私のように抽象的な議論ではなく、小気味の良い現実的な視点でこの制度の問題点を指摘されています。特に裁判員制度PRかるたをパロディにしたこのページはおすすめ。久しぶりにトラックバックを送りたくなりました。ぜひ私も裁判員制度に反対するブロガーの会に入会させてください。笑)

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2006年3月 5日 (日)

山崎ハコさんの歌

 今回は哲学の話も政治の話もお休みして、自分の好きな音楽の話を。若い頃から音楽が切れると禁断症状を起こすほどの音楽アディクトだった私は、また非常に偏った音楽の好みを持っていました。クラシックでもポピュラーでも、とにかくジャンルにはこだわらないけれども、好きな作曲家やアーティストにのめり込むと、一途にその人だけを聴き続ける。たった一枚のアルバムを数ヶ月、下手をすれば数年に渡って聴き続けるのです。そんな自分が、これまでに一番はまったアーティストが、シンガー・ソングライターの山崎ハコさんでした。

 昨年は彼女がデビューして三十周年、今でもカルト的な人気を持つなんて表現をされる人ですから、知らない人は少ないと思います。最近、三十年前の彼女のファースト・アルバムセカンド・アルバムが、懐かしいジャケットとともにCDになって復刻されました。しかもオリジナルには無かったボーナス・トラック付き(最近この手で同じCDを二度買わされることが多い)。それでここ暫く聴いていなかった彼女の歌を、また聴き始めたのです。そしてあらためて思ったんです、とてもこの人は日本のいちフォーク・シンガーといった程度の位置付けで済まされる人ではないと。

 ハコさんが『飛・び・ま・す』というアルバムで衝撃のデビューを飾ったのは十八歳の秋、彼女と同い年の私も高校三年生で、ちょうど受験勉強の真っ最中でした。小林秀雄がランボオについて書いたひそみに習って言えば、彼女の歌は十八歳の私の心の中で炸裂したのです、以後数年間、私は山崎ハコという事件の渦中にいた。たぶん彼女のファンだった人にはみな経験があることだと思います。自分が幸運だったのは、十八歳の時の彼女の歌を、十八歳の感性でリアルタイムに体験出来たということです。コンサートにもよく出掛けました。ファンレターを書いたこともあったけど、返事は貰えなかった。(笑)

 『荒地』で有名なイギリスの詩人、T・S・エリオットに、『マイナー・ポエトリーとは何か?』という文章があります。これも学生時代に読んだ少しあやしい記憶ですが、真に偉大な詩人というのは、一世紀に一人か二人くらいしか出ないもので、歴史に名を残すほどではない小ぶりな詩人(マイナー・ポエット)の方がずっと数が多い。しかし、そういう小ぶりな詩人にも実は重要な価値があるので、それは読者が偉大な詩人に到達するためのステップになるというのです。自分も表現者として自己実現をしたいと思っていた当時の私は、ハコさんに対してはひそかな嫉妬の感情も持っていました。そしてエリオット理論を援用して、彼女は自分にとってひとりのマイナー・ポエットなのだと思い込もうとした。

 しかし、その後もどんな偉大な詩人に到達するでもなく、彼女の歌には折りにふれ回帰して行ったのです。既に中高年の域に達し、十代の頃の感性を失ってしまった今でも、特に彼女の初期のアルバムを聴くと、その圧倒的な存在感と、信じられないほどの情感の深さに言葉を失います。日本のポピュラー・ミュージックの世界で、これほどまでに深い精神性を持った歌い手が他にいただろうか?(たいへんなファン心理ですね。苦笑) 少なくとも、もっとメジャーになってもいい人だと思います。五輪真弓さんや中島みゆきさんや井上陽水さんといったアーティストと同様、クラシックとして残って行くべき人だと思う。

 ところが、常に偉大なマイナー・ポエットであった彼女の作品には、今ではもう手に入らないものが多いのです。CDも廃盤になったものが多いし、CDが世に現れる前のレコード時代の傑作には、一度もデジタル化されていないものも多い(『流れ酔い歌』、『歩いて』、『幻想旅行』等々)。また、アルバムには入っていないドーナツ盤にも傑作が多いのですが、これもCDにはなっていない(『桧原ふるさと』、『風の歌』等々)。私は本当に心配になります、こういった傑作たちのマスターテープは無事でいてくれてるのだろうか? これはどう考えても重要な文化財です。ぜひレコード会社には、こうした貴重な作品をデジタル化して、もう一度世に出して欲しいと思う。きっと今の若い人でもファンになる人は多い筈です。と、超マイナー・ブロガーの自分が呼びかけても、どうにもなりませんか…

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