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2006年2月22日 (水)

自己の中にもある対立軸

 例えば前回取り上げたような皇室の問題であるとか、靖国神社と戦争責任の問題、自衛隊のあり方や憲法改正の問題といった、今日の日本にとって非常に重要で、しかも国をあげての論争を巻き起こしている問題について考えてみると、その大元にあるのはみな同じ対立の構図だということに気が付きます。それが適切な言葉かどうか分かりませんが、要するに右翼思想と左翼思想の対立という構図です。第二次大戦で国粋的な軍国主義が破綻し、ソビエト連邦の崩壊で共産主義体制が行き詰まった現代という時代の思想状況について、そんな単純で図式的な捉え方で捉え切れる訳がない。にもかかわらず大抵の議論はこの対立軸の上に無理矢理乗せられてしまう。政治的な議論をする人に対しては、まずは右か左かで値踏みしようとする傾向は、今も厳としてあるように思います。簡単に言えば、相手が敵陣営なのか味方陣営なのかを見極めようとするのです。

 私はもともとどのような政治的立場にも立ちたくない人間だったので、政治的な問題に対する関心も薄かった。いや、自分の内面の問題に手一杯で、外部の世界のことにまで気が回らなかったのです。最近このブログを始めたのをきっかけに、政治の問題についても少しずつ考えるようになったというのが実のところです。それでテレビの時事討論の番組なども、機会があれば見るようにしているのですが、そこで不思議に思えるのは、出て来る人たちがみんな自分の信条を梃子でも譲ろうとしないことです。対話や討論というものが有益なのは、自分とは違う考えを持った人の意見を聞いて、それを自分の中で反芻して新しい自分の考えをまとめて行く、そのプロセスに意味があるからだと思います。ところが、マスコミに登場する有名な論客と言われる人たちには、そういう謙虚さというか柔軟性といったものが全然無いように感じられる。最初のうちこそ、専門家のいろいろな意見を聞いて啓発されたりもするのですが、そのうちに飽きて来る。いつも同じような顔ぶれで、しかも同じ人は同じことしか言っていない。相手の意見を聞こうとか、それを真面目に考えてみようという態度は、ほとんど皆無のように見受けられます。この人たちが対話を続けても、たぶん百年経っても議論は平行線なのではないかと思ってしまいます。

 これは自分の経験からというよりも、思索の結論として言うのですが、我々が他人との間で意見の対立を経験する時、その意見の違いや議論のぶつかり合いは、実はそれほど根の深いものではないのがほとんどの場合だと思うのです。人間誰だって最初から右翼思想や左翼思想を持って生まれて来る訳ではない、その時代の空気や周囲の人の意見に影響されて、自分の立場や思想というものを作って行くのでしょう。誰も自分の年齢よりも長い年月に渡って、ひとつの思想を信奉して来た人はいないのです。だとすれば、意見の対立が感情的なものにまでエスカレートしそうになった時には、自分が守ろうとしている思想や信念が生まれた時点まで戻ってみて、そこから仕切り直しをしてみたらどうだろう。そうすれば、議論は常に生産的なものになるでしょうし、相手を憎まずにいられないほどの排他的な信念というのも生まれようがないでしょう。

 天皇制の問題にしても、靖国参拝の問題にしても、虚心坦懐に自分の心を振り返ってみれば、世間で対立している二つの考え方が両方とも自分の中にあることに私は気付きました。以前、靖国問題について考えてみようと思い、高橋哲哉さんの本と小林よしのりさんの本を続けて読んだことがありました。ともに同じ天を戴かないというくらい鋭く対立する本ですが、私はその両方に共感しました。そしてこんなことを考えました。そもそも自分の心の中に、対立する要素を持っているからこそ、人は議論を仕掛け、自己を主張するのだとも言える。信条をめぐっての他人との対立というのは、実は自分の中にあって自分が否定したい部分を他人に投影しているだけなのかも知れない。もしもそれが無いなら、そもそも議論をする理由も無いではないか、と。例えば、全く異なる文明を持つ宇宙人と人類が遭遇した場合、そこには武力での対立や衝突はあるかも知れませんが、価値観をめぐっての対立や論争などは起こりようがないでしょう。人は多少は自分と似たところのある相手としか、心理的な対立を起こさないものなのではないか。

 これは同じ日本人同士なのだから、無益な近親憎悪のようなことはやめようという意味ではありません。国籍や宗教が違っていても同じことです。誰だって生まれてから後に身に付けたいろいろな知識や習慣や思想をはぎ取ってみれば、そこには<快と苦のセンサー>とでも呼ぶしかない裸の自我が現れるでしょう。自分が存在していることの不思議さを実感することは、哲学する者の常に立ち還るべき原点だと思いますが、そこまで遡ってみれば、そもそも意見や信条の対立ということ自体が相対化され、無化されてしまう地点に行き着くと思う。それは何か宗教的な悟りに達するというようなことでは全然なくて、むしろ風刺漫画家が口論をする二人の男を滑稽に描き出してみせる、その視点に近いものであるような気がします。出来れば、そういう視点を保ちながら、現代の様々な問題を考察してみたいと思う。そこまで達観してしまえば、天皇制の問題はおろか、北方領土や竹島(独島)の問題だって、イスラエルとハマスの問題だって、恐れるに足りずだ。哲学者を名乗る以上、そこまで腹をくくらなければ、政治の問題になど口出し出来るものではない。これは私の信念です。この信念については、私は梃子でも動きませんし、誰の反論も許しません。(笑)

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2006年2月15日 (水)

皇室典範問題私見

 小泉首相が第二の郵政問題にしようとしていた皇室典範の改正問題は、秋篠宮妃紀子様のご懐妊という思わぬ展開で、とりあえず棚上げとなりました。今回もまた党議拘束までかけて法案を通そうとしていた小泉さんにとって、これは実のところ思いがけない助け舟だったのではないかと思います。というのも、今回は自民党内にも反対論や慎重論が多く、このまま決議まで持って行けば、党内の分裂は避けがたいと思われたからです。そろそろ引き際を考えている小泉さんにとって、それは最後の失策になるのではないかと予想していました。

 血気盛んだった(?)若い頃には、自衛隊に反対し、安保に反対し、資本主義にも共産主義にも反対していた、気分的アナーキストだった私は、当然のことながら天皇制にも反撥する気持ちを持っていました。言ってみれば、ゆるやかな天皇制廃止論者といったところだったのだと思います。それでいて例えばテレビで〈皇室アルバム〉なんて番組をやっていれば、思わず見入ってしまうし、紀宮様の可愛らしい清楚なお姿を見ては目を細め、皇太子殿下のご結婚が決まったと聞けば、素直に良かったなあと安堵し、天皇皇后両陛下がサイパンを訪れ、韓国人慰霊塔を弔問されたというニュースを聞いては感激する、まあそんなふうな天皇制反対論者だった訳です。よく考えてみれば、自分はどんな政治的党派に立つために生まれて来た訳でもなかったし、そうであってみれば、天皇制についても強く反対する理由など無いことに気付いた。ごく一般の日本人の感覚に戻ってみれば、天皇家に対する自然な親愛の情が自分の中にもあることを、否定は出来なかったのです。

 「皇室典範に関する有識者会議」(この命名もなんだかなあ)のまとめた報告書を読んでみました。この問題に対する過去の歴史も説明されていて、それなりに勉強になったのですが、どうしてもひとつ納得の行かないことがあります。それはこの問題をめぐっての政治家や評論家の発言を聞いていても感じることなのですが、天皇制の問題を論じながら、当の天皇家の人たちの気持ちにまったく配慮していない議論になっているということです。例えば、この報告書を皇太子妃雅子様が読まれたらどう感じるだろう? 自分のような下々の者でも経験することですが、結婚後しばらくして「お子さんはまだ?」と聞かれるのは、決して愉快なことではありません。最近は不妊症で悩む夫婦のこともそれなりに認知されて来て、そういう質問自体がぶしつけなものであることが、だんだん常識になって来たのは嬉しいことですが、こと天皇家に対しては、この世間の常識が通用しないらしい。通勤電車の中で見た週刊誌の中吊り広告には、こんな見出しが踊っていました、『秋篠宮さま遠慮を捨てた日』、『雅子妃その悲痛な決意』、『男女判明後の小泉vs男系派バトル』。日本を代表するマスコミの、この心ない言葉の連発は、一体何としたことか。

 有識者と呼ばれる人たちのコメントも、よく聞いてみると、ずいぶんひどいことを言っています。女性は生理があるので祭祀を司る天皇には相応しくないだとか、昔は側室制度があったので男系を守りやすかったが現代ではそうも行かないだろうだとか、皇統は世俗の権利など超越しており男女同権の例外であるだとか、女性天皇はいいが女系天皇を認めると太古の昔から続いて来たY染色体の連続性を断つことになるのでよろしくないだとか。その論調は、失礼な言い方ですが、天皇制のことを論じているというよりも、まるで絶滅危惧動物のトキやパンダのことを話題にしている言葉のように私には聞こえてしまいます。天皇家不在の天皇制論議。きっとそれは、日本の歴史に対する尊敬の気持ちや天皇家に対する自然な敬愛の気持ちが言わせている言葉ではなく、論者が抱いているイデオロギーが言わせている言葉だからなんだろうと思います。

 女系天皇反対派の主張は、神話の時代から数えて二千六百年以上続いて来た我が国の伝統を、現代人の浅はかな判断で壊すべきではないというものです。そんな愚かなことをすれば、後世の人々は現代の我々のことをどのような目で見るだろう。しかし、私はそんな議論をする人には逆に問いたい気がします、あなたがたが想像している後世の人たちというのは一体どういう人たちのことなのかと。例えば百年後、我々の子孫である未来の日本人が、あの時おかしな判断をして男系天皇の伝統を断ち切らなくて良かった、そんな回想をする日が来るのだろうか? まじりっけのない正統なY染色体が守られたおかげで、日本人は変ることなく天皇に対する尊敬を持ち続けられた、百年後の人々は本気でそんなことを考えるのだろうか? 私にはとても想像出来ませんし、想像したくもないです、そんな子孫を我々が持つなんてことを。

 戦争という非常につらい体験を経て、日本は大きく変りました。しかし、それでも天皇制は残ったのです。戦後、天皇は人間宣言を出され、象徴天皇という位置づけになった。昭和の御代から天皇家は側室を設けることをしていませんし、お妃も民間から迎えられるようになった。そういう天皇家であればこそ、我々平成の世の民草も、新しい時代の中で開かれた皇室に対して親近感を持てるようになったのだと思います。とうに変化は始まっているのです。男系天皇の歴史が二千六百年続いたと言うなら、今度は次の二千六百年をかけて、家父長制にとらわれない男女平等な皇室の歴史を創って行けばいい。どう考えても、これからの皇室のあり方はその方向しかないでしょう、日本が再び父系社会に逆戻りしない限りは。伝統を守れと言うけれど、伝統というのは過去に固定して封印すべきものではない、現在生きている我々が新たに築いて行くべきものだと思います。

 象徴天皇というのは、一体何の象徴なのか? 日本という国の伝統の象徴なのか、戦後日本の民主主義の象徴なのか? 私の考えは違います。これは私の個人的な意見ですが、現在の天皇家は、言ってみれば日本の幸福な家庭の象徴なのだと思います。私たちは愛子様のご誕生を喜び、紀宮様のご結婚を喜び、紀子様のご懐妊を喜び、そして皇后様や雅子様のご病気に心を痛める。そこに自らの人生を投影してみているからです。皇室の方々には、ぜひ我々のお手本となるような幸せなご家庭を築いて欲しい、それがまず一般的な日本人が持っている当り前な感情なのではないかと思います。ですから、もしも皇室典範の改正を議論するなら、側室の問題や染色体の問題などよりもまず、皇室の方々の人権という観点から議論を始めて欲しいと私は思う。何しろ彼らは日本で一番不自由で、理不尽な境遇に置かれている人たちなのですから。

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2006年2月 5日 (日)

クオリア? ミーム? オートポイエーシス?

 一応、ブログのタイトルに哲学者の看板を出している以上、お気楽な時事放談よりも、真面目な哲学的エッセイに主軸を置きたいと思っているのですが、なかなかこちらの方は、新しい話題だとか書くべきテーマが見付かりません。テーマはいつも同じで、心と身体の二元論であるとか、自我の実体性であるとか、とにかく三十年考え続けても、思考は堂々めぐりを繰り返すばかりで、答えの出ないようなことばかり考えている。ブログのネタに取り上げようとしても、目新しい記事にはなりようがないのです。まったく哲学病というのは、ブロガーにとっても非生産的な病気です。今日もまた大事な問題への答えが見付からないまま一日が終ってしまった、そう考え続けて三十年が経ってしまった。

 で、自分のなかにいい答えが見付からない時には、どうしたらいいか? 本を読むことです。学生時代にも、もちろん関心のある分野でしたから、哲学に関する本は結構読みました。今でも自分の本棚には、古今の哲学者の名著と呼ばれる書物が(だいたいは岩波文庫版で)並んでいます。もうボロボロになっているのは、折にふれて手に取っているからではなく、三十年の年月が本を風化させたのです。ブログを始めたのをきっかけに、最近また哲学関係の本を少しずつ読むようにしています。と言っても、ピークをとうに過ぎてしまったふやけた脳味噌では、外国の哲学者が書いたぶ厚い原書(もちろん翻訳)などはとても歯が立たない、どうしても同時代の著者の書いた解説本のようなものを(だいたいは手軽に買える新書本で)読むことになります。とりあえずは三十年のブランクを手っ取り早く埋めなきゃならん。哲学の世界なんて、百年単位で見ても大した進歩の無い世界ですから、解説本の二、三冊も読めば、いっぱし現代哲学を語れるようになるだろう、そんなふうに高をくくっていたのです。

 ところが、久し振りに哲学の世界に戻ってみると、見たことも聞いたこともないコトバがたくさんあふれている。もともと学生時代にだって、一般には使われないような哲学独特の用語は苦手でした。〈アポリア〉だとか〈エポケー〉くらいならまだ許せるが、〈エクリチュール〉だとか〈シニフィアン・シニフィエ〉なんて気取った言葉を使われると、なんだか背中がむずがゆくなる。誰でも分かるような日本語で言ってくれと、啖呵のひとつも切りたくなるのです。私が身を置いているコンピュータの業界では、毎月のように新しいカタカナ語やアルファベット語が生み出されては消えて行きますが、これはまあ商売のネタなんだから仕方がない。しかし、時代や流行を超越した、普遍的な真理を探究する筈の哲学の領域で、コンピュータ業界のように新しい造語をどんどん生み出してどうする。まあ、それもある種の人たちにとっては商売なので仕方ないのかも知れませんが、それで果して哲学史二千年の〈アポリア〉を解くことが出来るのか? それはただ意味ありげな専門語の陰にかくれて思考が〈エポケー〉しているだけではないのか?

 日本語は抽象的な概念を扱うためにはひどく貧弱な言語なので、明治以来西洋の思想を輸入するなかで、さまざまな造語を生み出さざるを得ませんでした。しかもそれを和語(やまとことば)ではなく、漢字の造語力に頼らざるを得なかったのです。今ではもう当り前の日本語として定着している〈概念〉だとか〈現象〉だとか〈哲学〉という言葉そのものも、みな明治の文明開化のころに作られたものです。その後、哲学や社会科学の領域は非常に専門的になり複雑になったので、漢字の造語力でも間に合わなくなった。それで外来語をそのままカタカナ表記で使うことが一般化したのだと思います。これはとても安易な方法であると同時に、便利なことでもありました。漢字の熟語であれば、それはそれなりに日本語の単語としての語感を具えなければならないので、なかなか哲学の世界でも認知されるのに時間がかかる。しかし、外来語そのままなら、たとえ意味は分からなくても、外国の有名な哲学者が使ったコトバだというだけでなんとなく認知されてしまうし、どうしても漢字につきまとう衒学臭さをやわらげてもくれる。それに哲学の用語なんて、今も昔もはやりすたりが激しい分野ですから、いつの間にか消え去る運命にある言葉なら、わざわざ日本語に置き換えるまでもない。これが現代哲学の世界に見なれないカタカナ言葉が氾濫するようになった理由であろうかと思います。

 しかし、私はこのように哲学に不向きな言語だからこそ、日本語で哲学することの利点もあると思うのです。それは安易な観念の遊びに陥らずに、哲学の中心にある問題にまっすぐ跳び込んで行けるというメリットです。もちろん私は、現代思想の果実である豊富な概念群を否定するつもりはありません。ただそういった新しい概念は、一般的にそれを発明した思想家本人の著作の中にあってこそ意味のあるものなのではないかと思っています。〈エピゴーネン〉というのも最近はあまり使われない言葉ですが、耳なれない哲学用語をいかにもそれが周知の概念であるかのように論文の中に散りばめる文章は、一般人の感覚からすると何か滑稽なものでさえあります。私自身は日本語で哲学的な思考をすることに何の不便も感じていませんし、西洋の概念を使えば自分にとって三十年来の難問だと思っている問題が解けるとも思っていません。むしろふつうの日本語で説明出来ないような哲学なら、他のどんな言語だって説明は出来ないだろうと思っています。

 クオリア、ミーム、オートポイエーシス。今回はそんなタイトルを付けてみましたが、ノミネートされる言葉はまだまだあります。〈リゾーム〉、〈ノマド〉、〈アフォーダンス〉、〈シミュラークル〉、〈トポフォリア〉、〈ハビトゥス〉、〈シナージェスティクス〉、〈ディアスポラ〉、〈ミュンヒハウゼンのトリレンマ〉…、どうでしょう? このブログを覗いてくださっている方なら、きっと哲学に関心のある方でしょうから、これらの言葉の意味や用法をすべてわきまえている方もいらっしゃるかも知れない。しかし、まあ一般には目にすることも耳にすることもないような言葉たちです。これらの言葉は、果して百年後にも生き残っているだろうか? 例えば昔の偉い哲学者が提唱した斬新な概念、ライプニッツのモナドだとか、ヘーゲルのアウフヘーベンだって、生き残っているのは哲学の教科書の中でだけです。自らの思想がどんなに語りがたいものであるにせよ、それを新しい造語によって表現することは、結局は哲学を狭い象牙の塔に閉じこめることにしかならないのではないか。

 例えばクオリアという言葉は、まさに私の哲学的関心の中心にある問題と重なる言葉です。しかし、私には、それがショウペンハウエルが『意志と表象としての世界』で使った表象という言葉や、大森荘蔵氏が〈立ち現れ〉という言葉で表現したものと何が違うのか分からない。ただ、なんとなく斬新な感覚がするだけです。ある時、ひとりの少年が、横断歩道の信号を待ちながら、こんなことを考えます。いま僕は赤信号で止まっている、さあ青になったので歩き出そう。でも、待てよ、一緒に歩いている周りの人たちは、僕が青だと感じているのと同じように、青信号を見ているのだろうか? もしかしたら、僕が感じている青という感覚は、他の人にとっては赤なのかも知れない。しかも、よく考えてみれば、そんなふうに感覚の反転が起こっていたとしても、お互いにとって同じように青信号は進めだし赤信号は止まれなのだ。そこには何の矛盾も起こらないし、一生そのことに気付くことさえないのではないか? これは大発見です。少年は、興奮して担任の先生にこのことを報告に行きます。すると、親切な先生はこう答えるのです。「ああ、それはいいことに気付いたね。それは哲学の分野ではクオリア問題というんだよ」。こうして、少年にとって世紀の大発見は、ありふれた教科書の知識として分類されてしまうのです。

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