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2006年2月 5日 (日)

クオリア? ミーム? オートポイエーシス?

 一応、ブログのタイトルに哲学者の看板を出している以上、お気楽な時事放談よりも、真面目な哲学的エッセイに主軸を置きたいと思っているのですが、なかなかこちらの方は、新しい話題だとか書くべきテーマが見付かりません。テーマはいつも同じで、心と身体の二元論であるとか、自我の実体性であるとか、とにかく三十年考え続けても、思考は堂々めぐりを繰り返すばかりで、答えの出ないようなことばかり考えている。ブログのネタに取り上げようとしても、目新しい記事にはなりようがないのです。まったく哲学病というのは、ブロガーにとっても非生産的な病気です。今日もまた大事な問題への答えが見付からないまま一日が終ってしまった、そう考え続けて三十年が経ってしまった。

 で、自分のなかにいい答えが見付からない時には、どうしたらいいか? 本を読むことです。学生時代にも、もちろん関心のある分野でしたから、哲学に関する本は結構読みました。今でも自分の本棚には、古今の哲学者の名著と呼ばれる書物が(だいたいは岩波文庫版で)並んでいます。もうボロボロになっているのは、折にふれて手に取っているからではなく、三十年の年月が本を風化させたのです。ブログを始めたのをきっかけに、最近また哲学関係の本を少しずつ読むようにしています。と言っても、ピークをとうに過ぎてしまったふやけた脳味噌では、外国の哲学者が書いたぶ厚い原書(もちろん翻訳)などはとても歯が立たない、どうしても同時代の著者の書いた解説本のようなものを(だいたいは手軽に買える新書本で)読むことになります。とりあえずは三十年のブランクを手っ取り早く埋めなきゃならん。哲学の世界なんて、百年単位で見ても大した進歩の無い世界ですから、解説本の二、三冊も読めば、いっぱし現代哲学を語れるようになるだろう、そんなふうに高をくくっていたのです。

 ところが、久し振りに哲学の世界に戻ってみると、見たことも聞いたこともないコトバがたくさんあふれている。もともと学生時代にだって、一般には使われないような哲学独特の用語は苦手でした。〈アポリア〉だとか〈エポケー〉くらいならまだ許せるが、〈エクリチュール〉だとか〈シニフィアン・シニフィエ〉なんて気取った言葉を使われると、なんだか背中がむずがゆくなる。誰でも分かるような日本語で言ってくれと、啖呵のひとつも切りたくなるのです。私が身を置いているコンピュータの業界では、毎月のように新しいカタカナ語やアルファベット語が生み出されては消えて行きますが、これはまあ商売のネタなんだから仕方がない。しかし、時代や流行を超越した、普遍的な真理を探究する筈の哲学の領域で、コンピュータ業界のように新しい造語をどんどん生み出してどうする。まあ、それもある種の人たちにとっては商売なので仕方ないのかも知れませんが、それで果して哲学史二千年の〈アポリア〉を解くことが出来るのか? それはただ意味ありげな専門語の陰にかくれて思考が〈エポケー〉しているだけではないのか?

 日本語は抽象的な概念を扱うためにはひどく貧弱な言語なので、明治以来西洋の思想を輸入するなかで、さまざまな造語を生み出さざるを得ませんでした。しかもそれを和語(やまとことば)ではなく、漢字の造語力に頼らざるを得なかったのです。今ではもう当り前の日本語として定着している〈概念〉だとか〈現象〉だとか〈哲学〉という言葉そのものも、みな明治の文明開化のころに作られたものです。その後、哲学や社会科学の領域は非常に専門的になり複雑になったので、漢字の造語力でも間に合わなくなった。それで外来語をそのままカタカナ表記で使うことが一般化したのだと思います。これはとても安易な方法であると同時に、便利なことでもありました。漢字の熟語であれば、それはそれなりに日本語の単語としての語感を具えなければならないので、なかなか哲学の世界でも認知されるのに時間がかかる。しかし、外来語そのままなら、たとえ意味は分からなくても、外国の有名な哲学者が使ったコトバだというだけでなんとなく認知されてしまうし、どうしても漢字につきまとう衒学臭さをやわらげてもくれる。それに哲学の用語なんて、今も昔もはやりすたりが激しい分野ですから、いつの間にか消え去る運命にある言葉なら、わざわざ日本語に置き換えるまでもない。これが現代哲学の世界に見なれないカタカナ言葉が氾濫するようになった理由であろうかと思います。

 しかし、私はこのように哲学に不向きな言語だからこそ、日本語で哲学することの利点もあると思うのです。それは安易な観念の遊びに陥らずに、哲学の中心にある問題にまっすぐ跳び込んで行けるというメリットです。もちろん私は、現代思想の果実である豊富な概念群を否定するつもりはありません。ただそういった新しい概念は、一般的にそれを発明した思想家本人の著作の中にあってこそ意味のあるものなのではないかと思っています。〈エピゴーネン〉というのも最近はあまり使われない言葉ですが、耳なれない哲学用語をいかにもそれが周知の概念であるかのように論文の中に散りばめる文章は、一般人の感覚からすると何か滑稽なものでさえあります。私自身は日本語で哲学的な思考をすることに何の不便も感じていませんし、西洋の概念を使えば自分にとって三十年来の難問だと思っている問題が解けるとも思っていません。むしろふつうの日本語で説明出来ないような哲学なら、他のどんな言語だって説明は出来ないだろうと思っています。

 クオリア、ミーム、オートポイエーシス。今回はそんなタイトルを付けてみましたが、ノミネートされる言葉はまだまだあります。〈リゾーム〉、〈ノマド〉、〈アフォーダンス〉、〈シミュラークル〉、〈トポフォリア〉、〈ハビトゥス〉、〈シナージェスティクス〉、〈ディアスポラ〉、〈ミュンヒハウゼンのトリレンマ〉…、どうでしょう? このブログを覗いてくださっている方なら、きっと哲学に関心のある方でしょうから、これらの言葉の意味や用法をすべてわきまえている方もいらっしゃるかも知れない。しかし、まあ一般には目にすることも耳にすることもないような言葉たちです。これらの言葉は、果して百年後にも生き残っているだろうか? 例えば昔の偉い哲学者が提唱した斬新な概念、ライプニッツのモナドだとか、ヘーゲルのアウフヘーベンだって、生き残っているのは哲学の教科書の中でだけです。自らの思想がどんなに語りがたいものであるにせよ、それを新しい造語によって表現することは、結局は哲学を狭い象牙の塔に閉じこめることにしかならないのではないか。

 例えばクオリアという言葉は、まさに私の哲学的関心の中心にある問題と重なる言葉です。しかし、私には、それがショウペンハウエルが『意志と表象としての世界』で使った表象という言葉や、大森荘蔵氏が〈立ち現れ〉という言葉で表現したものと何が違うのか分からない。ただ、なんとなく斬新な感覚がするだけです。ある時、ひとりの少年が、横断歩道の信号を待ちながら、こんなことを考えます。いま僕は赤信号で止まっている、さあ青になったので歩き出そう。でも、待てよ、一緒に歩いている周りの人たちは、僕が青だと感じているのと同じように、青信号を見ているのだろうか? もしかしたら、僕が感じている青という感覚は、他の人にとっては赤なのかも知れない。しかも、よく考えてみれば、そんなふうに感覚の反転が起こっていたとしても、お互いにとって同じように青信号は進めだし赤信号は止まれなのだ。そこには何の矛盾も起こらないし、一生そのことに気付くことさえないのではないか? これは大発見です。少年は、興奮して担任の先生にこのことを報告に行きます。すると、親切な先生はこう答えるのです。「ああ、それはいいことに気付いたね。それは哲学の分野ではクオリア問題というんだよ」。こうして、少年にとって世紀の大発見は、ありふれた教科書の知識として分類されてしまうのです。

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コメント

私は「ソフィーの世界」は良い本だと思いました。とても読みやすく、わかりやすい。ソフィーに向けられた『あなたはだれ』という問いこそ、哲学の最原点ですよね。

私はいったい何者なのだろう、なぜここにいるのだろう。なぜ世界が見えるのだろう。なぜ世界にさわれるのだろう。私はどこから来て、どこへ行こうとしているのだろう。私が死んだら私自身が消え去るのなら、私は死ぬまでの間に、何をすればいいのだろう。何をするのが本当に自分らしいと言えるのだろう。私はいったい何のために生まれてきたのだろう。古来から神と呼ばれてきたものは、何のことだろうか。神は存在するのだろうか。もし存在するとしたら、私とどういう関係にあるのだろうか。

こういう問いに一生無縁でとおす人も多いです。いえ、この問いにつかまってしまう人のほうが、ごく少数だし、変人です。病気です。

この問いはまったく生産的でないです。時間を空費するだけです。釈迦が阿含経で、こんなことを言っているそうです。

「毒に当たった病者よ、生の意味を問うな」

でもブログに何か書かずにいられないんですよねぇ。困ったもんです。(お互いに?)

投稿: mori夫 | 2006年2月 7日 (火) 18時22分

いつもコメントをありがとうございます。たったひとりでも(?)読者がいてくれるということは、とても勇気づけられます。(笑)

『ソフィーの世界』、気にはなっている一冊なんですが、まだ読んでいません。哲学の愛好家なら目を通しておいた方がいい本なのでしょうね。他にも『ゲーデル、エッシャー、バッハ』だとか『利己的な遺伝子』だとか。でも、どれもみんな本が厚くって…(笑) 『ソフィーの世界』は読みやすそうだから、図書館で借りて読んでみようかな。

最近は哲学専門の哲学書というのも少ないような気がします。自然科学や社会科学の知見を活かして、哲学的なテーマに取り組むといった書物の方が主流なんではないでしょうか。そりゃそうですよね、いわゆる思弁哲学なんてものが、二十一世紀の今日、受け入れられる筈がない。もう人類は頭で考えられるくらいのことは、すべて考え尽くしてしまっているのでしょう。とすると、我々のやっていることは、とっくに掘り尽くされてしまった鉱山を、素手で削っているようなものなんですかねえ。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年2月 9日 (木) 00時29分

>たったひとりでも(?)読者がいてくれるということは、とても勇気づけられます。

内容の濃い文章をいくつもお書きになっているのですから、もったいないです。営業に出てみられてはいかがですか?(笑) 私もたまに出ます。私と趣味のあいそうな人のブログや掲示板へ行ってコメントを投稿し、自分のブログのURLを記すのです。そうやってネット友人になった人が、私にはたくさんいます。

>『ソフィーの世界』は読みやすそうだから、図書館で借りて読んでみようかな。

分厚い本ですけど、中高生向けに書かれているため、とても読みやすくわかりやすいです。と言っても内容が浅いわけではなく、大人が読んでも、ちっとも退屈しない本です。哲学とその歴史がかなり広く説明されていて、本のカバーイラストもとてもかわいらしく、私の愛読書です。

>我々のやっていることは、とっくに掘り尽くされてしまった鉱山を、素手で削っているようなものなんですかねえ。

哲学は学問とは言えないですよね。法学や人類学や心理学などの○○学と名のつくものと同じような「学問」ではない。学問に必要な客観的な理論性というものがない。カントはこう言った、フッサールはこう言った、というものしかない。「哲学者」学者や「哲学史」学者は、大学に行けばいますが、”哲学者”は、大学にはほとんどいないらしい。(大学教授になるための論文は、哲学者研究か哲学史研究でないとダメなようなので。)

逆に「オレは本当は何者なのだろう」と、いつも考えている人は、全員哲学者ですよね。本の知識や人の言うことを鵜呑みにせず、自分の経験をもとに、自分の頭で考える。わたしたちは、そういう星のもとに生まれてきているので、終生、哲学者で通しましょう。(笑)

投稿: mori夫 | 2006年2月 9日 (木) 18時07分

mori夫さん、またまた温かいコメントをありがとうございます。そうかあ、やっぱり営業が必要なのかあ。営業と聞くと、どうもそれだけで腰が引けてしまいます。営業が出来れば、ビジネスの世界での自分も、もう少しマシなものになっていたかも知れないのですが。(笑)

でも、もしも自分が書いているような文章に興味を持ってくれる人がいるとすれば、それを知らせる努力をするのもブロガーたる者の大事な仕事ですよね。そうでなければ何もインターネット上にブログを公開しなくても、自分だけの日記を書いていればいいんですから。以前、cosmo_sophyさんがメタブログ論と称して、素晴らしい分析をされていました。

http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050307

この分類に従えば、今の自分は「マイペース型」または「唯我独尊型」でしょうが、やはり「一般的コミュニティ型」くらいを目指したいところです。最初の頃はそれなりにトラックバックを送ったり、コメントを書き込んだりもしていたのですが、最近はどうも余裕が無くて、それもしていません。「友達を作りたければ、自分から友達の輪の中に入っていかなくちゃ」、これは子供の頃に学んだ貴重な人生の教訓ですね。(笑)

哲学が「学」ではないというのは、その通りだと思います。私も実は学生時代は、文学部の哲学科というところに籍を置いていたんです。でも、その時に分かったことは、大学というのは「哲学学」を教えるところではあっても「哲学」を教えるところではないということでした。というのはまあ主観的な意見で、客観的には単に現代哲学の難解な概念操作について行けなかっただけなんですが…。

『ソフィーの世界』はぜひ時間を見つけて読んでみようと思います。中高生向きの哲学史の本と言うと、ニーチェのことをどんなふうに紹介しているか、ちょっと興味があります。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年2月10日 (金) 01時19分

>私も実は学生時代は、文学部の哲学科というところに籍を置いていたんです。

どっひゃ~~~~~、、、椅子からずり落ちてしまいました。(汗、汗、汗、・・・) そんなこととは露知らず、まことに失礼な発言、どうかご容赦を。ネットで見たわずかな噂にすぎないのに、それをもとに本職の大学の先生をバカにするなんて。反省です。

>『ソフィーの世界』はぜひ時間を見つけて読んでみようと思います。

対話形式(小説風)の入門書ですから、Like_an_Arrowさんが読まれるようなものではないと思います。釈迦に説法でした。恥ずかしいです。

ご紹介のURLから引用させていただきます。
http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050307
■引用はじめ■
1.現実世界でURLを知らせた友人知人のみが閲覧して反応してくれれば良い……リアル直結コミュニティ型
2.インターネットの内部で知り合いになった友人知人を中心として“批判的でない信頼できる人”だけが閲覧して反応してくれれば良い……mixiに代表されるようなSNS的ネットコミュニティ型
3.自分のテキストの魅力に応じた閲覧者数が適度に確保されていればよく、余りに多い閲覧者は逆にプレッシャーになることがある……儀礼的無関心を求めるマイペース型
4.閲覧者数の最大化を求めず、自然に集まる閲覧者と穏やかな交流を深めていければよい……一般的コミュニティ型
5.リンクや検索エンジンを辿って出来るだけ多くの人に閲覧して貰いたいが、特別反応を求めるわけでもない……トータルアクセス&ユニークアクセス重視型
6.リンクや検索エンジンを辿って出来るだけ多くの人に閲覧して貰うと同時に、批判的であっても構わないので感想や意見を活発に貰い、対立的な論戦さえも楽しむ事ができる……議論促進コミュニティ型
7.出来るだけ多くの人に閲覧して貰うと同時に、共感や承認のメッセージを貰って友好的な交流を行っていきたい……理想的コミュニティ型
8.閲覧者の存在やアクセス数を余り意識せず、自分の書きたい内容の記事を自由に書ければそれでよい……気ままな唯我独尊型
■引用おわり■

この中から選ぶとしたら、私は議論促進コミュニティ型ですね。ネットに出す以上、なるべく多くの人に読んでもらえなければ意味がないと考えます。それから批判や反論を嫌って、「仲良し仲間」だけでコミュニティに安住するのも、不毛だと思います。自己満足に溺れて、進歩、発展がない。自分の思索や思想が深まらない。「知の森」では、太平洋戦争とか自衛隊問題をめぐって激論をしてきました。これはこれで、私にはとても有意義でした。 なんてカッコイイこと言っても、論争するにはかなりの気力と忍耐がいりますけどね。腹が立っても罵詈雑言の投げ合いにならないように気をつける。喧嘩別せず、相手の理解と共感を得るために、論拠説明のための文章表現や事例引用を工夫する。私には非常によい修行となりました。

他者と対話しない者は、”哲学者”とは言えないように思います。対話しないと自分の考え方や言い方の、どこがおかしいか、どこが拙いか、ということがわからない。(また釈迦に説法ですね。すみません。) ブログは議論掲示板と違って、反対者や批判者からのコメントがほとんどつきません。掲示板が「広場」であるに対して、ブログはその人の「個人宅」なので、他人の家にまで入り込んで反論する人は、多くないのでしょうね。これは、ブログのよい点でもあり、悪い点でもあると思っています。なので私は、掲示板サイトにも、いくつか出入りして議論しています。しかし「ブログはこうでなくてはならない」というのは無いわけで、人それぞれ、個性的なブログを開いて楽しんでいることを批判するつもりは、全くありません。(当たり前ですよね。)

とここまで書いておきながら、ではありますが、やはり友好的なコメントがつくことはうれしいですよね。何だか元気になる。その日いち日が、にこやかな気分で過ごせる。自分の書いたものがわかってくれて、ほめてくれる人がいる。これは文句なく心の励みになります。だからブロガーとしては、いいな、と思うブログ記事に接したら、それを素直に伝えるコメントを書くのも、とても大切なことだと思っています。

投稿: mori夫 | 2006年2月11日 (土) 12時53分

> そんなこととは露知らず、まことに失礼な発言、どうかご容赦を。

いえいえ、とんでもありません。こちらこそ汗顔の至りです。<チューリングテスト>だとか<サールの中国語の部屋>だとか、それまで私が知らなかったような言葉を駆使されるmori夫さんの方が、哲学のご専門家なのかと思っていました(笑)。学生時代に哲学を専攻したと言っても、もう25年以上前のことですし、その世界をドロップアウトした自分は、フッサールもメルロ・ポンティもジャック・デリダも読んだことはありません。mori夫さんのおっしゃるように、『「オレは本当は何者なのだろう」と、いつも考えている』という正しい意味で、<巷間哲学者>を名乗らせてもらっています。

『ソフィーの世界』読み始めました。この本に関心があったのは、たぶん哲学史を扱った書物として、初めての世界的なベストセラーというふれこみだったからです。ふつう哲学史の教科書なんてつまらないじゃないですか。それを若い人向けの読み物として、ファンタジー小説に仕立て上げたという点に興味がありました。でも、いまさら子供向けの入門書なんて読めるかという、多少の驕りがあったのも確かです。考えてみれば、微力ながら自分も目指しているのは、ふつうの人が読んでも面白いと感じてもらえる哲学的エッセイなんですね。

『他者と対話しない者は、”哲学者”とは言えないように思います。』このご意見は、mori夫さんの言葉としてはごもっともだと思いますが、私はもう少し違うニュアンスで哲学者という類型を捉えています。つまり、人間社会を離れた<隠者>としての哲学者というタイプもあっていいと思うんです。若い頃ニーチェに惑溺していた自分にとっては、例えばツァラトゥストラのようなタイプですね。自己の中にどこまでも沈潜して、その深い井戸の底から真理をつかみ取って来る、そういったイメージです。自分がそういう哲学探究者になりたいと思っている訳ではありませんが、いわば憧れのタイプですね。だから例えばサルトルのような哲学者は、あまり好きになれません。

mori夫さんがおっしゃっている掲示板サイトというのは、「日曜思想家の館」のことでしょうか? ちょっとタイトルを覗いただけでも、興味のあるテーマがたくさん並んでいますね。ぜひ時間のある時にじっくり読んでみたいと思います。ただ、掲示板というのはブログ以上にリアルタイムに応答しないとついていけない世界なので、ひとつのことを考え始めると1、2週間すぐに経ってしまう自分のような人間には向かないかも知れません。やっぱりここは<隠者>として引きこもる方が…。(笑)

投稿: Like_an_Arrow | 2006年2月12日 (日) 12時40分

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