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2006年1月17日 (火)

スピリチュアリズムについて

 mori夫さんのブログで、「スピリチュアリズム」について考察されているのを読んで、自分もこの話題についてひと言書いてみたくなりました。むかし自分が学生だった三十年くらい前には無かったと思うのですが、今では哲学書の棚の近くに、「精神世界」だとか「ニューエイジ」なんてコーナーがどこの書店にも見られるようになりました。いや、近頃では人気のある心霊家と呼ばれるような人の本が、〈ふつうの〉新刊のコーナーに置かれていたりもします。現代はなにごとにおいてもボーダーレスな時代と言われますが、あの世とこの世の境界も曖昧になって来ているらしい。スピリチュアリズムもすっかり市民権を得たということでしょうか。

 私はいわゆる心霊現象だとか、前世や生まれ変わりといったことを頭から否定する考えは持っていません。自分自身はまるで霊感といったものを持ち合せない人間なので、実感を持ってその存在を感じ取ることが出来ないのが残念ですが、この世のすべては物質の現象で説明がつくという唯物論の見方よりも、夢があっていいのではないかとさえ思っています。あからさまな政治的意図を持った団体の教義や、金儲け主義まるだしの新興宗教のようなものには閉口しますが、個人的な関心や信仰の範囲でスピリチュアリズムに取り組むことは、むしろ心を豊かにすることであるかも知れないと思っています。

 私がスピリチュアリズムにこのような好意的な考えを持っているのは、例えばブライアン・ワイス博士だとか、一昨年亡くなったキューブラー・ロス女史の本を読んで、ある種の親近感を感じたことがそのおおもとにあります。前世療法で有名なワイス博士は、もとは心霊現象などまるで信じない精神科医だったのだそうです。それが催眠療法の最中に患者の前世を垣間見てしまったことがきっかけで、生まれ変わりというものを信じるに至った。私は生まれ変わりや前世といったものの存在自体には関心は無いのですが(というより、それは証明も反証も不可能なものだと思っています)、ワイスさんの本が多くの読者に現実に救いを与えているという事実に対しては、おおいに関心があります。

 霊界や前世についてはまるで不案内でも、私は文学の領域では多少の経験を積んでいるつもりなので、ある書物の文学的価値については自分なりに判断出来ると思っています。ブライアン・ワイスさんの本や、キューブラー・ロスさんの本は、世の中に多く出回っているオカルト本の類とは、確かに一線を画す内容を持っていると思います。それは現代における新しい信仰のありかたというものにも示唆を与えるものではないかとさえ思う。ワイス理論では、人は輪廻を繰り返しながら、それぞれの人生の中で様々な困難を乗り越え、それによって人間的な成長を果たして行くのだと説きます。図式的に見ても、この考え方は、例えばこの世で善行を積めば死んでから極楽に行けるとか、神を信じれば最後の審判で天国に入れてもらえるといった教義よりも、ずっと洗練されているし、道徳論的に見ても価値のあるものではないかと思うのです。

 日本でこの考え方を普及しようとしている人に、飯田史彦さんという大学の先生がいます。ベストセラーを数多く持つ著者なので、ご存知の方も多いと思います。この方のホームページを覗いてみれば、そこには全国から寄せられたたくさんの読者からの手紙を通して、苦難の多い生活を懸命に生きようとしている人たちの日常の姿が、圧倒的な迫力で伝わって来ます。飯田さん自身は、霊能者でもカウンセラーでもないそうですが、いわばスピリチュアリズムの伝道者として、医療機関や福祉施設などとも連携しながらネットワークを広げているそうです。たぶん敵も多いのではないかと思いますが、それは誰かが果たさなければならない重要な役割であるような気もします。

 その飯田さんが、著書の中で面白いことを書いていました。手元に本が見付からないのでうろ覚えですが、こういう意味のことです。来世というものを信じる人生と信じない人生を比べてみると、論理的に言って、来世を信じる人生の方が利得が大きい。何故なら、来世を信じていれば、現世のつらさも来世でよりよい人生を手に入れるためだと思えば耐えやすいし、実際に死んでみて来世があることが分かれば、喜びもひとしおの筈である。また、たとえ来世など無くて、死んだ後は無だったとしても、その時には心も無くなっているのだから、裏切られたと思うこともない。一方、来世を信じない人生では、現世での不幸や失敗は取り返しのつかないものとして迫って来るので耐えがたいし、もしも死んでみて来世があることに気付いたとすれば、それを信じずに生きた自分が愚かだったと後悔することになる。またたとえ来世が無くて、死んで無になったとしても、その時には心も無いのだから、ほら見ろ、やっぱり来世なんてないじゃないか、そう思って満足を得ることも出来ない。

 これを読んだ時、私は思わず手を打って、やられたと思いました(笑)。だって文句のつけようのない、完璧な理論じゃありませんか。哲学を学んだ人なら誰でも知っている、死に関する有名な箴言があります。死は怖れる必要はない、何故ならあなたが死を怖れているあいだはあなたは死んではいないのだし、あなたが死んだ時にはもう死への怖れも無くなっているのだから。これは古代ギリシアの哲学者、エピクロスの言葉だったと思います。人類は、二千数百年ものあいだ、死の恐怖に対するこれ以上の智恵を生み出すことは出来なかったのではないか、少なくとも二十世紀の終りに飯田理論が出現するまでは。と、そこまで言ったらちょっと褒め過ぎでしょうか?

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コメント

Like_an_Arrowさん、こんばんは。mori夫です。今年もよろしくお願いいたします。

>来世というものを信じる人生と信じない人生を比べてみると、論理的に言って、来世を信じる人生の方が利得が大きい。・・・

パスカルの賭けの話に似ていますね。
http://www.nagasaki-gaigo.ac.jp/toguchi/tog_essai/uzushio/pari.htm

>死は怖れる必要はない、何故ならあなたが死を怖れているあいだはあなたは死んではいないのだし、あなたが死んだ時にはもう死への怖れも無くなっているのだから。

死んでも霊としての心は残り、生前に悪いことをしたものは地獄で苦しむことになるとすると、これはかなり「怖れる」必要がありそうですね。

「地獄」というのは「死刑」といっしょで、人に悪いことをさせないための、抑止装置と言えるかもしれません。

私の上の娘が、5年生くらいのときに、ボソっと言いました。

「私、天国とか地獄って、絶対あると思う。だって悪いことをした人が、見つからずに逃げとおせば、何も罰を受けないなんて、変だもの。ズルイもの。」

これは哲学的直感とでも言えるんでしょうか? (笑)

私も、地獄は無いにしても、何らかのかたちで罰を受けるような気がします。

投稿: mori夫 | 2006年1月19日 (木) 19時44分

mori夫さん、コメントありがとうございます。

『パンセ』は自分の愛読書、ではないまでも、座右の書であった筈なのですが(つまりいつも文庫本が手近にあったという意味)、この類推は思いつきませんでした。よく出来た理屈なので、もしかしたらどこかに出典があるのかも知れませんね。

そう、mori夫さんのおっしゃる通り、エピクロス理論にしても飯田理論にしても、基本的には人間は死んだ後には無に帰するだろうという暗黙の前提があります。でも、これは現代人の感覚ではとても理解しやすい前提ではないでしょうか。天国や地獄の存在を、文字どおり信じるなんてことはとても出来ないですもの。私がエピクロスの言葉に魅力を感じるのは、二千数百年も昔に書かれたものとは思えない、なんだかとてもモダンな感じがするからなんです。飯田さんの理論は、その変奏曲と言ってもいいかと思います。

「地獄」は「死刑」と同じで、悪事に対する抑止装置として機能している、これはその通りだと思います。しかし、私は実は死刑廃止論者なんです。これは説明すると長くなるんですが、要するに死刑という恐怖を与えることで、犯罪を防止するという思想は、結局は人間性を否定する思想だと思うからなんです。これは地獄についても言えると思います。地獄に堕ちるから悪事はいかんというのは、分かりやすいですが、浅い思想だと思う。そういう意味で、私は死刑廃止論者であると同時に、地獄廃止論者でもあります。

投稿: Like_an_Arrow | 2006年1月21日 (土) 00時17分

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