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2006年1月24日 (火)

起業家の志と企業家の倫理

 証券取引法違反の疑いで、時代の寵児から一転して犯罪容疑者の汚名をかぶることになった、ホリエモンことライブドアの堀江貴文社長は、自らの著書やブログの中で、「世の中は金がすべて」だとか、「人の心は金で買える」といった信念を表明しているのだそうです。日付を見れば、昨年自民党が推薦して、いわゆる刺客として衆議院選挙の候補者にかつぎ出した、その以前からそういう信念で企業経営を行なっていたことが分かります。堀江氏は社員に、ライブドアを世界一の会社にしようと呼びかけていたそうですが、その世界一の意味は、要するに株式の時価総額で世界一になるということでした。

 企業経営者として、堀江氏に欠けていたものが何かは明らかだと思います。一流の企業家であれば、誰もが持っている筈の倫理性が無いのです。それは単に法を守らないとか、品行方正ではないといったことではなく、企業が世の中にどのような価値を提供して行くのか、そのことに対する明確なヴィジョンと信念が無いと言った方がいいかも知れません。それが無いから、目標はどこまで行っても金儲けでしかなくなる。しかし、それは近頃のおおかたの風潮のようにも見受けられます。これには現政権の責任も大きいのではないかと思いますが、米国流の株価で企業の価値を測ろうとするやり方が、当り前に信じられるようになっているのです。いつから日本はそれを当然のことのように受け入れてしまったのでしょう? 昔から日本の企業にはもっと大事な価値観があった筈です。例えばどんな会社でも、社是に社会貢献を挙げていない会社はまれだと思います。私たちはもう一度そういった企業倫理の原点に戻る必要があるのではないだろうか。

 昨年、私が最も尊敬していた企業家が亡くなりました。ヤマト運輸元会長だった小倉昌男さんです。日本で(というより世界で)初めて宅急便というビジネスモデルを考案し、多くの苦難を乗り越えてそれを実現した物語は伝説にさえなっています。それは戦後日本の産業史に輝かしい一頁を付け加えるものでした。今日の日本の社会は、もう宅急便が無い時代には戻れないほど、その恩恵に浴している。これこそが企業における価値の創造です。いまは同じサービスを、他の企業や郵政公社も提供していますが、ぜひヤマト運輸には、小倉さん亡きあとも、他社を寄せ付けない新しい企業価値を生み出す努力を惜しまないで欲しい。それは現代における企業のあり方の、最高のお手本であるような気がします。

 その小倉さんが、晩年取り組んだのが障害者の自立のための事業でした。ある時小倉さんは、障害者の作業所で一ヶ月に支払われる賃金が、平均して一万円程度でしかないことを知ってショックを受けます。月曜から金曜まで、朝から晩まで働いて、一万円。そして気付くのです、作業所の職員の人達は、障害者福祉に対する情熱にあふれている、しかし彼らには施設を経営するという視点が欠けているのだと。そのためにひとり一万円しか給料が払えないことにも疑問を感じていない。そしてこれが実は障害者の自立を阻んでいるのだ。ここから彼の戦いが始まります。全国で福祉関係者向けの経営セミナーを開催し、啓蒙に当たる一方、自らの財団が出資して障害者のためのお手本となる事業を立ち上げようとする。むろんそれは金儲けのための事業ではないが、いわゆる慈善事業というのとも全然違う。世の中に価値を提供し、その正当な見返りとして報酬を得、それによって働く人が自らの生活を支えて行く、つまり〈当り前の企業〉を作ろうとしたのです。

 ヤマト福祉財団が出資するスワンベーカリーでは、様々な障害を持った人たちが、健常者とともに働き、月に十万円の給料を得ているのだそうです。十万円と言えば、世間の水準からすれば安過ぎる賃金ですが、一万円の作業所に比べたら大変な進歩です。そしてこの十万円という金額は、小倉さん自身が設定した目標でもありました。と言うのも、障害者の人たちは、その障害の等級によって、月に数万円から最高八万円くらいの障害者年金を国からもらっている、それと給料の十万円を足せば、とりあえずアパートを借りて自活することが出来る金額だからです。障害者の自立ということは、何よりもまず経済的な自立でなくてはならない。私はこの発想は、企業家小倉昌男ならではの、現実を直視した、素晴らしいものではないかと感じ入りました。単なる理想論ではないのです。

 小倉さんはすでに伝説上の人ですが、もうひとり、今が盛りの注目したい企業家がいます。居酒屋チェーン『和民』を率いる渡邊美樹さんです。何故私がこの人に注目するかと言えば、以前テレビの番組でその経営哲学を聞き、やはり感じ入ったことがあったからです。渡邊社長は、すでに外食産業では充分な成功を収めた人ですが、現在は老人ホームの経営に情熱をそそごうとしている。テレビでは、ワタミグループに買収された老人ホームが、経営が替ることによりいかに劇的に変化するかをドキュメンタリー風に映していました。それまではいかにも給食という感じだった食事が、旅館や料亭のような食事に一変する。器だってプラスチックの安っぽいものから、素敵な陶器製のものに変っている。軽い痴呆症のように見えるおじいさんが、それまでは施設の食事にほとんど手を付けようとしなかったのが、新しい食事になってからは、いかにも美味しそうに食べている様子が印象的でした。

 渡邊社長は、2020年までに自ら手がける老人ホームを千棟にまで増やしたいのだと言います。話を聞けば、それも単に自分の事業を拡大したいという動機ではないのです。渡邊さんはこう言いました、千棟と言えば、日本の老人ホームの10パーセントに当たる。もしも日本の老人ホームの10パーセントがこれだけの質のサービスを提供するようになれば、競争原理が働いて、他の老人ホームの質も上がることになるでしょう。それは来るべき高齢化社会を、もっと幸福なものにすることにつながるのではないでしょうかと。素晴らしいではないですか。私はここに若々しい起業家の軒昂たる志と、成熟した企業家の高い倫理性の合体を見たような気がしました。渡邊社長はまた、こんなことも言っていました。子供の頃に母を亡くし、おばあちゃん子として育った自分は、お年寄りが喜ぶ顔を見るのが何より好きなのですと。

 しかし、渡邊さんはまだまだこれからの人です、ここで手放しで賞賛するのは控えましょう。野心家である彼は、さらにこの他にも学校経営や環境ビジネスにも手を広げようとしているらしい。ビジネスマンとしては負け組の自分が言うのも変ですが、これは事業戦略としては危ういものと思えます。裸一貫、料理人として出発した渡邊さんの強みは、やはり「食」の部分にあると思う。事業には選択と集中が必要だと、経営学の教科書には書いてあります。ぜひ渡邊社長には、2020年を目標に、老人ホーム事業の拡大に全力を傾けて欲しい。そして日本の老人福祉の基本レベルをうんと引き上げておいて欲しい。その頃には、そろそろ私も老人福祉のお世話になる年代にさしかかると思いますので。(笑)

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2006年1月17日 (火)

スピリチュアリズムについて

 mori夫さんのブログで、「スピリチュアリズム」について考察されているのを読んで、自分もこの話題についてひと言書いてみたくなりました。むかし自分が学生だった三十年くらい前には無かったと思うのですが、今では哲学書の棚の近くに、「精神世界」だとか「ニューエイジ」なんてコーナーがどこの書店にも見られるようになりました。いや、近頃では人気のある心霊家と呼ばれるような人の本が、〈ふつうの〉新刊のコーナーに置かれていたりもします。現代はなにごとにおいてもボーダーレスな時代と言われますが、あの世とこの世の境界も曖昧になって来ているらしい。スピリチュアリズムもすっかり市民権を得たということでしょうか。

 私はいわゆる心霊現象だとか、前世や生まれ変わりといったことを頭から否定する考えは持っていません。自分自身はまるで霊感といったものを持ち合せない人間なので、実感を持ってその存在を感じ取ることが出来ないのが残念ですが、この世のすべては物質の現象で説明がつくという唯物論の見方よりも、夢があっていいのではないかとさえ思っています。あからさまな政治的意図を持った団体の教義や、金儲け主義まるだしの新興宗教のようなものには閉口しますが、個人的な関心や信仰の範囲でスピリチュアリズムに取り組むことは、むしろ心を豊かにすることであるかも知れないと思っています。

 私がスピリチュアリズムにこのような好意的な考えを持っているのは、例えばブライアン・ワイス博士だとか、一昨年亡くなったキューブラー・ロス女史の本を読んで、ある種の親近感を感じたことがそのおおもとにあります。前世療法で有名なワイス博士は、もとは心霊現象などまるで信じない精神科医だったのだそうです。それが催眠療法の最中に患者の前世を垣間見てしまったことがきっかけで、生まれ変わりというものを信じるに至った。私は生まれ変わりや前世といったものの存在自体には関心は無いのですが(というより、それは証明も反証も不可能なものだと思っています)、ワイスさんの本が多くの読者に現実に救いを与えているという事実に対しては、おおいに関心があります。

 霊界や前世についてはまるで不案内でも、私は文学の領域では多少の経験を積んでいるつもりなので、ある書物の文学的価値については自分なりに判断出来ると思っています。ブライアン・ワイスさんの本や、キューブラー・ロスさんの本は、世の中に多く出回っているオカルト本の類とは、確かに一線を画す内容を持っていると思います。それは現代における新しい信仰のありかたというものにも示唆を与えるものではないかとさえ思う。ワイス理論では、人は輪廻を繰り返しながら、それぞれの人生の中で様々な困難を乗り越え、それによって人間的な成長を果たして行くのだと説きます。図式的に見ても、この考え方は、例えばこの世で善行を積めば死んでから極楽に行けるとか、神を信じれば最後の審判で天国に入れてもらえるといった教義よりも、ずっと洗練されているし、道徳論的に見ても価値のあるものではないかと思うのです。

 日本でこの考え方を普及しようとしている人に、飯田史彦さんという大学の先生がいます。ベストセラーを数多く持つ著者なので、ご存知の方も多いと思います。この方のホームページを覗いてみれば、そこには全国から寄せられたたくさんの読者からの手紙を通して、苦難の多い生活を懸命に生きようとしている人たちの日常の姿が、圧倒的な迫力で伝わって来ます。飯田さん自身は、霊能者でもカウンセラーでもないそうですが、いわばスピリチュアリズムの伝道者として、医療機関や福祉施設などとも連携しながらネットワークを広げているそうです。たぶん敵も多いのではないかと思いますが、それは誰かが果たさなければならない重要な役割であるような気もします。

 その飯田さんが、著書の中で面白いことを書いていました。手元に本が見付からないのでうろ覚えですが、こういう意味のことです。来世というものを信じる人生と信じない人生を比べてみると、論理的に言って、来世を信じる人生の方が利得が大きい。何故なら、来世を信じていれば、現世のつらさも来世でよりよい人生を手に入れるためだと思えば耐えやすいし、実際に死んでみて来世があることが分かれば、喜びもひとしおの筈である。また、たとえ来世など無くて、死んだ後は無だったとしても、その時には心も無くなっているのだから、裏切られたと思うこともない。一方、来世を信じない人生では、現世での不幸や失敗は取り返しのつかないものとして迫って来るので耐えがたいし、もしも死んでみて来世があることに気付いたとすれば、それを信じずに生きた自分が愚かだったと後悔することになる。またたとえ来世が無くて、死んで無になったとしても、その時には心も無いのだから、ほら見ろ、やっぱり来世なんてないじゃないか、そう思って満足を得ることも出来ない。

 これを読んだ時、私は思わず手を打って、やられたと思いました(笑)。だって文句のつけようのない、完璧な理論じゃありませんか。哲学を学んだ人なら誰でも知っている、死に関する有名な箴言があります。死は怖れる必要はない、何故ならあなたが死を怖れているあいだはあなたは死んではいないのだし、あなたが死んだ時にはもう死への怖れも無くなっているのだから。これは古代ギリシアの哲学者、エピクロスの言葉だったと思います。人類は、二千数百年ものあいだ、死の恐怖に対するこれ以上の智恵を生み出すことは出来なかったのではないか、少なくとも二十世紀の終りに飯田理論が出現するまでは。と、そこまで言ったらちょっと褒め過ぎでしょうか?

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2006年1月 7日 (土)

憲法改正『不決議』案

 さて、年は明けましたが、天下国家を論じたい私の気持ちは収まりません。今年国論を二分するであろう重要な話題と言えば、現実味を帯びて来た憲法改正問題でしょう。既に昨年の秋に自民党は新憲法案なるものを公表しています。自民党の目論見としては、今年世論をあの手この手で憲法改正の方向に誘導しておいて、来年の参議院選挙を待って議案を国会に提出し、一挙に国民投票にまで持って行きたいといったところではないでしょうか。そのための布石を打つ意味でも、今年はとても重要な年になる。私たち国民ひとりひとりにとっても重大な問題です。一年の始めに、まずはこのテーマを取り上げたいと思います。

 この正月休みに、日本国憲法をじっくり読んでみました。恥ずかしいことですが、この歳に至るまで一度も全文を通読したことがなかったのです。そして何故これを義務教育の中でしっかり教えないのだろうと不思議に思いました。それとも中学校の教科書か副読本に載っていたのに、勉強嫌いの自分が記憶していなかっただけなのかな? たとえ今の憲法が改正されようがされまいが、まずはそれを若い人たちにしっかり教えて行くことが必要なのではないか、これが自分の生まれた国の憲法を通読してみて、私が最初に感じたことでした。そこには、戦後の新しい国づくりにおいて、私たち日本人が何を目指し、世界の中でどのような役割を果たして行くかについて、分かりやすく力強い言葉で書かれていたからです。それは最近の政治家の言葉や選挙のマニフェストの中では見られないような、心に響く言葉でした。

 憲法改正には、衆参両院での三分の二以上の投票による可決と、国民投票による二分の一以上の賛成が必要なことが、他ならぬ憲法そのものによって規定されています。現憲法が発布されて以来、いまだ国民投票にまで進展したことはありません。現在、特に護憲派の人たちが非常に危機感を募らせている背景には、与党により具体的な改正案が出されたことの他に、既に衆議院では議席の三分の二を与党が占め、来年には参議院の改選が行なわれることが決まっており、さらには野党第一党の民主党の中にも改憲賛成論が出始めているという事実があります。前回の総選挙の時と同様、また自民党の巧みなワンフレーズ広告によって、なすすべもなく世論が改憲論に傾いて行ってしまうのではないか。まともな議論が国民のあいだで戦わされるいとまもないくらい、なしくずし的に国民投票にまで持ち込まれてしまうのではないか。

 それにしても、新しく民主党の党首に選ばれた若い前原さんは、何故突然に憲法改正に対して好意的な態度を示し始めたのでしょう? それは前原氏が以前から主張していたことなのか、党首になって急に改憲に目覚めたのかは知りません。もしも前者であれば、そもそも民主党は前原氏を党首にすべきではなかったと思いますし、後者なら野党第一党の党首としてあまりに思慮に欠けた政策転換であったと私は思います。これは民主党の選挙戦略としても非常にまずい事態でしょう。現在の日本は、護憲か改憲か、国を二分しての論争が始まる前夜なのです。自民党がはっきり改正案を打ち出して来ているのに、野党第一党が改憲論になびいたのでは、護憲派の国民はどの党を支持すればいいのか。党首の不用意なひと言で、民主党は大量の票を一瞬にして失う可能性もあります。前原さん個人の信念なんてちっぽけな話ではないのです。その上老練な(?)小泉首相に、入閣だの与野党大連立だのとからかわれるに至っては、もうお話にもならない。いずれにせよ、護憲派の人たちにとっては歯噛みをするような状況です。

 私は個人的な心情としては護憲派の人間なのですが(これまで憲法本文を読み通したこともなかったくせに、護憲派なんてよく言います。苦笑)、このブログの中では、出来ればよくある理想主義的な(つまりサヨク的な?)護憲論には与したくないと思っています。この問題が不可避的に陥る護憲派と改憲派の感情的な対立に巻き込まれたくないからです。私はそれよりもっとしたたかな大人の護憲論というのがあってもいいと思う。というのも、現在の自民党が推し進めようとしている改憲の動きには、戦略も打算も無い非常にナイーブな子供っぽい心情が透けて見えるからです。靖国神社に参拝する小泉首相は、そこで不戦の誓いを新たにしているのだと言います。自分の気持ちにこだわり、周りの人の気持ちを考えられないのは、まさに子供の心のあり方です。これはもしかしたら自民党が、言ってみれば酸いも甘いも噛み分けた大人の党から、世間知らずのガキ大将の党に変質してしまったことの表れかも知れません。これはまた二世三世議員が増えて、戦争の苦労はもちろん、生活の苦労さえしたことがないエリート達が政治を牛耳ることになった時代の自然な流れなのかも知れません。

 前にもこのブログの記事で、平和憲法を持ち続けることの現実的な利得については書きました。よく戦後の日本は、平和憲法を盾にとる一方で、米国の軍事的な庇護のもとに、ただ乗りで平和を謳歌して来ただけだと言われます。たとえそれが事実だったとしても、いいじゃないですか、こんなただ乗りなら今後もずっと続けて行けばいい。現在の憲法は半ば米国に強制されたものだという一般の認識もあります(私自身は全然そうは思っていませんが)。どこからも文句の出ようのない、僥倖とでも言うしかないような状況に日本は置かれており、今後も私たちが望めばそれを継続して行けるのです。しかも、この間まったくの太平楽を決め込んでいた訳ではなく、ちゃんと世界第三位の軍事費を注ぎ込み、自衛隊の整備にも怠るところがなかった。五十数年間、たったひとりの民間人をも殺さなかった、世界にも例の無い奇跡の軍隊です。交戦権は持っていなくても、自衛権は持っている、そして既に前例が出来ている今では、世界のどこにでも出掛けて行って、災害救助や難民救助に積極的に当たることの出来る軍隊なのです。平和国家で行くということは、世界に向けてのイメージ戦略でもその路線を貫くことでなければならない。平和国家日本をアピールするのに、こんなにすぐれた立役者と、恵まれた環境が他にあるでしょうか。

 以上のような考え方から、私は憲法改正に反対する以前に、憲法改正議案を国会に提出すること自体に反対します。仮に国民投票にまで行き着いてしまえば、その結果はどちらに転んでもこの国のためにならないと思うからです。もしも改憲派が勝てば、それは文字通り平和日本の仮面をかなぐり捨て、「ふつうの」軍事大国になることを意味します。近隣諸国との緊張が高まっているこの時期に、そんな選択をするのが賢明なことではないのは、永田町の先生たちにも分かりそうなものです。またもしも護憲派が勝利するにしても、その差は僅差の筈ですから、日本人の半数近くは改憲論者であることを世界に証明してみせることになるだけです。それはいつ軍事国家に変身するかも分からない経済大国日本というイメージを世界に広める結果になるでしょう。せっかく戦後六十年をかけて作り上げて来た、国際政治での駆け引きには少しうといけれども、経済的にはお大尽のように気前のいい、軍国主義の頃と比べてすっかり角のとれた日本人、という安心のブランドは、そこで終りを告げる。これこそが、現在の紛糾する世界情勢の中で、日本人がやっと手に入れた処世術であったのに。

 憲法改正について私たち国民が真面目に議論すること、それは悪いことではないでしょう。改正議案を出せば、国民のあいだで憲法問題が討議されるきっかけになる、その点を評価するという人もいるかも知れません。しかし、これは話がさかさまです。憲法改正か非改正かということは、議論の出発点ではなく到達点であるべきものだからです。結論を出すのに急いではならない。日本国憲法を読んで思いました。確かに六十年前のあの日、日本は小さいけれども確かな理想の火を見付けたのだと。それが現憲法の中に息づいているのを今も私たちは感じることが出来る。精神医学の臨床家は、人は鬱状態やノイローゼの時に、人生の重大な決断をすべきではないと教えます。少なくとも日本人が、将来への希望と理想を見失っている今のような時代に、さかしらな頭でこれを一字一句改定すべきものではない、そう私は考えます。

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