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2005年12月31日 (土)

HAPPY NEWS

 クリスマスが終ったと思ったら、もう大晦日。月並みな言い方ですが、本当に一年が経つのは早いものです。今年の後半は、また暗いニュースがたてつづけに世間をさわがせました。10月以降の事件から拾ってみても、高校一年生の女子生徒による母親毒殺未遂事件に始まり、同じく高一男子による同級生殺害事件、広島で小学一年の女児が殺される事件が発生したと思ったら、栃木でも同じ小学一年の女の子が遺体で発見された、更に塾の講師が教え子の小学六年生女児を殺害するという事件も記憶に新しいところです。とにかく子供が巻き込まれているところが悲惨です。世の中の歯車がどこかで狂ってしまったのではないか、そんな気がする年の暮れです。

 最近出版された作田明さんという方の書かれた『現代殺人論』という本によれば、いかにも現代の日本では凶悪犯罪が増えているようにマスコミが騒ぎ立てているが、統計的に見れば決してそんなことはないのだそうです。日本は過去においても現在においても、世界的に稀にみる治安のよい国で、アメリカはもちろんヨーロッパの各国を見ても、日本よりも殺人率が低い国はほとんどないのだそうです。なのに何故マスコミは、殺人事件をことさら大きく取り上げ、世間の不安を煽ろうとするのか。作田さんの本から引用します。

 『メディアは凶悪犯罪を克明に報道し、いかにもその数が増えて、治安が悪化しているように報道することによって、ニュース番組やワイドショーの視聴率が上がり、新聞や雑誌が売れるわけだから、競うように凶悪殺人事件を報道し、結果的に社会不安をあおることになる。(中略)一方、法務省や警察でも、犯罪が増加して、治安が悪化しているとすれば予算と人員を増やすことができるわけで、こうしたメディアの報道傾向には暗黙の支持を与えている。さらに政治家も圧倒的にマイノリティーである犯罪者を攻撃することによって、一般的な正義感を持つ人たちの支持を得て、少しでも票に結びつけようとする。』

 犯罪学を研究されている人の言葉として、充分信頼出来る意見だと思います。しかし、これが事実だとすれば、私はマスコミの罪は重いのではないかと思います。世の中を暗くしているのは、実は世の中を暗く切り取っているマスコミの仕業で、私たち一般の視聴者はそれに乗せられて、暗いやるせない気持ちで年の瀬を過しているだけではないのか。いや、自分の気持ちなどはどうでもいいのですが、こうした事件の報道が、また新たな事件の呼び水となって、本当に世の中を暗くする方向へ誘っているのではないか。それも実のところは単なる商業主義のために。

 そんなことを考えながら、書店をぶらぶら歩いていたら、一冊の小さな本を見付けました。『HAPPY NEWS』というタイトルの本です。社団法人日本新聞協会というところが中心となって、読者から心あたたまるような新聞記事を推薦してもらうというキャンペーンを行なった、そこで選ばれた小さなハッピーニュースたちを一冊にまとめた本です。読んでいると、思わず吹き出してしまったり、ホロリとさせられてしまったり、なんだ世の中そんなに捨てたものでもないじゃないか、そんな気分にさせてくれる本でした。

 そこで思ったのですが、どこかの新聞社でもいい、テレビ局でもいいのですが、こういう楽しい世の中を明るくするようなニュース専門の紙面やニュース番組というのを作ってみてはどうでしょう。現在の新聞記事やテレビの報道番組は、子供と一緒に見るにはしのびないほど残酷で希望の無いものが多いと感じます。マスコミは事実をありのまま報道するのが使命だと言うでしょうが、私はウソだと思う。例えば、いま日本では年間千数百件の殺人事件が起きていますが、ニュースで大きく取り上げられるのはそのほんの一部です。要するに、視聴者に大きな心理的インパクトを与えると思われる事件が選ばれて報道されているに過ぎない。それを選ぶ基準は視聴率です。今年、インターネット企業の若い経営者によるテレビ局買収未遂事件が二件起こりましたが、もしもテレビ局を買収するなら、インターネットと放送の融合なんてお粗末なアイデアよりも、社会に希望を与えるテレビ局というビジネスモデルを考えてみてはどうでしょう。キーワードは、子供と一緒に見ることの出来るニュース。絶対に視聴率も取れると思います。

 『HAPPY NEWS』には、希望の持てるいい話がたくさん詰まっています。姫路の少年刑務所で、受刑者の少年たちの相談員を47年間も続けている黒田久子さんは、なんと百一歳のおばあさんなんだそうです。「若い人を少しでも支えようとしてきたけど、私の方が生かされてきたんやろね」。捨て子として置き去りにされ、本名も誕生日も知らされず、しかも重い知的障害と身体障害を抱え、四十年間も精神病院で過した夏井三男さんに、献身的な介護で笑顔を取り戻させた青森県森田村「つがるの里」の職員の方たち。イラクの戦火の中で怪我をして、目の手術のために日本に来たモハマド君が、亡くなられたフリーライター橋田信介さんの奥さんの幸子さんと抱き合っている写真を見た時は、思わず目頭が熱くなりました。モハマド君は、イラクに帰って将来は目医者になって患者さんを治してあげたいんだって。ハッピーニュース、ハッピーニュース。来年はどうかそんな幸せなニュースが、世界中をたくさん駆けめぐりますように。

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2005年12月25日 (日)

税率改定から世界平和を考える

 ブログを始めて良かったと思うことは、ふだんあまり気にかけることの無かった社会のニュースや新聞の記事に、自然に注意が向くようになったことです。ただ単にブログに書くネタを探しているというだけのことなのですが…。今回も比較的最近の新聞記事から、税率改定の問題を取り上げたいと思います。当初、このブログを始めた時は、政治経済の話題よりも、日常生活の中で見付かる小さなテーマを哲学的に考察するのが目的でした。でも、気付いてみれば、案外自分は天下国家を論ずるのが好きなようです。(笑)

 うかつなことに私は、現在自分が払っている税金の税率がどうなっているのか、これまで詳しいことを知りませんでした。今回発表された税率の改定案を見て、ふたつのことが意外に感じられました。まずは2007年の1月から予定されている税率改定の中身を見てみましょう。

<現行の所得税率>
 課税所得(万円)  所得税率
 0~330以下     10%
 330超~900以下  20%
 900超~1800以下  30%
 1800超~       37%

<2007年以降の所得税率>
 課税所得(万円)  所得税率
 0~195以下     5%
 195超~330以下  10%
 330超~695以下  20%
 695超~900以下  23%
 900超~1800以下  33%
 1800超~       40%

 今回の改定は、税率アップを目的としたものではなく、税金の一部を国から地方に財源移譲するための変更だそうです。現行の税率と改定後の税率を比べると、所得額によって多少税率が変化するように見えますが、実はこれと同時に地方税(住民税)の改定も行なわれるので、両者合算すれば、基本的には個人の税負担は変らないのだそうです。

 私が感じた意外だった点のひとつ目は、所得税率というのがとても粗い階段状に設定されているということです。現状では4段階、改定後でも6段階。例えば年収330万円の人は税率10パーセントですが、331万円になると20パーセントと急に倍になる。すわここにも行政の怠慢による逆転現象が…と思ったら、違いました。日本の累進課税は、正しくは超過累進課税と呼ばれるもので、年収331万円の人は、330万円の部分には10パーセント、それを超える1万円には20パーセントの課税がされるのだそうです。つまり、理不尽な逆転現象は起こらない。それでも現在のようにコンピュータ・システムが発達している時代に、この大雑把な段階設定はやっぱり変です。どんな小さな会社でも、パソコン1台あれば源泉徴収税額の計算くらい出来るのですから、もっと細かい段階での累進設定にすべきだと思います。逆転現象は無いと言っても、なんとなく不公平感があります。

 もうひとつ感じた意外な点は、累進課税と言っても、それは低所得者の中だけの話なのだということです。上限1800万円を超えると同じ税率で止まってしまうところが不思議です。確かに年収1800万と言えば、我々庶民の感覚からすれば高額所得者ですが、まあ想像出来ない所得額ではない。例えば年収100億円の人が1801万円の人と同じ所得税率だというところが解せません。今の自民党の政策は、金持ちを優遇する一方で、貧しい人や社会的に弱い立場の人には過酷なものであると言われますが、その端的な例がここにあると思います。いや、むしろ私は、これは金持ちに対しても失礼な政策ではないかとも思うのです。英語には「ノーブレス・オブリッジ(noblesse oblige)」という言葉があって、貴族や金持ちは、人々から大きな尊敬を受けると同時に、それ相応の義務も果たさねばならないという考え方があります。その自覚が無い金持ちは、単なる成金でしょう。ホンモノの金持ちというのは、自分の所得に相応しい税金を払いたいと思っている人のことです。ところが今の日本では、年収100億の金持ちでも、年収1801万の貧乏人(?)と同じ扱いなのです。

 税率を改定するならば、もっと高額所得者にまで累進税率を広げて適応してみたらどうでしょう。例えば、1800万から3000万までは46パーセント、3000万から5000万までは50パーセント…といった具合に上げて行く。(あ、誤解しないでください、私はこのような大雑把な階段状の税率設定には反対なのです。ただ文章の都合上そう表現しています。) もしもこれによって、国の税収が大きく増えるならば、これはぜひとも検討すべき政策課題です(国はいま喉から手が出るほどお金が欲しいのですから)。もしも高額所得者というのは案外少ないもので、累進税率をこのように上げても、国の税収が大して増えないのであれば、これはまあどうでもいい政策ということになりますが。

 しかし、もしもこれがアメリカのような貧富の差の激しい(最近の言葉で言えば、勝ち組と負け組がはっきり分かれる)国ならば、絶対有効な政策になると思います。インターネットで情報を探したのですが、米国の累進課税率がどうなっているのか、調べられませんでした(どなたか教えていただけませんか?)。それでも明らかな実態があります。私が毎週愛読しているビル・トッテンさんのコラムに、こんなびっくりするような記事がありました。いま世界一の大金持ちといえば、マイクロソフトのビル・ゲイツさんですが、ビル・ゲイツ氏の個人資産は、アメリカの貧しい側の45パーセントの人たちの総資産と等しいのだそうです。米国民の45パーセントと言えば、約1億1250万人。たった一人の資産が1億1250万人の総資産と同じだというのです。私は、歴史的な結論として、共産主義は間違いだったと考える者ですが、自由主義もここまで行ってはちょっと問題があり過ぎはしませんか?

 これからの社会を考える上で、誰もが納得出来る富の再配分の方法というのは、とても大事な課題になると思います。これは一国の税制の問題にとどまりません、世界の国と国の貧富の格差にも同じ問題があります。mori夫さんの過去のブログにこんな記述がありました。『日本で一年間に捨てられる膨大な食べ残しは、それだけで、地球上の飢餓で死ぬ人をすべて救えるそうです。』 出典は分かりませんが、これが本当だとすれば、すごいことです。すごいというのはふたつ意味があって、そのくらいのことで世界の飢えに苦しむ人たちを救えるんだということがまずひとつ、にもかかわらず先進国はそれだけのことさえもしてあげていないんだということがもうひとつです。もちろん、ハンバーガーショップで今まさに捨てられようとしている食べ物を、そのままアフリカに送れる訳ではありませんから、これは机上の空論でしかありません。でも、地球上で生産されている食物をうまく配分すれば、餓死する人々をすべて救えるだけの食物生産がすでに実現しているというのは、これは未来への希望の項目としてメモしておいていいことではないかと思います。

 こういうことを書くと、現実性の無い理想論と言われそうですが、果たしてそうでしょうか? 富の再配分というのはきわめて現実的な政治課題ですし、どんな金持ちも、またどんな裕福な国も、貧しい人々や貧しい国々を見捨てておいて、自分だけ安全な暮しを続けて行くのが難しいことは、テロにおびえる今のアメリカの状況を見れば分かることです。これだけモノが余っていて、食料も大量に捨てている日本だって、例えば失業問題やニート問題をこのまま放っておけば、どんな不安定で危険な社会になるか、誰でも想像がつくことだと思います。新しい時代に、真に平和な世界を願うならば、まずは世界の中で最も貧しい国々や人々に対して、最低限の生活を保障するセーフティネットを設けること、つまりそこを基点にして余りにひどい富の偏在を是正すること、それこそが先進国と呼ばれる国に生活する私たちのノーブレス・オブリッジであり、本来の意味でのグローバリゼーションの推進だと思います。

 いや、今回は天下国家の問題を飛び越えて、世界平和の問題にまで議論を広げてしまいました。今日はクリスマス。世界平和のことを考えるにはちょうどいい日ですし、まあ大言壮語も大目に見てもらいましょう。

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2005年12月17日 (土)

緊急提言、裁判員制度に異議あり!

 と、穏健派のブログにふさわしからぬ(?)タイトルをつけてしまいましたが、今回は数年後に施行される予定の裁判員制度に関する批判的考察を、「哲学論考」の最新エントリーとして掲載しました。

 もともと私が「哲学論考」という別ブログを立ち上げたのは、時代や国籍や政治的立場などにとらわれない、いわば〈永遠の哲学テーマ〉を取り扱うためでした。メインのこちらのブログでは、時々の雑感や時事ネタを、あちらでは生命や自我や道徳などをテーマにちょっと浮世ばなれした哲学論を。そのふたつを車の両輪にしてバランスを取って行くのが私の目論見でした。

 が、今回のテーマは区分が難しい。その両方にまたがる問題だからです。きわめて時事性の高いネタでもあり、また法律や裁判制度という時代や国境を超えた普遍的テーマを含んでいる。とりあえず、あまりに長い記事になってしまいましたので、むこうのブログにエントリーしました。今回は、読者の方のご意見をぜひ伺いたい内容です。例によって、コメントはこちらにお願い致します。

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2005年12月14日 (水)

科学と科学をかたるもの

 今朝の新聞に、また米国の宗教事情に関する記事が載っていました。米国民の55パーセントが文字通り神による世界の創造を信じていると言っても、その「創造説」にもいろいろなバリエーションがあるようです。新聞の記事が紹介していたのは、インテリジェント・デザイナーという新しい意匠をまとった現代ふうの創造説が、このところ米国内で急速に勢力を伸ばして来ているという話でした。

 「インテリジェント・デザイナー」。私が言うのも何ですが(笑)、いかにもあやしげなネーミングですね。要するに聖書の創世記が記しているような一見して非科学的と分かる創造説とは違って、生命の進化や人類の誕生には、創造主と思われる存在者の何かしら知的な計画が関わっていたとする仮説だそうです。これは従来のダーウィン流の進化論では説明のつかない生命の現象に対して合理的な説明を与える、科学的な仮説なのだそうです。米国の科学者の中には、これを(宗教的な信念としてではなく)科学的な真理としてとらえている人も多いのだそうです。

 私は典型的な文系人間で、科学的な素養には乏しい者ですが、それにしてもこういった言説は、ホンモノの科学的精神にとってはひどい冒涜であると感じます。よく科学的な真理ということが言われますが、科学は究極の真理というものを手に入れようなどとは考えない。その時代に手に入る実験結果や観察結果をもとに、より確からしい仮説を組み立てて行き、後世の批判を待つ。例えば相対性理論や量子論だって、それは現代における最も確からしい仮説に過ぎないのだと思います。この謙虚さがあるからこそ、科学は多くの科学者たちが協力し合って、ここまで進歩して来たのでしょう。

 生命の進化にインテリジェント・デザイナーが関わっていたという言い方が、どんなに真実らしく聞こえようとも、それは良心的な科学者の探究するものとは縁もゆかりも無いものです。しかもそれは宗教的な真理と呼ぶにも、あまりに不純な思想だという気がします。明らかにそこには政治的な意図が見てとれるからです。インテリジェント・デザイナーの信奉者たちは、現在もっとも確からしい科学的仮説である進化論を否定しようとしている。しかし、ダーウィンの進化論に不寛容である宗教は、きっと他の宗教に対しても不寛容であるに違いないと思います。

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2005年12月11日 (日)

セイニアーリッジ政策を考える

 現在の日本国で何が一番の問題かと言えば、国や自治体が抱える莫大な借金以上に、重要かつ緊急な問題があるでしょうか? あまりに巨額なものだから、政治家も経済学者も、誰もこれとまともに取り組もうとさえしない。この問題を今回は取り上げてみようと思います。と言っても、最初に断っておきます。日頃から浮世ばなれした哲学の問題ばかり考えている私は、時事問題にはとても疎くて、なかでも経済問題は特に苦手科目なのです。でも、これだけは問題提起しておかないと、安心して年を越せない(笑)。無茶を承知で無謀な議論をします。間違ったことをいろいろ書くと思いますので、ぜひ読者の方からは、ご意見、ご叱咤を頂戴できればと思っています。

 まずは事実から確認しましょう。現在国の借金は約800兆円、これに地方自治体の借金や国の隠れ借金まで足すと、国民の持つ総資産1400兆円にも匹敵する借金の額になるそうです。簡単に言ってしまえば、勤勉で貯蓄好きな国民が汗水ながして蓄えたなけなしの貯金を、国や地方自治体が景気よく全部使ってしまって、いまや銀行の金庫も国の金庫もカラッポ、そういう状況と言えると思います。これはいまや多くの国民が認識していることです。そしてさらに恐ろしいことには、国の年間予算は一般会計予算だけでもおよそ80兆円なのに、税収はその半分の40兆円、不足分は国債で(つまり更なる借金で)まかなっており、年間に発行される国債の額は170兆円ほど。そのうち100兆円以上は借換え債、つまり国債の償還や利払いのために、また新たな国債を発行せねばならない状態になっている。まさに借金が借金を産むという悪循環に国家が陥っている訳です。ここ何年ものあいだ、我が国の金融は超低金利の状態が続いていますが、それは日銀の金融引き締め政策のためだけではない、金利が5パーセントつけば国債の利払いだけで国のすべての税収がふっとぶという異常な借金のせいで、金利を上げたくても上げられない、これが実相であろうと思います。

 子供が考えるような素朴な疑問があります。国がお金に困っているなら、たくさんお札を刷って、それで借金を返せばいいじゃないの。ごもっともな疑問ではないですか? ところが、今の時代は昔と違って、たとえ議席の三分の二を持つ自民党でもそんな勝手なことは出来ない。日本のお金は、政府が発行している訳ではなく、株式会社である日本銀行が発行しているものだからです。株式会社である以上、何も無いところから打出の小槌のようにお金を生み出せる訳ではない、自ら所有する資産に見合った(会計的に言えば貸借バランスを前提にした)紙幣を発行出来るだけなのです。ところが、日銀自体にはめぼしい資産がある訳ではない、国から約束手形(国債)を買い取って、その代金として紙幣を発行する仕組みです。それは日銀の貸借対照表に載り、公開されます。国民が知らないところでお札がひそかに刷られているということはないのです。(但し、これは紙幣についてのことで、硬貨については政府が直接発行権を持っています。まさに打出の小槌ですが、発行量が少ないので大目に見られているようです。)

 ところが、この打出の小槌を、ある条件のもとで政府に与えてしまおうとする考え方があります。それがタイトルに挙げたセイニアーリッジ政策です。(シニョレッジと発音する場合もあるようです。原語はSeigniorage。日本語に訳せば、通貨発行特権となります。) これは本来の通貨発行の規律を破るやり方ですから、禁断の政策と言われたりもします。しかし、その危険性を承知した上で、いまこそこのセイニアーリッジ政策を発動すべきであるという議論が、一部の経済学者や政治家のあいだで起こっているのです。通常の歳出削減策や増税では、とても焼け石に水でしかないほど、国の借金がふくれ上がってしまっているからです。過去を振り返れば、明治政府が不況脱出のために、一度だけこの政策を行なったことがあって、その時はおおむね期待通りの成果を上げたと、この政策を支持する人達は言います。当然、打出の小槌で打ち出したお金をばらまくのですから、インフレの懸念はあります。が、現在の日本のようにデフレ・ギャップが大きい経済状況では(つまり、国内の潜在的な生産能力に余剰があり、需要の不足からモノや設備が余っている状況では)、多少の貨幣の増加は深刻なインフレには結び付かないという試算もあるようです。

 この政策を国に許すということは、要するに国民の血税をさんざん無駄づかいして、莫大な借金を抱えてしまった国に対して、借金棒引きの徳政令を認めるということです。国民感情として、そんなことが許せる筈がない。それは当り前です。先日テレビを見ていたら、税金の無駄づかいの現場を検証するというバラエティー番組をやっていました。国内にある公共施設で、何故こんなものに多額の税金を投入したのかと思われる建造物を、観光スポットをめぐるように見て回るという趣向です。大阪府が千数百億円をかけて建てたという、最近のラブホテルでさえかくまで悪趣味ではあるまいと思われる奇怪なデザインの下水処理場とゴミ焼却場を見た時には、さすがに温厚な私でさえ床をこぶしで叩きつけましたよ。しかし、しかしです、いま私たちが考えなければならないことは、こうして作られた巨額の借金は、我々のような年配者ではなく、かならずや今の若い世代の人たちや、これから生まれて来る子供たちにとっての、重いツケになってしまうだろうということです。何がどうあっても私たちは、これら負の遺産を次の世代の重荷にならないようにしなければならない。

 だとすれば、たとえインフレになり、私たちの給料や貯金の価値が多少目減りしようと、ここらでこの借金に歯止めをかけることがどうしても必要だというのは当然の結論になります。一説によれば、消費税率を20パーセントまで上げても、国の借金の肥大化には歯止めはかけられないという試算もあるのです。私は、経済学者の理論としてではなく、国の将来を憂うるひとりの国民として、セイニアーリッジ政策を支持します。どう考えても、ほかに良い方法があるとは思えないからです。それは今後定常的に消費税率が上がって行き、しかも国の借金は一向に減らないという混迷の未来を選ぶか、一時はハイパーインフレの波をかぶり、社会が大混乱する可能性もあるが、それを堪え抜けばもはや借金の心配をする必要がなくなる、そういう未来を選ぶかの二者択一のようにも思えます。(但し、これでチャラになるのは国の借金だけで、個人の借金はそのまま残ります、口惜しいことに。)

 さて、もうここまででも充分危険な議論ですが、さらに素人の空想はその先に進みます。それでは具体的にどのような方法で政府発行の貨幣を作るか? 硬貨は今でも政府発行貨幣なのですが、この政策のために、まさか千円玉や一万円硬貨を作る訳には行かない。まあ、作ってもいいが、それは国民生活に混乱と不便をもたらすだけです。それよりうまい手があります。大蔵省、じゃなかった財務省の印刷局にある輪転機を借りて、政府発行の精巧な(日銀券とそっくりな)お札を刷るのです。まったく日銀券と見分けがつかないのは規律上よろしくないので、お札の表面に印刷してある「日本銀行券」の文字を「日本政府券」に換えてもいい。要するに人間が見れば違いが分かるが、銀行のキャッシュ・ディスペンサーや街角の自動販売機など、機械には見分けがつかないように作るところがミソです。これによって、日常生活では何の不便もなく日銀券と同じように使える政府発行紙幣が実現する。むろん、政府発行券を受け取り拒否などしたら法律で罰せられますし、なにより我々国民がそれを区別することを許さない。我々国民は、歯を食いしばってこの政府発行のニセ札(?)を使い続ける。それがすなわち、国の莫大な借金を国民が肩代わりすることに他ならないからです。

 次にどのようにこの政府発行紙幣を市中にばらまくかという問題です。セイニアーリッジ政策を景気刺激策と考えれば、各家庭の口座に一律百万円ずつ振り込むなんて乱暴な施策も思い浮かびますが、私の考えるこの政策の目的は、ただ国の借金を帳消しにすることだけですから、もっと簡単な方法で済みます。要するに、満期が来た国債の償還とその利払いにのみ、政府発行紙幣を使うのです。そのための条件として、国は今後新規の国債発行を原則として行なわないことが前提となります(そうしないと、それこそ無制限の打出の小槌になってしまう)。実際には、政府通貨発行額の予算を決めて、それに見合った額の国債を償還して行くような細かいコントロールが必要になると思います(このへんの検討は専門家にお任せします)。重要なのは、この政策を採ることによって、国民は国が持つ巨額の借金という悪夢に、もう悩まされることが無くなるという点です。自分たちの税金が借金の利払いに使われているという不愉快な事態も解消されます。

 むろんこの政策が実現したとしても、無駄な歳出の削減は引き続き行なわなくてはならない。その上でどうしても必要ならば、多少の増税にも国民は耐えるでしょう。とにかく今の政府のように何もしないでいるのが一番まずい。放っておけば、今年もまた何十兆円かが国の借金に付け加わるのです。しかし、この政策が実施されにくい理由もまたはっきりしています。借金を先延ばしにしておけば、政治家はとりあえず次回の選挙では国民を敵に回さずに済むからです。この構図があるからこそ、セイニアーリッジ政策については誰も表立って言い出さない訳ですし、国の借金もこんなバカげた額にまでふくれ上がってしまった訳でしょう。

 ところで、この難しい政策を実行出来る人が日本にたったひとりだけいます。来年の九月に任期退陣を表明している小泉総理大臣その人です。絶妙なタイミングだと思います。小泉さんにはその指導力と国民からの支持を活かし、お辞めになる前にぜひもう一度改革の大ナタを振るっていただきたい。これこそ真の構造改革です。これが成し遂げられれば、将来の世代は小泉さんのことを、自分たちに生きる希望を残してくれた名宰相として思い出してくれるのではないかと思います。郵政民営化のためなら命も要らないと言ったあなたなら絶対に出来る筈です。


(セイニアーリッジ政策に関しては、これを真面目に考える立場から、とてもいい情報を発信されているホームページがあります。『経済コラムマガジン』というページです。今回私が書いたようなデタラメな記事ではなく、きちんとした理論の裏づけをもって、これを検討されています。毎週更新される記事は、毎回何か新しい視点を読者に与えてくれる、おすすめのページです。)

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2005年12月 8日 (木)

ブッシュ大統領と大審問官

 『不合理ゆえに我信ず』の中でmori夫さんが、アメリカにおける宗教と科学の問題について書いていらっしゃるのを読んで、思うところがありました。新聞の報じるところによれば、アメリカ国民の55パーセントの人が、人類の誕生は生命の進化によるものではなく、神の創造であることを文字どおり信じているのだそうです。アメリカ合衆国のいくつかの州では、いまもダーウィンの進化論を学校で教えることを禁じているところがあるというのは、知識としては知っていました。何となく不思議な話だくらいにしか思っていなかったのですが、考えてみればこれは恐ろしいことかも知れない、そんな気がして来ました。というのも、この55パーセントの中には、今日、世界の実質上の最高権力者であると思われるブッシュ大統領その人も含まれているからです。

 ブッシュさんとその側近たちが信奉しているらしいキリスト教原理主義というのは、ちょっと日本人には理解出来ないくらい、頑固で排他的な教理を持つ宗派のようです。旧約聖書の言葉をそのまま信じ、この世界は六千年前に神によって六日間で創造されたとする。彼らによれば、「見てきたような進化論こそ、科学者の宗教にすぎない」のだそうです。いったいアメリカのような進んだ科学技術を持ち、開かれた民主主義を謳っている国で、どうしたらこんな不寛容な教義を一国の指導者が持てるのだろう、それが私が感じた怖さの正体です。イラクに米軍が侵攻した際に、ブッシュ大統領はそれを十字軍にたとえ、イスラム世界から大きな反撥を食らいました。すぐに失言として撤回したようですが、大統領のメンタリティの中では、きっとそれは八百年前の十字軍と重なっているのだろうと思います。

 哲学者のバートランド・ラッセルが考案した有名な命題があります、この世界がたった五分前に神によって創造されたものだとしても、誰もそれを否定することは出来ないというものです。つまり、我々ひとりひとりの記憶も、歴史上の遺跡や史料も、地層の中に隠された化石も、すべて今あるようにいっぺんに創られたと仮定すれば、そこには何も矛盾はありえないというのです。こういう思考実験は、私も大好きなのですが、だからと言ってそれを本当に信じる気持ちには全然なれない。ラッセルだって、まさかそれを信じていた訳じゃない、人間の持てる知性の限界をはっきり自覚するための思考実験だったのだろうと思います。私は、進化論にしろ、遺伝子理論にしろ、最新の科学的な知識を身につけることが、無神論やニヒリズムにそのままつながるものだとは思っていません。そこから敬虔な信仰に至る道だってあると思っています。それこそが、これからの時代の新しい信仰のあり方として、世界のあらゆる宗教や宗派が目指すべき方向ではないかとさえ思っています。(この問題については、まだ考えている途中で、自信を持って言えませんが…)

 ブッシュ大統領の、どう考えても道理の通らないイラク侵攻のうらには、中東石油の利権確保であるとか、身内の企業を富ませるためであるとか、世俗的な理由がいろいろ指摘されています。しかし、アメリカ合衆国の大統領という歴史的な使命を負った人物が、それだけの理由で侵略戦争に踏み込める筈がない。mori夫さんの記事に触発されて、この問題を考え始めた私は、ごく自然に『カラマーゾフの兄弟』に出て来る「大審問官」のことを連想しました。有名な話なので、ご存知の方も多いと思います。無神論者イヴァン・カラマーゾフが考え出した大審問官は、キリストの教えを世俗的な欲望を持った民衆に広めるために、キリストが一度は退けた悪魔と結託した秘密結社の統領として描かれています。もしもブッシュが、すべてを自覚し、周到な計画の上で、いまの戦略をめぐらしているのだとしたら? もしも彼自身はキリスト教原理主義などつゆほども信じておらず、しかもそれが自分達の確固たるルーツを持たず、回帰すべき場所を持たない愛する米国民にとって、どうしても必要な教義であると信じていたとすれば? これはブッシュ政権が内部で腐敗しているという仮説よりも、はるかに恐ろしい仮説であるような気がします。

 このブログで前にもご紹介した、私の愛読している永井俊哉さんのブログや、宇佐美保さんのホームページに、9.11の同時多発テロに関する重大な疑惑が提起されています。あの事件は、ブッシュ政権の自作自演ではなかったかというのです。むろんそれはひとつの可能性として示されているだけで、我々にはそれを信じる何の証拠もありません。私は、いくらなんでもそんなことはあり得まいと思っていたのですが、もしもブッシュ大統領が悪魔と結託した、ひとつの理想を信じた宗教家でもあるなら、この疑惑が突如現実味を帯びて立ち上がって来るように思えるのです。街にクリスマスソングが流れるなか、ふと思いついた一睡の悪夢に過ぎないでしょうか…

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