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2005年11月27日 (日)

ふつうの国のふつうの自衛軍?

 選挙に大勝した自民党が調子に乗って(?)、新憲法の草案なるものを出しました。やっぱり郵政民営化だけではなかったのですね。当然まっさきに注目が集まるのが、九条がどう扱われているかです。重要な問題ですので、今回はこれを取り上げたいと思います。と言っても、この問題に関しては、この国のあらゆる論客が、護憲・改憲両方の立場から鋭い議論を戦わせていることと思いますので、新しい斬新な意見を述べるなんてことはできっこない。だから自分流に〈ぬるい〉議論をしてみたいと思います。私は護憲派なので、素人の考える「ぬるい護憲論」です。

 前にも書いたような気がしますが、今の自民党政権のやり方で私が危ういと思うのは、きちんとした理論的な裏付けが無いイメージやスローガンで国民に訴えようとしている点です。「改革を止めるな」もそうでしたが、今回の「普通の国には、いざとなったら交戦権を発動出来る普通の軍隊が必要だ」という言い方もそうです。まずいかにも日本が普通の国ではないという印象を与えようとしている、そして普通の国になることが何をおいても急務だと国民を脅している。でも、ここに疑問がわきます。あなたがたが考える〈普通の国〉っていったい何?

 自分は60年安保にも70年安保にも遅れて来た世代の人間ですが、若い頃はまだ安保闘争の余燼というか、空気が残っていて、自分が遅れて来た青年であることを悔やんだ時期もありました。若い理想に燃えた私は、軍事的な立場としては、完全非武装中立主義者でした。安保も自衛隊も廃止して、日本は拳銃一丁持たない丸腰になればいいと思っていた。それで攻められたらどうする? むろん、攻めてくる相手のことまで祈って、無抵抗で殺されるに任せるのです。平和的な話し合いで国同士が理解し合い、お互いを認め合うことは何よりも大事だ、しかしそれが叶わず戦争になったら、相手を殺すよりはむしろ相手に殺される方を選ぼう。長いあいだそれが自分の信念でした。

 むろん当時だって、それが非現実的な理想主義だと分かっていたのだと思います。そんな国は世界のどこにも無い、まさに普通の国ではない。でも、冷戦で世界が核兵器の傘に覆われて行くなかで、むしろ普通の国とは違った理想を持ち、世界中から笑われようとも、一国だけ丸腰でいる経済大国があってもいいではないか。それはもしかしたら、ものすごくリアルなことで、そこから来るべき二十一世紀の平和な世界が実現するかも知れない、そんなふうに考えていたのかも知れません。その後、自分も年をとり、守るべきものも増えて来て、そんな理想主義は自分の中でも持ち続けられなくなりました。が、今でもその気分の一端は残っていて、それが自分を護憲派にしているのだと思います。

 ところが、自分より一世代上で、自分よりはるかにリアルな人生体験を積んで、しかも一時期は自衛隊に身を置いていたこともある作家の浅田次郎さんが、こんな文章を書いていることを最近知りました。いい文章なので、長いですが全文引用してしまいます。(もちろん無断引用です。ごめんなさい。)

『おまえも寒さには慣れているだろうが、イラクの夏はひどく暑いらしい。何でも暑さの世界記録は、バスラで観測されたそうだ。信じられるか、摂氏五八・八度だとよ。
 あのな。ロートル小隊長の最後の命令を聞いてくれるか。
 おまえ、撃たれても撃ち返すな。橋や学校をこしらえていて、もしゲリラが攻撃してきたら、銃を執らずにハンマーを握ったまま死んでくれ。
 正当防衛も、緊急避難もくそくらえだ。他人を殺すくらいなら、自分が死んでこその人間じゃないか。
 自衛隊は世界一猥褻な、世界一ぶざまで滑稽な軍隊だけれど、そんな俺たちには誰も気付かぬ矜りがある。それは、五十何年間も戦をせず、一人の戦死者も出さず、ひとつの戦果さえ挙げなかったという、輝かしい不戦の軍隊の誇りだ。
 GHQと戦後日本政府がこしらえたおもちゃの兵隊が、実は人類の叡智の結晶ともいえる理想の軍人であることを、ブッシュにも、無能な政治家どもにもわからせてやれ。
 いいか。俺は昔の戦で死んだ大勢の先輩たちと、ほんとうの日本国になりかわっておまえに命ずる。
 やつらの望んだ半長靴を、人間の血で汚すな。われらが日章旗を、人間の血で穢すな。誰が何と言おうと、俺たちは人類史上例を見ない、栄光の戦わざる軍人である。
 復唱せよ。』

 これを読んだ時、昔の熱い思いがよみがえって来るようで、感動しました。だって、若い世間知らずの人の言葉ではないのですよ。そして、これまで距離感を感じていた日本の自衛隊というものが、少し好きになりました。考えてみれば、この五十年余りのあいだ、自衛隊というのは、それなりに国民の意識の中に溶け込み、『栄光の戦わざる軍隊』として国防の任務に就いて来たのです。例えば、自衛隊の海外派遣に反対する人でも、サマワに送られた個々の自衛隊員の人達に反感を持っている人はほとんどいないでしょう。むしろ交戦権を奪われたまま戦地に赴かされることへの同情を感じる方がふつうだと思います。また、パキスタンでの災害援助に日本の自衛隊が急行したと聞けば、これはもう日本人として誇りを感じずにはいられないのです。

 これは私だけの感じ方ではないと思うのですが、このような親しみを感じられるのも、一国の軍隊としてはちょっと間の抜けた〈自衛隊〉という名称のおかげもあると思います。〈隊〉と名の付くもので思い浮かぶのは、消防隊であったり警備隊であったりレスキュー隊であったり、どちらかと言うと平和なイメージに結び付いたものが多いです。(そう言えば我々の世代ですと、国際救助隊なんてのもありましたっけ。笑) ですから、これは自民党のイメージ戦略のミスだと思うのですが、〈自衛軍〉はうまくない。ふたつの意味でうまくないです、もしも国連軍やアメリカ軍と共同で国際的に活躍出来る軍隊にするなら、はっきりと〈日本軍〉と表記すればいい訳ですし、名よりも実をとって海外での交戦権を認めるだけなら、人口に膾炙している自衛隊の名をそのまま使えばいいのです。自衛軍などと中途半端な妥協案にするから、余計に自民党の意図は見透かされる結果になっています。このへんの国民感情を巧みに表現した川柳が、新聞の投書欄に載っていました。『軍となりゃ、軍歌も軍靴も聞こえ来る』

 さて、いくらぬるい議論と言っても、これだけで終ってしまっては、何を主張したい文章だか分からない。最後に護憲派の理論として、少し無責任で危険なことを書きます。日本がこれまで世界第三位の軍事費をかけて自衛隊を整備しながら、国際的には軍事的脅威をさほど感じない平和国家として認知されて来たのも、半ば米国から押し付けられた平和憲法があったからこそだと思います。この押し付けられたというところがミソです。これさえあれば、その陰で多少軍事費を(あ、防衛費でした)増やしても、目立たないといううまい仕組みが出来上がっています。もしも、日本が本当に実のある防衛体制を作りたいなら、この枠組みは壊さないのが得策です。何故なら、本当に有事になれば、交戦権の放棄などという憲法の条項は、あっと言う間に反故になってしまうのは決まり切ったことだからです。


(今回の文章は、憲法問題や政治問題について、庶民の目から実に健全かつラディカルな意見を発表されている、宇佐美保さんの記事に触発されて書きました。残念ながら、先方がブログではないので、トラックバックは送れません。一方的にリンクを張らせていただきました。文中の浅田次郎さんの文章も、私は宇佐美さんのページで初めて知ったものです。)

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2005年11月20日 (日)

ロボットは心を持つこと出来るか?

 この問題に関しての考察を哲学論考に掲載しました。この文章を書いたのは、mori夫さんの記事に触発されてのことでしたが、特に反論を目的としたものではなく、人工知能問題に関する私自身の考えを表明する文章になっています(ふたつの文章を読み比べていただくと、この問題に対する展望が持てると思います)。ロボットやAIに対して(哲学的な)興味をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひ読んでみて下さい。ご意見、お待ちしています。

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2005年11月13日 (日)

行政の怠慢による逆転現象

 先日の新聞に、山本譲司さんという人のインタビュー記事が載っていました。この人は衆議院議員時代に秘書給与詐取事件のかどで実刑判決を受け、獄中生活を経験した人だそうです。刑務所の中では、障害を持つ受刑者のための世話係という仕事をしていましたが、そこで驚くべき事実を知ります。少し長いですが、記事から引用します。『知的障害、精神障害、認知症(痴呆症)など様々なハンディを抱えた彼らは、法律の未整備や差別のために社会から排除された末に刑務所に服役していたのです。無銭飲食や置き引きなど、社会に受け皿があれば犯さずにすんだ微罪を繰り返し、実刑となる。入所者の高齢化は世界で突出して高く、刑務所の一部が福祉の代替施設になっている実態に驚きました。』 受刑者のこんな言葉も紹介されています、『これまで生きてきた中で刑務所の中が一番暮らしやすかった』。

 昔から食いつめた貧乏人が、自ら刑務所に入るために比較的軽い犯罪を犯すことはままあったようです。刑務所の中には食べるものがあり、寝るところもあるからです。作家の浅田次郎さんの本で読んだことがあります、こういう服役者を、業界用語(?)では懲役太郎というのだそうです。刑務所の中では、他の囚人達から馬鹿にされる存在だそうですが、多少馬鹿にされたって、ホームレスになって飢えや寒さで生命の危険にさらされているよりはいい。人を傷つけるような犯罪はうまくないが、無銭飲食や置き引きくらいなら人間ひとりの命を助けると思って大目に見てもらいたい。このように考える人がいても、それを不道徳だと言って一方的に責めることは出来ないような気がします。

 今日では犯罪に対する刑罰は、世間に対する見せしめや同害報復であるよりも、犯人の更生と社会復帰を目的とした教育刑という意味合いが強いようです。私はこのことは社会全体の道徳的な向上という点から見ても、とても良いことだと思っています。私自身は残念ながら刑務所の内側を身をもって体験したことがありませんが(これも私が作家を目指して浅田次郎になれなかった理由のひとつかも知れません)、現代の刑務所は、例えば戦前のそれに比べて、ずっと明るく衛生的になっているでしょうし、服役者への待遇も人道的なものになっているのではないかと想像します。これも民主的な先進国としてはかくあるべきことです。が、そこに困った問題が出て来ます。つまり、ある立場の人たちにとっては、塀の外よりも中の方が居心地がいいという逆転現象です。

 いくら刑務所の中にも人権があると言っても、そこがあまりに居心地のいい場所であれば、教育刑としての効果も充分に期待出来ないおそれがある、やはり刑務所は暗く不衛生でじめじめした場所であることが必要だ、そう考える人もいるかも知れません。いや、刑務所の中では人間としての基本的な自由が制限されているのだから、そのことで充分制裁としての機能は果たされている、環境や食事などをことさら劣悪なものにする必要は無い、そう考える人もいるでしょう。考えてみれば、このことは意外に奥の深い重要な問題であるような気がします。つまり、国家や社会が受刑者に対してどのような処遇を採るかということは、言ってみればその国の基本的人権の基準ラインを現実的にどこに置くかということと等しいことのように思えるからです。誰がどう考えても懲役太郎は割に合わない、そういう社会保障の体系を作らなければ、刑罰による犯罪抑止という当り前なことさえも絵に描いた餅になってしまうかも知れません。

 これと同じような問題は、身の周りを見回せば他にも見つかります。例えば最近なにかと話題になっている年金の問題もそうです。今は若くて勤労意欲のある人でさえ、なかなか職に就きにくい時代ですから、厚生年金にも国民年金にも入っていない若い人たちが増えている。年金加入は国民の義務だと分かっていても、そこには現実的な損得勘定も働きます。年金財政はこのままでは破綻する可能性があるかも知れないが、一方で日本には生活保護というけっこうな制度があって、掛け金無しでも最低限の生活を保障してくれる。しかも今の制度では、六十五歳まで国民年金を払い続けた場合よりも、生活保護で受給出来る金額の方が高いということを知ってしまえば、真面目に年金を払うのも馬鹿々々しいというのは合理的な結論です。ここにも制度としての逆転現象がある。私はまったく明らかなことだと思うのですが、こういう逆転現象を放置しているということは、行政の怠慢以外の何ものでもない。それは国民の真面目な勤労意欲を萎えさせ、道徳心をも麻痺させるものです。

 政治が放置している逆転現象は、まだまだ他にもあるでしょう。税制の分野や福祉の分野、医療の分野などでもこうした納得の行かない(一部の人には納得の行き過ぎる?)不公平な逆転現象が起こっている。どれも国民生活への影響の大小はあっても、根は同じ問題です。要するに先進国だ民主国家だと言っても、まだこの国の行政能力はその程度だということでしょうか。小泉政権が改革すべき点は、まだまだたくさんあると思います。

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