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2005年10月31日 (月)

恋愛蔑視

 前回は若い頃の恥をさらすような内容の文章を書きましたが、今回もまた調子に乗って若年期の思い出のカミング・アウトを。十代から二十代始めにかけて、とにかく恋愛であるとか、男女交際(死語ですね)であるとかを、死ぬほど軽蔑し、憎悪していた時期がありました。昨今では制服姿の高校生とおぼしきカップルが、なんのてらいもなく街中を手をつないで歩いている姿も、特に珍しいものではなくなりましたが、三十年前の高校生には、まだ昔の男女七歳にして席を同じうせず的な倫理観が多少は残っていたものです。私は別にそうした古風な倫理観を持ち合わせていた訳ではありませんが、別の理由から恋愛感情に対しては激しい嫌悪を抱いていた。

 別の理由というのは、まったく簡単なことです。要するに異性にモテなかったのです。しかし、当時の自分は、その事実については絶対に認めようとしなかった。むしろ自分は恋愛など超越しているのだと考えていたものです。恋愛を超越して、何を目指していたのか? 最初は文学的創造を目指したのですが、もちろん恋愛心理のイロハも知らない自閉症的な若者に、豊かな文学創造の世界が拓けて来る訳もありません。で、もっと抽象的な論理の世界に逃げ込んだのが、私が哲学を始めた理由でした。恋愛経験も無く、死刑囚になったこともない自分が、ドストエフスキーになることは無理かも知れないが、ニーチェにだったらなれるかも知れないぞ。当時の自分は、例えばツァラトゥストラの中にあるこんな文章によって自己正当化をしていました。『ある男性は真理を求めて、勇士のように出掛けて行ったが、ついに手に入れて来たのは、可愛らしい、お化粧をした虚偽だった。』

 考えてみれば、自分のこれまでの人生を振り返ってみても、失恋というものを一度も経験したことがないのです。得恋ばかりだった訳ではありません、そもそも恋というものをしたことが無かったので、失恋を経験するチャンスも無かっただけです。むろん異性に興味が無かった訳ではないし、ほのかな恋心は数え切れないくらい経験して来た。ただ、一度も恋の告白をしたことがない、つまり自分が失恋するシチュエーションを周到に避けて来たのというのが事実でした。味気ない人生と言われればそれまでですが、若い頃の自分はそのことで失ったものよりも、得たものの方が多いと思い込んでいました。

 歴史を振り返ってみれば、このタイプの情熱が、偉大な芸術や哲学を生み出す原動力になった例も少なくないと思います。ニーチェはその代表選手だと思いますが、前回取り上げたカフカにしても、短い生涯に三回も婚約破棄をして、生涯独身を貫いていますし、人間に対する恐ろしいほどの洞察力を持っていたチェーホフも、自身の結婚に対しては非常に慎重な態度をとっていました。心をふるわせるどんな激しい恋愛も、最後は平凡な結婚生活に行き着く以上、これを恐れて避けようとするのは、芸術家や哲学者の本能なのかも知れません。

 どうでしょう、今の若い世代の人たちにも、こうした気分は通じるものでしょうか? いまも高校の教室の中には、ひとりぐらい男女問題については超然とした態度をとり、周囲からは変人のように思われている青年がいるものでしょうか? 豊かな平和な時代に生まれて来た私たちは、昔の若者のように、戦争や貧困の中で自分を鍛えて行く機会というものを持っていません。青春というものが、苦悩と克己の時代であるとするならば、異性にモテないという平凡な事実だって、結構自分の心に火をつける、大きな情熱の火種になるものではないかと思います。

 いや、誤解を受けないように断っておきますが、これはみんな自分の若い頃の話です。その後自分も社会復帰のリハビリテーションを経て、平凡な勤め人になり、平凡な結婚をして、人の親にもなった。街中でイチャイチャするカップルを見ても、ほほえましいとまでは思わないまでも、激しい嫌悪や憎しみを感じることはなくなりました。若い頃は本当に激しい反感を抑えられなかったものですが、今はもうその時の気分を思い出すことも出来ません。それにしても、あの頃のあれは一体何だったのだろうと、今では不思議に思うのです。

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