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2005年10月22日 (土)

ブログとカフカ

 人間、五十歳にも近くなると、若い頃のことが他人事のように思い出せるようになるものです。以前は思い出すだけでも心の傷にさわるようで、つらかった記憶です。若い頃、作家を目指していた一時期がありました。まあ、子供の頃から理屈っぽい、ひねたガキでしたから、思春期を過ぎ、文学青年になっても生硬な哲学的な小説ばかり書いていた。その頃の自分のアイドルは、埴谷雄高や椎名麟三といった作家でした。文学賞に応募したこともありますが、もちろん予選にだって残るはずがない。今となっては懐かしくもあり、馬鹿々々しくもあるような青春のひとこまですが、当時は本当につらかったことを覚えています。

 最近、文学賞をとって華々しくデビューする若い新人作家の人たちには、そういった二、三十年前の文学青年の悲壮感のようなものは、まったく感じられません。むしろ若い時代にしか書けない作品を書くことで、さなぎが殻を脱いで羽化するような、成長の一過程を楽しんでいるような自然な感じがします。表現はそれぞれ個性的でも、何か共通した爽やかさのようなものを感じる。どうしても自分は作家になりたいという野心は、それだけでもう古臭いもののように思えます。だいいち、それは現代の若者の感覚からすればカッコ悪いことだし、そうした野心が見え見えの作品は今の読者のテイストにも合わなくなっているのでしょう。

 自分には作家としての資質が決定的に欠けていることを、心のどこかで自覚し始めていた頃、フランツ・カフカという作家に出会い、強い衝撃を受けました。その作品にというよりも、その生き方に戦慄を覚えたのです。外国文学が好きな方はご存知だと思います、「変身」や「城」などの暗い絶望的な作品で知られるカフカは、生前作品をほとんど発表しなかったのです。昼間は名も無い勤め人としての生活を送りながら、夜はひとり部屋に閉じこもり、あのような作品を発表のあてもなく書いていた。死ぬ間際には、友人に自分の原稿をすべて焼き捨てるように遺言しています。友人はその遺言に従うことに忍びなく、その作品を公開しました。こうしてカフカの名前は文学史に残ることになったのです。この事実を知った時、これこそ自分の理想の生き方だと思いました。野心にあふれているのに、自分の才能の無さにも気付いている文学青年にとって、それは自尊心を傷つけないためのアイロニカルな最後の隠れ家のようなものだったのです。

 しかし、そこから先がやはり天才と凡人の違うところ。それから黙々と自己の世界に沈潜して、ひたすら哲学的な作品を書き続けたかと言うと、やがて文学からも哲学からも遠ざかって、ホンモノの平凡なサラリーマンになってしまいました。まさに「変身」(笑)。それはたぶん多くの人がたどる道なのでしょう。時々若い頃の夢を思い出して、心にほろ苦さを感じることはあっても、昔の病的とも思える自尊心の痛みは、今はもう味わおうと思っても味わうことも出来ない。要するに歳をとったのです。

 ところが、時代が変って、ふと気付いてみれば、同時代を生きる人たちの中にたくさんのカフカが生まれていました。つまりインターネット・ブロガーのことです。インターネットが普及して、ブログという誰でも簡便に利用出来るメディアが登場した。人がブログを始める理由はさまざまでしょうが、特に私が愛読しているブログの中には、非常に孤独な感じのする自己省察的なものが多いのです。自分もブログを始めてみて分かりました、ブログを維持して行くのは本当に孤独な営為だということが。とにかく訪問してくれる人がいない。一部のオピニオン・リーダー的な人の運営する人気ブログは別でしょうが、まず一般人のブログはそんなものだろうと思います。しかも、どういう訳か私は今のこの状況が気に入り始めているのです。それは若い頃に憧れたカフカのような、名誉のためでもなく、金儲けのためでもなく、ただひたすら自己探求の道を孤独に歩いて行く、そうした生き方の気分だけでも味わわせてくれるものだからです。

 自分の死後、原稿をすべて焼き捨てるように遺言したカフカは、生前自ら原稿を焼き捨てなかったところを見ると、自分の作品が後世に残ることを可能性の一端として意識して死んで行ったに違いないと思います。それはカフカの作品に見られる、絶望と紙一重の出口の無い希望と似たもののようにも思えます。このことはカフカの文学者としての価値を高めこそすれ、決しておとしめるものではないはずです。そして、インターネット時代に生きる我々は、カフカの時代よりもずっと手軽に安全に、そういった生き方を選びとることが出来るのです。


(この文章は、cosmo_sophyさんのブログ、「考える脳髄プラスα」へのトラックバックとして書かれました。cosmo_sophyさんのブログは、私たち思索系ブロガーにとってのひとつのお手本だと思っています。その視界の広さと考察の深さ、抑制が利いた端正な文体、コメントを書かれた人への思いやり、どれをとっても完璧です。しかし、残念なことに、このブログも今年の四月から更新が止まったままです。ファンとして再開を楽しみにしているのですが…)

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コメント

Like_an_Arrowさん、こんばんは。mori夫です。

TBをいただいていたのに、お返事もせず、失礼しました。初めて経験する分野の仕事がやっと終わり、ホッと一息ついているところです。

>その頃の自分のアイドルは、埴谷雄高や椎名麟三といった作家でした。

私もそうでした。埴谷雄高や吉本隆明の本を熱心に読みました。(ほとんで意味が理解できていませんでしたが。)

>やがて文学からも哲学からも遠ざかって、ホンモノの平凡なサラリーマンになってしまいました。まさに「変身」(笑)。それはたぶん多くの人がたどる道なのでしょう。

私もまったく同じです。文人か学者になることを夢見ていました。18歳の自分の前にメフィスト・フェレスみたいなのが現れて、これがお前の30年後の姿だ、といって魔法の鏡でいまの仕事や生活を見せられたら、ショックで自殺していたでしょう。(笑)

>ところが、時代が変って、ふと気付いてみれば、同時代を生きる人たちの中にたくさんのカフカが生まれていました。つまりインターネット・ブロガーのことです。

>自分もブログを始めてみて分かりました、ブログを維持して行くのは本当に孤独な営為だということが。

なるほど。同感です。

ランキングに参加したり、そのための宣伝リンクをあちこちに貼ったり、自分と趣味や興味の合いそうな人のブログをたくさん見つけて、コメントをつけたりトラックバックをしたりすれば、訪問してくれる人の数は飛躍的に増えます。1日に200クリックくらい、すぐに超えます。私も一時はそれをやりました。

でもなんだか虚しいんですよね。どこかに嘘がある。自己宣伝というのは、するのも嫌だし、人がしているのを見るのも、嫌とは言わないが、何か恥ずかしいものがあるような気がします。

文学という営みは、自己との格闘かな、とも思います。魂の叫び声。存在のうめき。それは単に有名になりたいからじゃない。有名になることを目的に書かれたものは、ニセモノ文学。

だったら何でブログなんかに書いてネット上にあげるのか。自分のノートかPCの中だけに留めておいて、死んだら古雑誌と一緒に捨ててもらえばいいのに。

私はこの問題に若いときから悩んできました。ブログにこんなことを書いたこともあります。
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2004/11/post_2.html
(これも自己宣伝ですね。すみません)

>この文章は、cosmo_sophyさんのブログ、「考える脳髄プラスα」へのトラックバックとして書かれました。ファンとして再開を楽しみにしているのですが

私も彼のファンです。元気でいるといいのですけど、休みが長いので心配です。

投稿: mori夫 | 2005年10月30日 (日) 23時04分

mori夫さん、こんばんは。お待ち申し上げておりました(笑)。

1ヶ月以上更新が無かったので、心配していました。やはりそうですか、お仕事で忙しかったのですね。私もmori夫さんと同業ですので、土日の無い忙しさには慣れています。現世のなりわいでは、もしかしたら商売がたきかも知れません(笑)。

たまにしか更新しない私のブログは、平均して1週間に10人の方のクリックがあるか無いかです。しかもリピーターの方がいらっしゃるのかどうかも、今の自分には分かりません。でも、あまり気にもならないんです。二十代の頃、私は下手くそな自作の小説を自費出版で出したこともありますが、その時よりもずっと小さな野心で、しかも確かな手応えがある。だってこうして親しみを感じている人からのコメントをいただけたりするのですから。

なるべく毎週ひとつは雑文をアップしようと思うのですが、なかなか気持ちを切り替えてパソコンに向かうのが難しいです。私はまだ新参者ですが、それでも自分の文章がだんだん増えて行くのは嬉しいですね。若い頃は自分の書く文章が嫌で嫌で仕方無かったこともあります。でも、今はそんな激しい嫌悪感もどこかに行ってしまいました。自分のブログを持つことは、ちょっと子供の頃のいたずらに似た楽しさがあります。文学的な表現をすれば、それは丸善の棚に置いて来た梶井基次郎の檸檬の一果のようなものかも知れない、そんな言い方はちょっとキザですか?

mori夫さんのブログの方も、また楽しみに訪問させていただきます。もしもアクセス解析が出来るのでしたら、この1ヶ月、ほとんど毎日クリックしていたのは私です(笑)。お互いにインターネット霊園に入るにはまだ少し間があると思います。今後ともぜひ水の如き賢者の交わりでお願いします。

投稿: Like_an_Arrow | 2005年10月31日 (月) 01時56分

こんばんは。
野心を見せない姿がカッコイイ。 何ともいえないですねえ。
ハングリー状態の若者の分散度が当時と比べて大きくなってるか小さくなってるか。同じかもしれない。
時折、寂しそうなやるせないような、爽やかさとは間逆の若者達を電車内で見かけます。
おそらく、爽やかさは今も昔も若者の隠れ蓑なのかもしれない。それは、生=性=欲望すら水のように扱ってる素振りを見せて、何かを(何かから?)防御してるのかもしれないです。

私は今年で51になりましたが、最近は、チンポ猿なエネルギーを持つ若者を応援したくなってます。

このコメントをもってturusankamesanのHNは終りにします。
これからは、別人として訪問させていただきます。

投稿: turusankamesan | 2011年9月 9日 (金) 04時48分

turusankamesanさん、お久しぶりです。

いつもながらコメントの返事が遅くなってしまってすみません。私のブログ生活は、週末に1本だけ書く記事に向けて全神経を集中しているので、なかなかコメントにまで手が回らないのです。(過去記事のインデックスも更新しないまま放ってあります。)

このブログはとても読者が少ないのが悩みです。ハンドル名が変わっても、また訪ねていただけると嬉しいです。このところずっとスランプが続いていますが、いつもこの場所でひっそりと営業を続けていますので。

投稿: Like_an_Arrow | 2011年9月11日 (日) 19時00分

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