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2005年9月19日 (月)

水はすべてを知っている

 昔、まだ自分が少年と呼べる年齢だったころ、何かの本か雑誌でこんな記事を読みました。コップ1杯の水を海にこぼして、世界中の海をぐるぐるかき回したあと、もう一度そのコップで海の水をすくうと、そこにはコップをこぼす前に入っていた水の分子が、何個かは入っていると言うのです。それほど水の分子というものは小さい粒子なのだということを、子供に教えようとした理科の教材だったのかも知れません。私は理科の成績は決してよくありませんでしたが、この記事のことはその後もずっと頭から離れずにいました。

 海の水が海流の大きな流れによって、均等にかき混ぜられるのにどのくらいの月日がかかるのかは分かりませんが、深海1万メートルのよどんだ水はともかく、我々がふだん接している水、つまり地球の表面を川になって流れたり、蒸発して雲になったり、また雨となって海や陸に降り注いでいるような水は、思いのほか速い速度で地球を駆けめぐっているような気がします。最近各地に大きな被害をもたらしたハリケーンや台風などによる、ダイナミックな水の動きのことを思えば、数ヶ月または数年もあれば、コップ1杯の水は世界中に拡散して行くのではないでしょうか。

 もしもこの仮説を正しいとするならば、コップ1杯の水を目の前にして、我々はいろいろなことが想像出来ます。この1杯の水には、それこそあらゆる歴史のあらゆる場面に立ち会って来た水の分子たちが含まれているに違いない。その中には例えば、アテナイの街でソクラテスが最期に仰いだ毒杯の一部だったものもあるでしょう。玄宗皇帝を待つ楊貴妃が、湯浴みにつかった湯の湯気として立ち昇ったものもあるでしょう。壇の浦の合戦で源氏に追いつめられて、幼い安徳天皇を抱いて海中に身を投じた二位の尼の着物の裾を揺らしたものもあるでしょう。1杯の水には、ありとあらゆる世界の歴史が詰まっている、これは実に我々の想像力をかきたてる着想です。

 哲学者のサルトルは、若いころ酒場で知り合いの男から、我々はたった1杯のビールからでも哲学が始められるのだと聞かされ、愕然としたのだそうです。コップ1杯の水、それは少年のころの自分にとって、一番最初の哲学的思考だったのかも知れません。

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