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2005年9月25日 (日)

こころのありか

 心と脳の問題が静かなブームです。唯脳論を唱える養老孟司さんの本や、クオリアというキーワードから心脳問題を読み解こうとする茂木健一郎さんの本が、こういったお堅い哲学系統の本にしては珍しく書店の目立つ位置に置かれています。確かに二十一世紀になった今日でも、人間の心はどこにあるのかという問題は、科学によって解明し尽くされているとは言えないと思います。いや、心はおそらく脳にあるのだけれども、その脳と心の関係がどうなっているのかが分からない。おそらく脳の解剖学的な分析や生理学的な実験を通して、科学はこれからも脳の構造や機能についての知識を深めて行くでしょう。しかし、その知識の果てにやがて心と脳の問題が解明されるものだろうか? そもそも心と脳、精神と身体の問題が解き明かされるということは、どういうことでしょうか?

 これは自分のような哲学病にかかった人間ならずとも、誰にでも興味のある問題だと思います。例えば、道徳の起源だとか言語の統語論的構造なんて問題は、一般の生活人にとってはどうでもいいような問題ですが、自分の心がどこにあるのかという問題は、考えようによっては誰にとっても切実な問題だと言えます。もしも人間の心的な活動が脳の物理的活動にすべて還元出来るものなら、肉体の死はすなわち精神の死を意味するでしょう。しかし、もしかして人間の精神が脳の働きを少しでも超えたものなら、肉体が死んでも心はあとに残るかも知れない。それが望ましいことであるかどうかは別として、誰でもやがて死を迎える以上、それは無関心ではいられない問いのはずです。

 最近では、人間の精神的活動を脳の中の局所的な部分の作用で説明しようとする考え方は流行らないようです。むしろ、脳全体、身体全体をひとつのシステムと捉え、そのシステムの働きの一部として精神的なものの発現もある、そんな見方の方が現代風のようです。十七世紀の哲学者デカルトは、思惟の主体である精神と延長を持った物質である肉体をきっぱり分け、近代的二元論を確立しました。けれども結局デカルト的な二元論の矛盾は、彼自身がいったん切り離した精神と肉体を、脳の中にある松果腺という小さな部分で再び結び付けざるを得なかったことにも表れています。もともとの問題の設定自体に問題があったという訳です。

 しかし、歴史の中で評価が定まったデカルトの二元論は、形を変えて現代に甦っているようにも思います。それは現代の医学の中に最も先鋭的に現れています。今日でも世界中には、人間の心が頭ではなく胸に、つまり心臓にあると考えている人達は数多くいるでしょう(まさに心の臓器です)。一方で、先進国と呼ばれている国々では、脳以外の人間の身体は交換可能な部品のように扱われ、進歩した医療技術を誇るように平気で心臓の移植手術も行なわれています。まだ世界のどこかには人間の心が心臓に宿っていると考えている人達がいるのに、それを無視して見切り発車のように心臓移植を実施するというのは、考えてみればずいぶん野蛮な行為です。

 最近の言葉で言うと、都市伝説とでも言うのでしょうか、不思議な話があります。心臓移植を受けた人は、亡くなった心臓提供者の記憶や性格を受け継ぐことがあるというのです。にわかには信じられない話ですが、かと言って確固たる根拠をもって、そんなことはありえないと否定することも出来ない気がします。理論的に考えれば、こんな可能性もあるかも知れない。実は人間の心(魂)そのものは心臓にあって、ふだんそれは脳という器官が持っている記憶や思考といった機能を利用しているだけなのだと。つまり主体は心臓の方にあるのだと。そうであるならば、心臓移植とは、臓器提供者の側から見た肉体の乗っ取りなのかも知れません。いや、そんな筈はない、既に心臓移植は数多く行なわれているが、そこで人格の交替が起こったなどという話は聞いたことがない。それはその通りです。しかし、臓器提供者(つまり心臓そのもの)は、新しく収まる肉体から、その肉体の元の持ち主が持っていた名前や記憶や性格など、脳に付随していた一切合財を奪い取ったのだとすれば…。まさに現代のおとぎ話ですね。


(この文章は、哲学的な問題に対する考察を、詩的な言葉で展開されているきすぎじねんさんのブログへのトラックバックとして書かれたものです。ブログ初心者なもので、トラックバックも初めてです。うまくリンク出来たかな?)

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コメント

トラックバックとリンク大丈夫みたいですね(笑)
はじめまして
moriさんところで政治問題についてやり取りされておられた方ですよね?
哲学病までも私たちと同じように患っておられるとは知りませんでした(笑)
まさか、ネットを伝って感染したわけじゃあないでしょうね。
と、貴重な情報提供ありがとうございました。
心臓移植にて記憶まではどうかは分かりませんが、性格が移るというのは、心臓の(自立的な)働きが関与している可能性は非常に高いでしょうね。そういった意味から、唯物論的に近い方向からの説明でも十分説明が可能でしょうね。
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/19980906/f1970.html
いずれにしても(一元論・二元論のどちらでも、またはそれらの中間でも)、「心が脳に限局する」というのは、あまりにも狭義に心を捉えすぎているといえますよね。

投稿: きすぎじねん | 2005年9月25日 (日) 15時55分

きすぎじねんさん、コメントありがとうございます。
初めて自分のブログにコメントが付いて、嬉しいです(笑)。

mori夫さんときすぎじねんさんのやり取りは、いつも興味を持って拝見しております。
私も哲学病歴は長いんです。かれこれ30年以上…と言えば歳がバレますが、この歳になっても「身心問題」だとか「他我問題」なんて聞くと、スイッチが入ってしまうんです(笑)。
頻繁には更新出来ないかも知れませんが、またぜひここにも遊びにいらしてください。

投稿: Like_an_Arrow | 2005年9月25日 (日) 21時04分

こんばんは。mori夫です。

10月末に終わったはずの仕事が、実はまだ後始末が続いていて、なかなか自分のblogの更新が、ままなりません。(笑)

心とは何か。心と、意識や感情とは、どう違うのか。考え出すとキリがないですね。

例えば猿・犬・ねずみにも心があるでしょうか。私は三者とも、少なくとも意識・感情はあると思います。(ちょっと乱暴かな)

意識や感情を言葉によって内省するのが心ではないでしょうか。そしてその内省の働き自体は、脳が担っている。

だから「言葉を使わない動物には心がない」、というふうな定義も可能です。でも反論する人も少なくないはず。

心の基となっている意識や感情、そしてそのもっと基底にあるもの。それは命だと思います。

命→意識→心

というふうに構造的発展をしている。心の神秘を考えることは生命の神秘を考えることと同じだ。そんなふうに思っています。

投稿: mori夫 | 2005年11月 5日 (土) 23時44分

mori夫さん、コメントありがとうございます。

mori夫さんはこれまでも、生命に関してたくさんの文章を書いていらっしゃいますよね。たぶん現代ではあまり評判のよくない「生気論」と紙一重のところで、生命を捉えていらっしゃる。私もこの点では同じだと思います。でなければ、哲学になど興味は持ちませんもの。

ただ、私は「生命の神秘」と「心の神秘」と「自我の神秘」を多少分けて考えています。そして私にとって一番気になるのは、三番目の「自我の神秘」についてなんです。何故自分はここにこうして存在しているのか? 何故それは自分であって、他の誰でもなかったのか? 確かmori夫さんの記事に、もしも両親の精子と卵子が同じ組合せで結び付いたのでなければ、その時生まれて来たのは自分だったか他人だったか、という文章があったと思います。私も昔から全く同じことを考えていたので、あれを読んだ時には「やられた」と思いました(笑)。

もしも時間がありましたら、「哲学論考」のページの方も覗いてみてください。この問題に関して以前から書き溜めていた文章を、少しずつ出し惜しみしながら(笑)掲載しています。(ちょうど今日、生命に関しての拙文をアップしました。)

投稿: Like_an_Arrow | 2005年11月 6日 (日) 20時30分

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