2012年5月20日 (日)

経済学に関する素朴な疑問

 消費税の増税をめぐって国論が二分されています。不思議なのは、この問題に関しては、エコノミストと呼ばれる専門家のあいだでも意見がまっぷたつに割れていて、しかも互いに相手を論破したり説得したり出来ない状態がずっと続いているということです。増税賛成派が、このまま国の借金が増え続けると、日本もギリシャのように財政破綻すると脅かすと、反対派は増税すればますます景気が悪化して、却って財政破綻を早めると応酬する。憲法改正問題だとか死刑廃止問題だとかいうものとは違って、私たちの道徳観や政治的信条に抵触するような問題ではないと思います。消費税を5%から10%に上げることによって、景気や財政にどのような影響が出るか、それだけの単純な問題です。増税賛成派も反対派も、景気を回復して財政を健全化することが望ましいという点では意見が一致しているのです。景気回復と財政再建のためには、消費税は上げた方がいいのか、据え置いた方がいいのか、あるいは下げた方がいいのか。それは理論的・実証的に正解の出せる問題である筈です。数学を駆使した現代の精緻な経済学が、こんな単純な問題にも統一見解を出せないことには、一体どういう理由があるのだろうか?

 以前から疑問に思っていたことがあります。経済学の専門的な論文を覗いてみると、まるで数学の論文かと見まごうほど数式で埋め尽くされていることがよくあります。私のような〈文科系の〉初学者を近寄せまいとバリヤーを張られているかのようです。もちろん専門的な学問分野に素人が近づき難いのは当然のことだし、自然言語だけでは究明出来ないような学術的課題があることも理解出来ます。分からないのは、そこで操作されている数式に実際の数値が代入されて、その数式の妥当性が検証される機会がほとんどないように見えることです。これが物理学の公式、例えば有名なE=mc2という公式なら、実際の数字によってエネルギーと質量が等価関係にあることを示すことが出来ます(Wikipediaによれば、質量1kgは電力24,965,421,632kWhと等価なのだそうです)。ところが、経済学の教科書に出て来るような公式、例えばPT=MVだとかC=C0+cYといった式に実際の統計数値を代入して、これが普遍的に成り立つことが証明出来るのだろうか。非常に小さな経済モデル(もしも地球の人口が百人だったらというような)のなかでなら、その妥当性が証明出来るような公式もあるのかも知れません。しかし、現実のマクロ経済を対象にして、その数式を文字通り当てはめて「解」を求めるなんてことは、常識的に考えても出来そうにありません。

 このような素人の疑問に対しては、どういう反論が返って来るかも分かっています。物理学で扱っている自然的事象と比較して、経済学が対象としているのは非常に複雑な要素の絡み合った社会的事象なので、単純な数式をそのまま当てはめても、等式は成り立たないというものです。最近のコトバでは〈複雑系〉なんていうのでしたね。複雑系と呼ばれる対象のなかでは、個々の公式が成り立たない例外的な事象が常に発生している訳ではなく、そこに干渉する別の要素が多過ぎるために単純な公式は当てはまらないように見えるのです。経済を数理モデルによって解けると考えている人は、そのモデルを精緻に複雑にして行けば、正解に近付けるだろうと考えている訳です。適切なプログラムを準備して、スーパーコンピュータで計算させれば、消費税増税の影響ももっと正確に予想出来るようになるかも知れない。これは事実かも知れません。少なくとも、増税賛成派と反対派がいつまでも水掛け論を繰り返しているような状況にあって、どこかの大学の研究チームがスパコンでシミュレーションさせた結果を発表すれば、それはかなり世間の注目を浴びるだろうし、重要な研究として評価されるだろうと思います。日本はいま世界最速のスーパーコンピュータを持っているのですから、何故そういう用途でこれを活用しようとする研究者が現れないのか不思議です。これは現在の日本にとって、緊急かつ最重要の課題と言ってもいいようなものだからです。

 複雑系を扱う学問の代表である経済学が、このような方向で進化して行くことには期待が持てるような気がします。少なくとも、党派性や個人的利害を抱えた個々の経済学者やエコノミストが、勝手な意見を(そのひとつひとつにはとても説得力がある訳ですが)言い合っている現状よりはずっといい。もちろんスパコンを使えば、それで自動的に正解が導き出せると考えるほど単純な話ではないので、次に問題になるのは、複雑系の事象をどのようにモデル化するかということでしょう。様々な研究チームが、工夫を凝らした数理モデルを持ち寄ることになるかも知れない。これは一般の自然科学と同様に、仮説・検証のサイクルに乗せることが出来るものなので、無益な神学論争に陥る心配からは解放されると思います。むしろそこで提出される複雑系のモデルを修正し、精緻化して行くことこそが、経済学の発展と呼べるものかも知れない。――しかし、ここで人文系出身の私は、もうひとつの疑問を持ってしまうのです。それでは未来を正確に予想し、最適な経済政策を提言出来ることが、経済学の目指すべき理想の姿かと言えば、それだけでは不足なような気がするということです。本来あるべき経済学とは、未来を予想するだけではなく、未来を切り拓く役割を担っているものではないだろうか。

 よく経済学者やエコノミストと呼ばれる人の文章を読んでいると、今回の経済的事件(例えばリーマンショックやユーロ危機など)を、自分は何年も前から予測していたと書いているのに出会うことがあります。それがつまりその人の理論の正しさを証明していると言いたい訳です。でも、私はこれはおかしいと思う。 例えは競馬ではどんな大穴が出ても、予想を当てた人は必ず出て来るものです。それはその人の予想理論が正しかったのではなく、たまたま今回は運が良かっただけです。経済的事象に関しても同じだと思います。経済学の目指すところは、ある政策が経済に与える影響を予想したり評価したりすることではありません。これからの時代に経済はどうあるべきかを仮説で示し、それに向けて人々を説得し啓蒙して行くことこそが経済学という学問の本来の使命なのではないか。歴史上の偉大な経済学者、例えばアダム・スミス、マルクス、ケインズといった人たちは、優れた予想家だった訳ではなく、まさに未来の経済のあるべき方向を示した先覚者だった訳です(但し彼らによって社会がほんとうに良い方向に変わったか、そのことは疑問ですが…)。いまもまだ経済を論じる人のなかには、経済成長を目標に設定している人が多く見受けられます。しかし、資源問題や環境問題が地球規模で深刻になっている時代に、経済成長を至上命題とする考え方がこれからの経済思想においても主流であり続ける訳がない。現在ほど経済に大転換が迫られている時代はなく、そのための新しい経済理論が求められている時代はないと思います。そのビジョンが無いところで、増税に賛成・反対といった議論をしているのは空しいことです。

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2012年5月13日 (日)

政界再編を気を長くして待つ

 民主党の小沢元代表が無罪判決を受けて、これからの政界再編に向けた台風の目になるのかと思ったら、なんと控訴されて再び刑事被告人の立場に逆戻りしてしまいました。誰もが意外なことに思った筈です。もともと今回の事件は、検察が起訴を断念したものを、検察審査会の判断で強制的に起訴させたものです。検察審査会というのは、国民のなかから抽選で審査員を選び出し、起訴権を持つ検察を市民の目で監視するために作られた制度だそうです。要するに裁判員制度と同じで、素人判断を司法の場に持ち込むための制度です。その検察審議会が、小沢氏に対して「起訴相当」という判断を下した。ところが検察自身は起訴を諦めているのだから、起訴する主体が存在しない。裁判所から任命された指定弁護士が検察官の役を務めて、形式的な裁判が行なわれた訳です。茶番劇のようなものだという気がしますが、そういう決まりなのだから仕方がない。ふだんは被告人の無罪獲得や減刑のために奮闘している弁護士が、心ならずも検察官の立場に立たされるなんてお気の毒なことだ、そう思っていたので、今回の事件は無罪判決で一件落着するものと思っていました。まさか国選弁護人、じゃなかった、国選検察代理人が控訴するなんて想像もしなかった。

 もちろん検察の立場として事件に関わった結果、被告人が有罪であることを深く確信するようになったのかも知れませんし、弁護士という職業柄、控訴などすべきではなかったとは言いません。しかし、私がおかしいと思ったのは、会見した担当弁護士が政治への影響については考慮しないように努めたとコメントしたことです。現在の政局は、消費税の増税をめぐって緊迫した状況にあります。小沢一郎という政治家に対する好き嫌いはあっても、この人がいまの政局において重要な立役者であることは間違いありません。ここで控訴を選択するということは、まさに国政に対する非常に大きな影響力を行使することに他ならない。もしも今回の担当弁護士が、司法に政治的な思惑を絡ませるべきではないという言い訳を用意しているなら、それこそ世間知らずの法曹人の非常識だと言わざるを得ない。いや、そんな言い方をする私の方が世間知らずかも知れませんね。当然、そこには政治的なウラがあると読むべきなのかも知れない(今回控訴に踏み切った3人の弁護士の政治的な素性はどういうものなのでしょう?)。いずれにしても、国民の信託を受けた訳でもない一介の司法官が、国政にこのような大きな影響力を持つこと自体に違和感があります。もしも検察審査会という制度があるなら、今回の控訴が妥当なものであったかどうか、それをこそ審査させるべきではないだろうか。

 そう、こんな感想を書いている私は、小沢氏の政界完全復帰を待ち望んでいたのですね。小沢一郎という政治家を私はあまり信用していませんし、過去に批判的な記事を書いたこともありました。しかし、政局ここに至っては、大義は小沢氏の側にあると思わざるを得ないのです。2年半前の選挙で私たちが民主党に政権を預けたのは、増税内閣を成立させるためではなかった筈です。消費増税は党として決めたことなので、党員はそれに従うべきだなどとうそぶく野田総理や岡田副総理のコトバを聞いていると、私はどうしても怒りをこめて言いたくなる、「この裏切り者め!」と。少なくとも自民党の総裁がコロコロ替わった時だって、私たちは政策面で大きく裏切られたと感じたことは無かったと思います(期待が裏切られたと思うことはあっても)。私は野田総理と同い年で、野田さんは私たちの世代が生んだ最初の総理大臣ということになるのですが、だからといって親近感などはみじんも感じません。むしろ平気で前言を翻せるその人間性が気持ち悪くて仕方がない。誰かがいまの民主党のなかには「良い民主党」と「悪い民主党」が同居していると言っていましたが、私もそんな気がしています。民主党はこの2年半で、有権者の期待を大きく裏切りました。しかし、それはマニフェストが間違っていたからではなく、それを完遂する能力や実行力に欠けていたからです。まだ1年半の任期があるのだから、矢折れ力尽きても最初の国民との約束にあくまで突き進むべきではないか。それを諦めるなら、その時点ですぐに解散すべきでした。

 政界再編のもうひとりの台風の目、橋下大阪市長も私の嫌いな政治家ですが、政策面では支持したい部分が多いと思っています。消費増税に断固反対していることは心強いし、原発再稼働にストップを訴えているのも頼もしい。政治手法が強引だという意見もありますが、それはこの人の性格や人間性によるもので、政策や政治的信条とは分けて考えるべきでしょう。近い将来、もしも維新の会が政権を取って、橋下さんが総裁になったらたいへんな独裁者が誕生するのではないか、そう心配する向きもあるようですが、これは杞憂に過ぎないだろうと思います。橋下さんは小泉元総理のような国民的人気を勝ち得ることは出来ないだろうと私は予想します。何故なら、橋下さんには小泉さんの持っていたような天性の明るさが無いから。基本的に陰湿な性格の人だから。そういう人は政界再編の立役者になることは出来ても、主役を務めることは難しいでしょう。たとえ総理大臣になっても、長続きはしないだろうと思います。もしも〈天の配剤〉ということがあるのなら、いまこういう人が出て来たことにはそうした隠された意味があったのかも知れない、そう考えたいほど私たちはいまの政治に絶望している訳です。

 今年か来年に行なわれる総選挙では、たぶん私は大嫌いなこのふたりの政治家に一票を投じることになるだろうと思います。それは次の政権への信認の一票ではなく、ふたりの「壊し屋」にひと暴れしてもらって、政界再編を促すための一票です。このままズルズルと行けば、自民党と民主党というふたつの〈死に体政党〉のもとで、日本はほんとうに沈没してしまう。前回の総選挙のテーマが「政権交代」であったとすれば、次回のテーマは「政界再編」です。それだけは間違いがない。昨年の大震災でも証明されたように、日本は政治がダメでも困難の時代を乗り越えられる。国民は本当に信頼出来る政府が誕生するまでに、まだまだ何年でも待つことが出来ます。次の安定期までには、まだまだ長い時間が必要になるだろう、そういう長い目でいまの政局を判断することが重要だというのが今回の私の結論です。

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2012年5月 6日 (日)

自動車事故にメーカー賠償を

 悲惨な自動車事故のニュースが相次いでいます。私たちの周りにある工業製品のなかで、自動車ほど人間を不幸にするものが他にあるでしょうか。何故これほど大量の死傷者をコンスタントに生み出す危険な機械が、世の中に野放しにされているのか? 私が子供の頃(昭和30年代から40年代ごろ)には、自動車は「走る凶器」と呼ばれていましたし、「交通戦争」という言葉もよく耳にしました。それがその後のモータリゼーションの進展とともに、自動車の持つ負の側面は巧妙に隠され、私たちはまったく何の疑念も抱くことなくこの殺人機械と共存する道を選んでしまった。いや、こういうレトリックはよくありませんね。現代に生きる私たちは、たとえ自家用車には乗らなくても、自動車が無くては成り立たない生活を送っている訳です。つまり誰もが加害者になってしまったので、個々の事故に対しては責任追及をしますが、クルマ社会というものそのものの功罪を問うことは出来なくなっている。しかし、立ち止まってよく考えてみれば、この便利で豊かな社会は、年間7千人もの犠牲者の上に成り立っているとも言えるのです。交通事故の全死傷者数は、年間100万人を超えているそうです。ほとんど死傷者を出したことのない原子力発電所に対しては、これほど大騒ぎをするマスコミが、毎年多くの死傷者を出しているクルマ社会に対しては告発の声を上げることをしない。これは自動車メーカーが広告スポンサーだからというだけでは説明がつかないことです。

 多くの死傷者が出る交通事故が起こると、マスコミはまるで犯罪者のような扱いで運転者のことを実名報道します。いや、確かに現在の法体系の下では、交通事故を起こすことは犯罪に分類されるのかも知れませんが、私はこれに少し違和感があります。飲酒運転や故意の危険運転という事実があるならともかく、バスの運転手が居眠り運転で事故を起こしたといった場合に、私たちは彼を一般の殺人犯と同列に扱うべきなのだろうか。だって居眠りなんていうのは、誰にも経験のある人間の自然な生理現象ではないですか。もちろんプロの運転者として、居眠り運転などあるまじきものです。が、結果の重大さと原因の軽微さのあいだには、あまりに大きな隔たりがあり過ぎる。事故の原因だってそう単純なものではありません。最近は格安バスツアーの流行で、運転者の労務環境がひどいことになっていると言います。そこでツアー会社やバス会社の労務管理に問題は無かったかという観点で当局の調査が入る。しかし、今回の高速バス事故に関しては、高速道路のガードレールと防音壁の取り付け方が被害を拡大した要因だとも言います。であるなら、それを放置した当局の責任だって問われなければならない。そしてもっと根本的な問題として、運転者が居眠りをしたくらいのことで、多くの死傷者を出すような危険な機械を販売している自動車メーカーの責任はどうなっているのかと私は問いたい。

 だいぶ以前に三菱自動車のトラックが起こした脱輪事故で歩行者が亡くなった時には、メーカー責任が厳しく問われたことがありました。最近ではトヨタのレクサスがアクセルを踏んでいないのに勝手に加速する欠陥があると言って、アメリカで訴訟が起こされたことがありましたね(これは事実無根だったようですが)。つまり明らかに欠陥があると認められる場合にはメーカーにも賠償責任が発生しますが、そうでなければ使用者(運転者)だけが一義的な責任を負わされる仕組みになっている訳です。しかし、年間7千人の死者と100万人の負傷者を生み出している機械が、欠陥製品ではないという理屈は通らないと思う。今回私が考えたのは、自動車事故が発生した場合には、事故を起こしたクルマのメーカーに賠償責任の半分を負わせたらどうかということです。自動車事故による損害額は、対人・対物を合わせて年間で3兆2、3千億円にも上るのだそうです。呆れるような話です。日本国内の新車販売額は10兆円ほどですから、自動車メーカーは売上高の3分の1の損害を国内経済に与えている訳です。(もちろんそれを上回る経済効果を生み出しているという見方もあるでしょう。) それだけ危険な製品を世に送り出している代償として、事故の際の賠償責任をメーカーに負わせることは理にかなっているのではないでしょうか。実際にはその分の保険料が車体価格に上乗せされるだけなので、決して非現実的な話ではありません。メーカーはおそらく保険料を下げるために、安全なクルマの開発に本気で取り組むようになると思います。安全装置を搭載したクルマの事故率が低くなることが統計的に証明されれば、保険料も安くなる筈だからです。

 自動車事故を防ぐための技術も進歩していて、最近は危険を察知すると自動でブレーキが作動するようなクルマも販売されているようです。そういう技術が開発されているなら、何故すべての自動車に装着を義務付けないのかと私などは思ってしまうのですが、もちろんそこには経済的な理由がある訳です。すべての自動車の価格が、そのために数十万円高くなるとしたら、基幹産業たる自動車産業は深刻なダメージを受けることになるでしょう。メーカーが、安全装置の標準装備に積極的にならない理由にはもうひとつあります。もしも安全装置の誤動作などで事故が発生したら、その時にはメーカーが責任を問われることになるからです。人間の誤動作(居眠り運転やブレーキとアクセルの踏み間違えなど)はメーカーの責任範囲外なので、そこで事故が起こってもメーカーは痛くも痒くもない。しかし下手に安全装置など搭載してしまうと、訴訟を起こされる可能性が高くなるのです。この問題を解くのは簡単です。人間の誤動作と安全装置の誤動作とを比べて、どちらがより発生確率が高いかを見ればいいのです。当然人間の方が誤動作が多いだろうと私は思います(そうでなければ、まだ安全装置としての完成度が低過ぎる訳です)。もちろん安全装置を積んでいるからと言って、運転者の責任が免除される訳ではありません。安全装置を積んだクルマであろうとなかろうと、事故の際の賠償責任は、運転者とメーカーが折半で負うようにすればいい。交通事故を無くすための努力は、メーカーと運転者が共同で推し進めるべきものだからです。

 警察庁は交通事故に関する様々な統計データを発表していますが、自動車メーカー別、車種別の事故の発生件数や発生率などというものは発表していません。まずはそれを発表するところから始めるのはどうでしょう。とにかく交通戦争が常態化してしまった現代において、自動車メーカーだけが優遇され過ぎています。私は別に自動車メーカーに恨みがある訳ではありませんが、悲惨な事故のニュースに接するたびに製造者責任はどうなっているのだろうと考えずにはいられないのです。日本国内でメーカーに賠償責任を負わせる法律を作ったとしても、それで国内メーカーが不利になる心配はありません。国内で販売される輸入車にも同じ法律が適応されるので、競争上の有利不利はないのです。安全装置を義務付ける訳ではないので、安いクルマを買いたいという消費者からの反撥も無い筈です(むしろ事故を起こしても、賠償額の半分はメーカーが負担してくれるので歓迎されるでしょう)。メーカーは、国内販売するクルマにだけ安全装置を標準装備して、海外に輸出するクルマではそれをオプションにするといった販売戦略を採るかも知れない。まったく構いません。この法律によって日本国内の交通事故死傷者が劇的に減少すれば、先進国を中心にこれに追従する国が多く現れるだろうと思います。その時に安全装置の技術開発で先駆けている日本の自動車メーカーは、再び世界の市場を席捲することになるだろうというのが私の長期的な展望です。

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2012年4月30日 (月)

もう一度「自己決定刑」について考える

 もしも裁判員制度をこのまま存続させるとして、これを制度として矛盾の無いものにするためには、死刑を廃止するしか方法がありません。つまり西欧諸国が歩んだ道を、日本もたどるということです。しかし、現在のこの日本で、死刑を廃止することと裁判員制度を廃止することのどちらがより難しいかと言えば、議論するまでもないでしょう。正直なところ、もしも裁判員制度が死刑廃止への世論を形成するために役立つものなら、この制度にもそれなりの意義があったと認めてもいい、そうひそかに思っていたのです。ところが現実はまったく逆でした。2010年11月に裁判員裁判で最初の死刑判決が出て以来、1年半のあいだに一審で18件の死刑求刑があり、そのうち14件に死刑判決が下されています。そのすべてが裁判員裁判です。これは過去の実績と比べてもかなり速いペースです。裁判員制度が導入された背景には、厳罰化へのレールを敷きたいという司法当局の思惑があったのではないかと私は推測しているのですが、それが言ってみれば「状況証拠」によって証明された格好です。

 死刑廃止の議論で必ず論点となるのが、代替刑としての終身刑のことです。日本の無期懲役刑は、法律上は最短10年間の服役で仮釈放があり得ますし、実際に受刑者の平均的な服役期間は20数年ほどなのだそうです。(但し最近はこれが延びる傾向にあります。これも厳罰化のひとつの現れです。) 裁判での判決がどちらに転ぶかは、ほとんどその時の裁判官と裁判員の気まぐれによるものかも知れませんが、受刑者にとってみれば、無期刑と死刑のどちらを宣告されるかは文字どおり天国と地獄ほどの開きがあります。もしも死刑の代わりに、仮釈放の可能性が一切無い終身刑というものがあれば、死刑廃止に向けた議論にも現実味が出て来ます。まだ裁判員制度が始まる前、自民党政権時代に、超党派の議員による終身刑の導入を考える会が発足したことがありました。発起人は最近国民新党を離党した亀井静香さんです。しかし、その後の政権交代のゴタゴタで立ち消えになったものと思われます。世界中の国々が死刑廃止の方向に向かっている今日、日本でもこの問題について具体的な議論を始める必要があると私は思います。具体的なという意味は、死刑制度の是非などという観念論をめぐって意見を戦わせるのはもうやめにして、死刑制度を廃止するまでの現実的な工程表を引くということです。そこで中心となる検討課題が、終身刑の設置ということです。

 死刑の代わりに終身刑を設置しようという意見に対しては、決まり切ったワンパターンの反対論が出て来ます。絶対に仮釈放の無い終身刑というものは、死刑よりさらに残酷な刑罰ではないかというのです。よくアメリカでは、重い犯罪に対して懲役百何十年なんて判決が下されることがあります。これは終身刑というものの残酷さを皮肉なかたちでよく表している(悪趣味でもありますね)。いくら模範囚として懲役義務を果たしても、いくら罪を自覚して改悛の情を持ったとしても、絶対に釈放されることがないのが終身刑です。だったらむしろ死刑にされた方がマシだ、そう考える人も多いと思います。確かにそうかも知れない。これに対して私が以前から主張しているのは、ちょっとユニークなアイデアです。つまり、終身刑を死刑の代替刑とするのではなく、両者を同じく最高刑として並立させた上で、受刑者自らに好きな方を選ばせたらどうかというのです。裁判では「死刑」だとか「終身刑」だとかの判決を出すのではなく、単に「最高刑」であることだけを宣告します。最高刑がどういう刑罰であるかは、国によって、時代によって異なる筈ですから、裁判官や裁判員(参審員)の決定としてはそれで十分なのです。最高刑の判決を受けた受刑者(おそらく殺人犯でしょう)は、自分の意思で「死刑コース」か「終身刑コース」かを選ぶことになる。それこそ悪趣味ではないかですって? いや、そう見えるのは見かけだけです。このやり方には、受刑者にとっても、被害者にとっても、裁判員にとっても、さらに社会全体にとっても大きなメリットがある。次にそのことを説明します。

 この形式の刑罰を仮に「自己決定刑」(略して自決刑)と呼ぶことにしましょう。受刑者にとって、自己決定刑が歓迎すべきものであることは明らかだと思います。死刑の恐怖に圧倒されている受刑者にとってはもちろん、一生を刑務所のなかで過ごすのはごめんだと考える受刑者にとっても、この制度は受け入れられる筈です。しかし、自決刑の目的は受刑者の心理的負担を軽くするという点にあるのではありません。死刑相当の刑を言い渡された受刑者にも残された仕事があるとすれば、それは何でしょう? 殺人という罪をほんとうの意味で償うことは出来ないとしても、自らの罪を悔い、贖罪の心を表すことなら出来ないことではない。そしてそれこそが被害者遺族や世間が受刑者に求めている唯一の仕事である訳です。ただ贖罪とひと口に言っても、人によってこれに対する考え方はさまざまだと思われます。この手で人を殺めたのだから、自分の命を差し出すことでしか罪を贖うことは出来ないと考える人もいるでしょう。逆に刑務所のなかで懲役に就きながら、被害者遺族に(あるいは犯罪被害者の会などに)わずかずつでもお金を送り続けることが償いだと考える人もいるかも知れない。贖罪というのは、本人の気持ちの問題ですから、贖罪する当人がそのやり方を選択出来た方がいいのです。もちろん被害者遺族の気持ちをないがしろにする訳ではありません。もしも被害者遺族が犯人の死刑を強く望んでいるのなら、その気持ちを汲んで自ら死刑を選択することも出来る。現在の死刑は、受刑者本人に贖罪の気持ちが芽生えていようといまいと執行されてしまいますが、自己決定による死刑は本人の意思によるものなので、それを選択することによって贖罪の気持ちを表現することが出来るのです。(もっとも受刑者が死刑を選択するのは、必ずしも贖罪の気持ちからとは限りませんが…)

 細かな制度設計についてもう少し説明しておきます。自決刑では死刑か終身刑かを自己選択する訳ですが、いったん選択したらコース変更が出来なくなる訳ではありません。終身刑を選択して、しばらく懲役を務めたあとで、死刑を選び直すことも出来るようにします。刑務所のなかで罪の意識に目覚め、償いのためには命を差し出すことが必要だという認識に至れば、そういう自己決定もあり得るでしょう。逆もあります。自ら死刑を選択しても、執行される前ならばキャンセルが可能なのです。この場合には自動的に終身刑に変更されます。(いったん死刑をキャンセルしたら、次の5年間はコースの変更を不可にするといった制限は必要でしょう。) このルールによって、死刑を執行された受刑者は、無理矢理刑務官に引き立てられて刑場に向かった訳ではなく、自らの覚悟で刑に臨んだことをアピール出来るのです。これによって「贖罪のための死刑」というものが名実ともに完成する。(刑の執行を担当する刑務官の心理的負担を軽減する効果もありますね。) もしも死刑を選択した場合には、刑の執行を迅速に行なうことが必要です。本人の気が変わらないうちに、という意味もありますが、死刑を引き延ばすことに何のメリットも無いからです。長くとも1か月以内、可能なら日取りも本人の希望に従うか、少なくともあらかじめ通知しておくのがいいでしょう。現在の法律では、死刑確定から6か月以内に執行することが定められているにも関わらず、司法当局がその法を守っていないという現実があります。そんな状況も改善される訳です。また現在の死刑囚は、独房を与えられ、懲役の義務も無く、比較的恵まれた待遇を受けていますが、自決刑ではそれも無くなります。終身刑は通常の懲役囚と同じ扱いになるのです。そうしなければ終身刑目当ての殺人犯なんてものを生み出しかねないからです。

 自己選択刑が被害者遺族にとってもメリットのある制度である理由は、ここまでの説明でもお分かりいただけたのではないかと思います。現行の死刑制度は、簡単に言えば国家による復讐の代行です。もちろんそれで被害者遺族の気持ちが少しでもやわらぐなら、それはそれで意味のあることでしょう。しかし、加害者がどういう気持ちで死刑台に向かったかすら分からないのでは、結局あとに残るのは疑惑と虚しさだけです。自決刑という制度が出来たとしても、99%の受刑者は終身刑を選ぶことになるかも知れない。しかし彼らは決して〈娑婆〉には出て来ない訳です。だったらこちらも気長に待つことが出来る。被害者遺族として、死刑の自己選択を強く望んでいることを手紙などで伝えることも出来ます。それでも応えない相手であれば、要するに憎む価値も無い人間だったと諦めるしかありません。欧米では「修復的司法」という考え方に基づいて、被害者と加害者が顔を合わせてワークショップのようなものを開催するといった試みも行なわれているそうです。被害者と加害者が和解することで、互いに犯罪という不幸な過去を乗り越えようというのです。美しい思想というよりも、何か気味の悪い偽善であるような気がします。むしろいつまでも死刑を選択しない加害者に、「早く死ね!」という手紙を送り続けることの方が、リアルな〈修復〉のあり方ではないかとも思う。現行の死刑制度が不合理なのは、加害者が死刑囚というレッテルを貼られ、刑務所の管理下に置かれた瞬間に、被害者とも世間とも切り離されてしまうという点にあります。受刑者が自己決定権を持ち続けている限り、世間はその動向に関心を持たざるを得ないでしょう。つまり世間との接点が保たれるのです。

 裁判員や裁判官にとってのメリットは説明するまでもないでしょう。特に冤罪の可能性がある事件において、死刑判決を下すなんてことは、人間としての責任範囲を超えたことだと私は思います。もちろん自決刑であっても、冤罪というものは決してあってはならない訳ですが、この場合には判決の際に被告人に語りかけるべき人間らしい言葉が残されています。「裁判所としては被告人が犯人であることを100%確信しているが、もしも被告人があくまで本件は冤罪であると主張するなら、終身刑を選択した上でそのことを証明するためにこれからの人生を費やして欲しい。あるいは被告人がいつか自分の犯した罪を認める時が来るのであれば、我々はその日を気を長くして待つであろう。」 私にはこれ以外に、犯行を否認している被告人に語りかける言葉というものを思いつかない。裁判員にとっても受け入れやすい判決になるのではないでしょうか。むしろ心配なのは、自決刑が制度化されると、安易にこれが選択される場合が増えるのではないかということです。これまでなら無期懲役だったレベルの犯罪に対して、さらには有期刑だった筈の犯罪に対しても自決刑が適用されるようになるかも知れない(特に一審の裁判員裁判において)。この乱用を防ぐためには、量刑のための基準を今よりもっと明確にして、裁く人間によって量刑にばらつきが出ることを極力抑えるようにすることが必要です。終身刑の導入によって、死刑と無期懲役のあいだの溝が埋まるようになれば、現在よりももっと客観的で納得のしやすい〈量刑相場〉が確立出来るのではないかと思います。

 そして最後に、自決刑がいまの日本の社会にとって特に有益であることの説明です。現在日本は、国連やEUなどから死刑を廃止するよう勧告を受けています。先進国で実質上死刑制度を残しているのは、もはや日本とアメリカの2国だけです(しかもアメリカではすでに半数近い州が廃止)。このままの流れでは、日本もそう遠くない将来、死刑廃止に踏み切らざるを得なくなるでしょう。しかし、私はそれを国際世論の圧力によって成し遂げるのではなく、日本国民の内的な必然性によって成し遂げるべきだと考えているのです。先進国日本でいまだに死刑が残っていることには、実は必然性があります。それは日本人の高い道徳性(あるいは厳格過ぎる道徳意識)に由来しているものだと私は考えています。だから死刑があることで日本が道徳後進国であるような誤解は解かねばならない。日本は他の先進国と比べても、犯罪率や殺人率が際立って低い国です。しかも自殺率は際立って高い。そういう国には、そういう国ならではの事情というものがある。単に制度としての死刑を廃止するだけでは、この国の道徳的進歩にはつながらないかも知れないのです。日本には「自決」というものの長い伝統があります。武士道が盛んだった時代から現代に至るまで、この国はいつも自決大国だったのです(自殺という言葉は使いたくない)。殺人を犯した者のなかには、自らの命で罪を償いたいと考える者も少なくありません。そういう人間から、自決の選択肢を奪ってしまうことは、おそらく日本人の道徳心にとって抵抗があるのです。それがこの国において死刑容認派が多数であることの本当の理由です。私は昔から一貫して死刑廃止論者でしたが、単なる人道主義の立場からの死刑廃止論にはどこか違和感を感じてもいました。これに対して自己決定刑の導入は、死刑存廃問題に対するいかにも日本らしい解決策になるのではないかと考える訳です。

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2012年4月22日 (日)

裁判員制度には「厳罰バイアス」がある

 世間の注目を集める裁判員裁判で判決が出ると、担当した裁判員が記者会見をすることが当たり前のようになりました。裁判員は基本的に匿名で、守秘義務を負わされた立場でもあるのに、奇妙なことだと思います。最初の頃はコメントだけだったものが、最近はテレビに会見の模様が映し出されるようになり、とうとう実名まで報道されるようになってしまった。もちろん本人の了解の上でやっていることなので、守秘義務に抵触しない範囲であれば、他人がとやかく言うことではないのでしょう。幸いなことに、これまでのところ、裁判員を務めた人が世間の非難にさらされたり、逆恨みを受けて危害を加えられたりといった事件は発生していませんが、もしもそうした事件が1件でも起きれば、当局と報道機関の危機管理の甘さが問題視されるのは間違いありません。そんなことを考えながら、記者会見を見ていた私は、ひとつ意地の悪い疑念にとらわれてしまいました。もしも今回の事件(連続不審死事件)で出された判決が、無罪あるいは死刑以外の刑だったとしたら、裁判員の方たちは記者会見の場に顔を出すことが出来ただろうか?

 その場合には、おそらく世間の彼らに対する視線は、今とは違って厳しいものになったのではないかと想像します。私たちはみんな、ホンネのところでは被告人はクロに違いないと思っていた訳です(私だってそう思っていました)。問題は、「疑わしきは罰せず」という司法の原則を乗り越えるだけの勇気と胆力を、今回の裁判員たちが持っているかどうかだ、そういう気分がこの裁判の周りには漂っていたように思います。そんななかでは、無罪または死刑以外の判決を下すことの方が勇気が要ります。間違いなくインターネット上の匿名の掲示板などでは激しい非難や人格攻撃が巻き起こったことでしょう。ところが、実際に死刑判決を出した彼らは、ちょっとしたヒーローです。そのことはネットを検索してみればすぐに分かる(「裁判員GJ」といったキーワードで検索してみてください。GJはグッドジョブの略)。マスコミだって、今回の裁判の難しさは言っても、判決そのものに疑問を呈しているところは皆無です(せいぜい警察の初動捜査のまずさを批判するくらいで)。つまり、国中が今回の判決を妥当なものとして好意的に受け止めている訳です。私は裁判員制度が始まる4年も前から、この制度の問題点を指摘し続けて来ました。世論調査で回答者の8割以上が死刑制度を支持している日本は、とりわけ市民の厳罰感情(あるいは応報感情)が強い国だと言えます。そういう国で市民の司法参加を制度化するということは、端的に言って司法の厳罰化を狙ったものだと推測出来る。裁判員制度などというものが、国会での議論もほとんどなく唐突に導入された背景には、犯罪に対する厳罰化を推し進めたいという当局の思惑があったと考えるべきなのです。

 たとえこの国の国民が、犯罪に対して強い厳罰感情を持っているということが事実だったとしても、それを当局が利用したというのは考え過ぎなのではないか、そういう反論があるかも知れません。少なくとも厳罰化の方向が民意に沿ったものであるなら、それを陰謀説のようなものに仕立てて批判するのはお門違いではないのか? しかし、裁判員による裁判はほんとうに民意を反映したものなのだろうか、私はそこにも疑問を持っているのです。裁判員は国民のあいだから無作為に抽選で選ばれる仕組みですが、そこでは巧みに選別が行なわれています。裁判員候補は個別の事件ごとに選ばれる訳ではなく、年に一度、30万人くらいの候補者がまとめて選ばれて、そこから絞り込まれて個々の事案に割り当てられます。つまり、最初の抽選の段階では、自分がどのような事件を担当させられるか分からない訳です。裁判員はしかるべき理由があれば辞退することが出来ますから、この時点で自分が死刑判決に関わりたくないと思う人の多くは、辞退の理由を考えるでしょう。(辞退は簡単に出来るようです。裁判所からの通知を受け取った私の知り合いは、電話ひとつで簡単に断れたと言っていました。そう言えば、不出頭で罰金を払ったという人の話も聞きませんね。) この段階で残るのは、真面目で責任感が強いタイプの人と、厳罰主義に親和的で正義感が強いタイプの人の2種類です。次に担当事件が決まると、裁判官との面接があります。ここで死刑反対論を滔々と述べたりすれば、その人は面接で落ちます。審理に入ってから、事件とは関係の無い〈神学論争〉を繰り広げられても困りますからね。ここで死刑反対派は脱落する。裁判官による面接を通っても、さらにもうひとつ関門があります。事件を担当する検察官と弁護士は、それぞれ候補者から4名ずつを(理由を示さずに)拒否することが出来るのです。弁護側としては、死刑に反対してくれそうな候補者を選任したいところでしょうが、それは出来ません。拒否権はあっても選任権は無いからです。死刑には慎重であるべきだと考える最後の候補者も、検察側の拒否権で除外されることになります。

 こうして絞り込まれた6人(プラス補欠の3人)は、いざとなれば死刑判決も辞さない、いわば「裁く気まんまん」の人たちです。いや、そんなふうに断言してはいけませんね、そうである可能性が高いと言い直しましょうか。誤解される前に断っておきます、私は殺人犯はすべからく死刑にすべきだという信念を持っている人がいることは当然だし、それは健全な世論の一部だとさえ思っています。そういう人が裁判員になることだって認めてもいい。ただ、そういう傾向を持った人たちだけが、選択的に集められるようになっている現在の仕組みはおかしいと言っているのです。最高裁が裁判員を経験した人たちを対象に行なったアンケートの結果があります。これによると、実に95%以上の人たちが「よい経験をした」と答えているのです。この事実をもって、この制度が国民のあいだに定着しつつあると書いた新聞の社説を読みました。浅薄な意見だと思います。裁判員経験者のほとんどが、よい経験をしたと考えるのは当然のことです。それは「裁判員をやってみることはよい経験になるに違いない」と考える人しか、裁判員候補に残らないからです。自分には人を裁く資格などない、たとえどんな極悪人でも自分のような者の判断で死刑にしたくはない、そんなふうに考える人たちはこの制度から構造的に排除されるように出来ている。事件に関わる多くの人たちの運命に影響を与え、場合によっては人の生き死にまで左右するような経験のどこが「よい経験」だと言えるのか? いや、これは私自身のつぶやきに過ぎませんが、このように偏ったアンケート結果が出ること自体、裁判員の人選に偏りがあることの証拠だと何故誰も考えないのでしょう?

 この5月で裁判員制度が施行されて丸3年が経ちます。当初から3年を経過した時点で制度の見直しをするという予定だった筈です。私自身はあくまで裁判員制度は白紙撤回すべきだと考えているのですが、マスコミでさえこれに批判的なところがほとんど無い以上、現実的にそれは不可能でしょう。であるならば、少しでもマシな制度に作り替えて行く方法はないものだろうか? いろいろ考えてみても、名案は浮かばない。それはこの制度が本質的に矛盾の上に成り立っているからです。すなわち死刑のある国の裁判で、市民を量刑にまで参加させるという、そもそもの根本思想が間違っているからです。私がこのブログで繰り返し書いているように、そんな裁判制度を採用している国は世界中どこにもありません。ヨーロッパの国々が参審制を採用しているのは、すでに死刑が廃止されているという前提があってのことなのです。考えてもみてください、国民のなかには死刑制度そのものに反対する人も一定の割合でいる訳です。検察が死刑を求刑している事件において、死刑制度に対する賛成派の裁判員と反対派の裁判員は、同じ土俵で議論をすることすら出来ません。もしかしたら裁判所は、反対派の裁判員に対しては、審理に際して内心の信条を封印するよう求めているのかも知れませんね。死刑反対の信条は信条として、現実に死刑制度が存在している以上、そのことを前提に裁判員としての判断をして欲しいとか何とか言って。でも、我々にそんな器用なことは出来ない。裁判所だってそんな面倒な候補者に、司法参加のチケットを配る気はないでしょう。かくしてこの国の刑事司法は際限なく厳罰化の一途をたどることになるのです。世界の多くの国で死刑が廃止され、〈応報的な〉司法制度から〈修復的な〉司法制度への移行が模索されているこの時代において、日本だけがこれに逆行しようとしている。そしてそのことを不審に感じる人もほとんどいないのです。

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2012年4月15日 (日)

「疑わしきは減刑する」という考え方

 「結婚詐欺・連続不審死事件」の一審が結審しました。裁判員裁判としては異例の長期に亘った〈百日裁判〉は、死刑判決でその幕を閉じました。選任された6人の裁判員は、38回にも上った公判に一度も欠席せずに参加したそうです。判決の妥当性については、軽々しく論じるべきことではありませんし、また論じるべき意見も私にはありません。私は裁判員制度にも死刑制度にも強く反対する者ですが、個々の判決に対して批判や不満をぶつけたい訳ではありません。参加された裁判員の方々の努力と心労を思えば、決定は重く受け止めなければならない。たとえ今回の判決が冤罪事件に発展しようと、その責任はたまたま選ばれた裁判員の人たちが負うのではなく、裁判員に選ばれる可能性のあった私たちみなが負うべきものです。

 裁判員制度の導入目的は、刑事裁判に対して健全な市民感覚を活かすということにあったと思います。仮にその点は認めるとしても、健全な市民感覚によって果たして冤罪事件を防いだり、減らしたりすることが出来るものでしょうか? 私は疑問に思います。裁判には事実認定と量刑というふたつの機能があります。常識的に考えて、市民感覚がより活かせるのは量刑を決める場面においてでしょう(実は私はこれにも大いに問題があると思っているのですが)。被告人が起訴事実を全面的に否認していて、事件を裏付けるのは間接的な証拠だけという今回のような事件に対して、いったいどうやって市民感覚を活かせばいいというのか? 素人探偵が6人集まっても、なかなか文殊の知恵とはいかないだろうと思います(それでも世間知らずの職業裁判官よりはマシだという意見もあるかも知れません)。凶悪犯罪に対しては厳罰をもって臨むべしと考えている正義派の裁判員候補者にとっても、相手が真犯人かどうか分からないのではお手上げの筈です。

 「疑わしきは罰せず」というのは現代司法の基本原則のひとつです。「無罪推定」とも言います。おそらく今回のような事件の場合、裁判員の方たちは審理に先だってこのことを裁判長から説明されているのだろうと思います。でも、いくら説明を受けても、「疑わしきは罰せず」のお題目だけでは実際の判断には役立たないだろうとも思います。今回の事件を例にとれば、被告人はそれこそ〈限りなく疑わしい〉訳です。何故この事件がこれほど世間の注目を集めているかと言えば、事件の重大さということももちろんありますが、被告人の無罪の主張を裁判員の人たちがどう判断するか、その点に関心を持たれているからでしょう。つまり、「限りなく疑わしい事件」だという点では衆目が一致している訳です。であるならば、結論は簡単だった筈です。「疑わしきは罰せず」の原則に当てはめれば、被告人は無罪にされるべきだったということになる(もっとも、本事件では被告人は詐欺罪は認めているので、まったくの無罪ということにはなりませんが)。ところが、実際にはそうはなりませんでした。要するに、疑わしきは罰せずと言っても、その〈罰せられない疑わしさ〉には、どこかに境界線があるということです。その境界線の向こう側は死刑、こちら側は無罪、そういう一線がある。もしも法律の素人である裁判員に、そのボーダーラインぎりぎりの判断を強要するなら、お題目だけではなくその明確な基準を示して欲しいと思うのは私だけでしょうか。

 いや、これは皮肉を言っているだけです。無罪推定の境界線を厳密に(つまり科学的に)定義するなんてことは、誰にも出来ないことは分かっているからです。「疑わしきは罰せず」というのは、美しい標語であるには違いありませんが、実際の法廷では通用しない机上の理想論に過ぎません。現実的に疑わしさのボーダーライン上にいる被告人が次々に有罪判決を受けて、そのなかからは冤罪事件も発生している訳ですから。むしろ有名無実な無罪推定の原則などで、刑事裁判の人道性をアピールすることはやめてもらいたいと私は思っている。これについては逆にひとつの提案があります。「疑わしきは減刑する」という原則を裁判に取り入れてはどうかということです。例えば情状酌量による減刑があるのと同じように、「間接証拠しか無い否認事件」においては、罪一等を減じるということです。今回の事件は罪の重さから死刑に相当するが、被告人が無罪を主張し、検察が状況証拠しか提示出来なかった以上、無期懲役に減刑するというようなイメージになります。これは私たちの裁判に関する常識を覆すような考え方かも知れません。理論的に言えば、被告人は死刑か無罪かのどちらかであって、中間はあり得ない筈ですから。こんな判決を出せば、それは裁判所としての責任放棄だなどと言う人も出て来るでしょう。が、それなら問いたい。状況証拠しか提示出来ず、被告人から自白を引き出すことも出来ないような状況の下で、死刑か無罪かの判決を言い渡すことに誰が責任を持てるのかと。その方がよほど無責任なことではないか。

 神ならぬ人間が人間を裁くのですから、絶対に無謬であるということはあり得ません。ところが、現在の司法は自らの権威にかけて、無謬であることを大前提にしている。その前提で制度が設計されているのです。せっかく裁判員制度というものが始まったのだから、私はこの無謬神話を市民が打ち砕いてくれたらいいのにと思う。もしも審理のなかで、裁判員のひとりが「疑わしさ故の減刑」ということを提案したとしたらどうなったでしょう? おそらく裁判長は、それは司法の原則に反する考え方だとか何とか言って、この提案を却下したことでしょう。私が裁判員だったとしたら、きっと裁判長に食ってかかるでしょうね、その司法の原則とやらがそもそも市民の常識からはかけ離れているのだと言って。今回の事件を先入観無しにもう一度よく眺めてみましょう。そこにあるのはひとつの謎です。私たちは謎をかけられているのですが、結局38回の公判によってもその謎は解けなかった訳です。まずはそのことを正直に認めましょう。それでも死刑を選択するのであれば、それは謎を謎のまま封印することでしかありません。しかし、もしもここで「疑わしさ故の減刑」という選択をすれば、謎を解く可能性は将来に持ち越されるのです。死刑が無期懲役に代われば、真実を暴くための時間が稼げるという意味だけではありません。裁判所はこれによって被告人の心の真実を覗き見るチャンスを得られるかも知れないという意味です。つまり無期懲役の判決に対して被告人が控訴するかどうかによって、無実の主張が真実の叫びだったのか、それとも死刑回避のための嘘に過ぎなかったのか、それを判断する材料が与えられるということです。控訴してプロの裁判官だけで審理をやり直せば、今度は死刑判決になる可能性が高いからです。

 もっとも、一審が無期懲役なら検察側も控訴するでしょうから、それを見越して被告側が先に控訴する可能性もある訳で、ここは腹の読み合いということになるかも知れません(一種のゲーム理論ですね)。これを防ぐためには、裁判員裁判で「疑わしさ故の減刑」が選択された場合には、検察側は控訴出来ないというルールを採用する必要があります。検察が直接証拠を提示出来ず、被告人からの自白も引き出せなかった以上、疑わしさ故の減刑の部分については、それ以上裁判で争うことは出来ないというルールにする訳です。しかし、そうなると、また別の問題が発生します。直接証拠が無い殺人事件では、ほとんどの被告人が事実を否認することになってしまい、本来は死刑にされるべき凶悪犯が合法的に死刑を免れることになってしまうかも知れない、そういう懸念が出て来るのです。が、私はそれでも構わないと思っています。それは私が死刑制度反対派だからではありません、たとえどんな凶悪犯罪の容疑者だったとしても、無実を主張する被告人に死刑を言い渡すことは、本質的に虚しいことだからです。ひとりの死刑囚が、最後まで自分は無実だと叫びながら死刑を執行された。それは被害者遺族の心のなかにも割り切れなさを永遠に残すだけのことです。死刑というものに意味があるとすれば、それは死刑囚が自分の犯した罪を悔い、その罪を償うというはっきりした意識を持って死刑台に赴いた場合だけです。おそらくこれからも、被告人が起訴事実を否認する殺人事件が裁判員裁判の対象となることがあるでしょう。そこに参加する裁判員の方たちのなかに、「疑わしさ故の減刑」という選択肢があることを思い出してくれる人がいることを望みます。それは自分たちが死刑宣告人となって、一生心に残る傷を負わないための自衛策としても重要なことです。

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2012年4月 8日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(8)

【8】 何故これをベーシックインカムと呼ぶのか?

 このテーマに足を踏み入れると、長い連載になることは分かっていました。まだ語らなければならないことがたくさんあるような気もしますが、とりあえず今回で連載を締めくくります。減価する電子マネーの仕組みとこれを導入することの意義については、ここまでの説明である程度理解していただけたのではないかと思います。ひとつ疑問が残るとすれば、何故月にわずか1万円相当分くらいのクーポンの支給を、「ベーシックインカム」などという大層な名前で呼ぶのかという点ではないでしょうか。ベーシックインカムというのは、すべての国民に最低限の生活が送れるくらいの所得を政府が保障するという制度です。最低限の生活保障という意味でベーシックなのです。その金額は論者によって異なりますが、だいたい月額7万円から10万円くらいを考えている人が多いようです。これは国民年金や生活保護費と同等か、それより少し多いくらいの金額です。他に何も収入が無いとすれば、人間ひとりが生活して行くのにその程度のお金が必要だというのは、まあ妥当な線であるような気がします。エコという通貨は、通常日本円とともにしか使えないお金ですから、それだけでは購買力を持ちません。そんな価値の低いお金を、しかも月に1万エコというはした金を貰っても、それで最低限の生活保障になどなる訳がない。それでも、私はこれをベーシックインカムと呼ぶことに多少のこだわりがあるのです。

 この国の大多数の勤労者は、企業や公的機関などの組織で働くことで、月になにがしかの給金を受け取って、それで生活を営んでいます。しかし、働く人が〈月給〉というかたちで労働の対価を受け取るようになったのは、そう古いことではありません。それは明治政府が西欧に倣って導入した制度でした。江戸時代までは、武士階級は「奉祿」として米などの現物支給を年に何回かに分けて受け取っていただけでした。現金収入は、それを仲介業者に買い取ってもらうか、内職をしたり出稽古をしたりして稼いでいたのです。一般の町人は、たとえ組織に勤めたとしても(つまり商家に奉公に出たとしても)、月々の給金などはありませんでした(せいぜい盆と暮れに帰省のための小遣いを支給された程度)。組織に属さない町屋の市民は、それこそ小商いをしたり日雇いに出たりして日銭を稼いでいた訳です。まさに「金は天下の回りもの」であり、「宵越しの銭は持たない(持てない)」のが江戸っ子の貨幣との関わり方でした。これに対し現代に生きる私たちにとって、金は天下の回りものではありません、それは所属する組織から月ごとに〈下賜〉されるものであって、これ以外に現金収入というものを私たちは原則的に持っていません(アルバイトなどの副業を禁止している組織も多いと思います)。ふだんからそういう貨幣との付き合い方をしているので、例えばベーシックインカムというアイデアがあることを聞いても、「最低限の生活保障? そのためには月にいくら必要だろう?」とまず考えてしまう。しかし、お金というものの本質は流通することにあるのですから、1か月という期間に必要な総額という考え方をするのはおかしいのです。組織から支給される給料で生活を立てている私たちは、お金というものに対して徹頭徹尾受け身の姿勢になっているように感じます。月にいくらもらえるかではなく、自分が貨幣流通の仲介者として何をすべきか・何が出来るかということを本当は考えるべきではないだろうか。

 さあ、これだけの前置きでこれから私が何を書こうとしているか、以前の記事を読んだことがある方には察しをつけられてしまっただろうと思います。そう、エコ通貨の本領は、国が支給するベーシックインカムにあるのではなく、生活者同士が価値を交換するための仕組みを提供するところにあるということです。日本円は誰にとっても便利で魅力的なお金ですが、ふつうの生活者が価値を交換するためには不便なお金です。私たちは企業から給与としてお金を支給され、企業が提供する商品やサービスの対価としてそのお金を支払います。また一部は税金として国や地方自治体に納めます。つまりお金の流れは、組織と個人のあいだを縦に行ったり来たりしているだけです。お金を介した個人間の横のつながりというものはほとんど存在していません。いや、例外もありますね。インターネットオークションのような仕組みを利用して、個人と個人が日本円を媒介にして取引をする機会もあるからです。しかし、それだって自発的に取引が発生している訳ではなく、オークションを主催する企業がビジネスとして設定した場所で、多くは企業製品の中古品が売買されているに過ぎません。売り手が新しい価値を生み出している訳ではないのです。要するに現代においては、お金を支払う価値のあるものは、企業が送り出す商品やサービスに限定されるということです。消費者の立場として見ればこれは快適なことかも知れません。私たちは30年前には想像も出来なかったような魅力的な商品やサービスに取り囲まれている。しかし、労働者の立場として見れば、なかなかつらい状況です。市場に支持される商品やサービスを生み出しているような企業に、正社員として勤めている人だけが、十分な報酬を得ているのが現実です。なにしろそこにしか(日本円に換算出来る)価値あるものは存在しないのだから。しかも企業は国内の正社員を削減して海外シフトを進めている。見捨てられた99%の私たちはどこへ行けばいい?

 答えは簡単なことです。価値交換の流れを縦方向だけでなく、横方向にも広げればいいのです。しかし、現在の日本円は、日本経済の発展とともにあまりに〈高価なお金〉になってしまったために、個人間の取引に気軽に使えるようなものではなくなっています。例えば、近所に住むひとり暮らしのお年寄りが、買い物や病院通いの足が無くて困っているとしましょう。自分は車を持ってるし、時間の余裕もあるので、何かお手伝いをしてあげたいと思っている。ボランティアで買い物の代行をしたり、病院までの送迎をすることなら出来るかも知れません。でも、それでは長続きしないでしょう。無償の親切というものは、(特に現代においては)それを受ける側に大きな心理的負担を与えるものだからです。だったらいくばくかの手間賃を(日本円で)貰ったらどうだろう。すると今度はあなたの方が心理的負担を感じてしまうに違いない。お金が目当てでお手伝いを申し出ている訳ではないのだから。ボランティアと日本円の中間に、当たり前の親切や助け合いを媒介する手段が無い、私はこれが現代日本の不幸ではないかと思っています。そのことを如実に表しているのが、介護保険制度です。2000年に導入されたこの制度は、介護が必要な人のニーズを〈要介護度〉という尺度で点数化し、それに合わせて提供出来る介護サービスの項目を細かく決めています。寝たきりのお年寄りが大切にしていた鉢植えが枯れてしまった。介護ヘルパーが行なっていいサービスのなかに鉢植えへの水やりは入っていなかったからです。こういう例を挙げて、行政の杓子定規な規則を責めても仕方ありません。貴重な政府財源を使って、なるべく効率良く介護サービスを提供するためには、このような杓子定規はある程度やむを得ないことだとも思います。問題は制度設計の良し悪しにあるのではない、介護のような領域を日本円の経済でのみ支えようとする発想にそもそも無理があるのです。

 これから本格的な高齢化社会を迎えるにあたり、まずは介護や福祉といった分野にエコ通貨を流通させることを提案します。そのためには、現在の介護保険制度のようなものはいったんご破算にして、エコの経済にふさわしい緩やかな規制の制度に作り変える必要があります。現実的な方法としては、この分野で働く人の賃金に対し、一般の営利企業に勤める人の賃金よりもエコの割合を緩和することが考えられます。これまで15万円の月額給与を支給されていた福祉施設職員が、10万円+10万エコという配分で給与を受け取るようになる、そんなイメージです。これは昇給だろうか、それとも減給だろうか、前にそう質問したことがありましたね。私の考えでは、それを昇給として喜べる人が、福祉分野で働くことへの適性を持った人ではないかと思う訳です。「でも、月に10万エコ(国からの支給分を含めると11万エコ)なんて、どう考えても使い切れないよ」、そう言う人がいるなら、「それは日本円の経済圏での発想です」と答えましょう。エコの経済圏というものが拡大すれば、日本円に頼らなくてもエコだけで売り買いが出来る機会は増える筈だからです。「それは具体的にはどういうこと?」 こういうことです。全国の障害者施設や作業所のようなところでは、様々な製品やサービスが日々生み出されていますが、日本円の経済のなかではなかなかいい値段をつけてもらえません。そうした作業所で働く人の賃金は、平均して月に1万円程度だという話を聞いたことがあります。それが市場原理が値付けしたその人の労働価値ということなのでしょう。障害者の自立の前には、この市場原理の厚い壁が立ちはだかっている。その壁を力ずくで突破しようとしても無駄だと私は思います。むしろ土俵を替えた方がいい。つまりエコ市場に売り出せばいのです。

 あなたが福祉施設で働く職員だったとして、あなたの職場で提供出来る価値は何でしょう? まずそれを考えるところからエコ経済への参加は始まります。それぞれの施設が得意分野で商品やサービスを開拓して、エコ市場に出品すれば、そこに日本円からは独立した経済圏が立ち上がることになる。つまり、エコを値引きのクーポンとして使うのではなく、本来の通貨として使うことの出来る経済という意味です。(もちろんすべての商品がエコ100%でなければならないという訳ではありません。エコ8割に日本円2割という値付けをしてもいいのです。やはり日本円は大事ですからね。) エコの経済圏の住人であるあなたは、自分の生活の糧をこの市場から調達してもまったく構いません(一種の役得と言ってもいいでしょう)。ここには何でもありますよ、近隣の作業所から送られて来る焼きたてのパン、菜園を持っている施設からは朝穫りの無農薬野菜、老人ホームからは入居者が使わなくなったリサイクル品が大量に出品されて来る。それをインターネット上で販売するサイトを開設したり、フリーマーケットのようなものを開催して、流通を促すのもおそらくどこかの福祉施設でしょう(もちろん儲けもすべてエコ)。もしかしたら協賛してくれるメーカーから、新品の電気製品なども出品されるかも知れません(但し型落ち品です)。この市場には、個人で参加も出来ます。私たちのような民間企業のサラリーマンが、フリマを覗くような感覚でエコ市場をひやかすのもオーケーです。ただ、もしも本格的にそこに参加しようと思うなら、ひとつ心に留めて欲しいことがあります。それはエコの市場には、買い手としてだけではなく、売り手としても参加することを心がけて欲しいということです。お金は余っているけれども、モノやサービスが不足しがちなのがエコのマーケットです。そこに参加する人は自ら価値を提供することで、この新しい市場を支えることが出来る。そうすれば市場もあなたを歓迎するでしょう。

 私が何故、少額のエコ通貨の支給をベーシックインカムと呼びたいか、分かっていただけたでしょうか。エコによるベーシックインカムは、これで1か月生活しなさいと言って渡されるお金ではありません。そうではなくて、それは私たちが新しい生活基盤を築くための、いわば「タネ銭」なのです。これを持って買い物に出掛けても、一般のお店では割引クーポンとしてしか使えません。つまり日本円の持ち合わせが無ければ使えないようなお金です。でも、エコマーケットに行けばそれだけで買える商品があります。ただ、1万エコ分の食品や生活用品を買ってしまえば、それで今月のお金は尽きてしまう。それしか収入が無い場合はどうすればいい? 簡単なこと、あなたもここで何かを売ればいいのです。売り物なんて何も無いと言うのですか? いや、きっとある筈です。日本円の経済圏では、多くの労働者が、自分の労働価値というものをおそろしいほどに過小評価しています。大資本が提供する魅力的な商品やサービスに圧倒されている私たちは、自分が価値提供者としてはまったく無能で取るに足りない存在だと思わされているのです。しかし、エコの経済圏にはあなたの助けを必要としている人がたくさんいます。お年寄りの買い物を手伝うことだって、鉢植えの水やりをすることだって、ここでは立派な仕事です。自分ではそんな仕事の交渉をすることが苦手ですって? いや、大丈夫、ここでは助けを求めている人と仕事を求めている人をマッチングさせるサービスも充実していますから(これはエコ市場を成り立たせるための重要な機能です)。そう言えば、個人間のエコのやり取りの仕組みを考えていませんでしたね。これはインターネットや銀行ATMを使った口座振込だけでなく、ICカード同士での授受も出来るようにしましょう。エコを扱う場所ならどこにでも置いてあるカードリーダーに、その機能を搭載すればいいと思います。

 さて、私が提示出来るエコ通貨の物語はこれで終わりです。誤解しないでいただきたいのは、私はいまの日本円の経済に恨みがあって、それを否定するためにエコの経済なんてものを持ち出している訳ではないということです(日本円の経済に恨みがあるのは確かですが。笑)。日本円とエコの関係は、言ってみれば縦糸と横糸の関係です。現在の日本経済は、縦糸だけで織られた布のようなものです。それでは丈夫な布が織れる筈がありません。ちょっと引っ掛ければ破けてしまうだろうし、長持ちだってしないに決まっている。このまま日本円という単一通貨の経済構造のままで、少子高齢化社会に突っ込んで行けば、何が起こるかは誰でも想像がつきます。国内の労働力で高齢者を支えながら、しかも国際通貨としての強い日本円の足を引っ張らないようにするためには、どうしても国内限定の第二通貨が必要なのです。私はそう考えます。私たちは生活者として、どちらかの経済圏に振り分けられる訳ではありません。どちらかにより多く比重をかけるということはあっても、各人がそれぞれの人生設計のなかでバランスを取って行けばいいのです。生活者のためのお金を作り出す試みは、地域通貨として各地で試みられていますが、このように経済を二重構造にすることにはどこも成功していません。地域のNPO団体が単独でやるには荷が重過ぎるのです。私は政府か自治体にその役割を担って欲しいと思っている。現代は政治に対する不信感がとても大きくなってしまった時代です。それでも政府や自治体というのは、私たちが選挙で直接その長を選ぶことが出来る、国内唯一のNPO団体なのです。いま国政が機能麻痺を起こしているなら、どこか有力な首長がいる都道府県から始めてもいい。その地域の地方銀行とタイアップすれば、大した予算も必要なく、すぐにでも始められるくらいの政策です。もしもある地域でエコの経済がうまく回り始めたなら、市場の自律的な働きによって全国に広がって行くのは時間の問題でしょう。


(追記です。長い連載になりましたので、全体をひとつのPDFファイルにしてみました。まとめて読んでみたいという方がいらっしゃれば、こちらをダウンロードしていただくと便利かと思います。↓)

「basicincome_20120408.pdf」をダウンロード

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2012年4月 1日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(7)

【7】 エコ通貨は持続可能な社会をもたらすか?

 減価する政府通貨というものが、国内産業を振興する仕組みについて説明して来ました。今回はその応用で、持続可能な社会の実現のためにも、この新通貨が一役買うかも知れないという点について述べます。連日のニュースでは、東京電力が法人向けの電力料金を平均17%も値上げしようとしていることが報じられています。今週、東電の原発がすべて停止しましたが、原子力発電よりも火力発電の方がコストが高いというのが値上げの理由です。東電は、原発事故の処理費用や賠償金がコストを圧迫しているとは口が裂けても言いません。しかし、お金に色はついていませんから、値上げ分の一部は事故処理にも使われると考えていい。当然、産業界からは大反対の声が上がっています。こうした状況のなか、電力の自由化を急いで、電力供給にも競争原理を取り入れるべきだという意見をよく耳にするようになりました。私も電力自由化には賛成ですが、しかし価格競争によって自動的に安くて質の高い電力が供給されるようになるかと言えば疑問です。火力発電に使う化石燃料は、長い目で見れば、価格が上がることはあっても下がることはないでしょう。太陽光発電や風力発電のような再生可能エネルギーは、まだまだ高コストで、国の補助金なしではやって行けないのが実情です。価格を競おうにも、企業努力で出来ることは非常に限られています。

 単純なコスト比較をすれば、再生可能エネルギーが火力に(ましてや原子力に)太刀打ち出来るようになるのは、よほどの技術革新でも無い限り不可能でしょう。ただ、電力事業者のコスト構造にまで踏み込めば、そこにひとつの可能性が見えて来ます。原子力発電所や火力発電所のコストのなかで大きなウェイトを占めているのが燃料費です。特に液化天然ガスを使う火力発電では、発電コストの6割程度が燃料費になります(原子力の場合は2割程度だそうです)。一方、太陽光発電や風力発電では、基本的に燃料費はただです。水力発電、地熱発電、潮力発電なども同じですね。つまり再生可能エネルギーというのは、燃料費がかからない発電方式だと言い換えてもいいと思います。それなのに何故再生可能エネルギーの方が高くつくかと言えば、燃料費以外の経費が高いからです。発電効率そのものは問題ではありません、単位発電量当たりの経費が高いというところが問題なのです。その経費のなかでも大きなウェイトを占めるのは、設備費と人件費でしょう。ソーラーパネルは安くなって来たとは言え、まだまだ高価なものですし、それ以前に陽当たりの良い広大な土地が要る。風力・水力・地熱発電なども、大規模な設備投資が必要な点では同じです。ただここで注意すべきことは、ソーラーパネルにしても、風力発電用の風車にしても、またダムや地熱発電設備にしても、国内生産が可能なものばかりだということです。つまりエコでの調達が可能なのです。設備のメンテナンスにかかる人件費に至っては、純国産の資源ですから、最もエコの使いやすい調達物です。ひと言で言えば、再生可能エネルギーはエコと親和性がいいということです。いや、設備費や人件費が国内で調達可能であることは、火力発電所や原子力発電所でも同じではないかという反論が返って来そうですね。でも、コストの内訳が違います。火力発電所のコストに占める燃料費の割合が60%だということは、火力発電所から送られて来る電力の60%は輸入品だということです。それに対して太陽光発電所や風力発電所で作られる電力は大部分が国産です。

 考えてみれば、資源小国である日本が「地産地消」を推進すれば、自然の成りゆきとしてエコロジカルな社会に近づくのは理の当然です。燃やすべき石油が採れないのだから、CO2を大量に排出すること自体不可能な訳だし、国産のウランが無い以上、原発だって止めるしかない。国内で生産出来るエネルギーは、ほとんどが再生可能エネルギーだけなのです。にもかかわらず現状では国内で消費されるエネルギーの大部分は輸入に頼っている。何故か? 単一通貨に基づく経済原理のなかでは、他に選択肢が無いからです。そこでは地域経済というものの可能性がまったく排除されている。もしもエネルギーにかかるコスト構成を、輸入部分と国産部分とに分解して、国産部分には為替レートに影響されない別の経済原理を当てることが出来るなら、発電業者にとっての採算性の概念も大きく変わるかも知れないのです。原発事故以来、発電コストという考え方が私たち国民にも親しいものとなりました。火力なら1kwhを10円以下で発電出来るのに、風力では15円、太陽光では40円くらいかかるということを私たちは知っています。それだけを比較すれば、再生可能エネルギーにはとても価格競争力など無いように見えます。しかし、そこにエコが絡めば話は違って来る。火力発電所の10円のコストのうち、6円分は輸入燃料に由来するものですから、残りの4円の経費のうちの半分をエコで賄ったとしても、日本円での8円のコストは削れません。一方、15円相当の風力発電コストがすべて国内由来のものであったとすれば、半分をエコで賄うことで日本円部分のコストは8円以下に抑えられる。まあ、人件費や設備費の半分をエコで支払うことは現実的ではないかも知れませんが、両者の価格差がかなり縮まることは確かです。(太陽光発電は現状ではあまりに高コストです。これは将来の技術だと見るのが妥当です。)

 この考え方はエネルギーだけでなく、資源のリサイクルについても当てはめられます。いま中国のレアアースに対する輸出規制が問題になっています。ハイブリッド車の充電池などにも欠かせないレアアースは、全世界の産出量の9割以上を中国に依存しているのだそうです。これを止められたら日本の製造業は大打撃を受けます。一方で「都市鉱山」というコトバがあるように、レアアース(希土類)を始めとするレアメタルは、国内の資源ゴミのなかにも大量に眠っています。ただ、それを取り出すのには高いコストがかかる。いくら世界的にレアメタルが高騰していると言っても、これをリサイクルすることは(現状では)採算に合わない訳です。ところがここで見方を変えてみましょう。海外からレアメタルを輸入すれば、その分の日本円が(ドルに換算された上で)海外に流出します。国内の資源ゴミからレアメタルを回収することは、一企業から見ればコスト高かも知れませんが、海外への通貨の流出がほとんど無い分、国内経済にとってメリットがあるとも考えられます。資源ゴミを回収・分別して、そこから微量の再生資源を取り出すなんてことは、気が遠くなりそうなほど手間のかかる作業でしょう。が、地球全体の資源保護という面から見ても、それは間違いなく意味のあることです。少なくともそこに手間をかけることは、社会の持続可能性にとって良いことである筈です。海外からの輸入レアメタルと再生レアメタルを、同じ日本円のコストという指標で比較しただけでは見落とすものがそこにはあります。資源を発掘し消費し廃棄するという一連のサイクルを日本円が支えているとするなら、それを回収し再生するサイクルを支えるのがエコ通貨です。国内の人件費の一部をエコに置き換えることが出来るなら、そうした取り組みも加速されるだろうと考える訳です。

 ものを大切に使うということは、家計のためだけでなく、社会的な資源の持続性のためにも重要なことでしょう。ところが、ここ2、30年くらいに起こった変化ではないかと思いますが、ものを大切に使うことは美徳ではなくなってしまいました。故障した電気製品を修理に出そうとすれば、店員に新しい製品を買った方がいいと言われます。実際に、修理費と同じくらいの金額で性能の向上した新製品が買えたりする訳です。こうした消費はおかしいと心のどこかで思いながら、私たちはかなりの頻度でパソコンや家電製品を買い換えている。こうした問題も、経済を日本円とエコの二本立てにすれば解決の方向性が見えて来ます。故障した製品の修理費が、法外と思えるほど高いのは、それが国内の人件費だからです。中国の工場で大量生産された製品の値段が安いことに理由があるように、修理費が高いことにも理由があるのです。エコが流通する社会では、修理費の一部はエコで支払うことが出来ますから、新製品の価格と修理費のあいだには、消費者が納得出来るような価格のバランスが復活するのではないか。メーカーも修理のしやすさを前提にした設計をするようになるでしょうし、そうした製品は消費者からも受け入れられるだろうと思います。気に入った製品を大事に長く使うことは、成熟した現代の消費者のニーズにも合ったことだからです。企業にとっても、国内でメンテナンスのための技術者を育成・維持することは、技術の伝承という点でも意味のあることだと思います。歴史を大局的に見れば、これからはどんどん資源が稀少化して、リサイクルやメンテナンスの重要性が増すことは間違いありません。もともと資源が乏しい日本は、世界に先駆けてそのための新しい経済モデルを構築する絶好のポジションにいると言ってもいいのです。国内限定通貨は、それを推し進める強力なツールになります。

 もうひとつ、これからの日本が立ち向かわなければならない重いテーマが、少子高齢化への対応です。私はこれにもエコ通貨が解決の指針を与えてくれるのではないかと思っています。高齢者年金の支給開始年齢が、現在段階的に引き上げられつつあります。それにともなって企業の定年を65歳にまで引き上げることを法律で義務付けようとする動きもあるようです。これによって若年層の就職難がいっそう深刻化するという懸念もあります。これも大局的な目で見れば、おかしな話だと思います。もしも現在の日本に〈職の絶対数〉が不足しているなら、まだまだ働ける高齢者が増えることは若者にとって脅威だし、無年金の期間が生まれることは中高年にとって恐怖でしょう。しかし、いまの日本で足りないのは、職の絶対数ではありません、〈日本円をバリバリ稼ぐことが出来る職〉が足りないだけです。実際に福祉や介護といった分野では、慢性的な人手不足が続いています。給料が安いので、若い人を惹き付ける職場になっていないのだと思います。行政の補助はあっても、限界があります。こういう領域にこそ、エコを広めたい。60歳で定年を迎えて、年金支給年齢まで働きたい人の再雇用を、福祉・介護の分野で進めてはどうでしょう。それをするのは簡単なことで、60歳以上の職員に対しては、給与に占めるエコの割合の規制を緩和してやればいいのです。同じ福祉施設の職員に、同じ額の給料を支払う場合に、60歳以上の職員に対しては50%までエコで支給出来るといったイメージです。(逆に若い人を閉め出さないよう、総量規制のようなものは必要ですね。) もちろん60歳を過ぎても、日本円をバリバリ稼げる技能を持った人は、日本円の経済圏で活躍してもらっていい。それが国の経済のためでもあります。が、年金受給年齢まで食いつなぐ必要があるという理由だけで、一般の労働者が日本円の経済圏に寄生することを法律で保証するのは愚策です。

 どうでしょう。国内限定通貨(エコ)というものが、持続可能な社会の形成にどのように役立つか、イメージを持っていただけたでしょうか。簡単に言えば、それは最大の再生可能資源としての労働力をバランスよく活用するための仕組みだと言えます。グローバル経済の進展のなかで、労働力の価格差があまりに大きくなってしまったせいで、国内の質の高い労働者を企業は雇えなくなってしまっている。それを是正するためにエコ通貨は投入される訳です。さて、持続可能性というキーワードに絡めて、もうひとつエコを導入することの隠された意味を説明して、今回の記事を締めくくります。それは来るべき首都直下地震に対する備えとしても有効だろうということです。昨年の東日本大震災によって、日本は経済的にもたいへんな被害を被りました。その被害総額は20兆円、GDPの4%にも相当する金額だったそうです。しかし、首都直下地震が起きれば、被害はそんなものでは収まりません。1923年の関東大震災では、当時の日本のGDPの4割にも相当する社会資産が失われたと言います。それと同じ規模の震災が東京を襲えば、もはや日本円の信認も何もあったものではない。1万円札が紙屑同然になる…かどうかは分かりませんが、たいへんなインフレと経済的な混乱が全国をおおうことは必至です。そんな時、たとえ銀行が機能を止めたとしても、個人が持つICカードと店舗のカードリーダーがあれば、最低限の交換手段としてエコを利用することは出来る(電力も必要ですね)。金持ちも貧乏人も等しく最低限の購買力を与えられる訳ですから、生活物資の交換や配給のためには打ってつけの仕組みだと言えます。震災後の復興は、そこから始まるかも知れない…。まあ、そこまで言うと自分でも眉に唾をつけたくなりますが(笑)、将来起こるかも知れない大災害や財政破綻のことを考えると、日本円だけに頼り切ったいまの経済体制がとても危ういものに見えて来るのは事実です。

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2012年3月25日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(6)

【6】 マクロで見たエコ通貨の流通について

 前回はICカードとカードリーダーを中心に、エコという通貨の動きをミクロの視点で見て来ましたが、今回は国家経済というマクロの視点でエコ通貨の動きを見て行きます。これまでの説明で、ベーシックインカムとして毎月支給されるエコが、個人から企業へ、そしてまた個人へと循環する流れについては一応の説明をしました。つまり個人が消費の一部として使用したエコは、小売業者→流通業者→製造業者というようにサプライチェーンを遡って行く訳ですが、各業者はまた人件費の一部としてエコを使うことが法律で認められているので、働く個人はベーシックインカムとしてのエコの他に、勤務先の企業から給与の一部としてもエコを受け取ることになるということです。エコは日々減価しながら流通して行く通貨ですから、それを保持している経済主体が減価損を負担することになります。ただここまでの説明では、国や地方自治体などの公共部門がどのようにエコ経済に関与するかが検討されていませんでした。今日の社会では、国や自治体も国内経済の重要なプレイヤーですから、ここがそっくりエコ経済の蚊帳の外に置かれるというのではバランスが悪い。民間の労働者が最大1割までエコで給与が支払われているのに、公務員だけは従来通り満額日本円で給与を受け取っていたのでは、有権者が黙ってはいないでしょう。そこで、国家公務員と地方公務員の給与についても、一律1割をエコでの支払いということにします(もちろん議員報酬も例外ではありません)。いや、それだけではなく、国や自治体のすべての支出について、1割をエコに置き換えるものとしましょう。つまり、政府調達や各種の補助金、公的年金など、公共機関が支出するお金はすべて日本円が9割にエコが1割という内訳にするということです。

 出来ればこれには例外を設けたくないところです。例えば、自衛隊が次期主力戦闘機を購入する際にも適応することとする。戦闘機の落札価格が1機100億円だったとして(高いぞ、F35)、落札業者のロッキード・マーチン社は、90億円と10億エコを日本政府から支払われることになります。そんなことは不可能だと考えるのは早計です。日本円で100億円の受け取りがどうしても必要なら、その分の金額を上乗せして(111億円で)入札すればいいだけだからです。もしも国内メーカーが競争入札に参加するなら、エコの受容性という点で外国企業は不利になるでしょう。エコが国内産業を選択的に優遇するというのはそういうことです。これは言ってみればすべての輸入品に10%の関税がかけられるのと同じことなので、国際社会では到底受け入れられないルールだという意見があるかも知れません。しかし、国内限定通貨は関税とは少し違います。海外の売り手も国内の売り手も、販売価格の1割をエコで受け取るという点では平等だからです。エコは日本国内においても使いにくいお金なので、それを受容するには企業努力が必要になります。仮にロッキード社が戦闘機のアフターメンテナンスのために日本法人を作って、そこで日本人の従業員を雇えば、エコを有効に活用する途が無い訳ではありません。戦闘機を日本に売り込みたいなら、むしろそこまでの企業努力をすべきでしょう。日本に進出したい企業にとって、日本の国内企業と同等に扱われることは、むしろ歓迎すべきことである筈です。まあ、戦闘機に関しては、どう転んでも国内生産が不可能なので、いくら10%ルールがあっても相手の言い値で買わされることに変わりはないと思いますが。

 最初から話が脱線していますね。政府の支出に占めるエコの比率を、1割にするのがいいのか、あるいは5%くらいが妥当なのかといったことについては、もっと詳しい検討をして決めなければなりません。重要なのは、国や自治体が率先してエコ経済の担い手としての役割を果たすという点です。政府支出の1割をエコに切り換えるということは、日本経済の1割をエコに置き換えるという政府の意思表示になるのです。ところで、政府がエコを財源として持つためには、どのような方法があるでしょう? 以前の記事では、税金を財源に充てることを考えていました。つまりエコによる納税を認めるということです。しかし、今回考えている規模の政府通貨の発行量では、政府支出をすべて税金で賄うことは難しそうです。日本の18歳以上の人口は1億700万人くらいです。その全員に年間12万エコを支給するとすれば、約12.8兆エコが市場に出て行くことになります(1万エコ×12か月×1億700万人)。ところがエコは減価貨幣ですから、市場に流通する金額には一定の上限があります。個人の視点で見ると、月に1万エコを支給されて、月間の減価率が20%なら、まったくエコを使わずにカードに貯めておいても、上限5万エコでストップしてしまいます。つまり国内のエコの流通量は、5万エコ×1億700万人=5.35兆エコで一定になるのです。一方、年間の政府支出は約100兆円で、その1割をエコで賄うとすれば10兆エコが必要です。徴税しようにも、そんなお金はどこにも無いのです。では、どうするか? 簡単なことです、政府にもエコを支給してしまえば良いのです。今日のような供給過多で需要不足の時代には、公共部門が持つ旺盛な需要というのは実はとても重要な経済要素なのです。旺盛な需要を持つ消費者にエコを支給するのは、制度の主旨にも合っている。エコは国家予算に組み込まれる必要さえありません。政府が支出をする場面場面で、その都度支払額の10%に当たるエコが生まれるだけのことです。公共部門で発生するエコは月々の平均で8333億エコ、月に2割の減価率でその流通量の上限は約4.17兆エコ、すなわちベーシックインカム分と合わせて10兆エコ弱の金額が国内経済に定常的に流通することになります。

 減価する貨幣というのは、一般的に手離れのいいお金で、通常の貨幣よりも速い速度で市場を駆け巡ります。それが景気回復につながるというのが、減価貨幣推進派の主張です。ところが、すでにお気付きの方もいると思いますが、今回の連載で考えているエコ通貨というのは、減価貨幣ではあっても、流通速度の速い通貨ではないのです。何故なら、月ごとに支払日が決まっているために、原則として月に1回転しかしないからです。シルビオ・ゲゼルの考案した「自由貨幣」(スタンプ紙幣=減価貨幣)というのは、とてもユニークで大きな可能性を秘めたアイデアですが、考えようによっては暴走する可能性もある危険な通貨であるとも言えます。人口4300人のヴェルグル町で1年間の試行がうまく行ったからと言って、日本のような大きな国家の基軸通貨として採用して、うまく行くとは限らない。私が今回目指しているのは、現行の日本円とうまく共存させることが出来、しかも国家の管理通貨として厳格なコントロール下に置くことが出来るような通貨のデザインです。おそらくそれでも減価貨幣の持つ需要喚起能力はいくぶんかは残っているでしょう。ふつうデフレ経済の下では買い控えが起こりますが、ICカードのなかで日々減価して行くお金は擬似的なインフレ状態を作り出し、私たちに消費を急かすからです。しかし、エコを減価させる本当の目的は、そこにはありません。政府通貨というものを短期的な政策に終わらせないためには、発行した通貨を回収する仕組みを作り込んでおかなくてはなりません。そのために政府通貨を税金として回収したのでは、市場での流通という通貨本来の機能が削がれることになってしまう。ところが減価貨幣なら、市場に最後まで留まって、しかも追加供給される通貨とも自然な均衡点を見出だすことが出来るのです。ひと言で言えば持続可能な政策になるのです。

 だからエコはタックスフリーな通貨にしましょう。ここも以前の記事からの改正点です。エコは政府の手元にも発生するのですから、ことさら市場から回収する必要はありません。仮に国民と政府という二大消費者が支給されたエコをすべて使い切ったとすれば、その金額は年間に約22.8兆エコになります(政府支出の1割で10兆エコ、国民の支出が約12.8兆エコ)。いや、そこに市場から循環して来るエコ(給与支給分)が加算されますね。国内の労働人口が約6200万人、その人たちが平均して月額給与のうち2万円分をエコで受け取ったとしましょう。するとここで消費者に還流するのは14.9兆エコになる(2万エコ×12か月×6200万人)。それもすべて消費に回ったとすれば、合計で37.7兆エコということになります。これは日本のGDP500兆円の7.5%に当たる金額です。しかし実際にはそれより少なくなるでしょう(個人の口座やICカードのなかで目減りする分もあるので)。大雑把に言ってGDPの数パーセント程度のエコが流通すると考えていい。この部分が非課税だったとしても、税収全体に与える影響はそう大きくはなさそうです。仮に日本円のGDPがエコに食われたとすれば、国(と地方)の税収は数パーセント減ってしまうかも知れない。が、もしかしたら「良いクーポン」の効果で日本円部分のGDPも拡大するかも知れないのです。そうなれば税収も現在より増えることになる。一方、政府の支出は確実に1割減る訳ですから、財政の健全化に向けてかなり大きな前進となることが期待されます。これは最も楽観的なシナリオですが、悲観的なシナリオも考えておきましょう。こちらはせっかく導入したエコがほとんど流通せずに、個人のICカードのなかで虚しく消滅して行くというシナリオです。この場合は無駄な公共投資は発生しますが(それを避けるためにエコは最初紙幣として発行するのでした)、流通しないエコは日本円の経済には影響を与えないので、GDPの押し下げ要因にもなりません。最善の場合に大きな効果が期待出来、最悪の場合でも大した影響が無いのなら、やってみる価値があるだろうというのが私の考えです。

 企業会計についても触れておきます。もしも企業の会計処理で、これまでの円建ての会計とは別にエコ建ての会計が必要になるとすれば、これは大きな負担になります。日々減価する通貨を対象に財務諸表を作るなんて作業は、考えただけでもげんなりします。しかし、心配はご無用、企業の会計処理のなかでは、基本的にエコは無視してもいいのです。いや、取引先との契約やその後の請求・支払業務などに関する書類には円とエコの併記が必要になりますし、それにともなってシステムの機能追加もしなければなりません。またエコ口座の残高管理は、経理部門にとってとても重要な仕事になる筈です(マイナスになれば行政からのペナルティがあり、多過ぎれば企業の収益悪化につながるから)。しかし、決算報告や税務処理などでは、エコ部分の出納は考えなくてもいい。これはエコがもともとクーポンであることを考えれば、当然のことだとも言えます。企業が自社クーポンを発行して、その分の値引きをしたとしても、損益計算書にその記載をする必要がないのと同じことです。ただ、各企業のエコ口座の動きについては、銀行から情報が行政当局に送られます。マイナス残高が発生していないかを監視するだけでなく、市中のエコの動きがどうなっているかを確認するためです。またエコを促進するために、取引高に占めるエコの割合を見て法人税を優遇するといった施策にも使えます。エコは国内の銀行口座と政府支給のICカード、カードリーダーのなかでしか生きられないお金ですから、1エコたりとも行政の目が届かないところに隠されることはありません。裏社会の資金源になるなんてことも金輪際ありません。

 ここまで書いて来て、ひとつ追加ルールが必要な点に気付きました。企業間の支払いを毎月同じ日に揃えることで、エコの減価負担を各企業に公平に担わせるというのが今回のアイデアですが、小売業者については別にひと工夫必要になります。エコが紙幣であるあいだはいいのです。口座への預け入れ時に金額を20%差し引くというルールがありましたから。電子マネーになったエコについても同じような仕掛けが必要です。もしも店が客からエコを受け取った時点から減価が始まるのだとすると、支払日の前日に受け取ったエコは、ほとんど減価損をかぶることなく次の取引先に渡すことが出来る、これは公平ではありません。店によっては、毎月15日が近づくと〈エコセール〉を始めるなんてところも現れるに違いない。公平さを期するなら、支払日の直前に受け取ったエコであっても、支払日当日にはきっちり20%減価していてくれないと困ります。これを実現する最も簡単な方法は、銀行口座とカードリーダーでの減価処理を毎日行なうのではなく、支払日の早朝3時に一括で行なうことでしょう(口座残高とカードリーダーの残高が一気に20%減るのです)。実際、企業間の支払いが全国一斉で同じ日に揃えられるなら、日々減価する仕組みにしなくても良い訳です。従業員への給与支給日も同日に合わせる必要があります。但し、この場合にも個人の銀行口座とICカードの方は毎日減価させなければなりません。そうしないと月の特定の時期に個人消費が集中してしまうからです。従って銀行口座も個人向けと法人向けでは機能を分けなくてはならない。法人口座(およびカードリーダー)から個人口座への送金も禁止されます(双方向に送金可能だと、減価を回避することが出来てしまうから)。これによってエコは返金処理が出来ないといった問題が発生しますね。このへんはもっとスマートなやり方が無いか、アイデアを募集したいところです。

 消費者、民間企業、そして国や地方自治体がどのようにこの新しいエコという通貨と関わるかについて、アウトラインを説明して来ました。最後に、公共サービスとエコの関係について少し考察しておきます。電力・水道・ガスなどの公共料金、それに公共交通機関の運賃といったものに対してもエコは使えるかという問題です。これらのなかには地方自治体が直接サービスを提供しているものもあれば、民間企業がサービス提供を行なっているものもあります。一般的に地域独占であることが多く、価格にも競争原理が働きにくい分野です。エコを流通させるのは、まさにこの競争原理によってですから、放っておけば公共料金の一部にもエコが使えるようになるという事態にはならないでしょう。すると例えば電力会社にはエコの収入が無いので、当然社員の給料にもエコは混じりません。東京電力の社員は、エコ導入後も高い給料をまるまる日本円で受け取ることになります(国民の反感を買いますね)。ここは政治が介入します。エコが導入され、それを給与の一部として使うことが解禁された時期に合わせ、公共料金も一部がエコに置き換わります。但し、それは消費者が電力料金の一部をエコで支払えるようになるということではありません。エコは国が支払うのです。具体的に言うと、消費者に対しては(日本円の)電力料金を1割値下げして、値下げ分を国が電力会社に対してエコで補填するというやり方です。これは消費者から見れば単なる値下げですから歓迎すべきことです。電力会社から見ればエコの経済圏に1割だけ足を踏み入れることで、一般の民間企業と同等の扱いになるだけのことです。国から見ればここでのエコ支出も財源は不要なので、財政を悪化させることにはならない。誰も損をする人はいません。

 公共サービス分野を特別扱いすることには、ふたつの理由があります。ひとつは消費者が公共料金や運賃の支払いにエコを使っても、それは景気を良くすることにはつながらないからです。電力料や通勤費などは固定費に近いものですから、そこでエコを使われてしまうと、それは「悪いクーポン」として確定してしまいます。もうひとつはもっと現実的な理由で、交通運賃にエコを使わせることは技術的に難しいからです。ICカード(と磁気切符)による自動改札という仕組みがすでに定着しているのに、いまの効率を犠牲にせずに日本円とエコを併用させるのは難しいと思われます(ハイブリッド型の電子マネーなら可能でしょうが)。このように政治的に特別に配慮しなければならない分野はまだ他にもありそうです。それは制度を具体化するなかで、個々に対策を考えて行けばいいのです。もしかしたら、「小さな政府」を信奉する人やリバタリアニズムに近い立場の人からは、政府の裁量権が強くなり過ぎることへの懸念の声が上がるかも知れません。しかし、政府通貨というのはそういうものなのです。むしろ市場の原理で動いている現在の通貨を、国が無理矢理コントロールしようとするから、あちこちに歪みが出ているのだとも考えられる。今日、市場原理に任せておけば、持続可能な社会が自然に実現するなどと考えている人はいないでしょう。グローバリズムの進展とともに、ますます制御不能になって行く世界経済のなかで、国として、政府として、金融資本の手が及ばないところに国民経済の〈聖域〉を作っておくこと、それはきわめて重要なことではないかと思います。政府通貨というものを、私はそのためのものとして捉えているのです。

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2012年3月18日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(5)

【5】減価するカード型電子マネー

 減価する電子マネーというものを実現するには、大きく分けて2つの方式がある、そう私は考えて来ました。ひとつは、減価の管理を銀行の口座管理コンピュータが一括して行なう集中管理方式、もうひとつは、カード型の電子マネーそのものにオペレーティングシステムを搭載して、プログラムによって減価させる分散管理方式です。それぞれ一長一短があります。集中管理方式では、店のレジに置かれるカードリーダーが、その都度銀行の口座を見に行くので回線に負荷がかかります。混雑するスーパーのレジなどでは客を捌き切れないかも知れません。その代わりセキュリティの面では優位性があると思います。カードそのものに残高を持っていないので、データを改竄される心配が無いからです(カードそのものを偽造されてしまえば、不正は防げませんが)。かたや分散管理方式の方は、基本的に回線を通じたデータの送受信が発生しませんから、処理速度という面では有利です。このことは小売の現場ではとても大事なことです。その代わり、電子マネー自体が小型端末としての機能を持たなければならないので、非常に高価なものになってしまうことと、ウイルスやハッキングといった危険性にもさらされるという問題がある。どちらも実用化という面では、大きな難点を抱えています。

 今回私が思い付いた方式は、もっとずっと単純で、現在の電子マネーと同じ技術で実現出来るような〈ローテクな〉仕組みのものです。コストも安上がりで済みます。カードそのものは、私たちがふだん使っているような厚さ1ミリ程度のプラスチック製のカードです。そこにICチップが埋め込まれていて、残高が記録されているのもふつうの電子マネーと変わりません。異なるのはカードリーダーの方です。コンビニなどに置いてある電子マネー用のカードリーダーは、支払い額を差し引いて新しい残高をICチップに書き込むだけのものですが、「エコ」用のカードリーダーはそこにもうひとつ新しい機能が追加されます。つまり、カードをリーダーにかざすと、まずは今の残高とその残高を記録した最新の日付を読み取り、その日付と現在の日付のあいだの日数を計算して、その間の減価額を残高から差し引く処理を最初に行なうのです。あとの機能は通常のカードリーダーと変わりません。これだけの仕組みで減価する電子マネーが実現出来てしまう。なんで今までこんな簡単なことに気付かなかったのだろう?(笑) もちろん多少の不便さはあります。自分が携帯しているカードの現在の残高が持ち主にも分からないという問題です。先週の日曜日には確かこれだけのエコ残高があった筈なんだけど、今いくらなのかはカードリーダーにかざしてみなければ分からない。(分散管理方式ならカード上に残高が表示されますし、集中管理方式ならインターネットで自分の口座残高を照会するという方法があります。) しかし、これはそれほど問題とすべきことでもないでしょう。誰だっていま自分の財布にいくらお金が入っているか、1円単位まで正確に把握している人はいない訳ですし、エコを使い慣れて来れば、1週間で約5%弱目減りするということも、感覚としてつかめるようになるでしょう。

 エコを使う上で注意すべきルールがあります。それはエコはあくまで日本円の代替通貨として、売り手が許容する金額の範囲内で使えるものであるけれど、必ずしも利用可能な限度額と同額を払い出す必要は無いというルールです。これはエコがクーポンの一種だということを思い出していただければ、納得のいくことだと思います。600円のランチセットを食べるのに、100円分のクーポン券を持っていれば500円の支払いで済みますが、たとえクーポンを持っていなくても600円払えば食べられます。これは当たり前のことですね。だから仮にカードのエコ残高が、利用可能なエコの金額に対して不足している場合にも、不足分は日本円で支払えば問題ない訳です。カードに残高が十分ある場合に、支払い側がエコの払い出し額を指定するというオプションは認めないことにしましょう。エコは使うか使わないか、2つに1つを選べるだけです。ただカードの残高がエコの利用可能限度額に満たない場合のみ、カードの全額を払い出して、不足分を日本円に振り替えることを店のレジが自動的に行なうということになります。何故そんな些末なルールにこだわっているかと言うと、店頭での支払い手続きをスムーズなものにしたいがためです。政府クーポンの導入によって、スーパーやコンビニのレジに長い列が出来るようでは、消費者からは歓迎されないでしょうから。エコ導入後は商品の価格表示も変わります。例えば100円の商品が2割までエコの支払いオーケーならば、「¥100(§20)」といった表示になるのです(§を仮にエコの通貨記号とします)。これは「日本円で100円の商品で、そのうち20円分はエコでの支払いも可」という意味です。エコを扱う店では、こうした表示が義務付けられます。客はそれを見て、自分が持っているエコ残高も考えながら買い物をすることになります。

 これに関連して企業間の支払いルールについても付記しておく必要があります。企業間の取引でも一時的にエコ残高が不足して支払不能に陥ることがあり得ます。エコはなるべく口座で持ち越さない方が得な通貨ですから、そういう事態はもしかしたら頻繁に起こるかも知れません。これは経済を混乱させる原因になります。以前の記事では、これを避けるために、企業の支払いでもエコが足りない場合は日本円で補填するルールにしていましたが、今回これは撤回します。それでは相手の取引先にとって予定していた入金予定額に誤差が生じ、会計処理に余計な負担をかけることになってしまうからです。新方式では、エコ口座は一時的にマイナス残高になることを許容することとします。これによってエコの支払いを滞らせないということです。これで企業同士が契約したとおりの金額での日本円とエコの支払いが保証されることになります。ところがひとつ問題があります。エコは減価貨幣ですから、口座のマイナス残高も毎日0.72%の割合で減って行くのです。だったら口座残高は常にマイナスにしておいた方が得じゃない?(笑) マイナス残高が許されるとなると、企業は売る時にはエコを少なく受け取り、買う時には多く支払うということが可能になって、エコの正常な流通が成り立たなくなってしまう。ここは是正策が必要です。支払日(毎月15日)に2か月連続で残高がマイナスだった業者は、エコの取り扱い業者としての資格を停止する、または口座のマイナス残高に(日本円での)高い罰金を科すといったペナルティを設けてはどうでしょう。エコは政府が発行する正式な通貨ですから、厳格な法の規制のもとに運用されるのです。

 小売の現場に話を戻します。エコ通貨が本格的に流通する前に、店のレジシステムもそれに対応したものに改修しておく必要があります。商品のバーコードを読んで、日本円とエコの金額をそれぞれ別に足し上げ、最初にカードでエコの合計額を引き落として、次に日本円の残高を支払うという一連の手続きをスムーズにこなせることが必要です。そのためには、エコのカードリーダーとレジシステムが連携して動作することが重要になります。理想的には、エコと日本円を1枚のカードに収納出来るハイブリッドな電子マネーが実現出来ればベストです。カードリーダーに1回かざすだけで、エコと円の支払いが一度に済んでしまうというものです。これを実現するために、国は既存の民間の電子マネーに、エコ専用のICチップを埋め込むことを認めるべきでしょう。但し、国民ひとりに支給されるエコチップは1個だけですから、電子マネーの発行会社間では熾烈なシェア争いが繰り広げられることになりそうです。消費者の利便性を考えるなら、民間の各電子マネーが互換性を持つように国が指導して行く必要があります。現在の電子マネー(例えばSuica、PASMO、ICOCAのような鉄道会社系のもの、WAON、nanaco、Edyのような店舗系のものを含め)は、使用者の利便性よりも顧客の囲い込みということを第一に考えて設計されているように見えます。だからあえて互換性を取っていないのでしょう。これは構想が小さい。ここはむしろ国が標準化を進めるべきではないでしょうか。エコは特定の事業者のためのものではないのですから、これと組む相手は標準的な仕様を受け入れなければならないということにするのです。これで民間の電子マネーの標準化も進展する可能性がある。消費者にとっても電子マネーの利便性が格段に高まります。

 大手スーパーやコンビニ、量販店などはレジシステムのバージョンアップでエコへの対応を行なうことが出来ると思いますが、問題は個人商店などの小規模店舗です。こうしたお店の多くは、POSシステム(コンピュータと連動したレジシステム)を持っていないので、商品に付いているバーコードを読んで、商品ごとの円金額とエコ金額を別々に集計するという作業が行なえません。従ってエコを取り扱うにしても、手作業に頼らざるを得ないのです。個別の商品に対してエコの受付可能金額を設定することなど不可能でしょう。もちろん店に置いてあるすべての商品に一律のエコ比率を設定するといった方法も考えられますが(「全品2割までオーケー」といったように)、それではせっかくのエコのメリットが活かせません。個人商店のようなお店にこそ、もっとエコを戦略的に使ってもらいたいのです。地域に根ざした小さな商店だからこそ可能な、きめ細かな値付けというものがある筈だからです。デフレ不況というのは、言葉を代えて言えば〈地元商店街の不況〉のことです。不況と言われながらも、一部の量販店やチェーン店は空前の売上と利益を叩き出しています。何故そんなことが可能なのか? こうした店舗を展開する企業は、その規模と組織力にものを言わせて、中国を始めとする新興国から安い製品を大量に買い付けることが出来るからです。一方、国内限定通貨であるエコが使える仕入先の開拓ということなら、地元の小さな商店にアドバンテージがあると思います。地元の生産者や流通業者とのあいだに信頼関係を築くことで、協力してエコを受け入れる体制を作れるからです。大規模店は大量仕入をちらつかせて仕入値を徹底的に叩きますが、エコの経済圏ではそうした力の論理は成り立ちません。

 エコを導入する政府は、小規模な商店でも使いやすいエコ対応のPOSシステムを、安価に貸し出す制度を準備しましょう。それと同時に、POSの使い方を始め、エコ通貨の活用方法に関する啓発事業も進める必要があります。エコ普及の鍵を握っているのは、国内の生産者と消費者を結びつける役割を担っている地元商店街の人たちだからです。そこから立て直さなければ、日本経済の再建ということもあり得ないだろうと思う訳です。――さて、話題が二転三転しますが、エコのカードリーダーが持つ機能について、もう少し補足説明をしておく必要があります。電子マネーであるエコ通貨は、専用のICカードと銀行口座のあいだを(減価しながら)行ったり来たりする訳ですが、その両方の橋渡しをするのがカードリーダーです。店舗のレジに置かれるカードリーダーは、それ自体にエコを蓄える機能を持っています。また蓄えたエコを回線を通じてその企業の銀行口座(エコ口座)に入金する機能も備えています。店は1日の売上(エコ)を、閉店後にまとめて銀行口座に入金します。仮に入金せずに翌日までカードリーダーのなかでエコを寝かせたとしても、夜中の3時きっかりに自律的に減価処理が行なわれます。つまりエコという電子マネーは、ICカード、銀行口座、カードリーダーの3箇所に存在し得るのですが、どこにあっても同じ条件で減価するのです。個人の銀行口座にあるエコをICカードにチャージする仕組みも必要です。銀行や店舗に置かれているATMがその役割を担います。入金や出金の際の銀行手数料をどうするかは検討が必要ですが、手数料を取るとしても、支払いはエコです。もうひとつ、毎月個人に支給されるベーシックインカムとしてのエコを、カードに入金する仕組みが必要です。これは店のカードリーダーに任せましょう。仮に毎月の支給額が1万エコだったとすれば(少な過ぎる? あとで釈明します)、その月のうちに1回だけ店のレジで1万エコをカードにチャージ出来るのです。この時注意しなければならないのは、これは店のカードリーダーからの出金ではないという点です。エコというお金は、まさにその瞬間に無から生まれるのです。

 複雑な仕組みのように感じられるかも知れませんが、利用者の立場に立てばとても簡単な話です。個人がエコ建ての銀行口座を作らなければならないのは、給与やアルバイト料の一部をエコで受け取る必要がある場合のみで、それが無ければ国から支給されるICカード1枚だけで〈エコ生活〉を始めることが出来ます。新しい月が来たら、お店のレジで店員にお願いして1万エコをチャージしてもらいます(カードに記録が残るので、月に2回以上のチャージは出来ません)。あとはエコが使えるお店で買い物をする度にこのカードを出せば、残高がある限り自動的に割引が受けられるというだけのことです。この割引がつまり政府クーポンなのです。政府クーポンと言っても、国が財政負担をしている訳ではありません、国内で経済的な付加価値を生み出している企業や個人がみなで負担し合うクーポンです。端的に、国内産業を振興することを目的としたクーポンと言ってもいいです(だから外資系企業や輸入業者からは歓迎されないでしょう)。私たちがエコを(なるべくカードのなかで目減りさせずに)使い切る努力をすれば、それが国内産業を盛り立てることになるのです。――さて、ここまで電子マネーとしてのエコについて説明して来ましたが、最後に政府クーポン導入時の紙幣としてのエコについて、ひと言だけ追記しておきます。初期導入のコストをなるべく抑えて、政府クーポンの有効性を検証するために、最初は紙幣として始めるのが私のプランでした。月に1万エコの支給なら、例えば500エコの紙幣が20枚綴りになった冊子が行政の窓口で配られるといったイメージになります。電子マネーと違って、紙幣は持っていても減価しませんが、その代わり使用期限が設けられます。支給された月の翌月いっぱいに使い切らないと無効になるのです。これによって減価貨幣と同様に、通貨としての持続可能性が担保されることになります。

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