2012年1月29日 (日)

無罪と極刑のはざまで

 裁判員制度については、以前はこのブログでよく取り上げていましたが、最近はあまり触れていませんでした。しかし、私がこれに強く反対していることは今も変わりありません。そもそも日本の裁判員制度には、最初から制度設計上の大きな欠陥があった、というのが私の基本的な認識なのです。これは以前に書いたことの繰り返しになりますが、もう一度おさらいをしておきましょう。市民の司法参加には大きく分けて二通りのやり方があります。陪審制と参審制です。陪審制というのは、市民から無作為に抽出された陪審員が、職業裁判官を交えずに審議を行ない、有罪か無罪かの評決を行なうものです。有罪か無罪かを決定するための制度なので、扱うのは被告人が無罪を主張している否認事件であることが原則で、被告人には陪審員裁判を受けるかどうかの選択肢も与えられます。評決は基本的に全員一致でなければならず、全員の意見が一致するまで徹底的に話し合うことが求められます。重要なのは、有罪が決定したあと、量刑を行なうのは職業裁判官であるという点です。陪審員はあくまで有罪か無罪かの決定を行なうだけです。これに対して、参審制(日本の裁判員制度も参審制の一種です)の方は、職業裁判官と市民から選出された参審員が合議で罪状認定と量刑まで行なうものです。対象となる事件は、被告人が起訴事実を否認しているかどうかに関わりませんし、被告人に参審員裁判を忌避する選択肢もありません。最後の評決は全員一致である必要はなく、多数決であるのが一般的です。

 こうして両者を比較してみると、同じ市民の司法参加と言っても、陪審制と参審制はまるで異なる理念と目的を持ったものであることが分かります。そしてここが重要な点ですが、ある国が陪審制を採用するか、参審制を採用するかについては、ひとつの絶対的なルールがあるのです。つまり、死刑制度を存置させている国では、参審制ではなく陪審制しか選択肢が無いということです(死刑廃止国の方はそのような縛りはありません)。いや、これは私個人の見解なのですが、そう考える理由を以下に述べます。現在、陪審制を採用している国の代表格と言えばアメリカです。アメリカは日本と並んで、先進国のなかでは例外的な死刑存置国です。しかし、アメリカの陪審員は、陪審制度の基本ルールに従って、被告人に対して直接死刑を言い渡すことはしません。量刑を決めるのは職業裁判官だからです。これに対して、参審制を主に採用しているのはヨーロッパの国々ですが、ご存じのとおりヨーロッパではすでに死刑は廃止されていますから(EUに加盟するための条件のひとつは死刑が廃止されていることです)、参審員は裁判官とともに量刑に責任を持つと言っても、死刑判決に責任を持つというシチュエーションはあり得ない訳です。ヨーロッパ諸国もかつては陪審制を採用していました。そして死刑存置国でした。これらの国々では、死刑を廃止するなかで参審制に移行したという歴史的経緯を持っているのです。ところが日本では、そのような歴史的な背景も無視して、単に司法業界の住人たちの利害調整の結果、裁判員制度という名の珍妙な〈参審制もどき〉を作り上げてしまった。これによって日本は世界でもまれな「市民が市民に死刑を宣告する国」になってしまったのです。

 私自身は〈市民の司法参加〉ということ自体に反対している人間なので、日本は参審制よりも陪審制を採用すべきだったと言いたい訳ではありません。(陪審制にせよ参審制にせよ、来るべき時代の新しい司法制度から見れば、過去の遺物に過ぎないと思っています。私が考える未来の司法制度については、別のところでアウトラインを描いています。) この制度が始まった3年前には、死刑判決が想定されるような重大事件からは、裁判員は周到に除外されていました。それはそれでおかしな話ですが、この制度が持つ本質的な矛盾はそれでカムフラージュされていたとも言えます。制度導入から1年ほど経って、反対派の声も小さくなり始めたころ、死刑の可能性がある重大事件も裁判員裁判の対象にされるようになりました。そして事実、裁判員が一審で死刑の判決を出す事例も増えて来たのです(昨年末の時点で12件の死刑判決が出ています)。そしてさらに最近では、被告人が無実を主張している殺人事件が、裁判員裁判の対象にされるようになりました。現在、さいたま地裁で公判が行なわれている「結婚詐欺・連続不審死事件」は、裁判員裁判としては異例の長さとなる〈百日裁判〉として世間の注目を集めています。被告人が起訴事実をめぐって全面的に争う姿勢であること、もしも起訴事実がすべて認定されれば死刑が予想される事件であることから、当初から裁判員にとってはあまりに荷の重過ぎる裁判であると懸念されていました。そのため辞退者が多く出ることを前提に、通常の5倍に当たる330人もの裁判員候補者に召喚状が送られたと言います。予定されている公判回数は、実に38回にも上るのだそうです。

 この事件を担当する裁判員は、長い審理期間ということ以外にも、〈ふつうの殺人事件〉を扱う場合とは異なる重荷を負わされることになります。仮に有罪が確定して、死刑判決が下ったとしても、もしかしたら冤罪であったかも知れないという疑いを完全に払拭することは出来ないからです。もしも被告人が最後まで無罪を主張し続けたとすれば、彼らはその疑念を一生〈当事者として〉抱きながら生きていかなければならなくなるのです。仮に無罪判決だったとしても同じです。この場合、裁判員は、やはり被告人は真犯人だったかも知れないという疑念と一生向き合わなければならなくなる。つまり、否認事件においては、どちらに転んでも裁判員は十字架を背負わされるという構図になっているのです。それはアメリカの陪審員でも同じではないかという意見があるかも知れません。陪審員は直接量刑に関わらないと言っても、有罪が確定すれば極刑は免れないといった重大事件が対象なら、有罪の評決を下すことは死刑宣告と同じ意味を持つのだから。ところが、陪審員制度では、そこにひとつ抜け穴というか、安全弁が用意されているのです。陪審裁判では、12人の陪審員全員の意見が一致しなければ、評決が有効にならないというルールを思い出してください。11人が有罪だと言っても、自分ひとりが頑として無罪を主張すれば、その審理は無効となって、新たに選任された12人の陪審員と入れ替えるルールになっているのです。この場合、陪審員は有罪にも無罪にも加担したことにならない。すなわちどの陪審員も、自分ひとりの意思で合法的に審理拒否が出来る仕組みになっているのです。裁判員制度ではそうはいきません。たとえ自分だけが無罪を主張しても、あるいは審理拒否を宣言しても、多数決で判決は出されてしまうからです。被告人が死刑を執行されたあと、それでも自分だけは無罪に投票したと言って自分を慰めることは出来るかも知れない。しかし、自分が死刑を決定した9人のうちのひとりだったという事実は消すことが出来ません。

 以上の事実からも、日本の裁判員制度が、いかに重大な欠陥を抱えた制度であるかということが分かっていただけたのではないかと思います。刑事裁判に市民が参加するということは、刑事被告人を裁くという行為に対する責任の一端を市民が担うということです。ということは、別の言い方をすれば、裁判の結果に対する司法当局の受け持つ責任を、その分だけ減じるということでもあります。裁判員制度というものが、ほとんど国民的な議論を経ずに性急に導入された背景には、世界的な死刑制度廃止の潮流のなかにあって、それでも死刑制度を存続させたい当局の思惑があったのではないかと私は思っています。日本は国連やEUなどから、死刑を廃止するよう勧告を受けているのです。ところが、裁判員が参加した裁判で出された死刑判決ならば、それは国民の意思であるという抗弁が成り立つ。国際世論に対して、死刑存続の言い訳が成り立つのです(少なくとも法務省はそう考えたのでしょう)。しかし、日本の国民の8割が死刑制度に賛成していると言っても、それは自分が死刑判決を下す当事者になっても構わないということではない筈です。繰り返しますが、無罪を主張している被告人に対して、市民が有罪か無罪かの判定をして、さらには死刑の判決まで出すなんて国は、世界中を見回しても日本だけなのです。市民の司法参加は先進国では当たり前だなどというコトバに惑わされてはいけない。そもそも制度設計の根本が間違っているということを、もう一度はっきり認識しましょう。この制度が持つ本質的な矛盾は、今回のような否認事件においてより際立ちます。さらにそれは極刑が想定される殺人事件において極大化するのです。

 注目される百日裁判の行方はどうなるのでしょう? 330人の候補者のなかから選ばれた6人の裁判員の方たちは、いま長い公判のなかでそれぞれの印象を形成しているところだと思います。結審は4月13日の予定だそうです。どのような判決が出るのか分かりませんが、分かっているのは、6人の裁判員は無罪と極刑のあいだで究極の選択を迫られるということ、そしてどういう選択をしたにせよ、その結果は彼らにとって大きな心の傷となって残るだろうということです。裁判員を引き受ける人のなかには、殺人犯は死刑にされるべきだという強い信念を持った人もいることでしょう。死刑判決にためらいを持たないと豪語する人だっていると思います。が、万に一つでも冤罪の疑いがある場合には、そんな正義感だけで自分の心を納得させることは出来ない。否認事件における事実認定というのは、その人の正義感や道徳観とはまったく関係の無いことだからです。そんな重荷を市民に背負わせて、しかも逃げ道も与えないなどという制度は根本的に間違っている。私は裁判員制度はいますぐにでも廃止してもらいたいと思っているのですが、それが不可能だったとしても、裁判員の基本的な権利として、審理や評決に対する拒否権は保証されるべきだと強く主張します。

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2012年1月22日 (日)

原発反対の世論を風化させてはいけない

 喉元過ぎれば何とやらで、一時は国を挙げて盛り上がっていた反原発の気運も、ここに来て少し後退気味になっているような気がします。今週のニュースで、政府は従来40年としていた原発の耐用年数を、条件付きで60年まで延長する決定をしたと報じられていました。耳を疑いたくなるようなニュースです。いまだに原発利権で結び付いた政財界の何者かが、裏で糸を引いているとしか思えない。国内の原発のうち何機かは、すでに稼働40年を超えています(事故を起こした福島第一原発は、昨年がちょうど40年目でした)。国内の54基の原発のうち、30年以上経過しているものは19基です。いまのうちに先手を打って、稼働延長への目途をつけておきたいという腹なのでしょう。同じ日のニュースで、東電が企業向けの電力料金を17%値上げするということも報じられていました。やがて家庭向けの電力も値上げされることになれば、原発反対派も考えを改めるだろう、そう高をくくっているのでしょうか。

 私は原発の専門家でもなければ地震の専門家でもありませんが、常識を持つひとりの市民として意見を言います。国内のすべての原発は即時停止して、廃炉・撤去の工程表を一刻も早く引くべきです。当初、東京電力の報告では、福島第一原発の事故は、地震が直接の原因ではなく、想定外の津波で電源が失われたことが原因だということでした。つまり津波を想定した電源系統の防護策さえ施しておけば、原発はマグニチュード9の地震にも耐えたと言いたいのです。その後の研究で、津波以前に、地震の影響ですでに電源は失われていた可能性があるとの指摘も出て来ました。どちらが正しいのか、私のような素人には分かりません。ただ、分かっていることがひとつだけあります。東日本大震災は、遥か大平洋の沖合で発生した海溝型地震で、原発は震源地の真上に建っていた訳ではない、ということです。内陸型地震だった阪神淡路大震災と比べて、東日本大震災では地震による建物の倒壊が少なかったことに注目しましょう。揺れの時間は長かったけれど、被災地は強烈な地震波の直撃を受けた訳ではない。マグニチュード9という数字にだまされて、あれ以上の地震は想定する必要が無いと考えるのは間違っています。本当に恐ろしいのは、原発を直下型地震が襲った時です。

 地震の揺れの強さを表すのに、私たちはふだん震度という単位を使いますが、震度6以上の強い地震を測定するには「ガル」という単位を使う方が一般的なようです。これはモノの加速度を測る単位で(ガルは加速度の法則を発見したガリレオの名前に因んでいます)、1ガルというのは1秒間に秒速1センチメートルだけ速度が増すことを表します。日本の原発は、だいたい600ガル程度の揺れにも耐える構造に造られているようです。600ガルというと、静止していた物体が1秒間に6メートル動くということですから、部屋のなかを家具が転げ回るような激しい揺れです。ところが実際の地震で計測された最大の揺れはどの程度だったかと言うと、2008年に起こった岩手・宮城内陸地震の時に震源近くの地震計が計測した4022ガルという記録があるそうです。これはギネスブックにも登録されている数字で、要するに人類が計測した最も激しい揺れということになります。秒速40メートル! それが起こったのが日本だったのです。当時は「山がひとつ消えた」地震として、テレビでも大きく取り上げられたので、覚えている方も多いでしょう。この地震のマグニチュードは7.2と発表されていますから、決して巨大地震と呼べるようなものではない。調べてみると、国内で2000ガルを越すような強い揺れが記録されることは、決してまれではないことが分かります。

 これも今週のニュースで、福井県の大飯原発の再稼働に向けて、経済産業省の原子力安全・保安院が行なったストレステストに激しい抗議デモが起こり、テストが一時中断したと報じられていました。結局、ストレステストは実施され(テストと言っても、専門家がデータの数値を見て話し合うだけのことのようです)、大飯原発は安全基準を大幅に上回る1260ガルの地震にも耐える構造であり、再稼働に問題なしという結論が出されたのだそうです。「専門バカ」というのはこういう人たちのことを言うのでしょうね。実際に2000ガルを越す地震が国内で何度も起こっている事実があるのに、政府が恣意的に決めた安全基準を上回っているから安全であるというのは、小学生にも通じない理屈です。地震というのは、地下にたまった地層の歪みエネルギーが一気に解放される、いわばバネの弾みによるものです。山をひとつ消滅させることが出来るほどの地震なら、原発を建屋ごと吹っ飛ばすことだって訳はない。4000ガルというのは、要するにそういうことです。いまでもインターネットでは岩手・宮城内陸地震のすさまじい爪痕を写真で見ることが出来ます。これを最近どこでも見かける原発の写真と重ねて想像してみましょう。むき出しになった原子炉の格納容器が地表にゴロゴロ転がっており、冷却プールから飛び出した使用済み核燃料がそこらじゅうに散乱している、そんな光景が目に浮かばないでしょうか。

 直下型地震の直撃ということを想定すれば、安全な原発なんてものはあり得ないと思います。福島第一の事故は、決して最悪の原発事故ではありませんでした。地震の揺れを感知して、原子炉の緊急停止装置はちゃんと作動したのです。そのおかげで〈あの程度の〉事故で済んだとも言える訳です。史上最悪の原子力事故だったチェルノブイリと比較すると、福島第一の事故で放出された放射性物質の量は10分の1でした。しかし、福島第一に貯蔵されていた核物質は、使用済み燃料も含めるとチェルノブイリの10倍以上あったとも言います。つまり、福島第一が最悪の事故を起こしていたら、実際に起こったことの100倍以上の被害を出していた可能性があるのです。私たちが福島の事故のことを思い出し、そこから何か教訓を得るとすれば、まず認識しなければならないのはそのことです。これは決して忘れてはならないことだと思います。私たちにとって本当の問題は、原発を止めるか止めないかということではありません、国内のすべての原発を止めた後に、莫大な量の使用済み核燃料をいかに安全かつ経済的に保管して行くか、そこに議論の焦点を移さなければなりません。

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2012年1月15日 (日)

「減価貨幣=ルームランナー」という説

 これからは経済成長よりも、持続可能性を最優先にする社会に変わっていかなければならない…最近では誰もが口にする意見です。私もこのブログのなかで、何度もそんなことを書いて来ました。確かに地球規模での環境問題や資源問題がある以上、この先も永遠に続く経済成長なんてことは幻想に過ぎない。一部の政治家やエコノミストは、いまだに成長戦略なんてコトバに執着しているようですが、時代錯誤も甚だしいと思います。アメリカではレーガン政権あたりが、日本では小渕政権あたりが、経済成長を第一の目標に出来た最後の政権だったということになるのではないでしょうか。もちろん今後もいろいろな技術革新があるだろうし、私たちの生活はこれまでよりもさらに便利で快適なものになって行くかも知れない。しかし、それは全体としての経済成長のなかで実現するものではなく、限られた資源の効率的な利用技術によってもたらされるものではないかと思います。少なくとも先進国においては、これ以上GDPの拡大を目指すよりも、現状維持を基本方針とすべきである、そういう考えがこれからは主流になって行くのではないかと思います。

 しかし、持続可能な社会への移行がどれほど時代の求める必然だったとしても、これをすべての国民が同じように受け入れることは難しいかも知れません。単純な話、私たちのような中高年はそれでもいいんです、若い頃に高度経済成長を経験して、豊かな未来に希望を馳せることの喜びも、その豊かさがある程度実現してしまった後の虚しさも、フルコースで味わって来た。残された余生を現状維持をモットーに生きることに何の不満もあろう筈はないからです。しかし、これから未来のある若者はどうか? 若い世代を対象にアンケート調査をすると、意外なことに現状に満足しているという回答が多いのだそうです。ワーキングプアだとか、ひきこもりだとかいったことが社会問題化しているので、さぞかし現状に対する不満も強いのではないかと想像するのですが、現実はそうでもないらしい。そこそこの豊かさと安定があれば、人は未来に希望が無くても生きていけるものなのか? まあ、そんなことは人それぞれなので、世代論として論じるべきことではありませんが、私には現状肯定派の若者が増えているという事実が、良い兆候だとはどうしても思えないのです。それが持続可能な社会に向けた、生物としての適応の結果であるなどという説には、とても賛成する気になれない。人は未来に希望が持てない時、現状を肯定するしかなくなります(手の届かなかった葡萄は酸っぱかったに違いないというあれです)。その心理的な機制は、政治に対する徹底的な無関心となって現れ、若い世代が政治に参加しないことで、ますます彼らの未来から多くのものが簒奪されるという構造になっている。政治に関心を持たない彼らの多くは、自らそのことに気づきさえもしないのです。

 いまの中国を見ても分かりますが、経済成長には社会のさまざまな問題を隠すという一面があります。特に格差の問題が、人々にさほど深刻に受け取られないという点が重要です。経済的に成熟した社会では、現在の格差は将来も変わらない格差として続くだろうと予想させるのに対して、経済が著しいスピードで成長している社会では、多少の格差があっても、裕福な隣人の姿は明日の自分の姿でもある訳ですから、格差があることがむしろ人々の勤労意欲を高め、社会の生産性を高めるという好循環を生む。日本でも1960年代から70年代にかけてはそうだったのです。もともと資本主義経済というのは、借金によって駆動される経済であると定義出来ます。銀行から年利5%でお金を借りて事業を始める人は、年に5%以上の利潤を生むことを義務付けられている。人が一番仕事熱心になるのは、他人から借りた借金を返すために働く時です。(バルザックやドストエフスキーといった人たちは、そのことをよく知っていて、借金生活を創造力の源にしていました。) これを社会制度的に実現したのが資本主義というものなのです。資本主義が社会主義に打ち勝ったのは、制度として優れていたからではない、資本主義のもとで他人のお金を借りて事業を始めた人たちが、借金を返すために必死で働いたからです。ところがいまの日本人は、借金どころか1400兆円もの個人資産を、それこそ〈しこたま〉蓄えた訳ですから、個々には貧富の差があったとしても、全体としては勤労へのインセンティブが昔に比べて低下している。国全体がどんどん貧しくなっていることには、そうした背景があるのだろうと思います。

 過去の歴史を振り返ってみて、つくづく思うことは、いかにこの借金をベースにした資本主義経済のあり方が、人間の自然な性向にうまく合致していたかということです。自分が子供だったころ、物価は毎年どんどん上がって行くものでした。子供心にもそれが当たり前のことのように思っていました。二千年の昔からそうだったのかどうか分かりませんが、少なくとも産業革命以来、ここ二百年くらいはずっとインフレ経済というのが私たちの社会の常態だった訳です。それが突然デフレに転じて、我が国ではそれがもう二十年も続いている。たまたま景気の谷間に落ち込んだといった話ではないと思います。おそらくこれは、地球という惑星の、資源的・環境的・地勢学的制約に人類が突き当たってしまったということなのだ。つまり、人類が他の惑星に植民でも始めない限り、次の〈ビッグウェーブ〉はやって来ないだろうということです。一方、人間の性質はそう簡単に変えられるものではありませんから、それにすぐに適応しろと言っても無理があります。特に若いころにフロンティア・スピリットを満たす経験を積んで来た高齢者が、いまの若い世代に向かって、これからは縮小均衡経済を目指せなんて言うのは、まったく身勝手な言い草だと私は思う。むしろこれからは限られた制約のなかで、いかにチャレンジしがいのある経済の仕組みを作って行くかということに人智を結集しなければならない。そう考えた時に、ひとつの可能性を与えてくれるツールとして、私の頭に浮かんで来るのが「減価貨幣」というものなのです。

 長い前書きでしたね。本論の方はすぐに終わります。減価貨幣というのは、マイナスの利子がつくお金とも言って、保有しているだけでだんだん目減りしていってしまうという性質を持った貨幣のことです。シルビオ・ゲゼルという思想家の考案によるものですが、このアイデアが電子マネーの技術を使って実用化出来るようになった、そのことに一部の好事家(?)たちが注目しているのです。これからの社会で、年に5%の経済成長を続けて行くことは不可能です。それではこの地球がもちません。しかし、お金そのものが年に5%の割合で減価して行くとすれば、それは5%のインフレと同じような効果を持ちます。確か経済学者のハイエクという人が、ゲゼルの減価貨幣のことをインフレ経済と同じじゃないかといって批判していたと思います。確かに持っているお金が目減りしてしまうということは、モノの値段が上がって行くのと同じことです。ところがやはりこのふたつは違うのですね。どう違うかと言えば、持続可能性という点において違うのです。ちょうどくるくる回る床屋の看板が、上へ上へと上がっているように見えるけれども看板自体は動いていないのと同じで、減価貨幣経済の下では恒常的なインフレが続いているように見えて、実は社会は一定の経済レベルに留まっていることが出来る。いや、床屋の看板という比喩じゃ外国人には伝わりませんね、いくら走っても同じ場所にとどまっているルームランナーようなものと言った方がいいかな。本当は戸外で風を切って走りたいところですが、もしもそれが何かの理由で(例えば放射線問題などで)許されないならば、ルームランナーを使うことも選択肢に入れた方がいい。それでも十分運動不足解消にはなるからです。

 減価貨幣というものは、強欲な金融資本主義に対するアンチテーゼとして、理想化されながら言及されることが多いのですが、その本質はもっとノンシャランというか、遊び心を持ったものとして捉える方がいいのかも知れません。つまりそれは、比較的無害なかたちで人間の(経済的)闘争本能を満足させてくれるゲームであり、あるいは経済成長を疑似体験させてくれるアトラクションのようなものだということです。スリリングではあるけれど、そこでは実体経済のホンモノの経済成長は要請されない。ルームランナーのベルトが回っていれば、乗っている人は嫌でも歩くか走るかしなければならないのと同じです。これが例えば日本円によるベーシックインカムといったものであれば、受給者はいまのデフレ経済のなかでそれを全額貯蓄に回すことも出来るし、実際多くの人がそうするでしょう。これでは経済は活性化されない。よく減価貨幣の成功事例として、オーストリアのヴェルグルという町のことが取り上げられますが、1930年代初頭のヴェルグル町では、単に経済が活況を呈していたというよりも、町中がこぞって減価紙幣を他人に押し付けるゲームに興じていたと表現した方が当たっているのではないかと思います。(減価紙幣は通常のオーストリア・シリングの14倍のスピードで市場を駆け巡ったと言います。市民全員参加のババ抜きです。) 一見するとバブル景気のようにも見えますが、ここでは貨幣自体が貯蓄を拒否しているのですから、このバブルは原理的にはじけることがない。つまり持続可能な好景気な訳です。最近はエコノミストのなかにもベーシックインカムを推奨する人が増えて来ましたが、むしろいまの日本にふさわしいのは減価貨幣の方だと私は思います。

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2012年1月11日 (水)

野田政権の増税路線に反対する

 年の初めなので何か景気のいい話でもしたいと思うのですが、景気のいい気分になれる材料が何も見当たりません。野田政権は「社会保障と税の一体改革」なんて耳当たりのいいキャッチフレーズで、2015年までに消費税を10%まで引き上げる案を出して来ています。これに対してマスコミからも国民からも強い反対の声が上がらないのは、巨額の財政赤字(1000兆円!)を解消するためには、増税もやむなしと多くの人が考えているからでしょう。しかし、消費税を現行の5%から10%まで増税したところで、それで国の税収がどれだけ増えるかと言えば、せいぜい13兆円くらいのものなのです。現在の国家予算は約半分が借金によって、つまり国債によって賄われています。その額40兆円以上。税収が13兆円増えたところで、1年間の借金が40兆円から27兆円に減るだけで、国の借金が増え続けることに変わりはないのです。いや、13兆円の税収増というのも実はあやしい話で、増税によって家庭の消費が落ち込み、企業の収益も悪化すれば、トータルの税収はいまとそう変わらない可能性もある。財政再建どころか景気がさらに悪化するだけのことかも知れないのです。

 増税に反対する人たちの主張は、大きく分けて次のふたつに分類出来るようです。増税によって景気が悪化するという認識は同じですが、一方は増税よりも先に財政の無駄を徹底的に省いて、出費の方を抑えよと説く。常識的に考えても当たり前で理解しやすい話です。ところがもう一方は、むしろ今こそ積極的な財政投資を行なって、公共事業で景気を浮揚させよと説く。景気が良くなれば税収も増えるのだから、一時的に国の借金が増えても問題無いというのです。なかには「政府通貨の発行」や「国債の日銀引き受け」ということをセットで持ち出す人もいます。常識的にはなかなか理解しにくい話です。民主党が政権を取った時には、私たちは「事業仕分け」や「天下りの禁止」によって財政は健全化するのではないかという淡い期待を持っていました(マニフェストにそう書いてあったから)。今はもう誰もそんな甘い期待を持ってはいません。民主党の挫折と変節は腹立たしい限りですが、他のどこの党が政権を取ってももう財政再建は不可能だろうという諦めムードが漂っている。そこに財務官僚の操り人形のような総理大臣が現れたのですから、増税路線まっしぐらになってしまうのも無理ありません。

 私自身は「政府通貨」の熱心な支持者ですから、当然増税には大反対な訳ですが、増税反対派が緊縮財政派と積極財政派に分かれて仲間割れをしているようじゃ、いまの増税路線に歯止めをかけることは難しいだろうと思っています。耳を傾けてみれば、どちらの言い分にも一理あるのです。どちらの言い分にも一理あって、長年に亘ってお互いを説得出来ないということは、どちらの言い分にも欠陥があるのではないかと考えるのが自然です。公共事業の削減や公務員の人件費カットくらいのことでは、現在の財政赤字に対しては焼け石に水でしかない。なにしろ国家予算を半分にまで切り詰めなければ財政は健全化しないのですから、支出削減(だけ)で財政再建をするなんてことは現実的ではないのは明らかです。では、政府通貨をばんばん発行して、財政赤字の穴埋めをするというアイデアはどうかというと、こちらもまったく現実的とは言えない。デフレ経済を脱却するために一時的に政府通貨を一定限度内で発行するというならともかく、毎年40兆円ずつ(日銀券と交換可能な)政府通貨を発行したりしたら、デフレ脱却どころかハイパーインフレになってしまう。落としどころはたぶん折衷案にあるのではないかと思います。どうもエコノミストと呼ばれる人たちには教条的な信念の持ち主が多いようで、折衷案というものを主張する人をほとんど見かけない。しかし、一般人の常識で考えれば、全体的には無駄な財政支出を削減し、日銀による国債引き受けも一定限度で許容し、場合によっては増税も組み合わせながら財政健全化に向かわせるしかないのではないか。私たちはみんな、間近に迫った財政破綻という怪物と戦っている訳ですから、使える武器は何でも繰り出した方がいいのです。

 使える武器と言えば、増税よりも先にやるべきことはたくさんあるのではないかと思います。その第一は「納税者番号制」の導入です。日本の税の捕捉率がどの程度なのか分かりませんが、昔から正しく税金を納めているのはサラリーマンだけだというのが世間の常識ですから、これを導入するだけでかなりの税収増が期待出来る。すでに2015年を目標に導入が検討されているそうですが、財政破綻の現実味を考えれば、そんな悠長なことでは間に合わない。まずはこちらを導入して、その効果を見てから増税を検討すべきでしょう。また納税者番号は、銀行預金・証券・保険などにもひも付けておくことが重要です。いまの日本は、莫大な個人資産が凍りついていて、お金が循環しないことが問題なのですから、増税を検討するなら消費税や所得税のようなフローに対する課税より、ストックに対する課税を考えるべきなのです。また消費税を増税するなら、生活必需品と贅沢品の税率を変えることも必要でしょう。これを実現するためには、個々の品目ごとに税額を計算する仕組み(インボイス方式)が必要で、そのためにはお店のレジやコンピュータシステムも大幅に変えなければならなくなります。個人的には、そんな無駄な社会投資をするくらいなら、消費税は5%のまま据え置いて、資産税や金融取引税(トービン税)などによって税収を確保する方が良いと思っているのですが、もしもインボイス方式の消費税が導入出来るなら、そこには大きなメリットがあるのも事実です。例えば環境に配慮した製品に対しては消費税率を低くするとか、国が特別に保護したい農産物には消費税をゼロにするといったきめ細かい政策が実施出来るようになるからです。これが前提になるなら、消費税の最高税率が20%くらいになっても国民は納得するだろうと思います。

 もしも税制改革を議論するなら、そういった具体的な方法論にまで踏み込んで議論をして欲しい。野田政権の「社会保障と税の一体改革」を読む限り、そうした具体論を検討した形跡がありません。具体論が無いということは、理念が無いということです。2012年の最重要な政治的テーマは、とにかく来るべき財政破綻をいかに回避するかという一点に尽きると思います。被災地の復興も、少子高齢化への対策も、公的年金の改革も、TPP加盟に向けた交渉も、代替エネルギーの開発も、すべては国の安定した財政基盤があってこその話でしょう。もしも日本をひとつの企業に例えるなら、その財務内容はすでに破綻が確定してしまった企業のそれです。これ以上、国民に空手形を切るような政権に政治を任せておくことは出来ない。年末に民主党の若手議員が何人か、離党して新党を結成したそうですが、今年は政界再編の年というよりも、〈政界崩壊〉の年になる予感がします。日本の政治に何か変化が起こるとすれば、それはおそらくこの崩壊の後にやって来るのかも知れない。問題は、財政破綻がそれまで待ってくれるかどうかということです。

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2011年12月31日 (土)

今年最後の投稿

 今年はほんとうに大変な年だったというのは、誰もが感じている正直な感想だと思います。例年のように年賀状を書くことさえ、心のなかに一抹のためらいを感じずにはいられませんでした(でも、書きましたが…)。このブログに書いた記事を振り返っても、自分がいかに震災という事実に心を縛られていたか、あらためて感じます。

 とうとう今年は、このブログの別室(実は本室)である『哲学論考』の方にはひとつも記事が書けませんでした。ブログを始めて以来、初めてのことです。これではいかんと思い、1年の最後に一篇だけ、少し堅苦しい哲学的な記事を書いてみました。以前から気にかかっていた「人間原理」というものを、道徳論に絡めて考察してみたものです。我ながら辛気くさい文章になりました。来年は、本来の哲学的な考察にも、もう少し時間を割きたいと思っているのですが…

 1年間、つたない文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年もこのブログは細々と続けて行くつもりですので、よろしくお願いします。それではよいお年を。

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2011年12月18日 (日)

「派遣法を問え」に賛成!

 先日、テレビのニュースを見ていたら、タイにある日系企業の工場から、現地人の管理者や熟練工を呼び寄せて、日本国内の工場で生産を行なう企業が増えているということが伝えられていました。長引く洪水の影響で、タイにある工場が再開の目途が立たないからです。異国に来て、工場のラインに配属された彼女たちの顔には(どういう訳か女性が多いように見えました)、慣れた仕事に対する自信の表情が窺えました。このニュースを見て、複雑な思いを持った人は多かった筈です。自然災害を乗り越えようとする企業の挑戦のドラマとして見るなら、これはひとつの「いいニュース」と見えないこともない。しかし、日本国内で製造を再開するのに、何故わざわざタイの工場から人を呼び寄せなければならないのか? 日本で何の技能も持たない派遣労働者を雇うよりも、すでに製造の技術を身に付けたタイ人労働者を使った方が効率がいいというのが企業の判断なのでしょう。このニュースを国内の製造現場で働く派遣社員の人たちはどういう気持ちで見たことだろう。なるほど国内産業の空洞化というのはこういうことだったのかと、その実態を目の当たりにしたような気がしたのです。

 いま国内の雇用問題が危機的な状況にあるということは、誰もが共有している認識だと思います。その根っこには、急速に工業化が進んでいる新興国と我が国とのあいだの激烈とも言える〈通貨格差〉の問題がある。日本円に換算して時給100円以下で働く外国の労働者に、私たちは太刀打ち出来る筈がないのですから。これまで私はそういう考えをこのブログのなかで書いて来ましたが、そこにはもうひとつ見落としていた重要な視点があるのではないかいう気がして来ました。それはここ10年くらいのあいだに、日本の企業のなかで働く人たちの仕事に対するモチベーションが急速に低下して来ているのではないかということです。これは派遣法が改正され、企業のなかで派遣社員が急増した流れと軌を一にしています。実態の無い人材派遣業という業種の企業に所属して、自分とは無関係な他所の企業の作業現場に送り込まれる派遣社員が、仕事に対するモチベーションを持ちにくいことは誰にでも想像出来ます。一方、派遣社員を指導したり教育したりする立場の正社員の方だって、部下や後輩を育てることで自分も成長するという企業人としての正規ルートを奪われている訳で、これもモチベーション低下の大きな要因になっている。特に2004年に小泉政権下で製造業への派遣が解禁されたことの影響は大きかったのだろうと思います。「現場」の強さが日本の製造業の強さの源泉だった訳ですから、そこで働く人たちの意欲を喪失させるような政策が、国内産業の衰退に結びついたことは容易に想像出来ます。なかには断固として派遣労働者の採用を拒否した気骨ある経営者もいたのかも知れませんが、ほとんどの大手製造業は安く使い捨てが出来る労働力というものの誘惑に負けてしまった。

 というような見解は、すでに多くの人が語っていることで、ことさらいま記事にするような事柄ではないのかも知れません。実は今回の記事は、最近インターネット上で読んだエッセイにとても心を動かされるものがあったので、それを紹介したい気持ちで書いているんです。たまたまTPPと農業の問題について調べていて、山崎マキコさんというライターの方の『時事音痴』と題された連載を知ったのです。読んでみるとこれが面白くて、いっぺんにファンになってしまった。特に強く心を打たれ、私に労働者派遣の問題について書かなければならない気持ちにさせたのは、そのなかの『派遣法を問え』という一文でした。私のこんな記事を読むより、いますぐそちらのリンクに飛んでもらいたいのですが、労働者派遣が持つ最も根本的な問題が、自らの体験を通してストレートに問題提起されています。日本の貧困問題をテーマに取り上げて来た山崎さんは、自ら求職者として労働の現場を見てみようとします。「するとどうなったか。行く先々で待ち構えていたのが、『人材派遣会社』だったのである。」 日本年金機構(旧社会保険庁)に派遣されて、キーパンチャーとして働きますが、「初日から現場に放り出されたような格好で、研修らしきものは小一時間ぐらいしかなかった。派遣の仕事というのは『専門性の高い仕事』に限られるとどこかで耳にしたように思うが、これのどこが専門性が高いのか、問いたい。」 時給は交通費を差し引けば東京都の最低賃金にも抵触しようかという額で、しかもベテランの派遣社員でもその金額は変わらないのだそうです。「しかし現実問題としていま職探しをしていると、必ずぶち当たるのが派遣会社なのである。いまや一大産業といってもいい。直接雇用なんてのは、風俗があったぐらいのものだ。どうしてなんだ。どうして人の労働から中間マージンを差っぴくだけの企業が、これだけ林立できるんだ!」

 なるほど、正規社員と非正規社員のあいだの格差の問題といったことでは片付けられない、もっと生臭い現実的な問題があったんですね。それは戦前の『蟹工船』の時代にあった「周旋屋」にも似た中間搾取業者が法的に認可され、いまや一大産業となっていることです。ここにも先に取り上げた農業の流通問題に似た構造的な問題が横たわっている。それは自らはほとんど何も付加価値を生んでいない企業や組織が、立場の弱い個人の生産者や労働者が汗水垂らして生み出した価値を平気で横取りしているという問題です。日本の産業や経済が衰退して来た最大の要因は、実はここにあるのではないか。おそらく派遣業者のなかにも、福利厚生や研修制度などを充実させるといった良心的な取り組みをしているところは少なくないのでしょう。しかし、人材派遣業が本質的には現代の「周旋屋」であることに変わりはないのです。山崎さんの文章から、結論部分を引用します。私はこの彼女の意見に100パーセント賛成します。「確かに仕事がなければ企業は人を雇えない。しかし、その中間マージンを差っぴく企業の林立、これがわたしには許せない。直接雇用の道を取り戻して欲しい。いまの国会で、派遣法を審議しようとしているらしい。しかし改正とはいえ、事実上の派遣是認であるようにも思える。だからわたしは願う。派遣自体を容認するな、と。」

 労働者派遣という制度を容認する人たちは、かつてのような終身雇用の制度に戻れば、この国の企業は国際競争のなかで生き残っていけないだろうと言います。またもう少しうがった見方になると、長期間あるいは長時間に亘って仕事に縛られない働き方は、むしろ現代の労働者のニーズに合っているなどという人もいる。仮にそれが正しかったとしましょう。でも、そのことは労働者派遣業の存在を正当化する理由にはまったくなりません。企業の直接雇用のもとでも、臨時社員や契約社員として雇うという選択肢はあるからです。事実コンビニのアルバイトだって、店長の面接を経て採用される訳だし、自分で採用したアルバイトに対しては丁寧に仕事を教えようという気にもなるものでしょう。ところが派遣社員というのは原則面接禁止で、派遣業者から一方的に送り込まれて来るものなのです(もちろん一定の条件は採用企業が出す訳ですが)。それが労働の現場に悪影響を与えない訳がない。端的に言って、派遣業がこれだけ隆盛を極めている背景には、企業が〈直接雇用〉の努力を放棄しているという事実があるのだと思う。「人を雇う力」を失った企業は、「人を育てる力」も同時に失って行きます。最近のニュースによれば、民主党の提出した派遣法改正案は野党や財界からの反対で骨抜きにされてしまったのだそうです。が、そもそも制度としての派遣というものに対して、政府だけでなく企業の側もノーと言うところからしか、国内産業の復活は無いと思うのです。

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2011年12月11日 (日)

さようならジャスミン

 ここひと月ほど、毎日の通勤時間を利用して中島みゆきさんの新譜を聴いています。今年の新作のタイトルは『荒野より』。昨年の『DRAMA!』(…のA面)があまりにも素晴らしかったので、それと比較は出来ないとしても、今回のアルバムも創造力の衰えをまったく感じさせない力作に仕上がっています。前にも書いたことですが、自作の曲を歌うシンガー・ソングライターというジャンルの人で、彼女ほど長く第一線で活躍している人は世界的にも珍しいと思います。今年はデビュー36周年で、今回のアルバムは38作目に当たるのだそうです。300曲を超すオリジナル曲のなかには、驚くほどの数の傑作がある一方で、凡作と呼ぶしかないような作品も少なからず含まれている。しかし、どんな凡作にも天才の刻印が刻まれているのが中島みゆきです。同時代を生きるクリエイターのなかでも、この人の天才性は際立っていると思う。とても誰かと並び称されるような人ではないと感じます。

 中島みゆきファンなら誰もが経験していることではないかと思うのですが、毎回、新作アルバムを最初に聴いたときに感じるのは、感動や興奮ではなく、戸惑いと違和感です。長年彼女の歌を聴いて来て、そういう経験は何度も繰り返している筈なのに、第一印象の悪さというか、拒絶感にはどうしても慣れることが出来ない。今回のアルバムは特にそうでした。いや、もしかしたら、これは自分だけの問題なのかな? 年のせいで音楽を受け容れる脳の機能が低下して来たのかな? みゆきさんの楽曲には、耳に馴染みやすい所謂〈いいメロディー〉の曲とは対極のところにあるものが多いと感じます。カラオケで彼女の歌を歌ってみると分かりますが(哲学者がカラオケ? 笑)、いつも聴いていてよく知っているメロディーの曲なのに、うまく音程が取れないことが多い。いや、これは私が音痴なだけかも知れませんが、理由はたぶんそれだけではありません。基本的に中島みゆきさんの楽曲には、転調や半音階を多用した複雑な旋律が多いのです。初期のアルバムに収められた曲には、シンプルなメロディーラインの名作が多かった筈ですが、後期になればなるほど曲作りが技巧的で難解なものになって来ている。

 だから最初に聴いた時には、なにか耳慣れない、一種不快なメロディーの寄せ集めのように聞こえてしまうのだと思います。それが何回か聴き込むうちに、自分の脳の方が変化して、いかにも自然で説得力あるメロディーとして像を結んで来るのです。この変化はほんとに劇的なもので、私が知る限り中島みゆき以外にそんな音楽体験をさせてくれる現代の作曲家はいません。おそらく、クラシックの名曲と言われる曲の多くも、私たちの脳のなかで独自の回路構成がすでに組み上がっているからこそ、名曲として聞こえるのではないでしょうか。ところがそれは子供の頃に出来上がった回路なので、自分の脳が変化して行く過程として追体験することが出来ない。『トルコ行進曲』や『ラプソディ・イン・ブルー』を初演で聴いた当時の聴衆が、どのようにこれらの傑作を受け取ったかは想像するのが難しいのです。(そう考えると、古今の名曲を子供の耳に無選択に流し込む現代の音楽教育というものも、見直す余地があるかも知れませんね。) みゆきさんは、専門の音楽教育を受けて作曲技法を学んだ人ではない筈ですから、天性のメロディーメーカーとしてそうした作品を紡ぎ出している訳です。

 『荒野より』について書こうと思っていたのに、話が脱線していますね。今回のアルバムのなかには、残念ながら中島みゆきの代表曲として残るような作品は無いというのが私の評価です。それでもアルバム全体をひとつの作品として聴いた場合、際立った特徴があることにも気が付きます。それを何と表現したものだろう。やまとことばよりも漢文調と言うか、メロディーだけでなく詞の内容においても硬質な曲が多いという印象を持ちました。力強く、格調高いが、その反面、説教くさく、教訓じみた曲が多い。シングルカットされた1曲目の『荒野より』から、最後の『走(そう)』まで、中島みゆきの曲に癒しを求めたい人たち、彼女の歌を聴いて泣きたい人たちには厳し過ぎる作品が並んでいるという印象です。いや、欠点を指摘しているのではありませんよ、これもみゆき作品のなかでは『世情』や『裸足で走れ』などの由緒正しい系譜に連なるものですからね。それに収録された11曲すべてが説教くさい訳でもなく、『バクです』や『あばうとに行きます』のような肩の力を抜いた曲もあるし、『鶺鴒(せきれい)』のような端正な秀曲も含まれている。あくまでトータルでの印象です。

 そんなアルバムのなかでも、一番テンションが高いのが『旅人よ我に帰れ』という曲でしょう。「僕が貴女を識らない様に 貴女も貴女を識らない」という歌い出しで始まるこの曲は、全編、男性が〈上から目線〉で女性に説教をしているような歌詞の内容なのですが、曲の最後の部分になって突然「癒しの中島みゆき」が姿を現すのです。このアルバムのなかでここだけです。「植えつけられた怖れに縛りつけられないで ただまっすぐに光のほうへ行きなさい」という囁きで始まるこの部分は、中島みゆきファンが息苦しい空気のなかで唯一解放されるところでもあります。作者は、この部分の効果を最大限高めるために生硬な歌詞を持つ曲ばかり並べたのではないかと思われるほどです。「私たちはジャスミン 茉莉花(まつりか)の2人」と呼び掛けられているのは、みゆきさんのファンなら誰でも知っているあの彼女、「ジャスミン もう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて」と呼び掛けられていた彼女のことですね。「さようならジャスミン 私の妹 私とは違う人生を生きなさい」。ここに来て作者独特の癒しの物語が大きな円環をなして聴く者の心に降りて来る。中島みゆきを聴く醍醐味です。

 それにしても、歌詞カードを見ずに最初聴いた時には、「まつりかのふたり」が何の意味だか分かりませんでした(祭り課の二人?)。なるほどジャスミンは日本語で茉莉花というのですね。美しい響きの言葉だと思います。みゆきファンが中心になって、このコトバを流行らせられないものかな? 昔から「ネクラ」だとか「オタク」だとかいう美しくないコトバがあって、最近はさらに「喪男」だとか「腐女子」なんてひどい呼び方も出て来ているようですが、それに比べると「茉莉花」はいい。ぜひこれは男女の区別なく使いたいところです。みゆきさんに倣って、私も茉莉花の人たちを応援します。

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2011年12月 4日 (日)

農産物直売所の新しいビジネスモデル

 先週の記事にとても示唆に富むコメントをいただきました。農業を営む方からのコメントです。これを読ませていただいて、やっぱり日本の農業には流通改革が待ったなしなんだ、そういう思いが強く湧き起こって来ました。農業関係者でもない自分が、にわか勉強でこの問題についてこれ以上書くことは不遜なことだと分かっているのですが、何か書かずにはいられない気分なのです。私の本職はシステム屋なので(名刺にはコンサルタントなんて肩書きが入っています。この業界では年を食って使い物にならなくなった技術者をそう呼ぶのです)、もしも自分が農産物直売所の新しいビジネスモデルとそれを実現するシステムについて提案書を書くとしたら、どんな内容を盛り込むだろう。それを想像しながらもう一度この問題について考えてみたいと思います。

 あるテーマに対して改善案を考えるためには、まずは現状の問題点を認識しなければなりません。いただいたコメントには、現在の農産物直売所の問題点がこう指摘されていました、「全ての生産物を直売所で販売するには手間がかかりすぎ、かつ一度に大量には出荷できないので生産物のほとんどは市場出荷か流通業者経由となっているのが現状です」。ふたつの問題点がある訳ですね。①直売所で販売するのは(農家にとって)手間がかかる、そして、②直売所では出荷量が限られているということです。もしも十分な出荷量が確保出来るなら、手間をかける意味もあるのでしょうが、現状では直売所への出荷はまだ農家にとって副業以上のものではないのだと思います。ウィキペディアで「農産物直売所」を調べると、国内の農産物流通のうち、直売所経由で販売されるのは全体の5%程度に過ぎないのだそうです。消費者の実感からしてもそんなものでしょう。さらにウィキペディアの記述から、直売所が持つ別の問題点も浮かび上がって来ます。③近隣農家から同じ種類の農産物ばかり集まり、品揃えが悪くなる傾向がある、④同じ農産物が競合することで、直売所内での価格競争が発生する、⑤中間業者による品質管理がなく、残留農薬などのチェックも行なわれない…。こうして見ると、けっこう課題が多いですね。しかし、課題が多いということは、改善の余地も大きいということです。

 課題を整理すると、①販売の手間、②出荷量の少なさ、③品揃えの悪さ、④商品の競合、⑤品質管理という5項目に分類出来るかと思います。まだあるのかも知れませんが、とりあえず今回は試論ですから、これだけにしておきましょう。ひとつずつ見て行きます。まず、①販売の手間ということですが、これは現在の直売所が販売のための「場所貸し」の機能しか提供していないからではないかと思われます。農家は、毎朝穫れた野菜を自らトラックで持ち込んで、値付け作業まで行なっている。これを効率化するのは簡単なことで、店側がトラックを出して農家に野菜を取りに行けばいいのです。10軒の農家が10台のトラックを動かすのと、1台のトラックが10軒の農家を回るのとでは、どちらが効率的か考えてみれば分かります。(物流業界でミルクランと呼ばれる手法です。) 値付けや袋詰めなどの作業も、個々の農家がやるより専門の作業者がまとめてやる方が効率がいい。当然人件費はかかりますが、ここで重要なのはトータルで見たときのコスト効率です。直売所がなかなか規模を拡大出来ないのは、基本的にフリーマーケットと変わらない販売スタイルを取っているからです。フリマが販売力において大手スーパーにかなわないのは当然のことです。

 次に②出荷量の問題…は後回しにして、③品揃えの悪さと④商品の競合について考えてみます。これも実はフリマスタイルの弊害であって、店舗側がしっかりした経営戦略を持って品揃えの計画を立てることでしか解消されません。原則として一物一価のルールにして、複数の農家から買い付ける場合にも同一の買い取り価格・販売価格とすることが必要です。価格は出品する農家との交渉になりますが、最終的に価格決定を行なうのは店側です(もちろん交渉決裂もあり得ます)。新鮮さと安さが売りものの直売所で、ひとつでも割高に感じられる商品が並んでいると、全体の集客力を低下させてしまうおそれがあるからです。品揃えと同様、値付けも直売所にとって最重要な戦略マターなのです。――すると農家は自分で値段を決められないの? それじゃあ農協に出荷するのと変わらないじゃない? いや、そんなことはありません。中間流通が入らない分、農家の出荷価格を高く維持出来ることには変わりありません。(そうでなければ直売所になど卸さなければいいんです。) その日に仕入れたものをその日にすべて売り切るという方針で、店は最適な値付けと商品ミックスを考えなければならない。現在の直売所制度では、販売価格に占める店側のマージン率は固定であるようですが(例えば15%とか)、このルールは撤廃されます。とにかく値付けはお店の責任。その代わり、農家には全量買い取りが保証されます。

 ハウス栽培や長距離輸送が当たり前になった今日では、スーパーの生鮮品売り場からすっかり季節感が失われてしまいました。直売所のコンセプトは、地元で採れた旬の野菜や果物をその日のうちに家庭に届けることですから、大手スーパーより品揃えの面で多少見劣りすることは仕方ないと思います。それでも産地直送のコンセプトを保ちながら、出来るだけ多品種の農産物を集めるためには、物流の範囲をある程度広げることが必要になるでしょう。理想的には、集荷圏が隣接する複数の直売所がタイアップして、お互いの集荷品を交換出来る物流センターを用意出来ればベストです。つまり両者のミルクランルートが交差する地点に中継所を置き、そこで集荷中の商品の一部を積み換えるのです。(物流業界でクロスドックと呼ばれる手法です。) 物流センターと言っても、小型トラックが荷物を積み降ろし出来るスペースがあればいいので、どこかの倉庫の軒先を借りる程度で済んでしまいます。これだけの工夫で、品揃えは飛躍的に増える筈です。理論的には、仮に半径20kmの集荷圏を持つ直売所がネットワークを組めば、半径60kmの地域からの集荷が可能になります。しかもこれは集荷範囲が広がるという効果だけにとどまりません、農家から見れば販売範囲を大きく拡大する効果もある訳です。直接契約している直売所は1か所でも、近隣の複数の直売所にも出荷品が並ぶ訳ですから。もちろん直売所同士は中間マージンを取ることなどしませんし、その必要もありません。

 以上のような物流の効率化によって、農家にとっての②販売量の問題もある程度クリア出来るでしょう。最後に⑤品質管理の問題ですが、これこそ地産地消のアドバンテージが最大限活かせる分野の筈です。まず鮮度を保証するために、すべての商品に収穫日を表示しましょう(基本的には収穫日は「今日」です)。現在の農産物流通では、店先で一番見映えが良くなるように、実が熟する前に収穫してしまうことも多いそうですが、直売所で売られる商品ではそんな必要もないのです。最近はスーパーで売られている野菜にも見られるような、生産者の名前を入れる商品ディスプレイも基本でしょう。農薬情報に関しても、正確に表示することが直売所のポリシーでなければなりません。農業に携わっていない私たちは、簡単に「無農薬」だとか「減農薬」と言ってしまいますが、その実態についてはほとんど知らない訳です。輸入作物の危険性も含めて、消費者を啓蒙して行くのも地域の直売所のだいじな役割だと思います。以上が私が考える農産物直売所の改善案になりますが、重要なのは誰がこの直売所ビジネスの推進者になるかということです。これは農家が共同で経営出来るようなものではなさそうです(書きながらそう思いました)。出来れば志を持った〈社会起業家〉の方に託したい気がしますが、ノウハウを持っている点ではやはり農協になるのかも知れません。前回の記事で私は農協不要論のようなものを書いてしまいましたが、それは付加価値を生み出さない中間流通業者としては不要だということで、このような農産物直売所の経営に乗り出すなら、日本の農協は大いに見直されることになるでしょう。農協はTPP反対を唱えるだけでは国民の信頼も失ってしまう。変革は急がねばなりません。

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2011年11月27日 (日)

産業の効率化は流通改革から

 グローバリズム全盛の時代に、これ以上国内産業を空洞化させないためには、まずは自分たちの消費スタイルを見直そう、前回はそういう話をしました。今回は、それと同時に国内産業の効率化をどう進めるかという話をします。というのも、TPP問題が議論されるようになって以来、日本の農業の非効率さがすべての元凶のように言われる風潮があって、私はこれに疑問を感じているからです。TPP推進派は、日本の農家も大規模化・機械化を進めて、生産性と競争力を高めるべきだと言います。日本でも昔は大地主が小作を使って効率的な農業を行なっていたのが、戦後の農地解放で小規模農家に分割されてしまい、効率化の道を阻まれた、そんな議論をする人もいます。確かに農業には規模のメリットがあるのは常識的にも理解出来ますし、狭い国土とは言っても改善の余地はあるのだろうと思います。しかし、日本の農業の競争力を高めるためなら、大規模化や機械化よりも先にやるべきことがあるのではないかとも思うのです。それは流通の無駄を省くことです。

 そんなことは指摘されるまでもなく、分かり切ったことだと言われるでしょうか? それはその通りなのですが、何故かTPPをめぐる議論のなかで、この当たり前の論点があまり取り上げられないことに不審を感じるのです。最近は、日本の米作農家でも、手間のかかる田植えをせずに、田に直接種蒔きをするところが現れているのだそうです(乾田直播または湛水直播と呼ばれる農法です)。これによって単位面積当たりの収穫量は1割程度減少するものの、人件費は3割程度削減出来る、そんな記事を目にしたことがあります。仮に従来の農法に比べて3割のコスト削減が出来たとしても、それで改善される生産性は20%程度に過ぎません。それで日本の農業が国際競争力を持つようになるなんて、とうてい考えられないことです。一方、国内の標準的な農産物流通では、農家の出荷単価と小売り単価のあいだには数倍もの開きがあるのだそうです。それだけの中間マージンが上乗せされているということです。法外な、と言っても過言ではない。この流通構造を温存したままでは、いくら生産過程での効率化を進めてもほとんど無意味です。TPPに加盟するにせよしないにせよ、日本の農業は変革されねばならない。が、変革されるべき対象は、農業そのものの生産性ではなく、流通過程の効率性だということです。

 農産物は一般的に、農家→農協→卸売市場→仲卸業者→小売店といった流通を経て消費者に届けられます。それぞれが中間マージンを乗せる訳ですから、米や野菜の小売値が高いのも当たり前です。農業の改革と言うのなら、大規模化だとか機械化なんてことよりも、この流通ルートの長さを何とかしなければならない。しかし、TPP反対派からはそんな声は出て来ません。何故かと言えば、TPPに最も強く反対しているのは個々の農家ではなく、組織力を持った流通業者の方だからです。ありていに言ってしまえば、農協(JA)なんてものは、農業利権に寄生する既得権団体以外の何ものでもない。日本の農業は守って行かなければならないけれども、農協を守る必要は無いとTPP反対派である私は考えます。農業という第一次産業において、価値を生み出しているのは農家であって、農協ではないからです。最近は産地直送を看板に掲げるお店も増えて来ているようですが、これはいい傾向だと思います。特に新鮮さが売り物である農産物においては、望ましい流通ルートは、「農家→小売店→消費者」か「農家→消費者」のいずれかでしかあり得ない。しかし、こういった流通改革は、業界の内部から自発的に起こることはないし、政策によって後押しされることもありません。TPPに反対する政治家だって、農業利権に寄生している団体を票田にしているから反対のポーズをとっているだけで、この利権構造を壊してまで農業を合理化するつもりなどないからです。その陰で割を食うのは、いつも安く買い叩かれる生産者と高く売り付けられる消費者です。

 農業の流通改革のためには、生産者と消費者が直接結びつくしかないだろうと思います。最近はインターネットを使って米や野菜を直販する農家も増えているようです。我が家でもここ数年、お米は秋田の農家から直接取り寄せているのですが、配送料込みでも値段は安いし、何よりも生産者の顔が見える安心感がある。農産物の場合、この安心感は大きな付加価値になります。輸入された野菜や果物では、これは望むべくもないことですからね。国内の中間流通は、価格競争力ばかりでなく、わざわざ商品の付加価値まで削いでいるのです。直売所やインターネットを介して、農家と消費者が直接取引をするようになれば、もっといろいろな付加価値のある商品が市場に出て来るのではないかと思います。例えば、非効率な農業の代表格のように言われているものに「棚田」があります。山あいの斜面の狭い土地に、まるで幾何学模様のように美しい水田が広がっている様子は、日本の原風景とも呼べるようなものです。その全国にある棚田が、いま後継者がいなくて危機に瀕していると聞けば、誰もがこれを守りたいと思う筈です(私も思います)。だったら「棚田米直販サイト」というのを立ち上げたらどうだろう。値段は少し高いけれども、地域や銘柄を指定して全国の棚田米が買えるショッピングサイトです。ここでお米を買うことが、日本の棚田を守ることにつながる。しかも顔の見える生産者が美田で作った、おそらくは無農薬か低農薬のお米ということになれば(農薬に関する情報も開示すべきでしょう)、それは購買者にとって最高のプレミアムになると思うのです。

 生産者と消費者を直接結びつけることが合理的なのは、農業だけではありません。現在の円高とデフレの影響で、家電メーカーも青息吐息の状態ですが、一方でここ何年かのあいだに家電量販店と呼ばれる業態が大きく成長しています。都心の歴史ある百貨店がどんどんつぶれて、家電量販店に置き換わっている。メーカーが慢性的な赤字経営で苦しんでいるのに、小売業者だけが肥え太るというこの状態は、やはり健全なものとは言えない気がする。かつて各家電メーカーは、系列店と呼ばれる小売店(街の電気屋さん)と共存共栄の関係を築いていました。いまや圧倒的な販売力を持ち、どこのメーカーに対してもロイヤリティフリーな量販店に、利益をすべて持って行かれるような構図になっている。何故メーカー自身がこの状況を変えようとしないのか、私には分かりません。本当の価値を生み出しているのは一体誰なのか? 私は家電量販店の隆盛にはたぶんにバブル的な要素があり、長続きしないのではないかと予想しているのですが、このバブルがはじけた後に、日本の家電業界全体が再生不能なほどに傷ついているのではないか、そのことの方が心配です。もはや系列店制度も崩壊して、流通そのものが戦国時代に入ったのだから、メーカーも直接消費者とつながるチャネルをどんどん開拓すればいいのです。都心の一等地に立派な店舗を構える量販店の販売コストを、消費者に負担させる必要など無い。もしも量販店の魅力が、異なるメーカーの競合機種を比較して購入出来る点にあるというなら、大手メーカーが共同出資して販売会社を作り、直営のリアル店舗を作ったっていい。メーカーが直接消費者の声を聴ける場を作ることは、本業のものづくりにもいい影響を与える筈です。

 今回の記事で、私は別に農協や家電量販店を敵に回そうとしている訳ではありません。私自身、家電量販店にはひとかたならずお世話になっていますしね(農協にはお世話になった記憶がありませんが)。ただ、これからの時代、本当に必要な価値を生み出している人たちや企業が報われる経済構造にして行かなければならない、そう思っているだけです。勤労者として私たちは、自分が社会にどのような価値を生み出しているのかを考えて仕事をしなければならないし、消費者として私たちは、自分が支払うお金がその価値を生み出してくれた人たちにきちんと届くのかを考えて買い物をしなければならない。迂遠なように見えても、そうした個人の自覚の上にしか、産業の本当の効率化はあり得ないと思うのです。規制緩和やグローバリズムの進展で本質的な何かが変わる訳ではない。TPP参加で日本の産業構造が効率化されるなどというのは神話に過ぎません。

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2011年11月20日 (日)

「Buy Domestic」を消費者の行動規範に

 結局、野田首相はTPP交渉への参加を正式に表明してしまいました。ご本人は「最後は自分の判断で決断した」とご満悦の様子ですが、「誰があんたなんかの判断にこの国を任せた?」というのが、まずおおかたの国民の偽らざる感想ではないかと思います。そもそも国民の審判を一度も受けたことのない横すべり首相に、そんな独断を許すこと自体、ルールのあり方として間違っています。もしもこの国の首相にそれだけの強い権限があるのだとすれば、首相辞任の際には必ず解散総選挙をすべきなのではないか。しかも、野田さんの問題はそれだけではありません。この人の優柔不断なもの言いは、さっそく米国とのあいだで「言った、言わない」の意見対立を生じさせている。これは危うい。鳩山さんや菅さんの時にも同じような危うさを感じましたが、どうも民主党の党首の人たちには、国を代表して外交の場に臨むということに対する基本的な心構えや鍛練が出来ていないように見受けられます。(企業人なら、そんなことは入社1年目に叩き込まれることだと思いますが。) こういう人は、ほんのリップサービスのつもりでとんでもないことを口に出し、周りはその尻拭いに翻弄させられるということを繰り返すものです。野田さんが何故TPPにそんなに強い思い入れを持っているのか分かりませんが、世界の選りすぐりのタフ・ネゴシエーターたちが集まる交渉の場に、こんな人を送り出すのは非常に危険なことである、私たちはそういう認識を持った方がいいと思う。 

 TPPを利用して、あるいは外圧を利用してこの国の産業構造を変革するという考え方に、私は真っ向から反対する意見を持っています。変革が必要だとしても、それは外圧によるものではなく、内発的なものでなければ本質は何も変わらないと思うからです。もちろんTPPのようなものに対する危機感が、産業界に内発的な改革への動機を与えるということはあるかも知れない。しかし、それを期待してTPPに参加するというのは本末転倒でしょう。このことは前回も書きましたね。私が今回もう一度このテーマを取り上げたいのは、もしも政治的な方針として今後もグローバリズムの流れが加速されるのであれば(本当はその流れを変えるために政権を交代させた筈だと思うのですが…)、これに歯止めをかけるのは私たちひとりひとりの自覚ある消費行動に頼るしかないということを言いたかったからです。TPPを中心になって推し進めているオバマ政権だって、2、3年前には自国民に向かって「Buy American!」なんて言っていた訳じゃないですか。ところが日本ではどうだろう。TPPに加盟するまでもなく、国内産業を外国資本や輸入製品によって蹂躙されるままに放置して来たのは、私たち国内の消費者だったのではなかったろうか? ここ20年くらいのあいだ、日本はデフレスパイラルから抜け出せずにいます。その原因を金融政策の失敗のせいだという学者もいるし、新興国の急速な経済成長のせいだという評論家もいる。確かにそれもあるのでしょうが、もっと根本的な理由は、私たち日本の消費者が値段が安いという理由だけで国産品よりも輸入品を好んで購買していたからです。地元の商店街がさびれて行くのは寂しいと言いながら、一方で郊外の大型ショッピングセンターに毎週通っていたのは誰だったか?

 市民運動として、例えば脱原発を訴える人たちは多いのに、何故「Buy Japanese!」を叫ぶ声は大きくならないのだろう? これだけ国内消費が低迷していて、デフレの原因だって分かっているのに、それを政府や日銀の無策のせいにばかりするのは、成熟した市民の態度とは言えないような気がするのです。と、こんなことを書くと、それじゃあお前は外国製品を排斥するのか、いまさら保護主義に戻れと言うのか、というお叱りの声が聞こえて来そうです。いや、私も高い関税を復活して、政策的に貿易を制限すべきだと言い張るつもりはありません。そんなことは世界情勢から見ても許される筈がない。しかし、個々の市民の行動規範というか、賢い消費者のふるまいとしては、国産品の購買を優先するという考え方は十分受け入れられると思うのです。むしろこれからの持続可能な社会のためには、それを新しい常識にすることが必要だとさえ私は考えています。ちょうど節電やゴミの分別やマイバッグの持参といったことが、現代人の行動規範として認知されているようにです。国内製品を優先して買うことが、何故持続可能な社会を実現することにつながるのか、その理由はいくつか挙げられます。例えば輸出入が減ることで、生産物の輸送にかかるコストが低減されます(ここでコストというのは、経済的なものだけでなく、環境負荷などの見えないコストも含めて考えています)。また生産されてから消費されるまでの時間が短くなることで、品質保持にかかるコストも低減されます(例えば水産物を冷凍保存したり、農産物にポストハーベスト農薬を使う必要が少なくなるでしょう)。さらに生産地を集積させずに世界各地に分散させておくことは、ある地域が大きな災害を受けた時に世界経済が受ける打撃をやわらげるという意味を持ちます(現在タイを襲っている大洪水のようなものは、今後さらに増えるに違いありませんから)。

 しかし、何と言っても「Buy Domestic」運動の最大の意義は、これが全世界的に問題になっている経済格差の拡大に歯止めをかけられる可能性を持つということでしょう。私たちが新興国から輸入された安い製品を買う時、誰が豊かになり、誰が貧しくなっているのかを考えてみれば分かります。ユニクロとダイソーとニトリですべての生活用品を買い揃え、休日はマクドナルドで外食しているような家庭が、はたして豊かな生活を送っていると言えるだろうか?(我が家のことですが。笑)。これらはここ10年間で最も成長した企業です。おそらく円高効果もあって、いま最高の利益を上げていることでしょう。日本にも豊かになった人はいる訳です。それでは生産地である中国や東南アジアの国々ではどうでしょう。確かに輸出産業が牽引して、これらの国は急速な経済成長を遂げている。が、農村から工場に出稼ぎに来ている労働者が、豊かな生活を送っているとは決していえない。はっきり言って、彼らも搾取されている訳です。誰に? 国際資本に。いま中国では新興の富裕層が誕生していますが、これは早いうちからうまく国際資本と結託することが出来た人たちでしょう。決して中国版のスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが生まれている訳ではない。何も新しい価値を生み出している訳ではありません。要するにバブルです。昔、鄧小平氏が市場解放政策に転じた時、「先富論」というのを唱えました。裕福になれる者から先に裕福になれというのです。これが中国の驚異的な経済発展につながったのは確かですが、結局裕福になれなかった大部分の国民は、単に貧しいだけでなく、奴隷のような生活に落ち込んでしまっただけでした。

 いまニューヨークを中心にして広がっている「99%の我々」運動というのは、1%の金持ちが99%の貧乏人を搾取する現在の社会構造に対する抗議である訳です。デモに参加している若者は、金持ちに重税を課すことを政府に求めているのかも知れませんが、これは一国の税制を見直すだけで是正出来るような問題でもないと思います。税というのは経済活動の結果に対して課せられるもので、一部の富裕層にのみ富が集まるように構造化されている現在のグローバル資本主義を根本から変えるものではないからです。グローバリズムに対抗するには、むしろ徹底したローカリズムを私たちの行動規範にすることの方が有効ではないかというのが今回の私の主張です。「Buy Domestic」というのは、そのための標語のひとつということなのです。――「それじゃあ、お前は今日から外国製の商品を一切買わないんだな? ショッピングセンターではなく、地元の商店街で買い物をするんだな?」、そう問い詰められるとちょっとつらい(笑)。値段のことはともかく、衣類や日用品なんて、そもそも国内で生産された製品を探すことの方が難しいくらいですからね。あらためて身の周りを見回してみると、いかに自分の生活が輸入品(と思われる製品)で囲まれているかに愕然としない訳にはいきません。「Buy Domestic」以前に、「Produce Domestic」を復活させなければならない。そのためには私たちの自覚的な消費活動だけでは間に合いそうもありません。この問題を考え始めると、やはり有効な対策は、〈国内限定の第二通貨〉しかあり得ないのではないか、そう思ってしまうのですが…

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